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ニートの俺が勇者に間違われて異世界に  作者: 五月雨拳人
第五章
101/127

異変

          ◆     ◆


 ケラシスラ山は、霊山スピルトゥンスとは違い、人が歩いた形跡などほとんど無い。自然むき出しの、しかも岩だらけの山を馬車で登ることは到底できそうになかった。

 もちろん馬でも無理なので、平太たちは馬車を麓に残して徒歩で登ることにした。


 防犯のためにドーラに結界を張って馬車を守ってもらうと、平太たちは意気込みも新たにケラシスラ山に登り始めた。

          ☽

 前人未到と言っても過言ではなさそうな、手つかずの山道を歩くこと一時間。疲労とじょじょに強さを増す熱と硫黄臭に、ドーラたちはいつもより早くへばっていた。


 噴き出す汗が衣服を身体に密着させ、不快な上に動きづらい。ドーラたちなど平服とさほど変わりのない服装だと、手ぬぐいを服の中に突っ込んで身体を拭けるからいいが、シャイナは全身鎧な上に身体にフィットしたオーダーメイドなのでそれもできない。


 鎧のわずかな隙間から汗を染み出させているシャイナを見て、平太はここらで一度休憩を挟もうと提案した。

 その提案は、一も二もなく可決された。


「さすがに自然のままの山を登るのはしんどいな」

 岩に腰かけて汗を拭っている平太の隣で、ドーラが手ぬぐいを水筒の水で濡らす。

「それよりこの臭い、何とかならないのかな……。鼻は元よりだんだん目が痛くなってきたよ……」

 よほど硫黄が目に沁みるのだろう。ドーラは涙でぐしゃぐしゃになった目を、濡らした手ぬぐいでぬぐう。

 見れば、ドーラだけでなくシャイナもスィーネもシズも、強烈な硫黄の臭いに目と鼻をやられて、止めどなく流れ出てくる涙と鼻水を手ぬぐいで拭くのに追われている。


「みんな、大丈夫か?」

 ただ一人何ともない平太が、硫黄の被害に涙する一同に声をかけると、

「――おい、」

 赤い目をしたシャイナに因縁をつけられた。

「なんでてめえ一人だけ平気な顔してんだよ?」

 至近距離でガンをつけられるが、目に涙を溜めている上に若干鼻声なので迫力に欠ける。


「そんな事言われてもなあ……なんでだろうな?」

 苦笑いをする平太を、シャイナはじっとりとねめつける。居心地の悪さに、平太は乾いた笑いを漏らした。

「それにしても、一人だけまったく被害が無いというのも異常ですね」

 口と鼻を手ぬぐいで押さえながらスィーネが言うと、シズが不安そうな顔で平太を見つめ、

「もしかして、ヘイタ様……臭いを感じないんじゃないんですか?」


「え?」

 シズの言葉に、一同が一斉に平太を見やる。

「前に、ヘイタ様に指摘した時、少し変だなって思って気になってたんですけど……」

 みんなに見つめられ、平太は言葉に詰まる。ただ、曖昧な笑顔を浮かべるしかできなかった。

「その顔、答えたようなものですね」とスィーネ。

「マジかよ、お前……」

「そう言えば、最近鼻が詰まってるとは言ってたけど……」

 言いながら、ドーラは何か思い当たるような顔をする。

「まさか、倒れてからずっとそうだったの!?」


 コンティネンスと戦った時、弱点であるコアの在り処を探すために、平太は剛身術で限界を越えた視覚の強化をした。

 その結果、辛うじて敵を撃退する事に成功したが、その代償は小さくなかった。

 倒れた後目が覚めて以降、平太は臭いを感じなくなっていたのだ。

 恐らく脳に負荷をかけすぎたため、嗅覚を司る部分が焼き切れたのだろう。

 最初は鼻づまりだと思っていた平太であったが、何日経っても一向に回復しない上に味覚にまで影響が出てきたので、これはさすがにおかしいと思い始めた。


 そして、その疑念はここケラシスラ山に着いて確信へと変わった。

 皆が臭い臭いと言う硫黄の臭いが、まったく感じられないのだ。体臭くらいなら臭いに気づかなくてもおかしくはないが、硫黄の強烈な臭いを感じないとなると、もはや疑う余地は無い。平太の嗅覚は、今や完全に機能停止していた。


「どうしてもっと早く相談してくれなかったんですか!?」

 泣きそうなシズに叱られ、平太はバツが悪そうに頭を掻く。

「心配かけたくなかったんだよ」

「何を水臭い事を」とスィーネ。


「そうですよ。言ってくだされば――」

 そこでシズの言葉が途切れる。

 次の瞬間、彼女の目から涙がこぼれた。

「――何も、何もできないかもしれませんが、せめてわたしたちに話してくださいよ。独りで何でも抱え込まないでください」

 そこからは言葉にならなくなり、喉を痙攣させる事しかできなくなったシズの頭に、シャイナの掌が優しく乗せられる。

「コイツの言う通りだ。あたしたちにゃあ何もできないかもしれねえ。だけど、一緒に悩むくらいはさせろよ。仲間に相談もされねえなんて、寂しいじゃねえか」


 シャイナの言葉に、平太は頭を石で殴られたような気がした。普段から仲間だ何だと言っておきながら、自分が一番彼女たちに心を許していなかったのだ。

 だが、平太だって好きで黙っていたわけではない。確かに、皆に心配をかけたくないという気持ちもあった。しかしそれだけでは答えの半分も満たさず、不十分だ。


 本当は、恐くて誰にも打ち明けられなかったのだ。

 誰かに言ってしまうと、五感が消失する恐怖に負けて、もう二度と剛身術で視覚を強化する勇気を奮い起こせない気がしたからだ。

 だから平太は、恐怖と一緒に悩みを飲み込んだ。


 勇者だから。

 勇者であろうとしたから。


 されど、それらを押し留めていた堰が取り払われた今、

「あ――」

 今度は、平太の目から涙がこぼれ落ちた。

「ごめん、じゃあちょっとだけ泣き言言っていいかな……?」

 手首で涙をぬぐい、背中を丸めて下を向く平太。

 断る者など、誰一人いない。


 ずずっと鼻をすする。

「――」

 言葉を発しようと口を開いた途端、平太の身体がぶるぶると震え始めた。

 震えはみるみる激しくなり、すぐに歯の根が合わないほどになった。平太は震えを止めようと両腕で自分の身体を強く抱き、額が膝につくほど身体を丸める。

 それでも、震えは一向に収まらなかった。


「ヘイタ……」

 心配するドーラたちの前で、平太は震え続けた。

 言葉では、伝えられるはずがなかった。

 それ以前に、言葉になど、できようもなかった。

 だが、涙を流しながら震え続ける平太の姿は、ドーラたちに彼がどれほどの恐怖を内に抱え込んでいたのかをひと目で理解させた。


 誰も、ひと言も無かった。

 声も上げずに泣き震える平太に、どんな言葉をかけてやれば良いのか、誰もわからなかった。


 言葉が無力なこの場で、彼女たちが平太にしてあげられる事は、

「あ……」

 ただ、彼の震える身体を抱きしめてあげる事だけだった。

 ドーラたちは平太を囲み、彼を包み込んだ。


 あたたかい。

 平太は、シャイナの硬い鎧の感触を感じていた。

 スィーネの清潔な法衣の香りを感じていた。

 シズの身体の柔らかさを感じていた。

 ドーラの少し高めな体温を感じていた。

 彼女たちの優しさを感じていた。

 いつの間にか、震えが収まっていた。

 だが、涙は止まらなかった。

 ただ、その涙の意味は変わっていた。

          ☽

 いつまでそうしていただろうか。

 あまりの心地良さに眠っていたのかもしれない。

 やわらかいぬくもりの中、ぼんやりとしていた平太の意識の中に、グラディーラが現れた。


「グラディーラ」

 今まで意識の中では声しか聞いた事がなかったので、こうして面と向かって話すのは実体での時とは違って何だか不思議な感じがした。

「ヘイタ、」

 グラディーラは、いつもの凛とした表情のまま、ゆっくりとこちらに近づいてくる。平太は何となく、泣き言を漏らしたのを責められると思った。


 すぐ傍にまで来たグラディーラが、大きく両腕を開く。ダブルチョップか。反射的に平太が両腕を顔の前に上げてボクシングでいうピーカブースタイルでガードを固めようとした瞬間、

「すまなかった」

 予想を遥か斜め上に越えて、グラディーラに抱きしめられた。


「え……?」

 わけがわからなかった。

「わたしはお前の魂を通じて、お前が自分の中に計り知れない恐怖を押し隠しているのを知っていた。知っていたのに、お前はそれを知られたくないだろうと勝手に推測し、見ないフリをし続けていた」


 なんだ、ずっとバレていたのか。グラディーラの胸に頭を預けながら、平太は苦笑する。

「だが、こうして曝け出した今、わたしにできるのは、皆と同じようにお前の震えを止めてやる事と――」

 グラディーラは、改めて決心を固めるように身体を緊張させる。

「お前の身体の一部になる事だ」

「一部って――」


「お前が臭いを感じないのなら、わたしがお前の鼻になろう。お前の目が見えなくなったら、わたしがお前の目となろう」

 そしてもし、お前が死んだら――

 グラディーラは平太の頭を強く自分の胸に押しつける。痛い。

「わたしも一緒に死んでやろう」

 平太は言葉を失った。

 思考も停止した。


「……おい、何か言ったらどうなんだ?」

「あ、ああ、……いや、」

 ははは、と平太は顔を上げ、乾いた笑いを漏らす。真っ直ぐにグラディーラの目を見て、

「熱烈な愛の告白だな」

「馬鹿。茶化すな」

「ごめん。でも、そんな事言われたの初めてだから」

「わたしはお前と契約した、謂わば一心同体の身。主のお前が死ぬのなら、一緒に死ぬのが当然というものだ」

 本気なのは、見ればわかった。


「参ったな……、そんな事言われたら、ちょっとやそっとじゃ死ねなくなったじゃないか」

 冗談めかして平太が言うと、グラディーラはフフンと鼻を鳴らす。

「それが狙いだからな。わたしとて死ぬのは厭だ。だから、お前には死んでも生きてもらわないと困る」

「死んでも生きろって、意味わかんねーよ」

「うるさい。とにかくだな、もう独りで抱え込んで悩むな。お前にはわたしが――」


「わたしたちがいるわよ」

 グラディーラの言葉を遮り、アルマが横から割り込んできた。

 アルマは、いいところを邪魔されて唖然としているグラディーラから平太を横取りすると、平太の頭を自分の胸に押しつけた。

 グラディーラとは比べものにならないサイズのバストに、平太の顔面が半分以上沈む。そのあまりの柔らかさに口も鼻も塞がり、平太は精神体でありながら窒息しそうになる。


「あ、アルマ姉、いきなり出て来て何をする!」

「あ~ら、わたしだってヘイタちゃんと契約してるのよ。ひとり占めしちゃあダメよ」

「わ、わたしは別に、ひとり占めなど、」

「だったら、わたしもヘイタちゃんの鼻や目の代わりになってもいいでしょ?」

「それは……」

 口ごもるグラディーラを見て、アルマはにやにやと笑う。それから急に真顔になって、

「一緒に死んでやるなんて、軽々しく言うもんじゃないわよ。第一、そんな重いこと言う女、男がドン引きするじゃない」

「ぐ……」

 自分が言った事とはいえ、あまりの恥ずかしさにグラディーラが赤面する。


「あなたも聖剣なら、魔王だけでなく、この世界の神ですら斬り殺してヘイタちゃんを守る、くらいの事を言ってのけなさいよ。後ろ向きに覚悟を決めたって、なんにもいい事なんて無いんだからね」

「アルマ姉」


「ま、その点わたしは鎧だから、ヘイタちゃんにぴったりくっついて、ありとあらゆるものから守ってあげるわよ」

 そう言ってアルマは、胸に抱いた平太の頭に思い切り頬ずりする。それを見て、むっとしたようにグラディーラが言う。

「いい加減ヘイタから離れたらどうだ?」

「あら、いいじゃない、減るもんじゃなし」

「そういう問題ではない。ヘイタが厭がっているではないか」


 アルマからヘイタを引き離そうと、グラディーラが手を伸ばす。

「うそ~ん、そんなわけないじゃな~い。こうされて喜ばない男なんて、世界中どこを探したっていやしないわよ」

 グラディーラの手をアルマがひらりとかわすと、平太が身体ごと振られる。顔は胸に密着したままだ。

「それこそ嘘だ。前の勇者も、アルマ姉がそうしても喜ばなかったではないか」

「あれは……彼がウブだったからよ。たまにいるのよね、女を知らないからこの魅力がわからない純情なコが」


「ほら見ろ。世界中の男すべてが喜ぶわけではないではないか。いいからさっさと放せ」

「や~よ。だいたい、グラディーラちゃんは今までずっと一緒だったじゃない。その分わたしが引っついてもバチは当たらないはずよ!」

「何だそのよくわからない屁理屈は!? いいから――」

 アルマから平太を引ったくろうとしたグラディーラの手と声が、ぴたりと止まる。


「どうしたの?」

「アルマ姉、」

「ん?」

「ヘイタが息してないっぽいぞ」

「え!?」

 慌ててアルマが自分の胸元を見ると、平太の顔面は完全に胸に埋もれており、首から下はだらりと弛緩していた。


「やだ、ちょっと強く押し付け過ぎちゃったかしら」

 アルマが慌てて胸から平太の頭を引き剥がす。粘着質な音を立てて平太の顔面が離れると、半ば固まりかけた鼻血が糸を引くと同時に、行き場を失ってその場で凝固していた大量の鼻血ゼリーがぼちょりと下に落ちる。

「あら~……」

「……精神体なのに鼻血を出すとは器用な奴だ」

「現実世界じゃないから、何でもアリだしね~」

 などと感心するのも束の間。いつまで経っても息を吹き返さない平太に、さすがに姉妹はヤバいと思い始めた。


「アルマ姉――」

「グラディーラちゃん――」

 二人同時に言う。

「どうしよう……」

          ☽

「ぶはっ……!!」

 長い間水中に潜っていたように息をつくと、平太は死にそうな顔で空気を懸命に吸い込む。風切り音をさせるほど強く息を吸い込むと、その後は細かい呼吸を何度も繰り返した。


「どうしたの、いきなり? 大丈夫?」

 いきなり肩で息をしだした平太の姿に、ドーラが心配そうな顔を向ける。

「いや、何でも、ない……ちょっと、息をするのを、忘れてた、だけ、だ」

 まさか精神世界でアルマの胸の中で窒息死しかけたなどとは言えず、平太は咄嗟によくわからない言い訳をする。


 案の定ドーラは「?」と何言ってんだコイツみたいな顔をするが、すぐにああそういやコイツ脳が少々焼き切れてたんだっけと思い出し、「そっか、大変だね……」と少し憐れむような表情で、これまたよくわからない返しをする。

「ヘイタ様、大丈夫ですか?」

 シズに背中をさすられ、どうにか呼吸を落ち着ける。

「うん、ありがとう。もう平気だから」


 平太は最後に大きく深呼吸すると、みんなの顔を見回す。

「みんなのおかげで吐き出せて、少しすっきりしたよ。ありがとう」

「いいって事よ。それより、問題なのはコンティネンスの奴だな」

「あれに出て来られたら、どうしてもヘイタに無理をさせちゃうからね」

「何とかヘイタさんに頼らず、コンティネンスの核の在り処を探す方法は無いものでしょうか……」

 どうにか知恵を絞り出そうと、ドーラたちはうんうん唸る。その懸命な姿に、平太は改めて彼女たちの想いを感じる。


 守りたい。

 たとえこの身がどうなろうと――とまではいかないまでも、自分の力が及ぶ限り、自分ができる限りの全力を尽くして、彼女たちを守りたいと思った。


 もう、悩まなかった。


「大丈夫」

 平太の声に、ドーラたちの視線が集まる。

「コンティネンスは、俺が倒す」

「けど、そうしたらまたヘイタが……」

「そうだぞ。今度は鼻が利かなくなる程度じゃ済まないかもしれねえんだぞ」

「わかってる。でも他に方法が無い以上、やるしかないんだ。そうじゃないと、魔王の所にまでたどり着けるはずもない」


 コンティネンスだけではない。

 四天王は、まだ三人残っているのだ。

 それらをすべて倒さないと、魔王の下にはたどり着けない。

 例えたどり着けたとして、手下の四天王すら倒せない者に、魔王が倒せるとも思えない。


 平太の言う通り、これは避けては通れない道なのだ。

 その事は理解できたのだろう。ドーラたちは納得できないという顔をしていたが、やがて溶けた鉛でも飲み込むかのように苦しそうに何かを飲み込むと、

「わかった……ヘイタがそう言うのなら、ボクらはもう何も言わない」

「ただし、それはあくまで最後の手段だ。他に何か別の方法が見つかったら、まずそっちを試すからな」


「わかった」

「絶対に、無理は禁物ですよ」

 スィーネに念を押され、平太はしっかりと頷く。

「絶対に絶対ですからね!」

「わかってるってば。シズは心配性だな」

「だってヘイタ様、いつだって無茶ばかりなさるんですもの」

「約束するよ。もう無茶はしないし、一人で抱え込まない。何かあったらみんなに相談する。これでいいだろ?」


 シズは少しの間疑わしげに平太の顔を見ていたが、やがて仕方なしといった感じで「約束ですよ」と、ようやく引き下がった。

「それじゃあ、ずいぶん長い休憩になっちゃったけど、そろそろ出発しようか」

 荷物を背負い直し、ドーラが皆に告げる。

 目的地は、まだ遠い。

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