探してるんです。
店を開けてからずいぶん経つのに客が一人も来ない。
給料日前でもないし、
日曜日のこの時間にはいつも顔を出す近所の道楽ジジイも来やしない。
内心、そう愚痴ったところで入口の古いカウベルがカランと低い音を鳴らす。
先代のママが、この店にはお似合いの音だとよく笑っていたのを思い出す。
私は愛想よく、「いらっしゃい」と吐きだすための息を飲み込んで、
すぐにそれを溜息に変えた。
そして、奥から出迎えに出てこようとする店の子を片手で制する。
ドアのところに立っていたのが、
おサゲを垂らしたもっさりとした感じの女子高生だったからだ。
出勤途中にすれ違う近所のお嬢様高校のブレザーとは違う、
シンプルなセーラー服と淵の厚い眼鏡はその子を余計に貧相に見せた。
うちはどう間違ったって、こんな子が来るようなところじゃない。
バイトにしたって不合格。
「来る店間違ってるよ」
私の声にびくりと慄いて見せながらも、
「さ、探してるんです」
と、
蚊の鳴くような声でその子はささやいた。
いつものジジイが騒いでたらかき消えているような声だ。
私は片手でひらひらと追い返す仕草をすると、
煙草を咥えてカウンターの上のライターを取る。
しかし、ライターはカチカチと頭の悪い音を鳴らすだけで、
まったく仕事をする気配がない。
これだから電子ライターは嫌いだ。
昔は石をこするフリント式のものばかりを使っていたが、
指が汚れるのと色気がないからと、この仕事を始めたときに変えさせられた。
別のライターを出そうと鞄の中をまさぐっていると、
リンの燃える匂いと一緒に仄かなぬくもりが頬を撫でた。
顔をあげるといつの間にここまで入って来ていたのか、
先ほどの女子高生が火のついたマッチをつまんでこちらに差し出していた。
私が煙草を咥えたまま、それをぽかんと眺めていると、
あちっ、と言ってマッチの燃えカスをガラスの灰皿に放った。
そしてすぐに次のをすり直して、再びこちらに差し出してくるので、
今度は受けてやると、その子はにこりと笑って、またあちっ、と言ってマッチを放った。
「それさ、店のマッチなんだけど。あと灰皿もきれいに拭いてあんのね」
そう言ってやると、
すみませんと慌てた様子で灰皿の中の燃えカスに手を伸ばそうとするので、
先に灰皿のほうを取りあげてやる。
拾ってどうするつもりだ?
自分の学校鞄にでも放り込むのか?
私は商売用とは違う、
素っ気ない寝起きのような声色で尋ねる。
「なんか飲む?」
「あ、いえ、大丈夫です」
冷蔵庫からオレンジジュースを出すと、それをグラスに注いでやりながら、
間違ったと内心舌打ちをする。
私はオレンジジュースの嘘っぽい色を見てると、
必要以上に鼻の奥が酸っぱくなるのだ。
「で?」
「はい?」
私が黙って見つめてやると、
その子はなにを勘違いしたのか鞄の中から財布を取り出し、
おいくらですかと千円札を何枚か引っ張り出した。
カツアゲか。
「いらないわよ、んなもん。なんか用があってここに来たんでしょ?」
「あ、えっと、はい。その……」
「あんたもしかして、ずっとそんな調子でこのビル回ってんの?」
「あ、はい」
「上から? 下から?」
「へっ?」
「あんた見た目通りに頭の回転遅いね。上の階から? それとも下の階から回ってきたの?」
「あ、う、上からです。エレベーター使いました。すみません」
よくわからない理由で謝るその子に私はさっきよりも興味が湧いた。
うちの店が入っているこのビルのふたつ上は看板すら上がっておらず、
出入りしている連中も見るからに真っ当な人間ではない。
つまりこの子はすでにそこを回ってきたということになる。
やはり水商売をやりたいのだろうが、この格好ではまず話すらできまい。
しかし、その度胸にわずかばかり気持ちが動く。
「恐かったろ?」
いや、恐いかと聞く方が正解か。
この店だって、こんな子供からしたらおっかないばかりだろう。
しかし私の質問に、「少し」と答えると、
その子はなぜか安心した様子ではにかんだ。
そしてようやくオレンジジュースに手を伸ばすも、
見事にグラスをこかす。
「あーあー、なにやってんだい」
「す、すみません」
そう謝って、すぐに制服の袖でカウンターを拭こうとするので、
私は慌ててその手を握り、その感触にぎょっとする。
その子の左手の甲。
そこには盛り上がるようにして5センチほどの古い傷跡があった。
私の視線に気付くと、
「あ、気持ち悪いですよね」
そう言ってそこに右手を被せた。
「んにゃ」
と、
答えてから、
「どうしたんだい? って訊かれるのはイヤかい?」
と訊ねる。
その言葉に、すぐに首をふるふると横に振る。
長いおさげが肩のところで左右に揺れる。
「わからないんです」
その言葉から始まった話によると、物心ついた頃にはその傷はすでにあって、
それがどうして出来たのか母親にも教えてもらえなかったらしい。
話終わり。
身も蓋もない。
しばらくして、その子は席を立って深く頭を下げる。
引き続き他の店を回るらしい。
私はその背中を見送る。
カランと入ってきたときよりも高い音でカウベルが鳴る。
パタンと静かに店のドアが閉まる。
私は足の高いスツールに腰かけると、
煙草を咥え、再び電子ライターをカチカチ鳴らして、カウンターに放り投げる。
火の付いていない煙草を目一杯吸い込むと、
口の中に葉っぱのにおいが直に広がった。
向かいの壁に掛かる、スタンランのレプリカポスターが染み入るように目に入ってくる。
猫にせがまれながら殺菌牛乳をそっと飲むその少女の横顔。
それを眺めながら、久しく忘れていた昔話を思い返す。
これ以上金を持っていかれてはだなんだと、泣きながら私の足にしがみついてきた女。
それを蹴り上げる私。
その勢いで女が転がり、茶箪笥に体をぶつける。
茶箪笥のガラスが勢いよく割れる。
割れたガラスの一枚が、そこで膝を抱えていた娘の手の甲を――滑った。
畳みの上にこぼれたオレンジジュースが、そこいら中に安っぽいにおいを撒き散らす。
それが最後の記憶。
そこから腐り腐ったところで前のママに拾われて、
亡くなると同時にこの汚い店を形見にもらった。
こんなになってまで思いださなきゃならんかねぇ。
今さら探してだしてどうするつもりなのか。
どうして言える?
その傷は自分が付けた傷だって。
ふとあの子の座っていた席を見ると椅子の上に小さな紙袋がのっていた。
忘れ物か。
悪いと思いつつ、袋の中を覗く。
先に出たのが舌打ちで、次に出たのは溜息だった。
……そりゃ道楽ジジイも遊びに来んわ。
こういうのはどうしたらいいのか。
わかんないねぇ……。
私は奥に向かって野太い声を張る。
「たけし、ちょっと出るから店頼むわ」
「ちょっとママ! なんでそっちの名前呼ぶのよ!! 嫌がらせ!?」
奥からも似たような汚い声が返ってくる。
オレは紙袋を引っ掴んで店のドアを開ける。
追いかけて、なんて言う?
今更なんて言うよ、ええ?
こんな格好して。
こんなおばけみたいな顔して。
忘れ物よ?
それとも……。
ビルの廊下から下を覗きこむ。
六月のぬるい風が一階の中華料理屋の不味い匂いをもちあげてくる。
一度だけそれを吸い込むと、
螺旋階段をおぼつかない足取りで降りるその背中に声をかける。
ちょっと待ちな、バカ娘!
紙袋の中で青いリボンでラッピングされた箱ががさりと揺れる。
その上にはシールが貼られてあった。
『FATHERS DAY!』