流されて
◆ ◆
平太は馬に乗っていた。
場所は、濃い霧がかかっていてよくわからない。だがそんなことはどうでもいいと、気にしない自分がいた。
身体がゆったりと揺れる感覚。ずいぶんとゆっくりなだく足だ。
乗っているのは栗毛の馬――になったシズだった。
新しい馬があるのに、どうして自分はシズに乗っているのだろうと平太は疑問に思うが、頭がぼんやりとして上手く考えられない。まあシズだってたまには馬になりたい時もあるかもしれない、などとアホな考えが酷くそれっぽく思える。
ぽっくりぽっくり蹄を鳴らし、平太はシズに乗って歩く。そういえば、ドーラたちはどこに行ったんだろう。周囲を見渡すが、やはり霧が濃くて何も見えなかった。
雲の上をふわふわ歩くような感覚でいると、平太は手綱を握る手がやけにぬるぬるすることに気づく。
見れば、平太の両手は血で真っ赤に染まっていた。
「!?」
慌てて自分の身体を調べるが、どこにも傷はない。どうやら自分の血ではないようだ。では何の血だろう――そう思うと、いきなり前方の霧に穴が開いたかと思うと、
「いでええええええ、腕が、俺の腕がああああああ……」
片腕を斬り落とされた海賊が、恨めしそうに平太を見ていた。
「うわあっ!?」
驚いて平太はバランスを崩し、馬から落ちる。慌てて起き上がろうと地面に手をつくと、手が何かに触れる。
掴んで持ち上げてみると、それは人間の腕だった。
「俺の腕を返せえええええ」
平太が持つ腕を見て、隻腕の海賊が呪詛の言葉を吐きながらどろどろと溶けていく。
「ひいいっ!!」
平太は恐怖のあまり腕を取り落とし、ゲル状になった海賊から這うようにして逃げ出した。
不安定な地面をケモノのように四つん這いで逃げていると、馬と化したシズが平太が乗るのを待つようにして座っているのを見つけた。
急いでシズに近づく。腰が抜けているのか、シズの背に乗るのに酷く苦労した。
どうにかシズに跨がり、手綱を引いて立たせようとするが、いくら手綱を引いてもシズはうんともすんとも言わなかった。
「おい、シズ、早く立ってくれ。早く逃げないとあいつが……」
焦る平太がシズの背をゆすると、ぬるっとその手が滑る。
見ると、シズの背中がばっくりと斬り裂かれていて、そこから溢れ出る大量の血が平太の下半身を真っ赤に染めていた。
「おわあああああああっ!」
平太は半狂乱になって、シズの傷口を手で押さえる。まるで押さえていれば血が止まると思っているかのようだ。
けれど血は無情にも押さえた平太の手の間からじくじくと溢れ出し、地面に血溜まりを作ったかと思うとどんどん水位が増してきた。
気がつけば、シズの流す血に腰まで浸かっていた。それでも出血は止まるところを知らず、やがて腹や胸まで上がり、あっという間に首まで血に浸かっているような状態になった。
血の池で溺れる平太は、三つの死に直面していた。
一つは腕を斬り落とした海賊――敵の死。殺すまではいかなかったが、人を自分の手で斬りつけたのはこれが生まれて初めてだった。肉に刃が食い込む感触がまだ手に残っている。
次に自分の死。こうしている間にも、血はその水位を増している。このままでは溺死するのは時間の問題だ。
最後にシズ――仲間の死。自分のせいでシズはこんなにも血を流している。何もかも、自分が弱いからだ。
「そう、あなたのせいです」
「――シズ!?」
突如血の池の中から、真っ青な顔をした裸のシズが顔を出した。背中からはまだ血が流れている。
シズはゆっくりと近づいてきて、平太の首を絞めてきた。
「ぐ……シズ、いったいどうしたんだ」
シズの手を振りほどこうとするが、血の池の中では思うように動けないし滑る。それにシズの今まで見たこともないような怨嗟のこもった顔に動揺し、身体が強張ってしまう。
「いったいどうした? だってあなたのせいでしょう? あなたが海賊すら満足に殺せないから、わたしがあなたを庇わなきゃならなくなったんじゃないですか」
「く……」
「だいたい、あなたはいつも甘すぎるんです。よっぽど平和な世界でのほほんと生きてきたんですね。それに比べてわたしは……」
グラディアースは人間至高で男尊女卑の根強い世界である。そこで亜人の女として生まれ、挙句には詐欺師に騙されて呪いをかけられ、詐欺の片棒を担がされる。平和な日本で親の金でぬくぬくとニートをしていた平太と比べると、何とむごい人生であろうか。
「憎い。何不自由なく生きてきたあんたを、どうしてわたしが庇わなきゃいけないのよ……」
もの凄い力で首を締められ、平太は声も出せなかった。今や血は平太たちがどっぷり頭の先まで浸かるほど水位が上がっている。けれどこのままでは溺れるより先にシズに絞め殺されるのが先なのは明白だった。
苦しい。顔がうっ血し、目玉が飛び出して血管が破裂しそうだ。それでもシズの力は緩むどころかさらに強さを増し、絞め殺すというよりは首の骨を折ろうとしているかのようだ。
みしみしと自分の首の中から聞こえる骨の悲鳴に、平太は死が迫っているのを感じる。シズの手が首の肉に1ミリ深く絞まり込むごとに、死の実感が濃くなっていく。
死にたくない――当たり前だが、平太はそう思った。
しかも魔物や敵ではなく、仲間だと信じていたシズに殺されるなんて、悪夢以外の何物でもない。
「やめろシズ……やめてくれ……」
ごぼごぼ泡を吐き、平太は懇願する。だがシズの力は緩むどころかさらに強く首を絞める。
みしみし、みし、
「あんたなんか勇者じゃない」
そんなことはわかっている。それでも皆の期待に応えようと自分なりに努力してきたつもりだ。
「弱いし情けないし人生舐めて甘えてるし、あんたなんか生きてる価値ないわ」
みし、
「もう死んじゃえ」
ごきん、
「うわあああああああああああああっ!!」
自分の首の骨が折れた音で、平太は悲鳴を上げながら跳ね起きた。
肩を大きく上下させ、喘ぐように呼吸をする。長い時間息を止めていたのか、全力疾走したみたいに心臓が早く鼓動している。視界の中を汗の雫が横切って手元に落ちる。全身汗びっしょりだった。
「夢……か、」
乱れた息が整ってきて少し落ち着いてくると、自分が寝台に寝ていたことがわかった。景色に見憶えがある。思い出す。ここは自分たちが寝ていた、船の客室の中。
「――目が覚めましたか?」
声のした方を振り返ると、スィーネが酷く疲れた顔をして椅子に座っていた。
彼女の前には、寝台にうつ伏せに寝かされたシズの姿があった。
「シズ……」
鎮まりかけていた心臓が再び跳ねる。夢の中でシズに絞め殺された感覚が首に蘇り、ごくりと平太は唾を飲み込んで首に手を当てる。
シズの顔色は悪く、夢の中と同じような土気色だった。だがその表情は夢の中の恨み辛みに歪んだ顔ではなく、やけに平坦なもので、
まるで死人のようだった。
平太が息を呑む。だがシズが弱々しいながら、ちゃんと息をしているのが見え、ほっと胸を撫で下ろした。
裸でうつ伏せになったシズの背中は、きれいなものだった。もうすっかり傷は塞がっており、平太でも注意して見なければそこを斬りつけられて大ケガしたとは思わないだろう。
だがそれにしては、シズの顔色が悪すぎるようだが。
「傷は塞がりましたが、血を失い過ぎました。いくら神の奇跡で傷は癒せても、失った血を元に戻すのは無理なのです」
何だよその融通の利かなさは、と平太は治癒魔法に憤りを憶える。が、傷を塞ぐだけでも相当の苦労をしたのは、スィーネの疲弊ぶりから痛いほど伝わってくるので、すぐに怒りは萎んだ。
それにシズがこんな目に遭ったのも、元はと言えば自分が原因なのだ。スィーネに感謝こそすれ、どの口で文句を言えるのか。
「ですが、どうにか峠は越しました。後はこうして安静にしていればそのうち目を覚ますでしょう」
シズを見つめる平太の目が異常に怯えているに気づいたのか、努めてスィーネが楽観的に言う。そういうキャラでもないだろうに、と相当疲れているはずのスィーネにまで気を遣わせてしまったことにさらに平太は申し訳なくなる。
「そういえば、あれからどうなった?」
平太が憶えているのは、海賊の腕を斬り飛ばしたところまでだ。その後はしこたま嘔吐して勝手に意識を失ってしまったので、実際どうやってあの窮地を脱したのかまるで記憶にない。
スィーネの説明によると、平太が気絶した後すぐにドーラの魔法が完成し、海賊どもはほとんど海に落としたそうだ。残った海賊もシャイナがすべて片付け、今やこの船はドーラたちだけとなり安全は確保された。
その一方で不具合も発生した。船を操縦する海賊がいなくなったため、今この船はただ流されているだけとなった。もはや行く先は風と潮と神くらいしかわからない。当然、ドーラたちは船の操縦などできるはずもなかった。
「まあ水も食料も十分ありますし、嵐にさえ遭わなければ何とかなるでしょう」
またもやらしからぬ気楽な発言に、逆に平太は不安を感じる。それともこれも神の試練と受け入れているのだろうか。
ドーラとシャイナの所在を尋ねたら、ドーラは操舵室を調べるとかで、シャイナは恐らく甲板だろうということだった。
二人に用事はなかったが、この部屋でシズの痛々しい姿を見続けるのには抵抗があったので、平太はとにかく部屋の外に出ることにした。
平太がスィーネにシズのことをくれぐれもよろしく頼むと告げると、彼女は言われるまでもないと言った感じでしっかりと了承してくれた。
静かに扉を開けて部屋から出ようとする平太に、スィーネが「あまり自分を責めないように」と言葉をかけたが、とてもそんな気にはなれなかった。
甲板に出てみると、すでに夕方になっていた。船の中では時間の経過がわかりにくいし、ずっと気を失っていたからなおさら時間の感覚がなかった。
甲板を見ると、海賊との乱闘が思い起こされる。だがここには死体はおろか血の跡すらなく綺麗なもので、平太が斬り落とした海賊の腕が落ちていたらどうしようという不安は杞憂に終わった。
水平線の向こうに沈む巨大な夕日を、平太は船の縁に両肘をついて眺める。
この太陽はどこから登ってどこへ沈むのだろうと、今さらながら、この世界が異世界であることを再認識した。
この世界は異世界であって、ゲームではない。現実なのだ。もう何ヶ月も経って理解したはずなのに、まだ頭のどこか甘えのようなものが残っていた。
その結果、仲間が命を落とすところだった。
平太は握った拳を力いっぱい縁に打ちつける。その痛みが自分への罰だとばかりに、何度も何度も打ちつけた。
手の骨よ折れろとばかりに打ちつけ続けていると、突然平太の腕が誰かに掴み取られた。
「やめろよ」
振り向くと、シャイナが平太の腕を掴んで立っていた。
「シャイナ……」
平太はその手を振りほどこうした。しかしシャイナの力は平太をはるかに上回っていて、いくら力を込めてもびくともしなかった。
やがて平太が振りほどくのを諦めて力を抜くと、それ察したシャイナは腕を離した。
怒りで頭に血が上ってる時は何ともなかったが、一度水を差されて冷静になると途端に手の痛みが堪え難くなってきた。
「ったく……見せてみろ」
痛みに耐える表情を察したか、シャイナが平太の手を取る。皮が破れて血が流れ、青黒く腫れ上がった手を見て、「物に八つ当たりしてんじゃねーよ」と舌打ちをする。耳が痛い言葉であった。
シャイナは無造作に自分の服の袖を破ると、それをさらに細長く裂いて包帯を作る。そして慣れた手つきで平太の手にぐるぐる巻きつけると、
「後でスィーネに治療してもらえよ」
と言って仕置とばかりに少しきつめに結んだ。
「いて……」
本当に情けなかった。自分のせいでシズに大ケガをさせ、その八つ当たりで無駄にケガをしてシャイナに手当してもらっている。
「お、おい……そんなにきつく縛ってねーだろ。泣くほど痛かったのか?」
いきなり涙を流し始めた平太に、シャイナが珍しくうろたえている。それがまた平太の悲しみをより強くさせる。
情けない。
死にたいくらい情けない。
だけど死ぬ勇気もなければ、戦う度胸も覚悟もない。
なんて中途半端な奴なんだろう。
「俺は……弱い」
涙ながらに漏らす平太の言葉に、シャイナは深い溜息をつく。
「そうだな。お前は弱い」
にべもなかった。
「たしかにお前は弱い。それはお前のいた世界がこことは違い、平和で豊かだったからだ。強くなる必要がさして無かったせいでもある」
しかし、とシャイナは続ける。
「この世界は弱肉強食だ。女は男に虐げられ、亜人は人間に迫害され、弱い者は容赦なく強い者に蹂躙される。強くなければ生きていけないこの世界では、たしかにお前はどうしようもなく弱い」
非の打ち所のない正論に、平太はシャイナから顔を隠すようにうつむく。涙を止めようと固く目を閉じたが、それでも甲板にぼろぼろとこぼれた。
暗闇の中、平太の頭は突然とても温かく柔らかいものに包まれた。
「だがな、憶えておけ。弱いことは恥じゃない。弱いままでい続けること、負けても何も感じないことが恥なんだ」
シャイナが自分に言い聞かせるように言葉をかける。目を閉じたままでも、平太にはそれが何なのかわかった。
あのシャイナが、自分の頭を優しく抱いてくれているのだ。
「初めて会った頃のお前は、勇者どころか本当に男なのか疑うような貧弱さだった。けれどお前は勇者になろうと自分を鍛え続け、見違えるほど強くなったじゃないか」
「でも、俺は……俺が弱いから、シズが、シズが……あんなことに、」
嗚咽の混じる平太の答えを、シャイナは違うと否定する。
「思い出せ。ワドゥーム海岸であたしを助けたのは誰だ? エーンの村で火に囲まれた絶体絶命の状況をひっくり返したのは誰だ?」
「それは……、そんなのは、ただ、運が良かっただけで、強さじゃない」
「そんなことはない。強さってのは、ただ相手をぶっ殺せばいいってもんじゃねえ。そもそもただ殺せばいいのなら、そのへんの野良犬でもできる。そうじゃねえ。本当の強さってのは、どんな状況でも諦めず、仲間を助け、生き残る力のことだとあたしは教わった」
「教わったって、誰に?」
「あたしの師匠にだ」
「師匠?」
「ああ、あたしに剣と生き方を教えてくれた人さ」
そう言うとシャイナは平太の頭を胸から離す。温もりと柔らかさを失った代わりに息苦しさから解放された平太は、遠くを見るような目をしているシャイナを見つめる。
その表情は、懐かしい記憶を追っているようにも、苦い過去を記憶の奥底に押し込めようとしているようにも見えた。
思い起こせば、シャイナは自分の過去の話をほとんどしないが、ごくたまに自身の一部を削り出すかのようにして話すときは、こんな複雑な表情をしていたように思える。
「……とにかく、シズがああなったのはお前のせいじゃねえ。あれはシズが自分で望んでお前を庇ってああなっちまったんだ。それでもお前が責任を感じるのなら、今度はお前がシズを守ってやれ。そしてシズだけじゃねえ。仲間を守れるほど強くなれ。それができてこそ、本当の強さってもんだ」
勇者ならそれぐらいやってみろ、とシャイナは平太の頭に手を置いて言った。
「それにな、あたしは――たぶんスィーネやドーラも、もちろんシズもだと思うが、できればお前には人を殺して欲しくないんだ。もちろんこれから先、どうしようもないって時が来て、仕方なく結果的にそうなっちまうことがあるかもしれねえ。だがな、それでもな、あたしらはお前に、人を殺して平然としているような人間になって欲しくねえんだよ」
何故なら、平太はいずれ元の世界に帰る人間だからだ。
グラディアースの住人なら、この手のメンタルは持ちあわせていなければならない基本項目の一つであろう。
だが、平太の世界は法治国家である。
人を殺したことのない人間の方が圧倒的多数の世界なのだ。
そんな温室のような世界に、異世界での血みどろの戦闘に慣れ尽くした平太が戻ったらどういうことになるのかは、想像に難くない。
平太でも、戦争で心の傷を負った帰還兵の話などは知識としては知っている。
戦場という非日常での経験は、人の心に消えない傷を残しやすいのだ。そうした人々が元の平和な生活に戻れず、様々なセラピーや薬物治療を受けていることも知っている。
それと同じ心配を、シャイナたちはしているのだ。
平太がそこまで至らなかった心配を、彼女たちはしてくれていたのだ。
再び涙が溢れる。
今度のは己に対する無念の涙ではなく、仲間たちの思いやりに向けた感謝の涙であった。
今、平太は新たな岐路に立つ。
これから自分がどう強くなっていくのか。
その道は、見渡す限りの闇の中を手探りで進むに等しいものであった。
だが平太はその中で僅かな光を見つけた。
仲間である。
彼女たちが己の行路を照らす灯となってくれている。
おかげで平太は迷いを捨てることができた。
光に向かって、一歩一歩進んで行こうと決めた。
強さとは――まだ漠然とした答えしか出ないが、少なくとも蛮勇でないことはわかった。
強くなりたい。改めて平太は思った。せめて仲間を守れるくらいは強くならねば。
新たな道に向かって、平太は歩き始める。
一方、船は行くあてもなく流されていた。




