それぞれの事情
長くなってしまったので分割します。
◆ ◆
目が覚めると、見覚えのある天井があった。
どうやらまたあの部屋に戻されたようだ。
平太は右手を持ち上げて、ゆっくりと自分の顔に触れる。もの凄いことになっているだろうと覚悟していたが、予想に反して腫れはほとんど引いていたし、二度折れた鼻も元に戻っていた。痛みも今はさほどない。ただ短時間で腫れたり治ったりしたせいで、顔の肉が突っ張るくらいだったがこの際贅沢は言えまい。
「気がつかれましたか?」
声のした方向に首を向けると、平太の寝ている寝台の横でスィーネが椅子に腰掛けてこちらを見ていた。
どうやら看病と治癒をしていてくれたらしく、彼女の側には水を入れた桶を乗せた台があり、桶には患部を拭った血の跡が残る布がかけてあった。
「……便利なものだな、治癒魔法ってやつか?」
まだ血の味の残る口で平太が言うと、スィーネは少し悲しそうな顔をした。平太には、何が彼女にそんな表情をさせるのか理解できなかった。
「奇跡を起こしているのは神で、わたしはそれを中継しているだけに過ぎません。ただ――」
「ただ?」
「それでも、普通のヒトから見れば、羨むべき力なのかもしれませんね」
「……何だか自分の力が疎ましいみたいな言い方だな」
平太の言葉が的を射ていたのか、表情の変化の乏しいスィーネの顔に、明らかな驚きの影が見えた。
沈黙が流れる。やがてスィーネは決意したのか、それともどうせ異世界のよそ者相手だと割り切ったのか、滔々と語り始めた。
「自分と違うというだけで、人はいとも容易く他人を攻撃できるものです。昨日その力に助けられておきながら、次の日には気味が悪いと石を投げつけてくる者を、どうして別け隔てなく愛する事ができましょう。それでも愛せと神は仰いますが、だったら何故に初めから人をそのようにお創りにならなかったのか。そもそも、どうして完全な神が不完全な人をお創りになったのか。そんな不敬な考えを持つ自分が、とても卑しい存在に思えてならないのです」
神に仕える身でありながら、神に疑問を持つ矛盾。それでいて彼女はその身をもって神の奇跡を行使する。なんだかちぐはぐである。
ちぐはぐである彼女は、そんな自分の存在自身に負い目を持っているように見えた。
だが元々宗教観など持ち合わせていない平太にとって、彼女の苦悩は遠い対岸の火事だ。理解できるわけはないし、わかったとは口が裂けても言えない。
平太にできるのは、ただ自分のいた世界の話をするだけだった。
「俺のいた世界――特に俺の住んでた国じゃ、神なんてヒトが都合よく考えた嘘っぱちで存在なんかしなかったし、そもそも奇跡なんて誰も起こせなかった。まあ言い伝えならいくらでもあったが、少なくとも俺はこの目で見た事はなかったな」
「か、神がいない世界ですか?」
スィーネにとっては異世界の話に、驚きの声を上げる。よほどショックだったのか、声が少し裏返っていた。
「昔話じゃカミサマは全部で八百万いて、森羅万象すべてのものに宿ってるってさ。八百万だぜ、景気のいい話だろ。貧乏神や、便所の神様ってのもいたっけな」
「八百万……大国の人口と同じくらいの神がいるなんて、ありえない……でもいないはずの神……?」
話すたびに返ってくるスィーネの反応が面白くて、平太の語りに調子が出てくる。
「俺らみたいなその他大勢の凡人にとっちゃ、神なんてシステムとしての機能を持たされているだけで、単なるお飾りでしかなかったな。カミサマは人々の心の中にいていつも見ています、だから清く正しく毎日を生きましょう、なんて倫理観を植えつける偶像みたいな? 宗教として信者を集め、権力者が効率よく金と人心を集める手段とか? まあそんな感じでロクでもない扱われ方だったが、そんなカミサマでも救われる奴は確かに存在した」
「存在しない神に救われる方がおられるのですか?」
真実意外そうな声に、平太は苦笑いする。物理的に奇跡を起こす神が、自身に使える使徒を悩みから救えないのに、平太の世界での形骸化された概念の神が人を救っているという皮肉。
「おかしな話だがな。宗教が元で戦争が起きる反面、宗教に救われている人間がいるのは決して矛盾しているわけじゃない。俺が思うに、カミサマは人間を不完全に欠けて創ったわけじゃなく、カミサマっていう特別な何かを足して初めて人間っていうものになるんじゃないかな」
「人の足りない何かを埋めるのが、神……」
「だから、あんたもカミサマがあって一人前って言うか、切り離して考える事ができない存在なんだから、あんまり悩むなよ。いないのがわかりきってるカミサマが信じられてるんだ。いるのがわかってるカミサマを信じるなんて、簡単だろ」
まだ納得しきれていないようなスィーネに、平太は「それに、」と付け加える。
「あんたが治してくれなけりゃ、俺の顔はぐちゃぐちゃのままだったからな。あんたが奇跡を使えて本当に助かったぜ、ありがとうな」
二度も折った鼻を人差し指でかきながら礼を言うと、スィーネは喉に何か詰まったように両手で口を押さえ、うつむいてしまった。
平太はまた何か口が滑ったかと焦ったが、やがてうつむいていたスィーネがぷっと噴き出して、顔を上げたときにはころころと笑い出した。
「一日に二度も鼻を折るなんて、本当にしょうのない御方ですね」
「文句なら、一日に二度も俺の鼻を折った奴に言ってくれ」
そう言えば、と平太は思い出す。
「あいつはどうなった?」
「シャイナですか。あの方は大丈夫ですよ。元々嘘みたいに頑丈ですし、血の気も多いから少々抜いた方がまともになるでしょう。ですが、」
そこでスィーネは何か言いにくそうに言葉を口の中で止める。だが少し考えると、やはり言っておくべきだと判断したのか、止めた言葉を吐き出し始めた。
「あの方の前では、二度と『女だから』や『女のくせに』といったふうな言葉は口にしないでいただけませんでしょうか」
思い出す。平太が何気なく「女のくせに」と言った瞬間、あの女は殺意を剥き出しにして襲いかかって来たのだ。
「あの方は――シャイナはこの国屈指の戦士です。ですが、彼女が栄誉ある騎士や近衛兵になる事は絶対にありません」
なぜなら、彼女が女だからです、とスィーネは言った。その口調は、非常な現実を理解はしていても、納得はしていないといった感じだった。
「女だから。ただそれだけの理由でこの国では、いいえ、恐らくこの世界では役職や階級を得る事はほぼできないでしょう。それ以前に、結婚や職業選択の自由すらもない古い因習が根強く残った場所も少なくありません。たとえどれだけその者が優秀で、どれだけ才能に溢れ、どれだけまっすぐに夢を追いかけていても」
平太のいた世界でも、こと日本に限っても男尊女卑はあった。だがそれは昔の話である。今は男女平等を謳い、女性の社会進出が叫ばれ、職業選択も結婚の自由も法律で保証されている。
しかしここでは違うのだ。そしてすぐ近くに、悪習の被害に遭っている者が存在する事に、平太は胸がむかつくような怒りを覚えるのだった。
しかし話はここで終わらない。
「それに虐げられているのは、何も女ばかりではありません」
「え……?」
「貴方は、ドーラを見てどうお思いになります?」
どう、と訊かれても、ただのネコ耳魔法少女だとしか答えようがない。この時点で、平太は自分の感覚が常人からかなりずれている事に気づいていなかった。
「見てお分かりでしょうが、あの方は亜人でございます。亜人とは、わたしたちヒトとは似て非なるものとして、忌み嫌われる事が多い存在でございました」
そう来たか、と平太はうんざりする。彼のような多種多様なサブカルチャーに触れて感覚が麻痺した人種ならともかく、ファンタジー世界の住人が抱く亜人への差別意識は、平太の世界で言うところの人種差別なみに根が深いのだろう。
「亜人であり、なおかつ女性でありながら末席とはいえ宮廷魔術師にまで出世できたのは、ひとえに彼女の才能と努力の賜物でありますが、それでももし仮に彼女が男であったのなら、そして亜人でなかったのなら、と思わずにはいられません」
「それは……無意味な仮定だろう」
平太が言うまでもない。スィーネは「ええ」と静かにうなづく。
「彼女もまた、栄達の道をその生まれによって閉ざされた者でございます。ですが、こう言ってはいけない事でございましょうが、魔王復活の報により、世界は在野を問わず才覚のある者を求めるようになりました。これを好機と見て、ドーラは考えたのです。もし魔王を討ち倒せば、生まれも性別も関係なく、正当に評価されるのではないかと」
「それで勇者の召喚か」
「左様でございます」
「やれやれ、そういう事か」
平太は大きく鼻から息を吐く。とどのつまり、自分は利用されるために異世界くんだりまで連れてこられたのか。
けれど事情をすべて知った後では、不思議と腹は立たなかった。
むしろ応援したい気持ちすらあった。できる事なら、この世界も平太のいた世界のように、上辺だけでも男女平等や人種差別のない世界になって欲しい。
その一方で、だったら自分に何ができるという冷めた考えがあった。長年何かに真っ向から挑戦する事を避けて生きてきた代償のようなものが、平太の心の中にネガティブな視点を持つもう一人の自分のようなものを形成していた。
ドーラの考えは、ある一方では間違いではない。大きな功績を上げれば、評価など勝手に上がる。評価が上がれば地位も上がり、地位が上がれば発言力も上がる。そうして連鎖反応的に世界の仕組みを変えて、ゆくゆくは差別や偏見のないおとぎ話のような理想の世界を作ればいい。
だがもう一方で完全に間違いなのは、
平太が勇者ではない事だ。
「わたしどもの勝手でこのような事態に巻き込んで、本当に申し訳ございません」
ドーラの代わりにスィーネが謝ったところで、平太には許すも許さないもなかった。
平太の無言をどう受け取ったのか、スィーネは椅子から立ち上がると、
「少しお話が過ぎたようですね。おケガに障りますので、わたしはこれで失礼いたします」
手早く台の上の桶や布を片づけた。
「魔法で治癒したとはいっても、今夜は少し熱が出て痛むかもしれません。どうしても耐えられない時は、いつでもお声をかけてください」
ではおやすみなさい、とスィーネは静かに部屋から出ていった。
言われて今頃気づいたが、外はすっかり夜になっていた。どうやらずいぶんと長い時間気を失っていたらしい。
視線の先には、やはり見慣れない天井があった。
現実味に欠ける光景のくせに、顔の痛みや空腹がこれはどうしようもなく現実なんだぞとやたら釘を差してくる。
腹が減った。そう言えば朝から何も食ってないし、それ以前に朝メシは全部吐いてしまった。
こんな状況で、あんな話を聞かされても、身体は律儀に腹を鳴らしている。メシを食って、生きろとでも言っているのだろうか。自分で思っている以上に、人間とはしぶといものである。
だが腹は減っていても、物を食べる気分ではなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、何から考えれば良いのかとっかかりすら掴めない。
ただ目だけは冴えていたので、いくらでも起きていられるだろう。
長い夜になりそうだった。
翌朝、ドーラが部屋にやって来た。
シャイナやスィーネの姿は見えなかった。ケガの様子を見に来たと言うが、他に何か言い出しにくい用件があるのはすぐに見てわかった。
自分の屋敷なのに、ドーラは妙に遠慮してなかなか部屋には入ろうとはしなかった。結局、平太が中に入れと促すまで、彼女は実に申し訳なさそうな顔でただ耳と顔を伏せるだけであった。
室内に入り、ドーラに昨日スィーネが座っていた椅子を勧めた。彼女は一度は断ったが、これから長い話があるのだろうと予測した平太は、立ち話もなんだからと水を向けるとようやく座った。
平太は寝台に腰掛け、ドーラが話し始めるのを待つ。内容はおおよそ予想できたが、彼女の口から出るのを待った。
「スィーネから、色々聞いたようだね」
おずおずといった感じでドーラが切り出した話は、平太の予想した通りだった。
「まあ、だいたいな」
そうか、とドーラは小さくつぶやいた。これでもう逃げられないというふうな、どこか観念した独白だった。
自分の、自分たちの出世や名声のために魔王を倒す。平太はこれについて何か言うつもりは毛頭なかった。目的など人それぞれだし、仮に目的が金や名声だったとしても、魔王と戦うという危険を犯す事には変わりはない。要は結果が出れば良いのだ。
「そう言ってもらえると、いくらか気が楽になるよ」
ドーラが乾いた笑いを漏らす。彼女も未だ迷っているのだろうか。それが目的のために魔王をダシに使う事か、異世界の赤の他人を巻き込む事なのかはわからないが。
未だ迷っているのは、平太とて同じだった。彼もまた、自分が勇者などではない事を言い出せずにいる。
しかし、彼女がすべて吐き出したからには、自分だけがこのまま黙しているわけにもいかない。何よりこのままずるずると流されていけば、いつか必ず取り返しのつかない状況になるに決まっているからだ。
傷は浅いほうがいい。お互いのために。
覚悟を決めた平太は、ドーラに告げた。
「俺からも大事な話がある。昨日の広間にみんな集めてくれ」
平太の要求通り、ドーラは広間にシャイナとスィーネを集めた。
ドーラはこれから平太が何を始めるのか、見るからに不安そうに自分の席に座っている。
スィーネの方を見ると、彼女は昨日と何も変わらず静かに座っていた。あまりに変化がなかったので、昨夜の彼女は自分が気を失っている間に見た夢なのではなかろうかと疑うほどだった。
シャイナは目が合うと、一瞬もの凄くばつが悪そうな顔をした後、すぐに顔を背けた。ずいぶん嫌われたものだ、と平太は思わず苦笑しそうになったが、もうすぐ嫌われるどころかまた殺されるかもしれないと思うと、笑ってもいられなかった。
みな一様に黙して、平太が話を始めるのを待っている。潮時か、と腹をくくる。
「結論だけ言う。俺は勇者じゃない」
言った。
言ってしまった。
だがこれでいい。平太はようやく肩の荷が降りたような気がした。
「嘘……でしょ?」
一同に衝撃が走る中、ドーラが一番衝撃を受けているように見えるのは当然だろう。何しろ平太を迎えにグラディアースから日本にまで来たのだから。しかも一生に一度しか使えないはずの、異世界への扉を開くという大魔法を使ってまで。それが今さら間違いでした、で済むはずがない。
「落ち着いて聞いてくれ。そもそも、何で俺なんだ?」
「それは……」
ドーラの話によると、彼女はこのグラディアースを救う勇者を探すために、ある魔法を用いた。それは魔法と言うよりはどちらかと言えば占いに近いかもしれない。
やり方はこうだ。ある決まった時刻に決まった方角に向けて、これまた決められた材料を用いた霊験あらたかな液体をなみなみ湛えた桶を置き、チンカラホイとばかりに呪文を唱え、自分が知りたい事を三つのキーワード形式で尋ねる。
するとあら不思議。桶の中の液体に自分が知りたい事が映るという。ここまで聞いて、平太は何となくインターネットの検索サイトを想像した。
「で、どういうキーワードで検索、じゃない、占ったんだよ」
「ええっと、たしか……『グラディアース』、『最強』、『勇者』だ。うん、間違いない。そうしたらキミの姿が桶に映ったんだ」
「ではやはり勇者で間違いなのではないでしょうか?」
スィーネが両手をぽんと叩いてのほほんと言う。だが平太は間違った三段論法を聞かされているようで、どうにも座りが悪い。何が間違ってるとまではわからないが、何かが決定的にズレているというのは感覚でわかる。
「けど、キミもあの時確かに言ったじゃないか。『いいぜ。この勇者が、お前の世界を救ってやろう』って」
「何だよ、お前自分で勇者って認めてるんじゃねえか」
「いや、ちょっと待て。あれは――」
そこで平太の脳に電流が走る。違和感の正体がようやくわかった。
「あああああああああああああああああっ!!」
突如大声を上げて立ち上がった平太に、みんなびっくりして椅子ごと後退る。
「ど、どうしたんだい、いきなり……?」
ドーラの問いに、平太は身体をガタガタ震わせながら、もの凄い世紀の大発見をしたような声で言った。
「グラディアースじゃない。俺が勇者だったのはグランディール・オンラインの中だあっ!」
「……え?」
広間全体に、意味がわからない、という空気が蔓延する。平太は肩で息をしながら、何とか呼吸を落ち着けつつ、この非文明人どもにどうやって説明したものかと頭を悩ませた。
「つまり、占いのキーワードが紛らわしかったんだよ。ドーラが探してたのはグラディアースの勇者。俺はグランディールの勇者。人違いなんだ」
平太はとりあえずゲームの中の話だという部分は端折って説明した。どうせ説明したところでわからないだろうし、余計に混乱させるだけだと判断したのだ。
「で、でも勇者である事には間違いがないんだろう? その、キミは、グランディールの勇者なのだから……」
多大な犠牲を払ってまで連れてきた勇者が実は人違いだったと知らされ、ドーラは思いっ切り動揺している。無理もあるまい。間違いだとわかっても、もう彼女は二度と異世界に勇者を探しに行けないのだから。
「人違いだと……? テメェそれ本気で言ってんのか?」
「本気もナニも、事実だから仕方ないだろ」
「ですが、世界は違えど勇者は勇者なのではないでしょうか?」
「いや、勇者にもピンキリがあって、俺は最低どころかむしろ人として最底辺だ……」
自分で言ってて悲しくなるが、勇者どころかニートなのだ。これも説明は割愛した。泣いちゃうから、平太が。
「じゃあ……本当にキミは勇者じゃないんだ……」
震える声で尋ねるドーラに、平太は断腸の思いで「そうだ」と告げた。彼女にとっては余命を宣告されるよりも辛いだろう。
「そんな……それじゃあ世界が、魔王が、出世が…………」
わなわなと震えるドーラに、シャイナもスィーネも声をかけられなかった。平太も何も言えない。すべてを失った人間に、かけられる言葉などなかった。