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ニートの俺が勇者に間違われて異世界に  作者: 五月雨拳人
第二章
28/127

ドーラ、奮起する

     ◆     ◆


「……ん?」


 目を覚ましたドーラの目に飛び込んできたのは、まったく見覚えのない板張りの天井だった。


「そうだ、船に乗らなくちゃ!」


 慌てて身体を起こす。最後の記憶はオブリートゥスの宿屋にて、物質転送の魔方陣を使ってデギースの店に先割れスプーンの見本と仕様書と計画書を送ったところまでだ。


 落ち着け。ドーラは深呼吸をする。何度か大きく息を吸って吐くと、混乱して狭くなっていた視界が広くなり、周囲が見えるようになってきた。


 そこで自分が寝台に寝かされていたことにようやく気づく。見覚えのない寝台に室内。目が覚めるとまったく未知の環境に放り込まれていることに、心臓の鼓動が早くなる。ここはどこだ。あれからどれくらい時間が経った。室内には窓がなく、時間を計るものがまるでない。腹具合から察するに、昼はとうに過ぎたようだが寝起きなので確信はない。


 顔を巡らせて室内を見る。室内には他に四台の寝台が並んでおり、それぞれにスィーネとシズ、平太が眠っていた。仲間が同じ室内にいることにドーラは安堵し、いくらか落ち着きを取り戻す。


 次に顔を上げてよく見れば、宿屋の天井とは違う。ではここはどこか。脳の覚醒が進むに連れて、身体の感覚が戻ってきた。


 まず聴覚。家鳴りのような木材の軋む音に隠れて、かすかに波の音が聞こえる。


 次に嗅覚。床や壁の木材に塗られた防水用の油の臭いに混じって、ほんのり潮の匂いがする。


 そして触覚。寝台を通してわずかに地面が揺れているのを感じる。いや、これは恐らく地面が揺れているのではなく――


 それらの情報を総合すると、答えは自ずと見えてきた。


「なんだ、もう船に乗っているんだ……」


 ドーラは再び大きく息を吐く。てっきり寝過ごして乗り損ねたと思っていたが、どうやらそうはならなかったようだ。


 安心すると、そこでようやくシャイナの姿が見えないことに気づく。あれだけ大きい身体が見当たらないことに、どうして今まで気がつかなかったのだろう。


 便所かな、と思うと、身体が思い出したように反応し、ドーラは身震いをする。尿意である。


 室内にそれらしい設備は見当たらない。この世界では汲み取りが主流だが、大型船舶の中には客室に一つ便所が設置されていて、出した物は専用の通路を流れて船倉に集められ、ある程度溜まったら船員が海に捨てると聞く。


 が、それは豪華客船などの話である。ドーラは部屋の隅に置かれていたそれ専用の桶を見つけてしまい、思わず「うわあ」と呻く。


 別に桶に用を足すのは何でもないが、さすがに大部屋で人前というのは恥ずかしい。さらに寝てるとはいえ平太という異性もいるからなおさらだ。


「……別のを探すか」


 豪華客船とは言わないまでも、このアナスケーパ号も相当大きな帆船だ。乗組員のための便所がどこかにあるかもしれない。そこを使わせてもらおうと、ドーラは静かに船室を出た。


 ドーラたちが詰め込まれた客室は、甲板から階段を一階分下りた階層だった。同じような客室が何部屋かあったが、どうやら客は自分たちだけのようだった。


 乗組員用の設備ならさらに下の階だと当たりをつけ、ドーラはさらに階段を下る。


 一般人が入り込まない関係者用の階層は、甲板やドーラたちがいる客用の階とはまったく別次元だった。


「くさ……」


 とにかく臭い。潮の香りに混じって男たちの汗や体臭、さらに汚物や水の腐ったようないわゆる『独身男特有の生活臭』をさらに煮詰めて凝縮したような、嗅ぐだけで妊娠するんじゃないかと思うような強烈な悪臭が立ち込めていた。


 一体何年掃除をしなければここまで悪臭を放つようになるのかとか、よく上の階まで臭いが上ってこないものだと妙な感心をしながらも、ドーラはここが乗組員の生活空間だと確信した。ここならきっと、彼らのための便所があるはずだ。


 だが明らかに関係者以外立ち入り禁止な空間だけに、見つかると怒られるかもしれない。ドーラはこそこそ隠れるようにしてその階を探検すると、ようやくお目当ての部屋を見つけた。


 そっと扉を開け、隙間から中の様子をうかがう。誰もいない。よし、と扉の隙間に身体を滑り込ませる。臭い。ここが悪臭の原因なんじゃないかと思うほど臭い。この下は船倉になっており、乗り込ませた家畜が暴れているのか、何やら下が騒がしく馬のいななきが聞こえる。臭いの何割かはきっと下の家畜が出した糞尿であろう。


 乗組員用の便所は板で仕切られた密閉型の個室の底に、大きな樽のような物が置いてある一般的な汲み取り型だった。ドーラは樽の上に立って恐る恐る下を見ると、中には半分くらい何かが溜まっている。跨るだけで病気になりそうで心配になったが、そろそろ限界も近いので仕方なくここで用を済ますことにした。


「ふう……」


 ようやく目的が果たせ、思わず安堵の声が漏れる。すると便所の扉が開いて、二人の乗組員が中に入ってくる音がした。


 まずい。ドーラは息を殺して早く二人が去ってくれるのを祈る。二人が小便用の樽の前で足を止めると、樽の底を叩く水音が二つ聞こえてきた。


「あ~……、しっかし今回の仕事はチョロいな」


「何せカモが向こうからネギ背負って来やがったからな」


 へへっ違いねえ、と片方の男が笑う。何の話だろう、とドーラは息を潜めながら二人の話に耳をそばだてる。


「今回は女が四人か」


「しかもどれも結構べっぴんだったな」


「ああ、けどあのちっこいのはどうしようもねえな。胸も尻もガキみてえに貧相だしよ」


「なあに、ああいうのがいいって奴も探しゃあいるさ。まあ俺は髪の茶色い乳のデカい姉ちゃんにツバつけたけどな」


「俺はあのでっかい赤毛の姉ちゃんがいいな」


「何だお前ああいうのがいいのか?」


「別にいいだろ。俺ぁ自分よりデカい女が好きなんだよ」


「まああの赤毛も乳だきゃあアホみたいにデカいからなあ」


「それに引き換えあの金髪。見た目はいいんだが、如何せん目つきが悪い上に身体が貧相でなあ。ありゃあ男が寄り付かねえまま歳だけ食って売れ残るタチだぜ」


 下品な声で男たちが笑う。


「目つきが悪いっていやあ、あの男のツラみたか? 何食ったらあんな死んだ魚みたいな目になるんだろうな」


「そりゃあおめえ、女四人に男一人だ。毎晩取っ替えひっ替えヤりまくってりゃあ、疲れも溜まってあんな目になるだろうぜ」


「畜生、羨ましすぎて早くぶっ殺してやりたいぜ」


「慌てるなよ。始末するのはもっと沖に出てからってお頭が言ってただろ。あんまり港に近いと泳いで逃げられちまうって」


「ああそうだったな。待ってろよ、沖に出たら真っ先に男を切り刻んで魚のエサにして、あの女どもを無茶苦茶ヤりまくってやるぜ」


「おいおい、その後売っ払うんだからあんまり無茶するなよ」


 行為を想像したのか、男二人が楽しそうに笑う。


 ここまで話を聞けば、さすがにドーラでも男たちが何を話しているの理解できた。あまりのことに、先に用を足していなければ失禁しそうだった。


 足が震えてしゃがんでいられない。だが今ここで立ち上がれば、二人に見つかってしまう。そうなればどうなるかなど、想像するまでもない。


 ドーラは自分の左手の親指を噛んで、震えを抑え込もうとする。歯まで震えてきて上手く噛めなかったが、必死で歯を立てようとすることで、焦りと自分の愚かさのあまり漏れそうになる声をどうにか止めることができた。


 混乱する頭で無理やり考える。こいつら海賊だ。海賊と言っても客船や貨物船を襲って略奪する行動的なタイプじゃなく、客船を装って旅行者を乗せて海のど真ん中で殺して金品を強奪する詐欺タイプの方だ。


 つまり、また詐欺に騙されたのだ。


 前回――馬のときといい、どうして自分はこう詐欺に好かれるのか。いや、自分が間抜けだから詐欺に引っかかるのだが、それにしても今回は話が違う。金を騙し取られるくらいならまだいい。だが今回は命が危ない。騙される馬鹿の自分が殺されるのはまだいいが、その馬鹿のせいで仲間の身が危険に晒されるのはいたたまれない。


 何とかしなければ。


 男二人が用を足し終えて、便所から出て行く音がする。ドーラはすぐにでも飛び出したい気持ちを必死に制し、二人が完全にこの場から離れるまで待つ。


 頭の中でたっぷり百を数えると、ようやくドーラは立ち上がった。足の震えはもう止まっていたが、ずっとしゃがんでいたので少し痺れていた。


 早く戻らなければと焦る気持ちと、慎重になれと自分を戒める気持ちの板挟みになりつつ、ドーラは誰にも見つからないように船室に戻る。復路は往路の百倍緊張した。


 運が良かったのか、それとも乗組員がサボっていたのか。とにかく無事誰にも見つからずに部屋の前にたどり着いたドーラは、勢い込んで扉を開けて中に飛び込もうとして、ぴたりと動きを止めた。


 もしみんなにこの話をしたら、一体何と言われるだろう。そんな考えが一瞬脳裏を走り、ドーラはその思考に支配される。


 まず確実に幻滅される。次に絶対『またか』という顔をされた上に、もうコイツに大事な商談や交渉を任せるのはやめようという流れになる。完全に無能扱いだ。シャイナやスィーネたちに虫ケラを見るような目で見られ、突き刺さる視線に萎縮して縮こまっている自分の姿が手に取るように見える。


 全身がガタガタ震える。ドーラにとって、仲間に無能だゴミだとボロカスに言われることはさして苦痛ではない。ただ、これまでの友情が粉々に打ち砕かれ、修復不可能になるのは殺されるよりも怖い。


「…………かはっ」


 動悸が激しくなり、呼吸が乱れる。暑くもないのに全身に汗をかく。むしろ体温がヤバいほど下がって寒気すら感じるのに、喉はカラカラで声も出ない。


 血の気の引いた頭でドーラは考える。


 このまま黙っていようか。


 頭の中を掠めた魔族のような囁きに、心臓が張り裂けそうなほど鼓動する。息が苦しい。すべての音が耳から消え、暴れ狂う自分の心臓の音だけが頭の中に響く。


「はぁっ……!」


 あえぐように息をする。息をするのを忘れるほど、思考に支配されていた。


 ろくでもない思考に。


 ドーラは頭を強く振って、恐ろしい考えを振り払う。耳からこぼれよとばかりに頭を振ると、大きく深呼吸をする。


 吐き終わるころには、ドーラの肚は決まっていた。


 当然、否。


 己の保身のために仲間の命を危険に晒すことなどありえない。たとえ自分が愚かなせいで仲間に嫌われ捨てられようと、裏切るくらいなら潔く死を選ぼう。ドーラには、すでにその覚悟があった。


 迷いなき動きで、ドーラは扉を開ける。どれだけ罵倒されようと、どれだけ呆れられようと、とにかく今は仲間たちに危険を知らせるのが第一だった。


 だが扉を開けて中を見たドーラは、自分の目を疑った。


 誰もいない。


 さっきまでスィーネとシズ、平太が眠っていたはずなのに、今はどの寝台も空だった。


 慌てて室内に入り、扉を閉める。パニックになりそうになるのを、どうにか押しとどめて誰かいないか部屋中を探し回る。


 そして探し回る間にさらに絶望的なことにドーラは気づく。


 荷物がない。


 あの中には着替えから何から旅に必要な物だけでなく、旅費も入っている。


 そして何より、魔法を使うのに必要なワンドが入っていたのだ。


 杖のないドーラなど、ただの小娘以下だ。


 たたみかけるような衝撃の連続に目の前が真っ暗になり、脳が現実を拒否しそうになった。ドーラはのろのろと歩き出し、一度寝台に潜り込むと毛布を頭からかぶる。そうして今までのことはすべて夢だったのだと思い込む。


 よし。勢い良く起き上がる。同じ室内。同じ光景。同じ状況。何ひとつ変わってない。


 現実逃避終了。


 寝台の上で、一人膝を抱えて座り込む。


 額を膝にくっつけて、泣きたいのを必死に我慢して考える。


 みんなはどこに行ったのか。


 荷物はどこに行ったのか。


 考えるまでもない。二人の男の会話から察するに、眠っているスィーネたちを他の海賊たちがどこかに運び出して行ったのだ。そしてきっと今ごろは、どこかの牢屋みたいな部屋に閉じ込められているに違いない。


 視界が涙で滲む。自分を残してみんながいなくなったのは、一瞬でも保身のために黙っていようなどと考えてしまったバチが当たったのではなかろうか。


 だとしたら、罰を受けるべきは自分なのに。もしこれが運命だとして、神様とやらが決めたものなのだとしたら、どうしていつも理不尽な不幸を自分に与えるのだろうか。


 亜人であることも、


 女であることも、


 望んだことではないのに。


 涙を乱暴に袖で拭う。泣いてどうする。泣いて状況が改善された試しがあったか。いつだって、自分がどうにかするしかない。これまでは仲間が自分を助けてくれたが、今度は自分が仲間を助ける番だ。ドーラはそう自分を奮い立たせる。


 ドーラは立ち上がり、一度だけ両頬を強く平手で挟み込むように叩く。大きな音が室内に響いたが、それだけに気合は十分に入った。


 もう一度だけ室内を探り、何か使えそうな物はないか物色する。何もない殺風景な部屋だと思っていたが、本気で探してみると案外使えそうな物が集まった。


 釘と針金と服のボタンが一つずつ。釘は船の補修用なのか、かなり太く長い。ドーラの人差し指より長いので、握り込めば刺突用の武器になるかもしれない。針金は長さが掌程度で、手でどうにか曲げられるくらいの固さのもの。ボタンは硬貨ほどの大きさと重さで、投げて当たると痛いかもしれない。


 これが何の役に立つかまだわからないが、とにかく今の自分の手にあるのはこれだけだ。何とかするしかない。


 ドーラはそれらを失くさないように大切に上着のポケットにしまい込むと、行動の優先順位を決めた。


 当然まずは仲間の安否の確認。どこに行ったか、どこに放り込まれたのかを探し当て、助けなければならない。


 次に失くなった荷物の捜索。これは仲間の探索と同時進行でもまず問題はない。むしろ先に荷物の中の杖が見つかれば、その分仲間の探索や救助がしやすくなる。


 問題は、これらすべてを誰にも見つからないようにしなければならないことだ。向こうはすでにドーラがいなくなっていることに気づいて探しているはずだ。もし見つかれば、魔法の使えない自分などあっという間に取り押さえられるか殺されてしまう。


 そしてもう一つの問題は、時間低余裕がもうあまりないということ。


 便所の男たちの会話から推測すると、船が完全に沖に出るまでは平太たちの安全は保証されているようだ。


 その間どういう扱いを受けているかは想像したくないが、それでも殺されるよりかは遥かに良いと思いたい。


 時間が無いとなると、あちこち探し回っている余裕がないということだ。だとすると、予め平太たちがどこにいるであろうか目星をつけないと時間の浪費になるだけでなく、海賊に見つかる危険が増すだけである。


 考えろ。平太だってあの絶体絶命の状況を、己の知恵と勇気で覆したではないか。異世界の凡人がやってのけたのだ。元とは言え宮廷魔術師がそれくらいできなくてどうする。


 そこでふとドーラは思う。そういえば、シャイナも平太に危機を救われたと聞く。


 あの、出会ったときは何もできず、頼りないにもほどがある不健康そうな青年が、歴戦の戦士シャイナを助けるようになるまで成長するとは。勇者になってくれと頼んだのは自分だが、まさかここまで頼れるようになるとは予想外だった。


 もしかすると勇者とは、亜人や人間や魔族のように、生まれたときからすでに「そうである」ものではなく、そうなろうと目指して努力することによって近づく目標なのではなかろうか。


 今まで勇者を魔王に対する便利な切り札みたいに考えていたが、これは少し認識を改める必要があるかもしれない。


 思考が横道に逸れた。ドーラは考えを軌道修正する。


 自分が用を足しに階下に行ったわずかな間に、平太たちはこの部屋から消えた。


 どうやって。


 この狭い廊下を悠長に一人ずつ移動させていては間に合わないはずだから、同人数で担ぐなりして移動させたか、それに近い人数で脅して移動させたということになる。


 しかし時間的に見て移動がかなり迅速に行われていることや、室内に荒らされたような形跡が見られなかったことから、ほとんど抵抗らしきものはなかったようだ。恐らくまだ眠っているスィーネたちを数人で担いで移動させたと考えるのが妥当であろう。


 となると、残る問題はどこに移動させられたのかだ。


 真っ先に思いつくのが船倉だが、そこに行くには乗組員の居住区となっている階を通らなければならない。階段で通り抜けるだけだが、階段には身を隠す場所が無いのでかなり慎重を要するだろう。


 そして運良く船倉にたどり着いたとしても、そこから先は未知の空間であり、間取りも何もわからない状況でみんなを捜さなければならない。


 難易度の高さに目眩がする。思い出したように恐怖が蘇り、再び足が震える。仲間もおらず、魔法も使えず、この船の乗組員全員が敵。絶望的と言ってもいい状況で、果たして自分に何ができるのか。


 いや、できるできないじゃない。


 やるんだ。


 恐らくもうあまり時間はない。早くしないと船が沖に出て、仲間たちの身に危険が及ぶかもしれない。


 ドーラはポケットに手を入れ、中にあった釘を思いっきり握り締める。今はこれが唯一の武器だ。あまりにも頼りないが、無いよりは遥かにマシだ。これで敵の目でも突けば、自分でも戦える――かもしれない。


 これ以上グダグダ考えても時間の無駄だ。意を決してドーラは動き出す。


 そっと扉へと近づき、わずかに開けた隙間から廊下の様子をうかがう。そのとき、扉の向こうから大勢の人間がこちらに向かって走ってくる足音が聞こえた。


 慌ててドーラは扉を閉め、隠れるところを探す。このまま動かずにやり過ごすか、それとも寝台に飛び込んで隠れるか迷っているうちに、どんどん足音が大きくなって焦る。


 結局ドーラが動けずに扉を背に棒立ちになっていると、足音は部屋の前を通り過ぎ、階段を上がって甲板の方へと消えていった。


 ドーラはほっと安堵する。きっと見張りの交代とか船の仕事があったのだろう。


 しばらく間を置いて、再び扉の隙間から廊下をうかがう。


 誰もいない。


 よし。一度大きく唾を飲み込んで、ドーラは静かに廊下へと出た。



 廊下に出たドーラは、できる限りの慎重さと素早さを駆使して早歩きで歩いた。本人は軽やかに忍び足をしているつもりだが、傍から見るとただつま先立ちでよちよち歩いている子供みたいだった。


 先の足音から推察するに、結構な人数が甲板に上がったようで、心なしかずいぶんと人の気配がしなくなったような気がした。


 それでも油断は禁物と、ドーラは慎重に歩を進める。


 階段に近づくと、そこでドーラは一度足を止め、姿勢を低くする。息を殺し、階段の下から不意に人が現れないかじっと見据える。


 誰も上がって来ないことを確認すると、ドーラは少しでも見つかりにくくなるように両手を地面について腹ばいになった。そのまま服が汚れるのも厭わず、じりじりと獣のように階段へと近づく。


 人の気配を探るのに、全身を使った。ネコ耳はもうずっと前から前方位警戒態勢にしっぱなしだったし、地面についた両手は人の歩く振動を感知するためでもある。


 階段にたどり着くと、立ち上がりもせずそのまま地面に貼りつくようにして頭から階段を降りる。まるで軟体動物が重力に負けて階段を滑り落ちるように、ドーラは全身を使って階段を降りた。


 階下に降りるにつれてあの悪臭が鼻をついたが、今はそんなことちっとも気にならなかった。むしろ積極的に鼻をひくつかせ、悪臭の中にわずかでも他人の臭いが混じっていないか警戒する。


 四つん這いのまま廊下に降り、そのまま四つ足で反対側の階段へと向かう。頭だけを階下に伸ばし、視覚聴覚嗅覚と、両手両足の触覚で人の気配を探る。


 船倉に降りると、乗務員用の階では必要最低限だった照明がさらに少なくなっていて薄暗かった。


 しかしドーラたちは亜人は、人間には見えない特殊な光を見ることができる。いわゆる暗視というやつだ。


 おまけに彼女は魔術師だから、魔力を使って自分の身体能力をいくらか底上げすることができる。これは自分の肉体を媒介とするので、ワンドなどの呪文を具現化するための媒介を用いなくても実行可能な数少ない魔法であった。


 昼間のような――とは大げさだが、見るに不都合のない程度の視界を得たドーラは、ぬるりと床に降り立つ。暗視状態に入ると熱を持つ者は視覚で見えるので、もう両手を床につく必要はなくなった。


 両足で立つと、再び出来損ないの忍び足で歩く。時おりぼんやりとした小さな赤い光が視界の端を横切るが、それはネズミなので無視する。


 いくつかの扉を見てみるが、どれも熱を感じない。どうやら倉庫のようだ。その中で一つ、大きな熱を持った塊が数体中でうごめいている扉を発見した。大きさから察するに、馬だろう。


 うまやかな、そう判断したドーラは一度その扉の前を素通りしかけて、中に馬以外の熱源が見えたような気がして慌てて足を止めた。


「ん……?」


 目を凝らしてみるが、扉越しなのでよくわからない。ただでさえ大きな熱源となる馬が数頭いて、落ち着かなさそうに動き続けているのだから映像が安定しない。


 ドーラは迷った。もしその熱源がスィーネたちだとしたら、素通りするわけにはいかない。だがもしそうでなかったら。例えば、サボって昼寝している海賊だったら、自分から危険を犯すことになる。


 わずか数秒の間に百を超える自問自答を繰り返し、頭から煙が出そうになる。ようやく出した結論は「保留」。危険を犯すかどうかは、ここ以外のすべての船倉を調べてからでも遅くはないという判断だった。


 それからドーラはすべての船倉の扉を見て回ったが、室内に大きな熱源を持つ部屋は他に一つもなかった。


 みんなは船倉に連れていかれたのではなかった。すっかり当てが外れて、ドーラは途方に暮れる。


 みんなはどこにいるのか。船倉ではないとしたら上階、それとも他の階か。もしドーラの知らない秘密の部屋とかに監禁されてたりしたら、もうどうしようもない。


 じわりと忍び寄る絶望に、ドーラの勇気が侵食される。船倉に来れば何とかなると思っていた。ここまで来れば大丈夫だと、なけなしの勇気を振り絞ってやって来た。


 だが、何も無かった。


 もう勇気が底をつき、今からこの船の部屋をすべて調べようなどという気力はすぐには湧き起こせない。


 残った気力をすべてかき集めても、へたり込みそうになるのをどうにか堪える程度のものだった。ドーラは薄暗い闇の中、壁に手をついて泣きそうになりながら、自分が何を間違えたのか考える。


 自分だけ目が覚めてしまったのが悪かったのだろうか。みんなと一緒にいれば、少なくともこんな孤独を味合わずに済んだのかもしれない。


 違う。


 船旅の前に徹夜などしたのがまずかったのだろうか。寝不足でなければ、海賊だろうが山賊だろうがどうにでもなったであろうに。


 違う。


 そもそも、自分がこの船を見つけてきたのが間違いだったのだ。せめてシャイナかスィーネに同行してもらっていたら、海賊なんかの船に騙されて乗らなかったであろう。自分一人で買い物をすると、いつも問題に巻き込まれる。いや、相手が危険であることを見破れない自分が愚かなのだ。


 何度騙されようとまったく学ばない自分に、いい加減うんざりする。世界や人が残酷なのではない。ただ単に自分が間抜けなのだ。


 もはや何に絶望しているのかわからなくなってきたドーラのネコ耳に、ネズミの声と足音が聞こえた。


 ネズミの声は一匹どころではなく、この船倉に巣食っているネズミがすべて逃げ出そうとしているのではないかと思われるくらい、大量に逃げ回っている。ドーラの目には小さな熱源が点々と連なって、赤い川のように足元を通っているのが見えた。


 しかし、ネズミどもは何を恐れて逃げ回っているのだろう。不思議に思ったドーラがネズミたちが逃げて来た方向へと視線を向けると、


 薄闇の中に、金色の光の点が二つ浮いていた。


「ひいっ……!?」


 驚いて、思わず引きつった悲鳴を上げる。だが落ち着いて視界を暗視状態に戻すと、大きなネコみたいな動物がこちらを見ているだけだった。


 なんだネコか、だったらネズミたちが驚いて逃げ出すわけだ、とドーラは納得する。が、よくよく見ればそのネコは、ネコというよりはネコ科の肉食獣と言った方が正しいくらい大きかった。


 突然の猛獣の登場に、ドーラは慌てる。ネコなら可愛いが、ネコ科の肉食獣は猛獣である。あまりにも焦ったので、どうして船倉にいるのかとかそういう所にまで気が回らなかった。


 獣はネズミなどには目もくれず、こっちに向かって走ってきた。


「わわっ……!」


 ドーラは逃げようとするが、咄嗟のことで足がうまく動かない。まごまごしている間に獣が床を蹴る爪の音が近づいてくる。


「あわわわわわ……」


 腰が抜けた。這いつくばって逃げようとするドーラの背中に、ついに獣がのしかかった。もう駄目だ――ドーラ次の瞬間襲いかかるであろう痛みに目を固く閉じる。


 だがいくら待っても痛みはやって来ない。代わりに来たのが、


「こんな所にいたんですか。やっと見つけましたよ」


 というどこかで聞いたような声だった。


「へ……?」


 ドーラは恐る恐る目を開ける。


 目の前にシズの顔があった。彼女は裸でドーラに覆いかぶさっていた。


「シズ……」


 シズの顔を見て、抑え込んでいた不安や寂しさが溢れ出しそうになる。涙ぐみそうになるのを堪えていると、シズがドーラから身体を離す。


「詳しい話は後にしてください。今は一刻も早くみんなと合流しないと」


「みんな――そう、みんなはどこに行ったんだい? 無事なの? それにこの船は――」


 皆の安否と所在が知りたくて、ドーラは矢継ぎ早にシズに質問を投げかけるが、彼女は答えるどころか質問を聞く時間すら惜しそうだ。


「いいから早くわたしと一緒に甲板に来てください。みんなそこで海賊と戦っているんです」


 そのひと言で状況を把握するのに十分だった。そして、これ以上時間を無駄にできないことも。


 ドーラが急いで立ち上がるのを見ると、シズは再び獣に変身して駆け出した。ついて来い、そう行っているに違いない彼女の背中を追って、ドーラも走り出す。

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