始まりは誤解から
◆ ◆
月光が照らす荒野を、二人の男が駆ける。
一人は獣の皮をなめした鎧を身につけ、その手に大型の弓を持っていることから、弓兵だということが容易に知れる。
弓兵の先を走るのは、意匠を凝らした全身鎧をまとった剣士。己の身長に等しい巨大な剣を背負っている姿から、大剣使いだと見て取れる。
三つの月明かりを浴び、男たちは馳せる。
彼らの先を走る、巨大な獲物を狩るために。
二人の男から逃げるのは、頭に三本の角を生やした恐竜のような生き物で、大きさは象を二回りほど上回る。
地響きを立てて走るそれは、行く手にある木々や岩をものともせず蹴散らす。まるで暴走機関車を追いかけているような二人は、獲物が弾き飛ばした木や岩をかわしながら軽快に走る。
このままいつまでも追走劇が続くかと思われたが、後方を走る弓兵が意を決し、足を止めて弓を構える。
その挙動を察した剣士が弓の射線から素早く外れると同時に、弓兵は絞りに絞った弓から必殺の一撃を放つ。
矢は一直線に、体をかわした剣士をかすめるようにして、前を走る獲物へと吸い込まれていった。
弓兵の矢は、狙いを寸分違わず獲物の左後ろ脚に命中し、突然蹴り足に重大な損傷を受けた獲物はバランスを崩して巨体を放り出すようにして倒れた。
倒れた獲物はすぐには止まらず、砂塵をまき上げながら地面を滑る。その隙に男たちは間合いを一気に詰め、獲物がこれ以上逃走できないように布陣を敷く。
獲物が傷ついた足をかばってどうにか起き上がる頃には、男たちはすっかり戦闘態勢に入っていた。
巨大な剣を抜き、にじり寄る剣士。
弓を引き絞り、急所に狙いを定める弓兵。
二人の男の並々ならぬ殺気を感じ、獲物は諦観にも似た覚悟を決める。
三つの意志が一つに収束した。
ここで終わらせる。
先に動いたのは獲物の方だった。
三本の角を、自分に傷を負わせた憎き相手――弓兵へと向け、後の事などまるで考えていない、足よもげろとばかりの限界を突破した突撃を見せた。
速い。
逃げていた時よりも速い突進に対し、弓兵は微塵もたじろぎはしない。
一度弓を構えて矢を据えたら、後はただ放つのみ。そこには恐怖も慢心も、思考も感情も入り込む余地はない。
無心。
構え、狙い、射つ。単純明快にして、究極に奥が深い三拍子の世界の中、弓兵の意識は弓矢と完全に同調していた。
怒りと殺意をあらわに、獲物が迫る。
迫るなら、むしろ好都合。弓兵の意識は一本の矢となり、そして静かに手から離れ、弦に押され、
獲物の右目に突き刺さった。
賞賛に値するのは、弓兵の冷静沈着さだけではない。右目に矢が突き刺さったにもかかわらず、獲物はほんのわずかも突進する速度を緩めなかった。
研ぎ澄まされた三本の角が、矢を解き放ち残心している無防備な弓兵へと襲いかかる。
山の如き重量に速度をかけた威力が、角の先端一点に集結している。その一撃はまさに即死に値する。
当たれば死ぬ。
が、
当たれば、である。
獲物を追っていたのは、弓兵だけではない。もう一人いた事を、忘れてはならない。
ならもう一人――剣士はどこで何をしているのか。
いた。
弓兵の目の前に駆け込んでいる。
剣士はその巨大な大剣を盾にして、弓兵を守るような形で獲物との間に割って入った。
剣士の大剣と獲物の角がぶつかる。
岩や巨木をも蹴散らす突進を、剣士が渾身の力をもって受け止める。角と大剣の衝突で火花が散り、剣士の両足が地面に深くめり込んだ。
獲物が狂ったように吠える。が、剣士はそこから微動だにしない。完全に獲物の突進を受け切った剣士は、そこで初めて表情を見せる。
兜の奥で、にやりと笑った。
それを挑発と受けたのか、それとも弓兵を殺す邪魔をされたのが頭にきたのか、獲物は剣士を押し込もうとさらに力を加える。
その瞬間、剣士が盾にした大剣を斜めにずらし、獲物をいなした。
壁のように立ち塞がっていた大剣が突如消失し、かつ今まさに前に突き進もうとしていた力が行き場を失って、獲物は情けないくらい不格好に顔から地面に倒れた。
まるで死刑囚が斬首のとき、首斬り役人に己が首をさらけ出すように。
大剣をずらした動作をそのまま振り上げる動作へと繋ぎ、剣士は身体ごと一回転する勢いを剣に注ぎ込む。
大剣を上段へと振り上げ、身体が回転から戻った剣士の視線の先には、
ちょうど獲物の頭があった。
大剣を肩に担いだ状態から一拍の力の充填。
獲物はまだ立ち上がれない。
もう一拍充填。
剣士の全身に力がみなぎる。
獲物が立ち上がろうと足を踏ん張る。
そうはさせじと弓兵が矢を打ち込む。絶妙のタイミングでのアシスト。獲物は起き上がり判定をキャンセルされる。
さらにダメ押しのもう一拍。
限界まで力を溜め込んだ剣士の肉体は、内側から弾け飛びそうなほどエネルギーに満ち満ちている。
一歩踏み込むと同時に、剣士が大剣を振り下ろす。
雷鳴のような轟音とともに、大剣が獲物の首を一撃で斬り飛ばした。
と同時に、盛大なファンファーレが鳴り響き、画面には『討伐完了』の文字が現れる。
ファンファーレが鳴り続ける間、二人は今倒した獲物を解体していた。今回の収穫は、爪と牙、そして角と中々のものだった。
ファンファーレが鳴り終わると画面が切り替わり、戦闘モードからフィールドモードへと移る。そこでようやく剣士――日比野平太は大きく息をついた。
薄暗いゴミ溜めみたいな部屋の中で、煌々と光る薄型液晶モニターに向かうぼさぼさ頭の青年。画面を見つめる目は腐った魚よりもさらに濁っており、表情のない顔には無精髭が生えている。着ているグレーのスウェットは年季が入りまくっていて、何年前に買ったのかもう何日洗ってないのか着ている本人すら覚えていない。それ以前に自分が最後にいつ風呂に入ったのかすら曖昧だった。
平太は身体を大きく後ろにそらして伸びをし、パソコンチェアの背もたれを軋ませる。反動をつけて戻ると、マウスでカーソルを操作し、今しがた手に入った戦利品を確認する。
「やっと角が三本そろったか。レアってほどじゃないが、確率悪すぎだろ」
頭に装着したヘッドセット型のマイクを通した音声チャットで、平太の言葉は画面の向こうの弓兵へと届く。
『でもこれでやっと新しい武器が作れるっス。ベイダーさん、あざーっす!!』
見た目に合わない軽薄な声で、弓兵がおじぎをしてくる。と言っても、頭を下げているのはモニター画面の中のキャラクターだが。
ベイダーとは、このオンラインアクションRPG「グランディール・オンライン」での平太のハンドルネームである。
ベイダーのレベルはすでに現バージョンでのカウントストップ状態にあり、弓兵とのレベルの差は20以上ある。だがグランディール・オンラインはまだ比較的新しいネットゲームなので、弓兵が初心者なのではなく、平太がヘビーユーザーなのだ。
なぜなら、平太は世に言うネット廃人であり、もっと言ってしまえば、仕事も学校にも行っていないニートである。学生や社会人と違って、ゲームをする時間などいくらでもある。
そんな人として底辺を這いずり回る平太であっても、このグランディール・オンラインの中では歴戦の勇者であり、誰からも頼られる猛者である。
現にこの弓兵は昨夜平太を頼りにやってきて、それから延々数時間に渡る狩りを共にしてきた。
こんな自分でも、ゲームの中でなら誰かに頼られる、皆に賞賛される。平太はこのゲームをこよなく愛していた。できることなら、このままずっとプレイしていたいとさえ思う。
だがそれは物理的に不可能だし、そして心情的にできないことであった。
『あ、俺そろそろ出勤なんで、すいませんが今日はここで落ちるっス』
見れば、時計は朝の八時を指している。窓はすべて閉め切って、厚手の遮光カーテンで日光を遮っているが、下界はすでに朝である。そういえばここ何年かまともに陽の光を浴びた覚えもないし、外に出た記憶といえば深夜に近所のコンビニに週刊誌の立ち読みに出たくらいしかない。
「あ……そう。じゃあ俺もそろそろ会社に行くかな……」
乾いた声で笑うが、当然嘘だ。何度も言うが彼はニートである。高校を卒業して以来、進学も就職もしていない。当然ニートの名に恥じぬよう、バイトすらしていない。
『それじゃ、今日はどうもあざっした。また何かあったらお願いするっス。じゃ!』
感謝の欠片も感じられない軽薄な挨拶を残して、弓兵はログアウトした。画面の中からキャラクターが消え、平太の剣士だけが取り残される。
「出勤タイムか……クソが」
血を吐くような声でつぶやく。平日の朝八時は人がごっそり減るので、平太にとっては魔の時間帯であった。
「……寝るか」
探せば自分と同じような社会的自由業のプレイヤーも結構な数いるだろう。が、平太のちゃちなプライドは、彼らと自分が同種である事を受け入れられなかった。受け入れたくなかった。
俺はお前らとは違う。そんな根拠も何もない自尊心だけはあった。俺はまだ本気を出していないだけだ、と。
だが心の片隅ではわかっていた。本気を出していないんじゃない。本気を出して通用しなかったら怖いから、本気を出せないのだと。
本気を出して負けたら、もう誰にもどこにも言い訳ができないから、平太は今の今までこの歳になるまで、何かに本気を出したり真剣になったりした事はなかった。
それがたとえ、ゲームの中だとしても。
皮肉な事に、それだけが彼の心の拠り所だった。
しかしそんな不確定性原理を拠り所にしたところで、現実の自分が何か少しでも変わるはずがなく、変わっていくのは彼の周囲と年齢くらいだった。
家族はもうとっくに起きて、出勤している。今この家にいるのは平太だけ。それは、もうどれくらい前か考えたくもないほど前からの、この家のリズム。
「と、その前に日課をせねば」
平太はグランディール・オンラインからログアウトし、ゲームを終了させる。また夕方になって、社会人や学生たちが多くログインしてくる時間まで休息だ。
その前に、
マウスを操作してパソコンの中のライブラリを開き、フォルダ名を偽装した数あるファイルの中から、【宇宙超ひも理論】フォルダをダブルクリックする。
開いたファイルの中には何もない、ように見える。念には念を入れて、隠しファイルにしているのだ。右クリックでコマンドを開き、パスワードを入力すると画面狭しと画像や動画が可視化された。
「さてと……」
平太はやおら椅子から立ち上がり、ゴムがすっかり伸びてよれよれになったスウェットのズボンを下ろす。
どれにしようか、右手でマウスを迷わせながら左手はティッシュを数枚引き抜く。日課というだけあって、実に手慣れた動作だった。
「『エッチな歯医者さんヌくの大好き!』君に決めた!」
お気に入りの一品をチョイスし、無駄に高いテンションで動画ファイルをダブルクリッック、
その瞬間、
机の引き出しが、内側からもの凄い勢いで飛び出してきた。
「ぐほっ!?」
いきなり鳩尾に強烈な一撃を受け、平太は下半身丸出しのまま椅子ごと後ろにひっくり返る。
倒れた拍子に後頭部を打ち、目の奥に火花が飛び散る。頭の痛みと鳩尾を打たれて横隔膜が引きつる痛みのダブルパンチに脳の処理が追いつかない。呼吸ができず酸素不足でさらに脳が役立たずになり、状況が理解できずパニックになる。
いったい何が起こった。仰向けの状態から首だけ起こす。涙でにじむ視界の先、丸出しの下半身から覗く息子の向こうには、こちらに向かって突き出た引き出しがあった。
中にはもうほとんど使わなくなった文房具やガラクタしか入っていないはずの引き出しが、勝手に開いている。暴発するような物は入れてなかったはずだ。
では何が原因で――そう考えていた矢先、
引き出しの中から、
ネコ耳で青い髪の少女が顔を出した。
ネコ耳少女が机の引き出しから飛び出す。真っ黒な長衣と手に杖を持った姿は魔法使いのイメージを与えるが、夏の大空のような青い髪を短く切りそろえた下にある童顔や身の丈の小ささが、真っ黒のスモックを着ている幼女の印象を強くさせた。
机の上に飛び乗ったネコ耳少女は、平太の顔を見、ゆっくりと視線を顔から股間へと下げると、
「ギャーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
絶叫した。
「な、何だお前は!? いったいどこから入ってきた!?」
突然の闖入者と絶叫に股間を隠す事も忘れ、平太は兎にも角にも相手の正体を問い質す。
だが少女はよく息が続くなと思わんばかりの長く大きな絶叫を続け、自らの大声で平太の声など届かないようだった。下の階に家族はいないまでも、このままではご近所が不審に思って通報しかねない。
通報。国家権力の登場。逮捕。マスコミによる報道。泣く両親。取材される近隣住人や元同級生。口々に吐かれる勝手なコメント。あの兄ちゃん。ネットに流される個人情報。荒れるネット掲示板。炎上。糾弾される家族。一家離散。
お約束のような悪夢的展開が瞬時に平太の脳裏をよぎる。
「まずい!」
やけにリアルな想像に突き動かされるようにして、平太は自分でも信じられない速度で少女の口を塞ぎにかかった。
だがその行動が、具体的には下半身裸の男が襲いかかってくる(ように見える)動きが、少女の恐怖心を最大にまで引き上げた。
「ち、近寄るな!」
動転した少女が咄嗟に手に持った杖を振り上げる。早口で聞き慣れない言葉をつぶやくと、杖が電気を帯びる。
平太が片手で少女の口を塞ぎ、もう片手で少女の腕を押さえようとするのと、少女の持つスタンロッドと化した杖が平太に触れるのは同時だった。
「ギャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
二人で声を合わせて叫ぶ。大型獣でも無力化されるほどの電流が、二人に流れた。
「……すまん、もう一回言ってくれ」
パンツを穿き、ゴムの伸びきったスウェットのズボンをずり上げながら、平太が尋ねる。電撃による痺れが脳や鼓膜に影響を与えた可能性を捨て切れない。少女は一瞬不本意だという感じに眉をしかめた後、再び先と同じセリフを吐いた。
「ボクの名はドーラ=イェームン。オリウルプスの宮廷魔術師だ。母なる大地グラディアースより魔王を倒す勇者を求めてこの地にやって来た。キミを名だたる勇者と見込んで頼みがある。ボクと共にグラディアースへと赴き、魔王を討伐してくれ」
少女の言葉は、さっきと一言一句違わない。どうやら耳や脳がおかしくなったわけではなさそうだ。
「どうした? ボクの話は終わったよ。早く返答を。それとも沈黙をもって肯定とするのかい?」
「いや、ちょっと待ってくれ……」
急かす少女――ドーラに片手の掌を向けて制し、平太はもう片方の手で目の間を親指と人差し指で挟んで強く揉む。
なんだろう、このベタな展開。
平太は目の間を揉んでいる指の力を強める。痛い。夢ではない。むしろ痛みならさっきの電撃の方がよっぽど痛かったので、わざわざ確認する事ではなかった。
夢ではないとしたら自分の妄想か。まさか自分の異世界ハーレム願望が、白昼夢を見るほどまで重症だったとは末期患者みたいで地味にショックだ。ニートをこじらせるとここまで人間はダメになるのか。
だとしたら、自分にはもう社会復帰は無理ではなかろうか。ならば辛い現実を無理して生きるより、自分の生み出した妄想の中で勇者として生きる方が良いのではないか。
それに自分は、グランディールオンラインの世界では勇者なのだ。妄想の中の異世界でもきっとうまくやれるだろう。
そうと決まればさようなら現実。ようこそ異世界。平太は顔から手を離すと、悟りを啓いた高僧のような顔で言った。
「いいぜ。この勇者が、お前の世界を救ってやろう」
「おおっ……!」
勇者の快諾を得られ、ドーラは感謝の極みといった感じで両手を組んだ。自分の妄想の産物とはいえ、ここまで感謝感激されると悪い気はしない。
「では善は急げだ。さっそくグラディアースへと来てもらおう」
「え? もう? いや、それはちょっと気が早過ぎるだろ。せめて録り溜めたアニメを消化するまで待って――」
「そうはいかないよ。魔力が残り少なくなってるせいで、こっちに来た門が閉じかけてるんだ」
「閉じたらまた開けばいいだろ」
「簡単に言わないでよ。異世界への扉を開くような高位魔法は、神ならざるヒトの身には過ぎたる奇跡。一生に一回使えれば僥倖というものだ」
「え? じゃあ今使ったから……」
「二度と使えないね」
「おい、ちょっと待て。それじゃあ俺はどうやって帰――」
言い終わる前に、ドーラは平太の手を取り、強引に引き出しの中へと引っ張り込んだ。
「待て待て! ちょっと待て! 何だこの展開は!? 異世界への片道切符なんて冗談じゃないぞ! 終了! この妄想は終了です!」
いくら叫んでも妄想は終わらない。すでに引き出しの中に肩まで浸かっている。少女の力が見た目より強いのか、それとも引き出しの中がすごい吸引力を持つのか、平太がいくら這い上がろうともがいてもどんどん身体が引き出しの中に吸い込まれていく。まるで底なし沼だ。
「せめて、最後に日課を――」
史上最低とも言える最後の言葉を残すと、平太は完全に引き出しの中へと消えた。
二人の姿が完全に消失すると、引き出しは開いた時とは逆に、勝手に閉まった。
主のいなくなった部屋に、静寂が広がる。
こうして日比野平太は、グラディアースへと旅立った。
大いなる誤解とともに。