異世界の天井
◆ ◆
顔にかかる日差しの気配を感じ、平太は目を覚ました。
閉じたまぶたを突き抜ける日光の強さに、視界が白くぼやける。まだ光に慣れぬ目が眩しさに痛んで眉をひそめた。
「夢か……」
まだ目は開けず、大きく息を吐く。
やけにリアルな夢だった。
だがいくらリアルでも夢だとわかってしまえば、そしてそれがもう覚めたと知ってしまえばどうということはない。
またつまらない現実の生活が始まるだけだ。
改めて現実のつまらなさと地に足の着いた安心感を再確認したところで、どうせ仕事も学校もないので二度寝を決め込もうと毛布を頭まで引っ張り上げ、煩わしい日光を遮断する。
頭から被った毛布が作る暗黒の中で、まだ半分寝ぼけた平太の頭に疑問がよぎる。
ちょっと待て。自分の部屋の窓には分厚い遮光カーテンが閉じていて、もう何年も開けた記憶はない。
ではさっきの日差しは何だ。
誰かがカーテンを開けたのか。
家族か。
いや、家族はもう何年も、
平太に関心を持っていない。
今さら様子を見に部屋に入るなどありえない。
ようやく脳が活動し始め、目が状況を認識する。
この毛布は、寝床は、自分の部屋の使い慣れたものではない。
毛布を跳ね除ける。
知らない天井があった。
「どこだここは……っ!?」
驚愕とともに視線を周囲に走らせる。見知らぬ部屋、見知らぬ家具、何もかもが見たこともない物で埋め尽くされていた。
天井は高いが、照明はぶら下げられた燭台のみで、材質はよくわからないが大理石に似ていると思った。壁も同じ材質で、等間隔に燭台が打ち付けてあるが、今は日が出ていて用がないのか蝋燭の姿は見えない。
床は冷たい。寝台に腰かけたまま素足を下ろしてみると、ひたと皮膚に張り付く感触がして、その冷たさがまた現実味を無理やり突きつけてくる。
室内に装飾品のようなものは少ない。よく見れば用途の想像できる、タンスやテーブルのような物は見えるが、それ以外の不必要と思える物は目につかないので、この部屋は客室と言うよりは家人の寝室、あるいはただの空き部屋、もしくは何者かを監禁するための部屋、
監禁。その可能性の出現に、平太は慌てて自分の身体を確認する。外傷はない。少なくとも、意識のない間に何か危害を加えられた形跡は見当たらなかった。見知らぬ物に囲まれた不安な環境の中で、着ている服だけは着慣れた自分の小汚いグレーのスウェットだった事がわずかながら安心させる。
だがそれだけだ。
自分と、服以外はまったく見知らぬ世界。
これではまるで、
異世界――
「夢じゃ……なかったのかよ……」
実際に声に出してみても、まだ実感が湧かない。けれどこれはどうしようもなく現実で、平太がまずしなければならないことは、これが変えようもない厳然とした現実である事を認めることだった。
皮肉な事に、これまで現実から目をそらし続けてきた平太だからこそ、この現実とはほど遠い状況を素直に受け止める事ができた。
ある日突然異世界に召喚されたら何をするか。
この、中学生が授業中に考える、「今教室にテロリストが乱入してきたらどう戦う?」みたいなお決まりの妄想を、平太はこれまでずっとしてきた。
それをついに実行する日が来たのだ。
即座に思考を切り替えろ。何度も妄想し、試行錯誤して出した結論を行動に移せ。
まずは武器になる物を探す。それで戦う――のは無理だ。ケンカすら一度もした事がない自分に何ができる。
戦うのではない。とりあえず誰かを人質にして元の世界への帰還を要求する。できればあのネコ耳少女、ドーラと言ったか、彼女がベストだ。あの小柄な少女なら、平太でもどうにかできそうだ。
大まかだがプランが固まったのでさっそく行動に出る。寝台から静かに降りて床に這いつくばると、外から窓を通して見つからないように注意しながら部屋の中を探索する。
タンスの引き出しを開け、テーブルの上をあさり、とにかく使えそうな物を物色する。可能な限り素早く、そして静かに。
そうして調べられる所をすべてしらみ潰しに探したが、結局目ぼしい物は見つからなかった。
ここまで何も見つからないと、この部屋が監禁のための部屋だという可能性が高くなってくる。そもそも家具自体が少ないのだ。人が寝起きするための必要最低限、といった感じは監獄を連想させた。入ったことないけど。
しかしさすがに徒手空拳では心許ないにもほどがある。せめて相手を拘束するか、動きを封じる物があると行動の幅が広がるのだが。
そこで平太は自分の衣服を見る。
スウェットのズボンはもう何年も穿いて着潰してあって、ゴムなどとうの昔に伸びきってだるんだるんになっている。
が、それでも辛うじてずり落ちずに腰元に引っかかっているのは、胴回りの中に紐が通してあるからだ。その紐の端は蝶結びになってヘソの辺りにある。
平太はズボンの紐をほどき、引っぱり抜いた。ズボンはだるんだるんになってずり落ちやすくなったが、これで相手の動きを拘束する縄の代わりになるアイテムが手に入った。
脳内BGMがアイテムゲットの音楽を鳴らす傍ら、平太は紐の両端を両手に巻きつけ、何度か引っ張って強度を確かめる。
問題ない。これなら上手く使えば人ひとり拘束する事ができそうだ。
道具を入手した事による興奮のさ中、平太は誰かが近づいてくる気配を感じた。気配と言うか、隠そうともしない足音が近づいてくるのが聞こえた。
来た――
すぐさま扉のわきに背中を張りつけ、紐を構えて待ち伏せる。
思いがけぬ好機の到来に、平太の鼓動が早くなる。初めて行う人を拘束するという行為と、もしこの扉を開けて入ってくるのが男で、明らかに自分よりも強そうだったらどうしようという緊張感で、口から心臓が出そうなくらいドキドキする。
足音がどんどん近づいてくる。自分の鼓動と呼吸の音が、うるさいくらい大きく感じる。足の感覚がなくなり、立っているのか壁にもたれているのかわからなくなる。
足音が扉の前で止まる。いよいよだ。興奮と緊張で下腹部が締めつけられるように痛み、高所に立ったときのような不安定感に失禁しそうになる。
ゆっくりと扉が開き、
扉の隙間から、何の警戒もなくネコ耳のついた頭が部屋に入ってきた。
今だ、
ままよ、とネコ耳少女の背後から組みつこうと平太が腕を伸ばす。
が、その腕は少女に届く前に、何者かの手に掴まれていた。
「あれ?」
と思った時にはもの凄い力で腕を握られ、悲鳴が出るほどの痛みが襲ってきた。
「いでででででででででででででっ!」
ゴリラに腕を掴まれたような激痛に、平太はみっともないほど叫ぶ。振りほどこうと懸命にもがいても、指が肉に食い込むほど力を入れて掴まれた手は、わずかにずれもしない。
骨がみしみしと軋み、このまま握り潰されるのではと痛みの中で思った時、掴まれた腕をこれまたもの凄い力で引っ張られた。
腕を引かれた勢いに負け、よろめいた平太の顔面に、容赦のない拳が叩き込まれる。
「ぶへっ……!」
屠殺された豚みたいな声を上げて、平太は吹っ飛んだ。テーブルの上に倒れ込み、背中を強打する。
「ぐはっ!」
息が詰まり、口の中に血の味が広がる。鼻の奥から喉に流れ込む鼻血がさらに呼吸を困難にさせ、平太はむせた。
完全に出鼻をくじかれ、床に這いつくばる平太には、もうさっきの戦意や高揚感は微塵もなかった。今はただ痛みに負け、後悔と屈辱と行き場のない怒りと鼻血にまみれている。
「なんだコイツ、てんで弱っちいぞ」
突如始まった流血沙汰の展開についていけず、部屋の入り口で声もなく呆然と立ち尽くすドーラの背後から現れたのは、平太よりも長身で平太よりも体格のいい長い赤毛の女だった。
「しかもコイツ、ドーラに何かよからぬ事をしようとしてやがったし。ついぶっ飛ばしちまったけど、まあいいよな?」
「よくないよ! 今シャイナがぶっ飛ばしたのが勇者だよ! ボクが苦労して異世界から連れてきたってのに、いきなり殴り飛ばしてどうするのさ! もし今ので死んじゃったりしてたら、世界が終わっちゃうんだよ! 魔王より先に勇者を殺すのが、よりにもよってこれからいっしょに旅をする仲間だなんて笑い話にもなりやしないよ!」
「フン、あれくらいで死ぬようじゃ魔王討伐なんて到底できっこねえよ。わざわざ遠出する手間が省けたってもんだ」
赤毛の女――シャイナは、ひねくれたように鼻を鳴らして腕を組む。簡素な上衣の上からでもわかる豊かな胸が、筋骨たくましい腕に持ち上げられてさらに盛り上がる。
「それにしても……」
シャイナは切れ長の鋭い目を、まだ床に這いつくばって鼻血をだらだら流している平太に向ける。愛嬌があればさぞ美人であろうが、ひとたび冷たい表情をすると冷酷というのが相応しい顔になる。
「これが勇者ねえ……」
舌打ちをするシャイナの背後から、さらにもう一人が姿を現す。
「ドーラさんを疑うつもりは毛頭ありませんが、これはさすがに……人違いではないでしょうか?」
シャイナの次に、音も立てずに室内に入ってきたのは、日に当たったら死ぬのではないかと思うほど白い肌をした、短い金髪の女だった。
背丈はシャイナよりやや低く細身だが、背筋が真っ直ぐ伸びていて華奢という印象は受けない。肩で切り揃えられた金髪が真っ白な長衣に映え、どこか神々しさを感じる。
顔はシャイナとは違うタイプの美人だった。シャイナを野生の獣のような鋭さと例えるなら、彼女は冷たい氷のような鋭さがあった。極端な比べ方をすれば、野生児と優等生と言ったところか。
「スィーネもそう思うだろ」
スィーネと呼ばれた金髪の女は、長衣の尻から膝の裏にかけて両手で抑えながら、平太の前にしゃがみ込む。
「まあまあ、鼻が折れてるではないですか。まったくシャイナさんは手加減というものを知らない……」
ぶつぶつ言いながらもひと目でケガの具合を見定めると、スィーネは平太の折れた鼻に両手をかざす。
祈りを捧げるように小さくつぶやくと、スィーネの掌がぽうっと淡く輝きだした。平太はその光景に見とれ、折れた鼻の痛みが引いていくのに気がつかなかった。
「まだ修行中の身ですので完治には至りませんが、いくらか痛みは引いたでしょう。これに懲りたら、物陰から女性を襲うような卑劣な真似などせぬように」
「あ、ああ……ありがとう」
思わず平太は礼を言う。自分を監禁し、鼻を折った相手の仲間らしき人物に礼を言うのもおかしな話だが、折れた鼻を元に戻してくれたのは助かった。こんなに血を流したのは生まれて初めてで、鼻血が止まらなくて死ぬかと思った。
「あ~、え~と……よく眠れたかな? あはははは~……」
完全に会話に入るタイミングを逸して蚊帳の外だったドーラが、どうにかして壊滅的にぐだぐたになった状況を軌道修正しようとしていた。恐らく前もってセリフとか段取りを考えていたのだろう。今となっては水の泡だが。
「ここはボクの私邸でね、まあ見た通り粗末な部屋で申し訳ないんだが、とりあえず当面はこの部屋を自由に使ってくれて構わない。それで、起きたばかりで何だが、少し説明してもいいかな?」
今さら予定通り話を進めようとする試みはあまりにも無謀で、傍で見ていても不可能と知れたが、それでも果敢に挑む彼女の健気さに、平太たちは彼女に協力せざるを得なくなっていた。
「まずは改めて紹介しよう。ボクの名はドーラ=イェームン。宮廷魔術師だ。赤毛の彼女がシャイナ=ゴーダン、この国屈指の戦士で、金髪の彼女がスィーネ=オホーネック。神に仕える神官をしていて、さっききみが見た通り、この若さでありながらいくらか奇跡を起こせる敬虔な神の使徒だ」
ドーラから紹介を受けて、シャイナは口をへの字に曲げながらそっぽを向き、スィーネは形式的に会釈をした。
平太はどうしていいかわからず、何となく首だけ前に倒して「ども」と小さくつぶやいた。
「それでは後の話は朝食を摂りながらにしよう。と、その前に――」
そこでドーラはちらりと平太の方を見て、すぐに視線をそらす。
「何か代わりの服を用意させよう。その服はもう、なんだ、ダメのようだ」
言われて平太が自分の服を確認すると、スウェットのズボンが足元に落ちていた。
慌ててずり上げても、紐を抜かれたゴムの伸びたスウェットはまた落ちるだけだった。
その滑稽な姿に、シャイナは「けっ」とつまらなそうに吐き捨て、スィーネは無言でお母さんがダメな子を見るような視線を送った。
ドーラは、いかにも前途多難そうな顔をしていた。
服を着替え終わると、ドーラの案内で広間に通された。室内は二十人はゆうに収容できるほどの広さであったが、部屋の中央にあるテーブルはその半分も着席できない小じんまりしたものだった。
テーブルには朝食が用意されていた。シャイナとスィーネはすでに上座の両隣に着席している。
ドーラは当然のように上座に座った。平太はどうしようかと迷ったが、上座の対局の席に食事が用意してあるのを見て、そちらに座った。
「異世界人のきみの口に合うかどうかわからないが、良かったら食べてくれたまえ。ややこしい話は後にして、まずは腹ごしらえだ」
食事は平太の見る限り、実に素朴なものだった。異世界と言っても同じような人間が口にするものは、どこか似通ってくるのだろうか。
肉を切って焼いたもの、穀物の粉を練って焼いたもの、野菜と肉を煮込んだもの。水を入れた木の器。どれもどこかで見たようで、どこか違う感じがするものばかりだった。
それなりに美味そうな匂いが鼻孔を刺激すると、それに反応して腹が鳴った。食べても死にはしないだろう、と腹をくくって平太が食事を始めようとするが、いくらテーブルの上を探してもナイフやフォークはおろか、スプーンも見当たらない。
改めて周囲に視線をやると、みな手づかみで食事をしていた。料理を手で小さくちぎり、口に持っていく。汁物に至っては器に直接口をつけて直飲みだ。別の料理に手をつける前に、汚れた手を水の入った器で洗う。
どうやらこの世界の文化水準は地球に比べるとかなり低いようだ。郷に入りては郷に従えという言葉もあるので、平太はとりあえず彼女たちを見習って同じように食事を始める。
いくらか口に入れて分かった事は、どれも簡単な調理と調味しかしておらず、たいていの料理はほとんど味がなかった。あっても塩味くらいだった。やはり文化が未発達のせいか、調味料などろくに存在していないのだろう。
「お味はどうだい?」
社交辞令なのか興味本位なのか、ドーラが質問してくる。平太は返答に窮した挙句、
「悪くない」
と簡潔に答えると、ドーラは少し照れ臭そうに笑って、
「それは良かった。恥ずかしい話、うちには使用人などという上等な者はいなくてね。食事はおろか自分の事は自分でしないといけない始末なのだよ」
以外な告白だった。宮廷魔術師の私邸というだけあって、屋敷はそれなりの広さだ。当然使用人の五人や十人はいるものだと思っていたのだが。
「幸い今はシャイナとスィーネが一緒に住んでくれているから寂しくはないが、スィーネはともかくシャイナはいつまで経っても料理が上手くならなくてね」
「うっせえ、あたしは剣以外の刃物を使う気はないんだよ。それにあたしは戦士だ。料理なんてできなくたって困りゃしないよ」
「貴方は困らなくても、食事当番が一人減るとわたしたちが困るんですけど」
肉を小さくちぎって口に運びながら、スィーネが淡々とした口調で嫌味を言う。
「いいだろ。その分庭木の手入れや食料の買い出しなんかの力仕事は、いつもあたしがやってるんだから」
「庭は荒れても死にはしませんし、買い出しは店の者に頼めば配達してもらえますが、料理ができないといずれ困ることになりますよ」
「なんだとてめ~……」
「まあまあ、シャイナも落ち着いて。スィーネも本当はシャイナの事を心配して言ってるんだから、あまりそう怒るものではないよ」
今にもスィーネに飛びかかりそうだったシャイナを、ドーラがたしなめる。ドーラには頭が上がらないのか、シャイナはぶちぶち文句を言いながらも、再び食事に戻った。
平太は他人の家の食事に招待された時のような居心地の悪さに、味気ない食事がさらに味がしなくなるのを感じる。
一度胸の奥から顔を出した疎外感は、気分と一緒に体温や思考力まで下げる。普段の平太ならまずしない行動だが、異世界に連れてこられた混乱も相まって、苛立ちをそのまま口から放出した。
「女のくせに料理もできないのかよ」
他意はなかった。
だが周囲の空気が瞬時に凍りつくのを感じた。
感じた時には、もう遅かった。
「ンだとテメェこの野郎!」
今度もドーラが止めるヒマもなかった。
コンマ一秒でブチ切れたシャイナが、テーブルの上に飛び乗って、そのまま平太目がけて殺す勢いで飛び蹴りをかましてきた。
何が起こったのか頭が判断する前に、本能が平太の両腕を動かした。顔の前で両腕をクロスする。だが防御した平太の腕の隙間を縫って、シャイナの蹴りが顔面を捉えた。
椅子ごと後ろに吹っ飛んだ平太を、シャイナが走って追いかけて馬乗りになる。
総合格闘技も真っ青なマウントポジションからの顔面殴打祭りが始まった。
シャイナは獣のような雄叫びを上げながら、平太の顔に拳をでたらめに振るう。ドーラやスィーネがシャイナを羽交い締めにして止める数秒の間に、平太は親が見ても見分けがつかない顔にされた。
初めて襲いくる殺意と、死ぬんじゃないかというリアルな恐怖と痛みに、平太は命乞いも身を守る事もできずになす術もなかった。
二人がかりでシャイナを強引に平太から引き離そうとするが、離す間にさらに数発の蹴りを平太の腹にぶち込んだ。
手加減の欠片もない本気のケンカキックを受け、平太は今さっき食べたものを全部吐き出した。吐き出す際、切れた口の中が血と胃液と料理のごちゃ混ぜになった異様な味がした。
街のケンカでもここまでやらないような凄惨な暴力に、平太の心は一度きれいにポッキリ折れ、
何かが壊れた。
「あああああああああああああああっ!!」
血と涎を散らしながら叫ぶ。瞼が腫れて狭くなった視界の先に、今しがた自分をボコボコにした女の姿をとらえた。
ここが平太のいた世界だったなら、立ち上がったりはしなかっただろう。いや、そもそもこうなるような言動をしなかったはずだ。
だがここが異世界で、自分の知らない世界で、自分を誰も知らない世界であった事が、平太の中でくすぶっていた何かに火を点けた。
異世界に、日本の常識は通用しない。
裏を返せば、日本ではあった倫理観や、法や国家権力への畏怖はここには無い。
やろうと思えば何だってできる。
本気のケンカだってそうだ。
負けたところで、誰が馬鹿にするでもなし。馬鹿にされたところで、どうせ見知らぬ異世界の他人だ。
どうせ一度女にこてんぱんにやられた身だ。これ以上下がるものなど何もない。
だったら、
やってやる。
あいつの鼻も自分と同じように折ってやる。
知らない世界に放り込まれて情緒不安定だったところに理不尽な暴力。これでキれない方がどうかしている。
アドレナリンが大量に分泌され、痛みと恐怖が嘘みたいに引いていく。まだやれる、そう確信させる何かが、腹の底から湧き上がってくるような気がした。
駆け出す。
まだ戦意を喪失していない平太に気づいたシャイナが、ドーラとスィーネを振り払い、自分に向かって猛然と走って来る平太に備えて腰を落とす。
だがその時の平太には、駆け出したはいいがそれからどうするかというプランはまったくなかった。
なので子供のケンカのように、ただシャイナの腰の辺りを目がけてタックルした。
シャイナ=ゴーダンは戦士である。当然、踏んだ場数は平太などと比べるまでもなく、その内容も生命のやり取りを含む。
そんな暴力のプロに、子供のケンカレヴェルのタックルなど決まるはずもなく、イノシシのような単純な突進はものの見事に読まれ、タイミングを合わせた膝蹴りのカウンターを叩き込まれた。
ぐちゅり、と厭な音がして、スィーネが治した鼻が再び潰れた。本来なら、この一撃で終わっていた。仮に平太でなくとも、たいがいの人間はこれで戦意喪失しているはずだ。
本来なら、だ。
脳汁垂れ流し状態の平太には、もはや痛みや恐怖などなかった。鼻っ面に膝をぶちかまされようがお構いなしに、むしろその足を掴んで力任せに押し倒そうとした。
「野郎……っ!!」
しかし相手が悪かった。平太が足を掴みに来ると見るや否や、すぐさま平太の髪を両手でむしり取る勢いで掴んで引き寄せると、その勢いを利用して今度は残っていた方の膝を平太のこめかみ辺りに叩き込んだ。
相手が悪い、といえばシャイナもそうである。頭蓋が砕けそうな痛みも、今の平太は無視である。生まれて初めて爆発させた闘争本能の命じるままに、生命が燃え尽きるまで動き続ける。
むしろ形勢が悪くなったのはシャイナだった。両足が宙に浮いた状態では、いかな歴戦の戦士といえど無防備になってしまう。
そこを逃さなかったのは、ド素人の平太にしては上出来と言わざるを得ない。何しろこの時点で彼の意識はほとんどなく、本能だけで動いていたのだが、それが幸いしたのかもしれない。
シャイナの足から手を離し、平太は彼女の身体をすり抜けて背後に回り込む。その際に掴まれた髪が抜けるが、そんなものはどうでもいい。今はただ、記憶の片隅にこびりついたイメージを形にするだけだ。
殴るのも蹴るのも、自分じゃこの女には通用しない。それはすでに痛いほど理解できた。
だったらそれ以外の、この世界には存在しないであろう技なら通じるのではないか。
平太でも知ってる、この世界にはない技などそう多くはなかったが、それでも強烈に記憶に残っている有名な大技がいくつかあった。
それをやるなら今しかない。
「な……!?」
背後から腰に組みつかれたシャイナにとって、これは初めての経験だったであろう。もしこの世界に柔道でいう裏投げ、もしくはプロレスのある技と同じ技術があるとすれば別だが。
「うがあああああああああああああああっ!!」
最後の力を振り絞り、平太はシャイナの身体を地面から引き抜くつもりで大きく持ち上げ、その勢いのまま自分の上体を反らして後ろに倒す。この技を知らない彼女には、防ぐ術はない。
今この瞬間、異世界グラディアース初のバックドロップが決まった。
「ぐわっ……!」
硬い石床で後頭部を強打しては、さしものシャイナもたまったものではない。背後から組みつかれて投げられる、という経験がなかったため、受け身もロクに取れずにシャイナは気絶した。
と同時に、平太も不格好ながらブリッジでアーチを描いた状態で完全に意識を失った。
この勝負、引き分けである。
ゲロと鼻血にまみれた床に、二人の男女が倒れている。
片方は顔を水死体のようにぱんぱんに腫らしてるくせに、何かをやり遂げたような清々しい顔で気絶している男。
もう片方は、床に溜まった自分の血で赤毛をさらに真っ赤に染めている、どこか高い場所から飛び降り自殺したんじゃないかと疑いたくなる女。
あまりに壮絶な光景に、ドーラは力なくその場に崩折れ、スィーネはどちらから先に治癒魔法をかけたものかと思案していた。
これがこの先命を賭けた試練の旅を共にする仲間になるとは、誰も思わないだろう。
当然、平太とシャイナも思っていなかった。