可と不可
◆ ◆
平太が海上警備隊の詰め所の裏手に来ると、すでにハートリーがウンコ座りをして待っていて、激しい既視感に襲われた。
やはりこのオッサンはヒマなのだろう。平太はそう結論づけると、気を取り直して歩みを進めた。
「おう、早かったのう」
どこかで聞いたようなセリフとともに、ハートリーは立ち上がる。もちろん手にはふた振りの剣が握られている。ここ数日で見慣れた、いつもの光景だ。
「あの嬢ちゃん、明日退院らしいな」
平太に剣を投げ渡しながら、ハートリーが言う。相変わらず耳が早い。
「ええ。おかげさまで」
「となると、もうここに留まる理由もないということか。短い間だったが、寂しくなるのう」
「ええ……まあ、」
寂しくなる――そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。少なくとも、平太が地球で過ごしていた頃に、そんなふうに言ってくれた人はいなかった。
思い起こせば、自分は異世界に来て初めて他人と触れ合ったような気がする。
生まれて初めてアルバイトをし、ゼーネを始め様々な人と出会い、デギースのような馴染みの店もできた。
改めて思う。平太は今、寂しいのだ。
ハートリーから一本取りたいとか、今日で稽古が終わるとか、そういうのは様々な理由のひとつでしかない。ただ単に、この男との別れが寂しい。この感情は、きっとこのひと言で片がつく単純なものなのだ。
「俺も、寂しいです」
平太が素直に自分の気持ちを話すと、ハートリーはいつものようにがははと笑う。
「別に今生の別れでもなし、またいつでも遊びに来れば良か」
生きてさえいれば、またいつか会える日もあろうぞ。笑顔で言うハートリーであったが、その言葉には人の生き死にを無数に目の当たりにしてきた者ならではの含みがあり、言外に「死ぬなよ」と言っている気がした。
「そうですね。また、いつか……きっと」
会話が途切れ、沈黙が流れる。
突然ハートリーが咳払いをし、
「いかんいかん、湿っぽくなってしもうたな。まだ今日という日が残っておるのに、今から別れを惜しんで時間を無駄にしてはもったいない」
そう言うと剣を抜き、平太に向かって構えた。
「今日は細かいことは抜きじゃ。気が済むまでかかって来い」
いつもの基礎訓練をすっ飛ばして、いきなり地稽古から始まった。今日が最後の稽古だから、サービスのつもりであろうか。だがハートリーと対等の立場で戦う地稽古は、ただの打ち込みや掛かり稽古よりも遥かに濃厚で経験値が高いので、平太としても願ったり叶ったりである。
「お願いしますっ!」
気合を入れるために大声で返事をし、平太も剣を抜いて構える。いつもの剣より綺麗な気がしたが、これまで使っていたのは結構ボロかったので、ハートリーが気を利かせて新しく綺麗なのを持ってきてくれたのだろうと思った。
数秒の間、二人は互いの間合いを測るようにすり足で前後左右に動く。
「どうした? 睨み合ってるだけじゃ何にもならんぞ」
やはりいくら隙をうかがっても無いものは無い。このままでは時間だけが無為に過ぎてしまう。
ならば、と平太は昨晩寝ながら考えた計画を試しにかかる。
平太はいきなりハートリーに背中を向けると、その場で右に一回転する勢いを利用して横薙ぎに胸の辺りを斬りつける。
「おっと」
だが渾身の一撃も簡単に止められた。さすがに平太もこの程度の奇襲など通用するはずがないと、ハナから期待はしていなかった。本番はこれからだ。
それから二人は二合三合と剣を交わす。
ここ数日の稽古でわかったことは、ハートリーの剣筋は恐ろしく正確だ。もの凄い速度でありながら、機械のように的確に急所を狙ってくる。
恐らくこれでも十分加減はしているし、わざとやっているのだろう。正確すぎる攻撃は、相手に予測されやすくなる。現に平太にすら気づかれているのが何よりの証拠。
けれど今はそこを突く。
平太はさらに三度斬りつけ、ハートリーからの反撃を誘う。
来た。
最初に平太が見せた横薙ぎの一撃に似た、胸を狙った軌道。
昨夜考えた作戦を試すのは、今ここしかない。
集中。
剛身術によって筋力が強化されるのなら、同じように反応速度、思考時間など電気信号による神経系が強化されてもおかしくない。
いや、できて当然としよう。
人間の反応速度は0コンマ1秒を限界とし、それ以上は薬物や脳内分泌物など特殊な状況下でないと突破できない云々という理屈を、
あえて無視。
見えると信じて見たハートリーの一撃は、びっくりするくらいはっきりゆっくり見えた。
来た。
刃の欠けを一つずつ数えられるくらいの速度で、ハートリーの剣が迫って来る。狙うは平太の胸の、鎧を着ていればその隙間、右腋の太い血管がある辺りの所謂急所だ。
何て正確な、何て的確な、何て教科書通りの一撃。
だがそれゆえに、読めた。
この一撃に的を絞ることができた。
平太は瞬時に剣を左手に持ち替えると、空いた右手の甲で、
ハートリーの剣を跳ね上げた。
剣を含め、刃物で恐いのは、当然ながら刃と剣先の部分である。
だったら、そこにさえ触れなければ剣などただの鋼の板だ。そんなもの、恐れるに足らない。
ただ忘れてはいけないのは、剣が遅いのはあくまで平太にはそう見えているだけで、実際はもの凄い速度と威力で斬りつけられている。なので平太に剣筋が見えていたとしても、本来なら剣の威力に力負けして跳ね上げることはできなかったであろう。
そこでもう一手必要になる。
平太は剛身術で反射神経や動体視力、反応速度などの神経系の強化をしつつ、ハートリーの剣を跳ね上げるために腕の筋力の強化を同時に行っていた。
できるできないは問題ではなかった。
できると思ったからやった。
できると信じていたからできた。
ただそれだけだ。
「なに……っ!?」
斬りつけた剣を下から素手で払い飛ばされ、ハートリーが驚愕する。その一瞬の隙をついて、平太は左手に持ち替えた剣で彼の右の脇腹を斬りつける。
「当たれ!!」
不格好な態勢ながらも渾身の力で斬りつけた剣は、剣を跳ね上げられガラ空きになったハートリーの右の脇腹に吸い込まれる。
そこからはさらに時間が遅く流れた。
平太の目には、コマ送りの速度で自分の剣がハートリーの身体に向かっているように見えた。
そしてついに剣が彼の脇腹に触れ、念願の一本を取ったことを確認した瞬間、
「ふんがあっ!」
全力で剣を止めた。如何に刃を潰した模造刀であろうと、全力で身体に叩きつけたらケガじゃ済まない。特に肋骨などただでさえ脆いのに、横薙ぎのような横からの衝撃にはさらに弱いのだ。
フルパワーで振った剣を止めるには、平太の左腕はいささか非力だった。そうでなくてもこの剣は片手用ではなく、半片手用で通常より少し長くて重い。おまけに利き腕ではないときたらもうどうしようもない。
このままではぶつかる――剛身術によって加速した思考の中、平太はそう判断すると、もう用が済んだ右腕の強化を解除し、左腕の強化へと意識を集中した。
自力で止められないのなら、もはやこの方法しか残っていない。
平太は死に物狂いで集中し、左腕が瞬時に鋼に変わったようにぴたりと止まるイメージをする。
果たして、平太の左腕は彼のイメージ通りに、まるで骨の代わりに鋼材が入ったのではないかと錯覚するくらい固まり、ハートリーの服にわずかに触れたところで止まった。
「ふう……」
思わず息が漏れた。
ハートリーはしばらく剣が触れた自分の右脇腹をさすっていたが、納得したように二度ほど頷くと、平太の方を向いてにっかりと笑う。
「お見事!」
そのひと言で、嬉しさが爆発した。
平太は地面に両膝を着き、両方の拳を固く握り締め、
「いよっしゃああああっ!!」
ゴールを決めたサッカー選手のように拳を高く突き上げ、空を仰いだ。
爆発した嬉しさを拳と声に乗せて大空へ放つと、平太はそのまま上体を反らし地面に仰向けに倒れた。
空が青かった。
「いやあ、やられたのう」
空を遮るように、ハートリーが平太の顔をのぞき込む。
「まさか剣を素手で払われるとは思わんかったわ」
「俺も、ここまで上手くいくとは思いませんでした」
普通に肉体系の強化をするだけでも賭けだったのを、神経系の強化という未知の領域をぶっつけ本番でやり、さらに左手から右手へと瞬時に強化対象を変えるという変則的な使い方までした。
頭の中で思うことは簡単だったが、実際にやってみるとどんどん綱が細くなる綱渡りのように、神経をすり減らす作業の連続だった。
特に反応速度の強化は、脳の処理速度を加速させたため、これまで経験したことのない負荷が脳にかかり吐きそうになった。これは慣れる以前に、あまり多用してはいけないのかもしれない。しばらくは肉体系の強化だけにしようと思う。
ともあれ、作戦通りに事が進み、とうとう念願のハートリーから一本奪うことができた。再び興奮が湧き上がり、顔が上気して自然とにやけてくる。
「肉体系の強化のみならず、目まで強化するとは思いもよらなんだ。これは完全に一本取られたわい」
「後は自分で考えろって言ったから、色々考えたんですよ。肉体系――筋肉が強化できるのなら、神経系――脳や内臓も強化できるんじゃないかって」
なるほど、とハートリーが感心するが、平太が「ただ、」と否定的な付属をする。
「ただ?」
「脳は、」
平太は人差し指で自分の額をつつく。
「俺の世界でもまだ未知の部分が多いんです。いや、ほとんどわかっていないと言ってもいいくらいで、だから、たぶんそのせいかどうかわからないけど、脳や神経系の強化は身体への負担が筋肉系に比べて大きい気がするんです」
不確定なことが多いせいで想像が追いつかず、強くイメージできない。それが原因なのか強化した反作用が強く、肉体に負荷を与えているように感じる。
実際、一度だけだが今さっき使ってみて、平太は頭痛と眩暈を感じていた。気分も悪いし、こうやって寝転がっていないと吐きそうになる。
「そうか。矢をかわしたり叩き落とすのに便利かと思ったが、なかなか旨い話は転がっておらんのう」
リスクを考えたら、いや、リスクが未知であることを考えたら、この技はよほどではない限り使わないほうが良さそうだ。後で身体にどんな影響が出るかわかったものではない。
それよりも平太の場合、肉体系の強化もまだ確実性が低いので、こちらを重点的に鍛えたほうが効率も良いだろう。当面はこっちの訓練だけで手一杯になりそうだ。
これからのことを考えていると、次第に頭痛と吐き気が治まってきた。平太の気分が良くなるのを見計らったかのようなタイミングで、ハートリーが手を差し出す。
「ところでのう、俺からも一つ面白い話があるんだが」
「なんスか?」
ハートリーの手を握り、引き起こされながら平太が軽く言う。
ハートリーは平太にさっきまで使っていた剣を渡すと、「抜いてみい」と言う。
「はあ……」
意図が読めないまま平太が剣を鞘から抜く。やはりどこも変わったところはなかった。強いて言えば、この数日使っていた物よりも多少綺麗なことくらいだろうか。
「やっぱり気づかんか……」
そう言うとハートリーはもう片方の剣をすらりと抜くと、目にも留まらぬ速さで平太の前髪を数本斬り落とした。
「へ……?」
「真剣ぞ」
剣が鞘に戻される。平太は足元に落ちた自分の前髪と、手に持った剣を何度も見る。
「え? ……ええっ!?」
血の気が引くのと頭がこんがらがるのが同時に起こり、平太は何が何だかわからなくなる。
稽古の初日に確認したときは、たしかに刃は潰してあった。それは間違いない。だが確認したのはその時だけで、後はしていない。
いったいいつから――
そういえば、今日ハートリーが持って来た剣は、いつものと違っていたような気がするではないか。
「まさか、今日はずっとこれで――」
ハートリーはにやりと笑う。
「どうじゃ、真剣で斬り合った気分は?」
やられた、と思った。
と同時に、呆気ないと感じた。
そして危うくハートリーの腹を斬りつけるところだったので、冷やりとした。
知らぬが仏とはよく言ったものだ。ちょっとした勘違いや思い込みだけで、あれほどあった刃物に対する恐怖が払拭された。そのせいで訓練感覚で人を斬るところだったが、結果オーライと言ったところだろうか。
「真剣と言えど、当たらなければ棒きれと同じぞ。結局、剣を活かすも殺すも、そして剣で生かすも殺すも使う奴次第よ」
包丁だって、料理にしか使えないわけではない。その気になれば人だって殺せる。つまり、剣であろうと何であろうと、道具は所詮道具でしかないということだ。それを過剰に恐がったところで、損はあれど得は何ひとつ無い。
理屈は理解できる。だが平太が何か今ひとつ納得できないという顔をしていると、
「俺は何も人を斬れ、とは言うとらん。そんなつもりでおんしを騙すような真似をしたわけではないからのう」
では、どういうつもりだろう。
「斬りたくないのなら、別に無理して人を斬る必要はなか。だが、いざというときに斬れんようでは意味がなか」
つまり、「できるけどやらない」はいいが、ただ「できない」のではいざというとき何もできない。だから最低限「できる」ようにはなっておけということだ。
特にこの「できる」と「できない」の間には、常人が思うよりも遥かに深い溝がある。
たとえば、大抵の人は他人の顔面を躊躇なく殴れない。法的倫理的道徳的にブレーキがかかったり、相手に同情したり自分の手が痛いからとか様々な要因で躊躇う。ごく稀にナチュラルにリミッターの外れた人間がいるが、それは生活環境のせいやある意味才能なのでここでは除外しておく。
さておき、普通の人はこのリミッターによって暴力に対する抑制がかかっている。極度の興奮状態や酒に酔っているとかでもない限り、これは容易には外れない。特に平太のような、法治国家でぬくぬくと育った人間はなおさらである。
では、このリミッターを外すには、或いはリミッターを緩和させるにはどうすれば良いか。
それは、慣れである。
ぶっちゃけてしまえば、格闘技の訓練にはこのリミッターを徐々に外したり、緩くしていく目的も含まれる。そうしていけば、いくら抑制がかかっていても、ルールのある状態で審判がいて、「それが許される環境」さえあれば抑制は騙せるのだ。
ただ、本質的に暴力に適さない人間もいる。想像力が豊か過ぎて、相手に感情移入し過ぎるタイプがその一つだ。特に平太のような過去にトラウマのある人間は、暴力を振るわれるのも振るうのにも激しい抵抗を示す。
だからハートリーは平太を騙すような形で、一度真剣で斬り合うという経験をさせたのだ。
経験は自信になり、自信は行動へと繋がる。
「いくらおんしが斬りとうないと思うておっても、相手はそうは思うておらん。情けをかけとる間に、向こうはお構いなしにおんしの命ばかりか、大事なもんを奪っていくぞ」
それでも良かか? という問いに、平太は少し迷ってから首を横に振る。
「大事なものば守るためには、手を汚さにゃならん場面もある。確かに人を殺めるっちゅうんは、綺麗事ではなか。後で必ず言いようもない後悔と罪悪感に苛まれ、心に刻まれた瑕のようなものは、一生消えることなくおんしを苦しめるだろう」
だが、
「もしそこでおんしが敵を斬らんかったら、おんしが殺されずとも、おんしの大事な人が殺されるかもしれん。そうなれば、きっと相手を殺す以上の後悔や苦悩が待っておると思うぞ」
平太の頭の中で、シズが海賊に斬られたときの光景が蘇り、背筋が凍りつくような恐怖に心臓が一度止まる。
「どちらがええかは俺にもわからん。だから、そんときになったらおんしが決めろ」
斬らずに後悔するか、斬って苦しむか。
どちらも選ばない、という甘い選択肢がないということは、平太もすでに知っている。あんな苦い経験、一度だけでたくさんだ。
それに今は、真剣に対する恐怖も克服している。後は平太の覚悟次第。
「まあ、すぐに決めろっちゅうんは無理な話ぞ。だからそれまでの繋ぎと言うか、裏技みたいなのを教えてやろう」
そう言うとハートリーは再び剣を抜き、足元に落ちている拳大くらいの石を剣先でつついてみる。
「よう見とけ。剛身術には、こういう使い方もある」
にやり、と笑うと、ハートリーはその石を剣で突き刺した。平太があっと思う間もなく、剣先は石に吸い込まれるように入っていき、勢い余って地面に突き立った。
「凄い……持ってる剣の切れ味まで強化できるんだ」
平太が驚愕の声を上げるが、ハートリーは剣に刺さった石を払って落とすと、
「それだけではなか」
今度は平太の首筋に剣の刃を当てた。
「え?」
と思わず声に出たときには、ハートリーは勢い良く剣を引いていた。
「うわっ……!!」
斬られた、と思った。が、首筋には痛みはなく、強くこすったときの熱だけが感じられた。
見れば、ハートリーは平太の反応を見て心底楽しそうにニヤニヤしている。
「斬れとらんだろ。斬るも斬らぬも思いのままぞ」
そこでようやく平太はハートリーが何を言いたいのか理解した。
確かにこの技を使えば、相手を無闇に傷つけることはないだろう。それに平太の大剣ならば、叩きつけるだけでも充分威力はある。
それにこれなら、大剣の刃に被せた革の覆いを外して攻撃できる。革の覆いを被せたままだと、露骨にこちらが手加減しているか、刃物で人を斬ったことがない素人だと丸わかりでよろしくない。だがこれなら覆いを外せて、一応見た目だけでも格好がつく。
「今のおんしなら、すぐに身につけられるだろう。だがあくまで一時しのぎぞ。そっから先は精進せい」
「はい、ありがとうございます」
最後の稽古で、実に得難いものを得たという気がした。模造刀を真剣にすり替えられていたと知った時はかなり驚いたが、それも自分を真剣に慣らすためにしてくれたことだと思えば、感謝こそすれど今さら腹も立つまい。
思えば、シャイナとの稽古は訓練と言った感じで、教官と生徒というのがしっくりきた。そう考えると、平太は初めて師弟関係というものを経験したような気がして、何だか嬉しくなった。
そうして平太が漫画やアニメの修行シーンを体験したような充実感に浸っていると、
いきなり地面が揺れた。




