勇者、旅立つ
今回から第二章に入ります。
◆ ◆
とうとう立ち退きの日、もとい、旅立ちの日がやって来た。
この十日間は、怒涛のように過ぎていった印象がある。
業者を呼んで家具の査定、引き取りの手配。立ち退き後の屋敷の清掃や補修の手配。ドーラは職務の引き継ぎや事務手続きの合間にこれらをこなし、平太やシズは業者の立ち会いなど彼女が日中不在なのでできないことや、彼女でなくても問題ないことを受け持った。
スィーネはその間に教会に旅の許可を申請し、魔王討伐というよりは世界各地を巡礼する布教活動の一環ならという名目でどうにか許可を取り付けた。
シャイナはドーラのおつかいで、彼女が書いた転移魔方陣を言われた場所に届けて回った。
ひとつはデギース武器防具店。旅の道中で倒した魔物や動物から剥ぎ取った素材を、この魔方陣で送るのだ。こうすればかつてのレクスグランパグルのような問題は起きないし、わざわざ王都に戻って彼の店に届ける手間も省ける。
もうひとつが宮廷内にもある。これは定期的にドーラたちに給金を送るためのもので、これによっていつでも好きなときに現金を引き出すことができる。平太はATMみたいだなと思った。
「とうとうこの日が来たね」
屋敷の前に立つドーラが、感慨深げにつぶやく。
朝から清掃や引き取りの業者と大工が入れ代わり立ち代わりで出入りし、感傷に浸るヒマさえなかったが、それでもこうしていざ屋敷との別れを目前にすると、言い得ぬ寂しさがある。わずか数ヶ月過ごした平太でさえそうなのだから、それより長い年月をこの屋敷で過ごしたドーラたちの寂寥感はいかほどであろうか。
ここが地球なら携帯のカメラで写真の一枚でも撮っておくのだが、生憎そんなものはないのでとりあえず平太は屋敷に向かって深く頭を下げて礼をした。
ドーラたち三人は屋敷の姿を壁のシミのひとつまで漏らさず記憶と網膜に焼き付ける気なのか、ただじっと黙って見つめ続けた。
いつまでそうしているつもりだろうと思っていると、やおらドーラたちが振り返る。
「別に二度と戻って来れないわけじゃないんだ。感傷もほどほどにしないと、せっかくの門出が湿っぽくなっちゃうよ」
「そうですね。今度戻って来るときは魔王を倒した英雄として王都を凱旋ですね」
「そしたら褒賞金でもっと立派な屋敷が買えるな」
三人は口々に次に住む家は部屋が広いのがいいやら収納が多いのがいいやら、自分たちの理想を語り出す。
「だったらわたしは、お台所がもっと広くて使いやすい家がいいです」
未来の話に夢が膨らみ、シズが楽しそうに加わる。今の流しはドーラに合わせてちょっと低かったから今度のはもう少し高いのがいいとか、お風呂も大きいのがいいしこれからは頻繁に湯を張りたいし入る回数も増やしたいとか。
「すべては、魔王を倒してからだな」
「そうだね」
「それまでは着の身着のまま放浪の旅ですか……まあそれも悪くはないですね」
「わたし、皆さんと一緒ならどこだって平気です」
いつの間にか女子で固まってしまい、平太はすっかり入るタイミングを失う。夢のマイホームをテーマに、女子トークはしばらく続いた。
「それで、やっぱり目指すは北の魔王城か?」
ようやく女子トークも一段落し、出発と相成ったタイミングを見計らって平太がドーラに尋ねる。
「うん。途中で情報を収集しつつ、最短距離で目指すよ」
「最短距離って……途中でザコや中ボスを倒して経験を積んだり、伝説の武具やアイテムを探しにダンジョンに入ったりしないのかよ?」
平太がRPG感覚で発言すると、ドーラは彼が冗談を言っていると思ったのか、軽く笑いながら言った。
「まさか? そんな都合のいい物があるんなら最初っからそれを探してるし、目的が魔王討伐って決まってるのに寄り道してどうするんだよ」
あははは、と笑うドーラに、平太は「だ、だよねー」と乾いた笑いしか出なかった。あと少し泣きそうだった。
「ここから南に十日ほど行くとオブリートゥスという港町があるんだ。フリーギド大陸にはそこから船で行くよ」
「いきなり海路かよ?」
「だから言ったじゃない。最短距離で行くって」
確かに言った。だからと言っていきなり陸路を捨てて海路とは、浪漫もへったくれもない話である。
この分だとフリーギド大陸に渡った後も、脇目もふらずに魔王の所まで一直線に行くことになりそうだ。寄り道がしたいわけじゃないし、これが現実であり世界の命運の一部を背負っているのは自覚しているが、やはり納得できないものがある。
だが旅の行程よりも心配なのは、果たしてこの面子で魔王に勝てるのだろうか、という根本的なものである。
ゲームみたいに戦闘をこなして経験値を稼ぐというわけにはいかないが、それでもリスクを承知であと何回かこの面子での戦闘を経験しておいた方が良いのではないだろうか。
たしかにシャイナの戦士としての強さや、ドーラの魔法使いとしての能力は以前エーンの村で見たが、果たしてそれが魔王や魔族にどこまで通用するのだろうか。
スィーネだってそれなりに強いし、彼女の治癒魔法はとても心強い。シズだって非戦闘員ではあるが、彼女の持つ特殊能力は使いようによっては魔法なみに役に立つことだろう。
それでもやはり不安である。
何よりも、平太自身が自分の強さに自信が持てないのだ。
カニ程度には勝てるが、それ以上となるとどうだろう。
ヒトの形をした魔物はどうだ。
ヒトには、
勝てるのだろうか。
レベルやステータスなどの表示がないことが、これほど不安になるとは。
攻略本もネットの情報もやり込み動画も何もない異世界でのこの「現実」は、これまで過保護なまでの情報量に包まれていた平太には恐怖でしかなかった。
旅に出るのに、この装備で大丈夫なのか。不安になりだしたらキリがない。
夜の海原に放り込まれたような、漆黒の未知に周囲を取り囲まれ、平太が不安に押し潰されそうになっていると、
「なんだ、ビビってんのか?」
見透かされたようにシャイナに肩を叩かれた。
「び、ビビってねーよ」
平太は思わず強がって否定する。あまりのあからさま加減に、シャイナはここぞとばかりにからんで来るだろうと思いきや、
「そうか。あたしはちょっとビビってるよ」
意外なことをぶっちゃけてきた。
「え…………?」
反射的にシャイナの顔を見ると、彼女は照れるようについっと顔を逸らした。そして小声で平太にだけ聞こえるように、まるで独り言のように空中に向かってつぶやく。
「カニの親玉みたいなのから逃げ回ってたとき、すげえ悔しかったんだ。どんなに鍛えても、一人じゃザコより上の魔物には勝てねえのかよって。あたしはこれまで戦士としての腕前は、そんじょそこらの男なんかよりよっぽど上だと息巻いていた。けどそれは相手も人間だからだ。愕然としたぜ、ヒトと魔物だとこうも勝負にならないなんてな。おまけにあの大蟹以上の魔物がこの世界にはうじゃうじゃいる。そんな奴らの親玉を殺ろうってんだ。ビビらねえ方がどうかしてるってもんだ」
あの無敵の戦士シャイナが弱音を吐いている。嘘みたいな光景に、平太は何も言えずにその場に立ち尽くす。
「お前が戻ってきたあのとき、正直こっちの努力を無駄にしやがってって先にお前をぶっ殺してやろうかと思ったよ。けどお前はあれよあれよという間にあの状況をひっくり返した。正直魔法か何かだと思ったし、あたしにできなかったことをやってのけたお前に嫉妬すらしたよ」
シャイナが自分に嫉妬――考えたこともなかった言葉に、平太は思わずどきりとする。だって、強さにいつも嫉妬していたのは自分の方だったから。
「けどな、そこで改めて気づかされたよ。人間、一人でできることなんてたかが知れてるってな。あたしにできないことは、誰かがやればいい。その代わり、誰かができないことであたしにできることがあればやってやる。仲間ってのは、そうやってお互いの穴を埋め合って何とかやっていくもんなんだって」
「仲間……」
「そう。だから、あたし一人じゃとても魔王なんかとタイマン張る度胸はねえが、ドーラやスィーネ、それにシズ、」
そこでシャイナは言葉を一度止め、ちらりと平太の方を見る。そして少しだけ言いたくなさそうに、
「ついでにお前を含めたこの仲間と一緒なら、何とかなるんじゃないかって思ってる」
ついでだけど自分が仲間に入っている。シャイナがついでだけど自分を仲間と認めてくれていることが嬉しくて、けれど面と向かって言われると恥ずかしくて、平太は照れ隠しにシャイナの言葉の揚げ足を取る。
「それでも、ちょっとビビってるんだな」
「バーカ、一人だったらビビって立てもしねーよ。仲間がいるから、ちょっとで済んでるんだろーが」
怒るかと思ったが、シャイナはそう言って照れ臭そうに笑うと、平太の胸を拳で軽く小突いた。
見惚れるような笑顔だった。
平太が呆然と見ていると、その視線に気づいたのか、シャイナは「チッ、くせーこと言っちまったぜ……」と頭をばりばりと乱暴に掻く。
長い赤毛を乱雑に揺らし、シャイナが背を向けて歩き出す。
が、すぐに何かを思い出したのか、くるりと向き直ってこちらにずんずん歩いて来ると、いきなり物凄い力で平太にヘッドロックをかまし、
「言っとくが、あたし一人がビビってるなんて思うなよ? 絶対ドーラもスィーネも心ん中じゃビビってるに決まってるからな。だいたいお前だって本当はビビってただろ? だからさっきの話は絶対誰にもするなよ。特にスィーネに言ったらお前を殺す」
恫喝とか恐喝にしか思えない念の推し方をしてきた。やだ怖い。そして痛い。
「わかったか? わかったら返事は?」
「……はい、死んでも他言しません」
「――よし」
強引に約束を取り付けると、シャイナは満足したのかヘッドロックを外し、投げ捨てるようにして平太を解放した。
「いいか、絶対だぞ!」
指を突きつけて最後にもうひと押しすると、シャイナはのしのしとドーラたちのもとへ歩いて行った。
「やれやれ……恥ずかしいなら言うなよ……」
首をぐりぐり回してほぐしながら、平太はシャイナの背中を目で追う。
「……あいつなりに、気を遣ってくれたんだろうな」
旅立ちの前は誰しも弱気になる。それが生きて帰れるかどうかもわからない魔王討伐の旅ともなればなおさらだ。シャイナはそんな平太を見るに見かねて、恥ずかしい語りまでして励ましてくれたのだろう。
たぶん。
「しゃーない。気合入れるか」
両手で顔をぴしゃりと叩いて活を入れると、平太はシャイナたちの後を追いかけた。
旅が、始まった。
ドーラたちは屋敷を後にし、一路南へ向かった。
街道を使っての旅は順調で、ドーラの言った通り十日目の朝には風が潮の匂いを運んできて、昼を過ぎる頃には海が見えてきた。
やがて空には海鳥が飛び、道の向こうに港が顔をのぞかせる。多くの船が停留して荷の積み下ろしをしていたり、これから遥か遠くの別の大陸まで航海に出ようとしている船がいくつも見えた。
「わあ……お船がいっぱいですう」
海や船が珍しいのか、山育ちのシズが楽しそうにはしゃぐ。そう言えば、ワドゥーム海岸ではあまりテンションが上がってなかったが、あそこは遠浅で巨大な水たまりみたいなものだったからだろうか。
船は何十人も乗せられる大型帆船から、個人で釣りをするような手漕ぎのものまで大小様々だった。
シズが今まさに港を出ていこうとする帆船に大きく手を振ると、甲板に立っていた子供がこちらに気づき嬉しそうに手を振り返してくれた。
「ヘイタ様、ほらほら、あの子。こっちに手を振ってくれてますよ。ほら」
「うんうん、わかってる。見えてるよ」
シズは平太の肩に片手をついて、遠くの船にいる人々に少しでも自分が手を振っているのを見せようと懸命に伸び上がる。
あまりに必死に手を振るので、バランスを崩して馬から落ちそうになり、慌てて平太の服にしがみついた。
「す、すいません……」
「おいおい、大丈夫かよ? 落ちてケガとかしないでくれよ? まだ旅は始まったばかりなんだから」
「はい……気をつけます」
そう言うとシズは急に大人しくなり、鞍に座り直すと平太の腰に両腕を回し、背中に抱きついた。
「ふぉ………………………………」
柔らかい。何だこの夢のような感触は。
平太は全神経を背中に集中し、この天使のほっぺたのような感触の情報を収集する。
それと同時に脳内検索エンジンをフル稼働させ、これまで生きてきた経験の中から、現実非現実を問わずこの感触の正体に適合する情報を検索する。
おっぱい。
この間わずか1秒である。
いや、検索するまでもなかったかもしれない。何しろシズはシャイナに次ぐ胸の持ち主である。それはつまり爆ないし超、少なく見積もっても巨なのである。それが馬に二人乗り。この条件を公式に当てはめれば、答えはおのずと出てくるというもの。
すなわち今平太の背中に当たっているものは――
待て。ここで平太は動物的本能で危険を感じ、緩みかけた顔を瞬時に引き締める。
こんなところを誰かに見られでもしたら、まるで自分がシズと密着したいがために彼女を後ろに乗せていると勘違いされてしまうではないか。
それはいかん。断じてそんな下心でシズを後ろに乗せているのではない。だってこんな素敵ハプニングがあるだなんて知らなかったし、知ったのついさっきだし。
知ってたらもっと早く色々してたし。
違う、そうじゃない。平太は頭を振って考えを打ち消す。
それにしても、何ということだろう。
まさか十日目にして二人乗りの弊害というか、役得というか、嬉し恥ずかしいハプニングが起こるとは。
そこで平太はその原因に思い当たる。
何のことはない。これまではカニでできた鎧をつけていたからだ。こんなにゴツゴツしてあちこちに大小のトゲがあれば、抱きつこうにもトゲが邪魔でできやしない。
しかし今は町も見えたということで、シャイナと交代で鎧を脱いで荷物の後ろにくくりつけ換気させ、中にこもった湿気を乾燥させているところだ。なので平服の布は鎧に比べればとても薄く、少しの感触も敏感に察知できる。
つまり、十日も鎧のせいでみすみすチャンスを棒に振っていたことになる。おのれ。平太は皮が破れて血がにじみ出るほど唇を噛む。
そもそも旅の間はどんな危険があるかわからないから、鎧は常時身につけていなければならない。今はたまたま脱いでいるが、この先こういう機会がそう頻繁にあるとは限らない。いやむしろ今のこの瞬間がイレギュラーであって、この先再びこのような機会が訪れるという保証はどこにもない。
ならば、このチャンスを逃すわけにはいかない。馬の揺れに合わせて背中を動かし、さらに多種多様な感触を味わおうではないか。
馬鹿野郎。そんな電車の揺れに合わせて合法的に痴漢を働くオッサンみたいな真似はやめるんだ――平太の理性が欲望に待ったをかける。
が、おっぱいへの欲望の前に理性は呆気なく敗退した。仕方がない。それが男というものである。
このままでは若い欲望を剥き出しにした平太の魔の手がシズを襲う。そして野獣と化した平太の勢いは留まることを知らず、シズだけでは飽き足らずシャイナやドーラ、スィーネを次々と手にかけてしまうだろう。信じていた勇者に裏切られ、ドーラたちは悲しみのあまり魔王討伐を諦め、世界のすべてに絶望したかのように辺鄙な田舎に引っ込んで余生を過ごしこの物語は終了する。
だがそうはならなかった。
そんな欲望にまみれた平太の心身を制御したのは、意外にも本能であった。
ただしそれは痛みへの恐怖という、生物の根源のようなものだった。
それは、スィーネがかつて平太に施した、性欲抑制の呪い――もとい、教会に伝わる秘伝の性欲抑制法である。
その効果は覿面で、あれ以来平太が性欲を持て余す状況になると、フラッシュバックのように恐怖が蘇り性欲を駆逐するようになった。
恐るべきは痛みへの本能。人間の三大欲求のひとつ性欲を凌駕するとは、いったいどれほどの痛みを受ければそうなるのだろうか。
とはいえ、女だらけのパーティに男が一人入り込む以上、この問題は避けては通れないものである。なのでわりと早い段階で平太が欲望を抑え込むことができるようになったのは僥倖と言えるのではないだろうか。
まあ、人はそれを条件反射というし、男としてそれはどうかと思わなくもないが、それはさておき無事平静を取り戻した平太は、何事もなかったように馬を歩かせた。
まさかほんのわずかの間に平太がこのような葛藤をしていたとは知る由もなく、一行は無事港町オブリートゥスに入った。




