たとえその一歩は小さくとも
◆ ◆
エーンの村から帰還して数日が過ぎた。
「ごちそうさま……」
ほとんど手をつけていない朝食をテーブルに残し、ドーラは食堂を出て自室へと戻る。
「ドーラさん、あれからほとんど食べてませんね」
ドーラの食器を片づけながら、シズが寂しそうに言う。
あれから――というのは、もちろんエーンの村での出来事のことだ。屋敷に帰る道中でも、ドーラはほとんど食事を口にしていない。それどころか夜もろくに眠れていないようで、顔色はすこぶる悪く病人さながらだった。
食事も睡眠もとらず身体は弱る一方で、唯一の救いはドーラがあれから王宮に行かず仕事を休んでいることだった。だがそれは他に何もしたくないと、心身ともに疲れ切った証拠でもあるのだが。
「このままでは本当に身体を壊してしまいます……」
「そうだな……。だが俺たちに何がしてやれるのか」
平太とシズは同時にため息をつく。シズはせめてドーラが食事をしてくれれば、何か滋養のある物を作ることで助力できるのだが、平太に至っては何ができるでもなし、ただただ無力感だけが募る。
何もできないのならば、せめて何かできそうな奴の手伝いでもしよう。そう思って平太はまずシャイナの方を見やる。
しかしシャイナも平太と同じ無力感に苛まれているのか、厳しい表情で黙々と朝食を食べている。
「……なに見てんだよ?」
挙句の果てにはヤンキーみたいな因縁をつけられた。条件反射で財布を差し出しそうになる。
「いや、その、ドーラのことなんだが……」
気を取り直して話を切り出すが、シャイナは遠い世界の果ての話をされたような諦観した目をしてぽつりと言った。
「ほっとけほっとけ。あいつがああやって落ち込むのはいつものことさ。どうせ時間が何とかしてくれる」
あまりにも意外なひと言に、平太は我が耳を疑った。
「ほっとくわけにもいかないだろ。ほら、シャイナは俺なんかよりよっぽど付き合いが長いんだから、何か――」
「付き合いが長い、か……」
はあ、とシャイナはため息にも似た息を吐く。テーブルに自分の先割れスプーンを置くと椅子から立ち上がり、
「あたしとドーラはそんなんじゃないよ」
小さくそう言い残すと、シャイナは食堂を出て行ってしまった。
「どういう意味でしょう?」
「さあ……?」
シズと平太がきょとんとしている様を、スィーネは食後のお茶を注いだカップの淵越しに見ていた。
昼食、夕食とドーラは一応食堂には出てくるのだが、相変わらず食事にはほとんど手をつけない。
ぼんやりとしながら先割れスプーンで料理をつつき回し、二三口食べるとため息とともにスプーンを置いて席を立つ。
そんなドーラの姿を平太が目で追っていると、
「ドーラのことが気になりますか?」
珍しいことにスィーネが話しかけてきた。
「そりゃあの落ち込みようだ。気にならない方がどうかしてるだろ」
平太の答えに、スィーネは「なるほど」と頷く。その淡々とした口調が、平太は気に食わなかった。
「あんたはどうなんだ? ドーラのことが気にならないのか?」
「わたしですか? もちろん気になりますよ。ですが、」
「何だよ?」
「あの子の悩みはあの子の問題です。他人がとやかく言うのは筋違いというもの。それにあの子ももう子供ではありません。どうしようもなくなったら、自分からわたしたちに相談してくるでしょう。それまで見守ってあげるのが、優しさというものではないでしょうか」
言ってることは至極まっとうだが、平太はスィーネの言葉に血の通った温もりのようなものを感じられない。本当にこいつは仲間なのだろうかという疑いさえ湧いてくる。それとも、女同士の友情というのはこういうものなのだろうか。
平太の胡乱な視線に気づいたのか、スィーネはさらに言葉を連ねる。
「理解はできるが納得はいかない、といった顔ですね。わたしも別に貴方に納得していただこうという気は毛頭ありません」
ですが、とスィーネは平太の眼前に握り拳を突きつける。
「貴方とドーラでは根本的に三つ、違います」
まず一つ、とスィーネは人差し指を立てる。
「貴方はこの世界の人間ではありません」
そして二つ、と続いて中指も立てる。
「貴方は男性です。殿方と女では、考え方から価値観から何もかも違います」
最後に三つ、と薬指を立てる。
「貴方は人間です」
最後の一つが強烈だった。
「わたしやシャイナでさえ、亜人のあの子の苦しみをすべて理解することは無理です。ましてや貴方では到底不可能というもの。世界が、性別が、種族が、何もかもが違いすぎます。そんな貴方があの子の何をわかってあげようというのですか」
「……それでも、話ぐらい聞いてやりたいじゃないか。たとえ少しもわからないとしても」
「たしかに、人に話せば多少は楽になるでしょう。ですがそれだけです。何もわからない貴方に、的確な助言ができますか?」
平太は言葉に詰まる。コミュ症の自分に悩み相談なんて無理だ。荷が勝ち過ぎている。そもそも人生に行き詰まっているのは平太の方なのに、他人の相談にアドバイスできるわけがない。
「ならば黙っていてください。自己満足のためだけに無闇にあの子の悩みを掘り起こし、手に負えないとわかったら当たり障りのないおためごかしを言ってその場を離れるような真似をするくらいなら、最初から何もせず黙っていてくれた方が万倍もマシです」
そして最後にスィーネは言った。
「もうこれ以上あの子を苦しめないでください」
言い終えるとスィーネは席を立ち、彼女には珍しく床を踏み鳴らして食堂から出て行った。
「ヘイタ様……」
スィーネの静かな迫力に圧倒されて何も言えなかったシズが、同じく何も言い返せなかった平太を案じて声をかける。
が、彼女の声は平太には届かない。
平太は普段冷静なスィーネが声を荒らげる姿に度肝を抜かれつつも、彼女の言葉を噛み締めてはその通りだったことにさらなる無力感を募らせていた。
食堂の扉が激しい音を立てて開くと、別人かと思うほど乱暴な足取りでスィーネが歩いてくる。
短くそろえられた金髪が歩くたびに雑に揺れ、白い顔に珍しく朱がさしている。よほど頭にくることがあったようだ。
シャイナは壁に背を預けながら、こちらに向かってずんずん歩いてくるスィーネを観察する。
スィーネは目の前に立っているシャイナに気づくと、彼女の足取りがさらに加速する。
そのまま突進するのかと思うような勢いでシャイナに歩み寄ると、
「貴方もいつまでも過去を引きずるのはおやめなさい」
決然と言い放つスィーネに、シャイナは自嘲するように笑う。
「そりゃお前もだろ」
双方無言で睨み合う。
剣呑な沈黙を先に破ったのはスィーネだった。
ふん、と拗ねたように鼻を鳴らし、スィーネは再び足音高くその場を離れる。
シャイナはその背を見送りつつ、もう一度にやりと笑う。
今度は自嘲ではなかった。
翌朝。ドーラはまた朝食を残した。
ふらふらと夢遊病者の如き足取りで自室に戻る姿に、食堂の空気がさらに重くなる。
しばらく無言の食事が続き、やがてスィーネが席を立った。
スィーネの姿が完全に食堂から消えるのを見計らったように、シャイナが平太に話しかける。
「おい、」
「ん?」
「お前、今日ちょっとつき合えよ」
「やだよ」
シャイナの口から発せられた『つき合え』、という言葉の響きが気持ち悪くて思わず即答してしまった。「ゴメン今のウソ」、と言う前に殴られた。
「何で即答なんだよ。ぶっ飛ばすぞ」
「そういうのは殴る前に言うんだよ……」
「お前、ドーラのこと気にかけてたよな?」
「はあ? まあ、そりゃ心配するだろ」
「それで昨日スィーネとやりあったんだって?」
「やりあったって……別にケンカしたわけじゃないよ」
ただ一方的に正論を叩きつけられ、ぐうの音も出なかっただけである。世間ではあれをケンカとは言わず、論破と言う。
「まあアイツは頭がっちがちに固いからなあ。あたしもたまにコイツ本当に血の通った生き物なのかって思うときあるけど、」
そこでシャイナは軽口を叩いていたときとは表情をがらっと変えて、睨むような鋭さで平太を見る。
「だがな、アイツは冷たい奴じゃねえ。そこんとこだけは勘違いしてやってくれるなよ」
そう言うとシャイナは再び表情を崩し、あっけらかんとした感じで平太の頭をぽんぽんと叩く。
「ま、あたしが言っても信じないだろうから、証拠を見せてやろうって話さ」
「だったら最初からそう言えよ……」
ようやく話が見えてきた。平太は馴れ馴れしく頭を叩き続けるシャイナの手を払いのける。
「けど、それとドーラの話がどうつながるんだよ?」
「それはお前、見てからのお楽しみってやつさ」
シャイナはこちらの様子をじっとうかがっていたシズを手招きし、彼女もこの話に誘い入れる。
「よし、話は決まりだ。お前ら、まずはスィーネが出かけるまで待つぞ」
平太はまだ何か言おうとしたが、シャイナの何か企んでいる感ありありの笑顔に、これ以上突っ込んでも無駄だと悟った。
それにシャイナの言う通りならば、彼女の話に乗ればスィーネに対する誤解が解けるのみならず、ドーラを元気づけることができるかもしれない。
それだけでも、この話に乗る価値はあると思った。
「遅いな……」
スィーネが出かけてたっぷり三十分は時間を置いて、平太は集合場所の厩へとやってきた。
だがそこで待っていたのはすでに馬に化けたシズだけで、シャイナの姿は見えなかった。
「まさか、今になって何も考えてないってんじゃないだろうな……」
さもありなん、という感じでシズが相槌の代わりにぶるる、と鼻を鳴らす。
「わりーわりー、ちょっと遅くなった」
悪びれもなく楽しそうに走ってくるシャイナに、平太は先行きの不安が濃くなる。
「お前言い出しっぺが時間に遅れるなよ」
「だからわりーって謝ってんじゃん。男なら細かいこと気にすんなっつーの」
「それより何してたんだよ?」
「あ? 仕込みだよ、仕込み」
「仕込み?」
「ああ、仕込みは上々。後は仕上げを御覧じろってね。それよりとっとと行こうぜ、日が暮れちまうぜ」
「暮れねーよ。あと遅れたのはお前だからな」
平太の文句が聞こえているのかいないのか、シャイナは「わーったわーった」と言いながら厩から自分の馬を引いてくる。妙にテンションの高いシャイナにうんざりしつつ、平太は前を走るシャイナの後ろを追いかけた。
馬を走らせること一時間。一行が着いた所は、毎度お馴染み王都オリウルプス。
門が見えた辺りで平太は馬から降り、物陰でシズが元の姿に戻る。持参した服に着替えて出てくると、どこからどう見ても町娘である。
そしてシャイナがシズを後ろに乗せて、平太が徒歩でついていく。三人そろって王都の中に入ると、いつぞやの門番がこちらを見て愛想よく手を振ってきた。
シャイナに向かってかと思ったら、どうやら目当てはシズらしい。工事現場でアルバイトをする平太を送り迎えしている間に、顔見知りになったようだ。
シャイナが自分の馬を馬繋場に預けて戻って来ると、
「よし、そろそろいい頃合いだ」
などと意味不明なことを言って、またもや先頭に立って歩き出した。もはや説明を求める気力もなくなり、平太は黙ってついていく。
入り口から広がる大通りに入り、市に集まる人通りを縫うように歩き、シャイナは平民街の奥へ奥へと歩いて行く。
何度か王都に来ているとはいえ、いつも行くのはデギースの店ばかりだったので、平太は市より先に行くのは初めてだった。
当然シズも初めてのようで、好奇心よりも今は不安の方が勝っているのかいつの間にか平太の腕をつかんでいた。
「おい、どこまで行くんだよ?」
シズの不安が伝染したのか、平太も心細くなる。とにかく目的地が知りたくて先を歩くシャイナに尋ねるが、何度聞いても「もーすぐもーすぐ」の一点張りだった。
知らない道を歩くだけでも心許ないのに、このまま歩けば道はやがて平民街を出る。そうなれば碌な許可証を持ってない平太たちなど、たちまちのうちに官憲に御用となってしまうだろう。
この世界で逮捕されるとどうなるのだろう。漫画みたいに逆さに磔られた挙句水の中に沈められたり、トゲつきの鞭がいっぱい束になった拷問器具で全身の皮が剥がれるまで打たれたりするのだろうか。
平太が自分の想像でタマを縮めていると、
「よし、着いたぜ」
前方のシャイナが立ち止まった。
「へ……?」
平民街と上層階の境界付近に建つその建物は、ぱっと見は普通の洋館のように見えた。
母屋と思われる建物の屋根には、まるで角のように飾りが生えている。恐らく太陽をかたどったものに棒が刺さったようなデザインは、何となく宗教的な象徴に見えた。
「ここは、教会?」
シズのつぶやきに、平太は自分の直感が当たっていたことを知る。
「教会ってことは、」
「おう、スィーネの職場だ」
自信満々に無駄にデカい胸を張って答えるが、彼女の勤める教会に来て一体何をするというのだろう。
「それはこれからわかるんだよ。それよりここじゃまずい。裏に回るぞ」
言うなりシャイナは足早に歩き出す。ここまで来たらもう最後までつき合うしかないと腹を決め、平太もシズもシャイナの後を追って教会の壁伝いに歩く。
「ここならいいだろう」
教会の裏手に回ると、表の通りに面した所より壁が低く、また庭木も手入れが行き届いていない箇所が多く、変な言い方をすれば中を覗き見るのに絶好なポジションがあった。
「頭低くしろよ。見つかるぞ」
変な言い方と言ったが、どうやらシャイナの目的はそのものズバリ覗き見だったようで、妙に慣れた感じで平太とシズの指揮をとった。
シャイナに言われるがままに頭を低くし、壁に貼りつくようにしてそっと中を覗き見る。
すると、教会の中――裏庭だろうか、そこには十人ほどの子供たちが楽しそうに遊んでいた。
子供たちは年齢も男女もばらばらだが、皆楽しそうに仲良く遊んでいる。その周囲で子供たちが遊んでいるのをスィーネと、彼女と同じ装束を着た二人の女性が見守っていた。
「これは……」
「どうして教会に子供たちが?」
平太とシズは疑問だらけになる。
どうしてシャイナがスィーネのいる教会にわざわざ連れて来たのか。そしてどうして教会の裏庭にこんなに子供たちがいるのか。
だが、それよりも平太の関心を引いたのは、スィーネだった。
子供のひとりが走って転んだのを、スィーネが優しく抱き起こす。その表情は、平太がこれまで見たどの彼女のものよりも優しく暖かく、
まるで、母親のようだった。
「……あいつ、あんな顔もするんだ」
初めて見たスィーネの柔らかい表情に、平太はぽろりとつぶやく。その隣で、シズが頬を膨らませているとも知らずに。
思いもかけぬ光景に、平太とシズが身を隠すことも忘れて覗いていると、
「あれ? スィーネがいない」
「どこへ行ったんでしょう?」
「そこで何をしているのですか」
見失ったと思ったスィーネに、背後から声をかけられた。
「うわぁっ!?」
「きゃあっ!?」
平太とシズがシンクロするように恐る恐る振り返ると、スィーネが少し呆れたような顔をして立っていた。
「うわ、もう見つかっちまった」
「シャイナ、貴方ですか。二人を連れて来たのは? まったく、妙な視線を感じると思ったら……」
「へへへ、まあそうカッカするなよ」
文句の矛先が自分の方に向くが、やはりシャイナはのらりくらりとかわす。シャイナには何を言っても無駄だとわかっているのか、すぐにスィーネはため息をひとつつくと、
「とにかく、中へ入っていらっしゃい。そんなところで覗いているのを誰かに見られでもしたら、話が余計にややこしくなります」
半ば諦めの混じった声で言った。
スィーネのお許しが出たので、平太たちは正門から堂々と入って裏庭まで回って来た。
その間スィーネは上司や同僚に手を回してくれたようで、まったくの部外者がずかずか入ってきてもお咎め無しだった。
意外なことに、子供たちに一番人気があったのはシャイナだった。みな身体の大きな彼女に最初は怯えがちだったが、シャイナが文字通り子供のような笑顔を一発かまして、「おっし、お前ら何して遊ぶ?」と地面にどっかりと腰を落とすと、それまで及び腰だった子供たちが魔法のように集まってきた。
力余って子供にケガでもさせるのではないかと平太は危ぶんだが、それこそ無駄な心配だったようで、シャイナの子供の扱いは平太なんかよりよっぽど慣れたものだった。
「精神年齢が近いからかねえ……」
不思議そうに平太がシャイナを眺めていると、
「シャイナの家は兄弟が多くて、いつも下の子の面倒を見ていたそうですよ」
なるほど、と平太は納得すると同時に、初めてシャイナのプライベートな情報を聞いたことに驚いた。
「それより、どうして教会の裏にこんなに子供たちがいるんだ?」
「ここは孤児院兼託児所です」
そこでスィーネは一度言葉を止め、
「いえ、違いますね。正確にはわたしが無理を言って教会の一部を使わせてもらってるだけなのですが」
それまでの温かい表情が嘘のように、現実にうんざりしたような顔で言った。
「ということは、あの子たちはスィーネが預かってるようなものなのか」
「そうですね。けどあの子たちの大半は、近所の子供たちです。親が店や仕事をしている間、教会で預かっているのです」
「じゃあ孤児の子は――」
「両親が事故や魔物に襲われて亡くなった子が三人」
そこでようやく平太は子供たちの中に、ドーラやデギースと似たような容姿の子供がいることに気がついた。
「あ、」
「お気づきになりましたか」
平太の反応を察し、スィーネが説明を始める。
「ご覧になられたように、あの子たちは亜人です。我が教会では様々な理由で孤児となってしまった亜人の子供を、今は三人世話しております」
様々な理由、教会でのスィーネの立場、経済的負担、色々な現実問題が平太の脳裏に浮かんでは、言葉にするのが躊躇われて喉の奥でもみ消される。
どうにか言葉にできて口をついたのは、
「……いいのか?」
それだけだった。
「良いのです」
即答だった。
「わたしたちが神の下に等しく、太陽の光が皆に平等に降り注ぐように、人も亜人もすべて平等であるべきなのです」
それに、とスィーネは少しだけ目元を緩めて、
「子供たちには関係ありません」
人間も亜人も男女すら関係なく、仲良く遊んでいる子供たちを見ながら言った。
「そうだな」
素直にそう言えた。本当にその通りだった。
恐らくスィーネは、この教会の中で亜人差別撤廃の草の根活動をしているのだろう。
小さな子供のうちから教育していけば、大人になって少なくとも無知や偏見による差別はなくなるだろうと。
そして子供たちがやがて親となり、その子供に同じように教えていく。そうやっていずれはこの国から、この世界から差別や偏見や確執を取り除こうとしている。
なんと気の長い話であろう。
だが、それぐらいしか方法はないのかもしれない。
平太の世界にも、悲しいかな差別や偏見は存在する。
相手に対する無知によるもの。偏見によるもの。歴史の中で生まれた確執によるもの。挙句には教育によって植えつけられたものまである。
差別はなくならない。
平太はこの現実を当然のように受け入れ、諦めていた。
だがスィーネはなくそうとしている。
きっと、
「ドーラのためか?」
唐突な質問に、スィーネは少しの間平太の言葉の意味を計りかねたように沈黙する。
「ドーラは昔から純粋な子でした。それに正義感も強く、誰よりもこの世界の理不尽さと戦ってきました」
「昔から知ってるのか」
「幼馴染ですから」
「そうか」
そのひと言で、何となく彼女たち三人の人間関係のようなものがはっきりしてきた。
シャイナの言葉の意味も。
「あの子は亜人でありながら、人間を信じる稀有な子でした。魔法使いになったのも、世のため人のためという、」
本当に、純真な子――スィーネの顔や言葉には、友人を誇っているのと同時に、悲しみのようなものが含まれていた。
ドーラが今の地位に至るまでに、どれほどの苦難とそれを退けるための努力をしたのだろう。
どれだけの痛みに耐え、涙を流してきたのだろう。
いくつもの差別に打ち負かされ、その小さな身体を悲しみに震わせてきたのだろう。
「世界は残酷です。いえ、人が残酷だと言ってもいいでしょう。ドーラはいつも世界に、人に傷つけられては、自分が何のために戦っているのか、誰のために戦っているのかを見失いそうになって悩むのです。そんな残酷な世界や人など、放っておけば良いものを」
神官が決して口にしてはならないような問題発言を、スィーネはさらっと言ってのける。この世界や人を創ったのが神だというのなら、その神すら嫌うとでも言いたげである。
「それでも結局あの子は立ち上がる。また傷つくだけだというのに。だからわたしは、自分にできるやり方でこの残酷な世界を変えていこうと思ったのです」
「それでこの子たちを?」
「はい。ですがこれでは世界に大してあまりにもささやかで、海に小石を投げた程度でしょう。大きな変革をするには、それに相応する大きな力が必要です」
「そのための魔王討伐か」
スィーネは静かに肯く。
「魔王を討伐すれば、わたしのみならずドーラにも大きな力が手に入ります。権力という名の強大な力が」
そうなれば世界が変わると言いたげに、スィーネ言葉に力を込める。
けれど平太はそうは思えなかった。権力によって駆逐された差別は、いずれまた新たな差別を生むだろう。彼の世界がそうであるように。
たぶん、人が人と違うものを受け入れられるようになるのに必要なのは、力ではなく種としての成長や進化なのではないだろうか。
だがそれを今言っても詮無きことである。
誰にも証明できない問題を解き続けるようなものだ。
きっとこの世界でそれができるのは、神だけなのだろう。
ならば神がそれをしないのは――
やめておこう。
もしかすると、スィーネはとっくの昔にその答えにたどり着いているのかもしれない。それでもなお、彼女が自分の道を突き進むのなら、それはもう平太がどうこう言うものではない。
平太が思考の袋小路から抜け出したとき、
「ドーラ……っ!?」
突如現れたドーラに、スィーネが驚きの声を上げる。平太は初めて彼女の大声を聞いた。
「どうして……ここに……?」
まだ信じられないといったふうに、スィーネは両手で覆った口元から震える声を漏らす。
「うん、実はね、」
「あたしが呼んだんだよ」
さっきまで子供たちを持ち上げたり子供によじ登られたりして遊んでいたはずのシャイナが、いつのまにかドーラの横に並んで立っていた。
「シャイナ!?」
「ドーラに見せてやりたかったんだよ。世界は、人はそこまで残酷じゃないって。せめて自分の周りだけでも、優しさや思いやりがあるんだって」
シャイナは大きな手をドーラの頭に乗せ、わしわしと乱暴に撫でる。
今朝シャイナが遅れて来たのは、きっとドーラを説得していたのだろう。自分たちを尾行してこい、と。
シャイナは知っていたのだ。スィーネが陰ながらやっていることを。それがドーラのためだということを。
「スィーネ……」
ドーラはまだ戸惑っている。当然だろう。今の今まで知らなかったのだ。友人の思いや努力を。
シャイナが優しくドーラの背中を押す。
よろけるように前に歩み出るが、その足はすぐに止まってしまう。言葉を探して頭を巡らせるが、目が泳ぐだけで何も浮かばないようだ。
何も言葉が出ない中、子供たちの遊ぶ声が裏庭に響く。亜人の子が楽しそうに駆け回る。鬼ごっこでもしてるのだろうか。
そんな光景を見て、ようやくドーラが口を開いた。
「こんなことしてたんだ」
「……はい」
「ボクのため?」
「それは……」
全部聞かれていたであろうに、それでもはっきりと明言できないのは、隠れてやっていたことが後ろ暗かったからだろうか。
「ありがとう」
ドーラの言葉に、スィーネが息を呑む音がはっきりと聞こえた。
スィーネはその場に崩折れるように膝を着き、両手で顔を覆う。そこでとうとう我慢できずに嗚咽が漏れ出し、掌と顔の隙間から涙が止めどなくこぼれ落ちた。
声を殺してむせび泣くスィーネに、ドーラはゆっくりと近寄ると、
「もう、大丈夫だから」
そう言ってとてもとても大切そうに、スィーネの頭を抱きかかえた。
スィーネはさらに泣いた。
しかしその涙と泣き声は、ほとんどドーラの胸に染み込んでいった。
ぐすっと鼻をすする音に、平太は視線を動かす。するとシズがもらい泣きしていた。シャイナは空を見上げて男泣きしていた。
「友情って、いいものですね……」
鼻声のシズに、平太は「そうだな」と応えた。
もうドーラは大丈夫だろう。
世界とか亜人とか、きっと関係ない。
そんな大きなあやふやなものなんかのために戦わなくもいいと、彼女は気づいただろう。
彼女にはこんなにも思ってくれている友がいるのだから。
これからは、そのためだけに戦えばいいのだ。




