新たなる旅立ち(×2)
◆ ◆
「ふう……」
ケイン=ムマーキは、最後にもう一度だけ振り返った。
その先には、家財道具などをすべて引き払い、すっかり空き家になった我が家があった。
そう大きなものではないが、これでも正騎士の位を持つ領主の屋敷である。築年数のわりには手入れが行き届き、庭の木も花壇もつい最近手が入れられている。
五人いた使用人にはそれぞれ別の屋敷への紹介状を持たせてあるので、仕事にあぶれるという事はないだろう。自分のわがままのせいで彼らの住む所や仕事を奪ってしまい、申し訳ない限りだ。
結局、ケインは平太たちの事を報告しなかった。
黒竜は原因不明の逃走をした事にして、部下にも他言を禁じた。人の口に戸は立てられぬというので、どこまでごまかせるかはわからないが、少なくとも時間稼ぎにはなるだろう。
その後ケインは多数の死傷者を出した責任を取り、騎士を辞任した。王を始め、引き止める声も少なくはなかったが、潔く騎士の資格と領地を返還した。
今ケインの姿が紋章入りの正騎士の鎧でなく、薄汚れた革鎧であるのは、そういう理由である。剣も叙勲式で王より下賜されたものではなく、どこにでもあるような短剣だ。つまり、平太たちと旅をした冒険者ケイン=ムマーキのそれだ。
こうして、家も領地も身分も財産も全部失った。
しかし、後悔はなかった。
これでいいんだ、とケインは思った。むしろ誇りすら感じていた。
平太たちが黒竜を制したのを王や権力者たちが知れば、きっと彼らを軍事目的で利用しようとするだろう。
そうすれば、他の国とてどう動くかわからない。下手をすれば、勇者の戦闘力や聖なる武具を巡って人間同士で争いが起こる可能性だって充分にあるのだ。
だからケインは平太たちの存在を隠した。そうする事が、今の自分にできる彼らへの援助だと思ったからだ。
代償は小さくなかったが、魔王を倒し世界を救う勇者の手助けができたのだ。この栄誉は騎士の位よりも、いや、他のものとは比べものにならないだろう。
たとえそれが、誰にも知られずに終わる事であっても。
それにしても、とケインは改めて自分の姿を見て思う。
まさかまたこの冒険者の扮装をする事になろうとは、夢にも思わなかった。
いや、これはもう扮装ではない。今日から本物の冒険者として生きていくのだ。幸いな事に独り身の身軽な身だ。剣の腕には憶えがあるし、男一人が生きていくくらいならどうにでもなるだろう。
「よし、」
ケインは足元に置いてあったズタ袋を肩にかける。これが今の自分の全財産だ。
さて、これからどうしよう。
とりあえず、彼らを追いかけてみるか。
何となくそう決めると、ケインは屋敷に背を向けて歩き出した。
その足取りは、風のように軽やかだった。
☽
パクス大陸でケインが新たな旅立ちを迎えた頃、遥か遠くのディエースリベル大陸にも、似たような境遇の男がいた。
彼もまた、長く続いた貴族の位と家と領地を取り上げられていた。
トニトルスである。
だがケインのように自らの意志ではない。トニトルスの場合はドーラを抹殺しようと暗躍した結果、王に徴集されたのだ。つまりは自業自得である。
なので彼はケインとは違い、今でも自分がどうしてこのような目に遭っているのか理解できずにいた。わかっていたのは、せいぜい取引していた王が何らかの理由で心変わりした事くらいだった。
それにしても、王の唐突な手の平返しはどうした事だろうか。あまりに急な話の上に、まったくの予想外だった。
何しろ突然城に呼び出され、爵位から何から全部没収すると言い渡されたのだ。理由を問うと、救国の英雄に対し危害を加えようとした罪とだけ言われた。さらに食い下がろうとしたら、命を取らないだけ有難いと思えとまで言われ、すごすごと引き下がった。
だが、トニトルスは未だに自分の何が悪いのかさっぱりわからなかった。
救国の英雄と呼ばれるような人物に、自分は何かしただろうか。まったく思い当たるフシが無い。
それは当然だろう。トニトルスはドーラが聖なる武具を手に入れた事を知らないし、彼女らの圧倒的な武力を見ていないのだから。
なので、それによって王が天秤をドーラに傾けたとは想像もつかないのだ。よしんば想像がついたところで、今となってはどうしようもない事だが。
「クソ、あの豚王め。今までどれだけの金をかけてやったと思ってるんだ」
自分の身体の事は棚に上げ、トニトルスは悪態をつきながら屋敷を見やる。昨日過ごした、上から数えて二番目に金のかかった家だ。
その他にも、歩いて回れば一日では足りないほどの敷地の中に、常人が一生働いても手に入らない豪邸が十件はある。
それらすべてが、今まさに目の前で差し押さえられていく。贅の限りを尽くした調度品を、その価値もわからないであろう無骨な鎧を着た兵士たちが汚い手で運んでいく姿を見るのは、頭の血管が切れるほど腹立たしい。目の前の兵士に、お前が今ぞんざいに持ってる壷は、お前の年収の十倍以上は軽くするものだと教えてやりたいくらいだ。知ったらいったいどんな顔をするだろうか。
三十人はいた召使たちは、すべて解雇した。どのみちこれからは自分一人が生きていくだけで手一杯で給金も払えないのだから、放っておいても向こうから出て行くだろうが。
――と思っていたが、トニトルスの隣には、今もなお当たり前のような顔をして例の執事が立っている。
初老の執事――名前を最後に呼んだのはいつだっただろうか。ずいぶんと長い間「おい」とか「お前」とかだったので、すっかり失念してしまっている――は、トニトルスと並んで屋敷を名残惜しそうに眺めている。
「おい……」
結局、おいと呼んでしまう。
「何でございましょう?」
執事は細い目をこちらに向ける。端にはうっすらと涙が滲んでいた。
「お前はどうしてまだここにいる」
「執事が主の傍にいるのは当然の事でしょう」
「いや、トニトルス家はもう何も無いのだから、お前が俺に仕える理由も無いだろう」
第一お前に払う給金も無いのだぞ、とトニトルスが言うと、執事は「それは違います」と首を横に振る。
「私が仕えているのは家という建物ではありません。トニトルス家という血に仕えているのです」
執事の言っている事は理解できた。
執事や召使は家――家屋ではなく血筋に仕えるものである。だから主が死に代替わりしても、彼らは何も変わらない。彼らが向ける忠誠心は家という象徴的な無機物ではなく、脈々と受け継がれていく血筋なのだ。
だから目の前の老人は、このトニトルス個人に対して忠誠を誓うと言う。
他の召使たちは皆自分を見限ったというのに。
馬鹿なのだろうか。
いや、馬鹿だったか。
ため息をつく。
「お前の忠義はわかった。だが、だから何だと言うのだ。お前ひとりが残ったところで、この状況が好転するとは到底思えないのだが」
「なあに、命があるだけ儲けものというものです。むしろ一度底まで落ちてしまえば、後は上がる一方。失う物の無い強さ、というのはなかなか馬鹿にしたものではありませんぞ」
誇らしげに語る執事に、トニトルスはもう一度ため息をつく。
「……お前は強いな。俺はもう立ち上がれそうにないというのに」
「年の功というやつでございますよ。長く生きていれば、それだけ人より多くの経験をしますゆえ」
「お前も、このような目に遭った事があるとでも言うのか?」
「私を拾ってくださったのは、貴方のお祖父様でした」
そのひと言で、トニトルスはだいたいの事を飲み込めた。
「なるほど……」
「これから如何いたしましょう?」
「そうだな、」
トニトルスは考える。生きている限り、食うにも寝るにも金がかかる。だから金を稼がなければならない。しかし今は元手どころか、手持ちの金は数日食えるかどうかだ。
「まずは金を増やし、住む所をどうにかしないとな」
「では何か商売をなさるというのはどうでしょう」
「馬鹿かお前は。商売を始めるにも、元手がなければどうしようもあるまい」
ついいつものように叱りつけると、執事はようやく調子を取り戻したトニトルスの様子に、むしろ嬉しそうな顔をする。
「それならご心配ありません。資金に関しては私に少しばかり心当たりがございます」
「お前に?」
トニトルスは頓狂な声を上げる。コイツに金勘定ができたのか。
「ナイフとフォークという物をご存知ですか?」
「何だそれは?」
「食事の際に用いる道具でございます」
執事はトニトルスに説明する。
「今、巷ではこのナイフとフォークなる物が流行していると聞きます」
「だから何だ?」
「私は、いずれは皆が食事の際にはこういった道具を必ず使うようになると思うのです」
何を馬鹿な事を、と思う。食事というものは大昔から手づかみで食べ、手が汚れたら器の水で洗い手ぬぐいで拭くものだ。
「風習は、いずれ変わります。いえ、変わらないものなどこの世に無いと言ってもいいでしょう。大事なのは、変化の時を見逃さない事。その時こそが、商売の好機なのです」
自信たっぷりに語られる含蓄のある言葉に、トニトルスは思わず「おお、」と唸る。だが、直後に執事が「と、聞きました」とつけ加えたので、一気に今の話が胡散臭くなった。
「伝聞ではないか……」
「私は執事ですから、商売に関しては門外漢でございます」
だったらなぜ商売をしろなどと言う、とトニトルスは思ったが、不毛な会話にしかならないのは目に見えていたので追求はやめた。
「ではどうしろと言うのだ。俺に新しい食器でも作って売れと?」
「それは違います」
「え?」
「何も物を作って売るだけが商売ではございません」
「物を売らずにどうやって金を稼ぐのだ」
「それは、すでに商売をしている者や、これから商売を始めようとしている者、あるいは商売をするために物を作ろうとしているが資金の無い者に金を貸し、その対価として売上の一部を払ってもらうという方法です」
執事が説明した事は、現代で言う投資や融資であった。なので有形取引しか存在しないこの世界では斬新過ぎる話で、当然のようにトニトルスは胡乱な顔をする。
「金貸しの一種だというのはわかったが、それがいったいどうしたというのだ」
「実は、先にお話したナイフとフォークですが、以前に製造者が生産量を増加させるために工房の規模を拡大したいのだが資金の目処が立たない、というお話を屋敷に出入りしていた業者から相談されまして、それならばと私が自費にて融資しておりました」
「そんな話、初耳だぞ」
「老後の生活のための、個人的な投資でしたので」
「なるほど……。それで、儲かったのか?」
「それはもう、お陰様で」
執事のこんな笑顔、初めて見たような気がする。
それにしても、普段は適当に仕事をしているようにしか見えなかったが、自分の事になると抜け目が無いようだ。
「これは私個人の財産なので、今回の財産没収は免れたわけですが、お家がこのような事になったとあっては、もはや私の老後がどうとか言っている場合ではありません。少ない金額ではございますが、トニトルス家の再興のためとあらば、この老骨の蓄えをどうぞご自由にお使いください」
そう言って差し出された革袋には、予想を遥かに上回る額の金が入っていた。これだけあれば、王都の一等地とは言わないまでも、大通りに店の一件構えるくらいなら充分足りるだろう。
「お前……」
驚きと感動のあまり声が震える。知らず目に涙が滲み、視界がぼんやりと霞む。
トニトルスは革袋に一度は手を伸ばしたが、一旦躊躇するとすぐにその手を引っ込めた。
「どうしました? 遠慮はいりませんよ」
「いや、この金は使えん」
「そう仰らずに」
強引に革袋を押し付けようとする執事に、トニトルスは「駄目だ」と固辞する。
「俺はこの歳になるまで金を稼ぐどころかまともに働いた事も無い人間だ。そんな俺がこの金を使ったところで、どうせろくな結果になりはしないだろう」
今まで生きてこれたのは、親が残した地位や財産があったからだ。自分はただそれを使って数字を動かしていただけに過ぎない。自らが動いて何かをした事などこれまでには無く、あったとしてもせいぜい謀略や暗躍くらいでろくなものはなかった。
そんな男が金を手にしたところで、いったい何ができると言うのだろう。現に今、こうして目の前に金があってもそれをどう有効活用すれば良いのかまったく思い浮かばない。
「トニトルス様……」
「だったら、俺よりも世間に明るいお前がこの金を使え。そして俺は、その間にお前から色々と学ばせてもらう事にする」
「それは……」
執事が店主でトニトルスがその下につく。つまり、事実上の主従逆転であった。
「……よろしいのですか?」
「構わん。どうせ家も地位も何もかも失った身だ。命があるだけ儲けものというものだろ?」
「しかし、」
「それに、俺はいつまでもお前の下で甘んじているつもりなど無い。すぐに商売の仕方から何もかもを学び取って、お前を追い越してやる」
そしてお前は今度こそ引退し、安泰な老後を送るのだ。最後にそう言うと、トニトルスは慌てて顔を逸らす。勢いで顎の肉がたゆんと揺れた。
「トニトルス様……」
細い目が再び潤むのを、執事は慌てて骨ばった指で拭う。
「おい、お前たち」
執事が何かを言う前に、差し押さえの作業をしていた兵士が二人の会話に割り込んできた。
「いつまでここにいるつもりだ。もうこの屋敷はお前の物ではないのだから、どこへなりとも行ってしまえ。作業の邪魔だ」
兵士は二人に目障りだと言わんばかりに言いつけると、舌打ちを残して作業に戻って行った。
つい昨日までなら、あんな木っ端兵士にあのような口の利き方はされなかっただろう。金や身分が無くなると、人間はこうも態度を変えるものだろうか。
いや、自業自得か。自分とて、相手の価値を身分や財産、あるいは役に立つかどうかでしか見てこなかったではないか。
ふ、と笑みがこぼれる。
まあいい。今は甘んじて受け入れよう。だがいつの日にかまた同じ場所に、いや、前よりも遥かに高い地位に返り咲いてみせる。その暁には今日のこの屈辱は万倍にして返してやるぞ。特にあの兵士。顔は憶えたからな。
「行くぞ」
屋敷に背を向け、歩き出す。
「はっ」
三歩遅れて執事が続く。
「これからどちらに参りましょう?」
「とりあえず王都に行くぞ。そこでその金を元手に、お前の言った商売を始める。そして順当に金を増やし、爵位を買い戻すのだ」
絶対に返り咲いてやる、という固い決意のこもった主の声に、執事の足が思わず止まる。だがすぐに遅れまいと駆け出し、主の三歩後ろを歩き出した。
「お供致します。この老いぼれの命ある限り」
決意も新たに二人は王都に向かう。
だがその歩みすぐに遅くなり、やがて完全に止まる。
「トニトルス様……」
「疲れた……もう歩けない……」
日頃の不摂生と運動不足がたたって、トニトルスは屋敷の敷地内を出る前に疲れきってその場に座り込んでしまった。
全身に汗をかき、夏場の犬のようにだらしなく舌を出してあえぎながら呼吸をするトニトルスの姿に、執事は金策より何よりもまず主人を痩せさせなければと心に決めた。




