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天才令嬢追放~凡人が作る壊れない国~

仕事しながらふと思いつきました

「エレオノーラ・フォン・ベルンシュタイン!貴様との婚約を、今この場をもって破棄する!」


 王太子の甲高い叫びが、夜会を彩るシャンデリアの水晶に乱反射した。


 同時に、会場内の演奏が止まった。ヴァイオリンの弓が宙で凍りつき、ピアノの鍵盤を叩く指が硬直する。刺繍の施されたドレスをまとった貴婦人たちの扇子が、まるで時計の針のように一斉に静止した。


 そうして次の瞬間──会場は蜂の巣を突いたような、大きなざわめきに包まれた。


「なんですって!」「王太子殿下が!」「ベルンシュタイン令嬢を!」


 貴族たちの囁きが石造りの壁を這うように広がっていく。社交界の華である夜会が、一転して醜態(スキャンダル)の坩堝へと変貌する。その光景を、財務局監査課の中堅官僚クルト・マイヤーは壁際で空のグラスを指でなぞりながら、冷めた目で眺めていた。


 演壇の上では、王太子殿下が金色の髪を振り乱して、自身の婚約者である宰相令嬢エレオノーラ・フォン・ベルンシュタインを断罪している。その傍らには、可憐な令嬢──おそらく次の婚約者となるのだろう女性が、涙を浮かべながら立っている。


 なんとまあ陳腐で醜悪なやり取りなのか、とクルトは心の中で小さく毒づく。


 政略結婚に政略破棄。王族の恋愛劇に民衆は熱狂するが、その裏で何人の官僚が徹夜で尻拭いをするか誰も考えやしない。


「王室予算の不正流用!」


 王太子の声が床の大理石を叩く。


「国政への不当な介入!」


 その言葉は正義の響きをまとって会場に木霊する。


──クルトはグラスを指でコツコツと叩いた。見る人間によっては、ある意味では真実だ。だが事実とはやや違う。いや、かなり違う。


 クルトの立場──財務局監査課という、金の流れを追う部署の人間からすれば、エレオノーラ・フォン・ベルンシュタインの金の扱いは「不正」とは違うのだ。


 横領のように業務上などで自分が管理している他人の金銭や物を、権限がないのに自分のものにすることもなく、不正会計をするわけでもなく、不正受給をするわけでもなく、脱税をするわけでもない。


 ただ──特例として、「調整」という名目で手続きを省略し、エレオノーラのところで多くを処理していた。


 不正というのは多くが隠蔽を伴う。だがその処理も別に隠されたものではない。金の動きはちゃんと報告されていた。


 むしろ、あまりにも複雑で、高度で…誰も理解が追いつけないほどのものであった。


 それを「不正」と断じるのは事実としては違うのだが、まあ人によって、特にちゃんと報告書を隅から隅まで読まない人間にとっては理解できるものではないのだろう。


 × × ×


 クルトが初めてエレオノーラ・フォン・ベルンシュタインの「調整」を目の当たりにしたのは三年前のこと… 当時、クルトはまだ若手の監査官だった。


 宰相府の大会議室には、財務局、軍務省、外務省、内務省、食糧庁──ありとあらゆる省庁の幹部が集められていた。


議題は「北部三州の飢饉対策」


すでに会議が始まって三時間が経過していたが、議論は平行線を辿っていた。

「食糧庁の備蓄では足りない!」

「軍の輸送力を使えば──いや、国境警備が手薄になる!」

「では外国から購入を──財源は? 今年度予算は既に逼迫している!」

 怒号が飛び交う。誰もが自分の省庁の都合を主張し、誰も折れない。若手のクルトといえばこの不毛な議論を眺めるくらいのことしかできなかった。


すると──


「失礼いたします」


──凛とした声が、喧騒を切り裂いた。

 入ってきたのは一人の若い女性だった。栗色の髪を後ろで結い、シンプルな紺色のドレスを着ている。装飾品は最小限。だが、その佇まいには、貴族特有の気品が満ちていた。

 

──エレオノーラ・フォン・ベルンシュタイン


 宰相の娘であり、王太子の婚約者。

 彼女が会議室に入った瞬間、不思議と静寂が訪れた。


「北部三州の飢饉対策、解決策を持参いたしました」

 彼女は、淡々とそう言うと、分厚い書類の束を机に置いた。


「まず食糧確保ですが──食糧庁の備蓄だけでは確かに足りません。しかし、『王室儀典費』の今年度余剰分が四万三千リラあります。これを流用して隣国から小麦を購入します」

「儀典費を食糧に?それは目的外使用だ!」


 財務局長が即座に反論する。だが、エレオノーラは涼しい顔で続けた。


「目的外ではありません。今月予定されていた『秋の狩猟祭』を中止し、その予算を飢饉対策に回します。国王陛下の御裁可も既にいただいております」


 彼女は、国王の御璽が押された書類を提示した。


「次に輸送問題ですが──軍の輸送力を使う必要はありません。『緊急災害対策費』から民間の運送業者に委託します。ギルバート商会、シュナイダー運輸、マイヤー海運の三社に分散発注することで、リスクも分散できます」

「待て、災害対策費は既に──」

「今年は幸い大きな災害がありませんでした。繰越分が六万リラあります。そのうち三万リラを輸送費に充当します」

 エレオノーラは、まるで事前に用意していたかのように、次々と書類を取り出す。


「残る三万リラは、北部三州の農地復興に使います。来年の作付けが間に合うよう、『内務省地域振興費』と『農業省改良費』を按分して──」

「ちょっと待て!」


 内務省の次官が机を叩いた。


「按分だと? 勝手に予算を混ぜるな! それでは監査ができないだろう!」

「できます。今回の按分計算式と、お金の流れをすべて記録した報告書を、既に作成してあります」


 取り出した資料の厚さは、優に百ページを超えている。


「どの予算項目から、どれだけ、どのような根拠で按分したか。すべて記載してあります。監査課の方々が追跡できるよう、通常の勘定科目に変換した対照表も付けてあります」

 クルトは、その書類を受け取り──目を見開いた。

 そこには、各省庁の予算項目を、活動内容ごとに分解し、飢饉対策に必要な費用を按分して算出している。しかも、それぞれに法的根拠まで併記されている。


「財源は、以上で確保できます。総額十三万リラ。北部三州の飢饉対策には十分です」


 エレオノーラは、会議室の全員を見渡した。


「食糧購入は明日から開始。輸送は三日後に開始。一週間以内に、北部三州の住民全員に食糧が行き渡ります」

「一週間……?」

「ええ、必要な手続きは踏みますが、不要な手続きは──省略します。それで早急に動けます。」

「不要な手続きなど──」

「あります」


 彼女は、きっぱりと言い切った。


「例えば、三社への分散発注。通常なら入札が必要ですが、緊急時は随意契約が認められます。また、各省庁への稟議も、宰相である父の決裁で一括処理できます。国王陛下の御裁可も、既にいただいています」

 彼女は、また書類を示す。


「法的には、何の問題もありません。ただ──『前例がない』だけです」


 会議室は静まり返った。誰も、反論できなかった。

 彼女の提案は、完璧だった。財源も確保されている。手続きも問題ない。そして何より──1週間で人命が救える。

「……では、ベルンシュタイン令嬢の案で進めることに、異議はないか」

長官の1人が重々しく問う──誰も、何も言わなかった。


「では、決定とする」


会議は終わった。三時間の不毛な議論が、彼女の登場でわずか十分で解決した。

 長官たちが次々と会議室を出て行く。その中で、クルトはエレオノーラが残した報告書を見ていた。

「何かご不明な点でも?」


 ふと、声がした。振り向くと、エレオノーラが立っていた。会議室には、もう二人きりだった。

「……あなたは、これを一週間で?」

 クルトは、報告書を掲げた。

「ええ」

 彼女は、淡々と答える。

「どうやって」

「計算しただけです」

「計算……?」

「各省庁の予算項目を分解し、活動内容ごとに按分し、必要な費用を算出し、最適な配分を──計算しただけです」


 彼女は、まるで「一足す一は二」と言うかのように、当たり前のことのように言った。


「あなたには、できませんか?」

「……できるわけがありません」


 クルトは、正直に答えた。

 彼女は、小さく微笑んだ。それは、優しい微笑みではなかった。むしろ──哀れむような、微笑みだった。


「そうですか。では、私がやるしかありませんね」

 彼女は、そう言うと、会議室を出て行った。その後ろ姿を、クルトは呆然と見送った。

 それが、クルトとエレオノーラの──最初で最後の、まともな会話だった。


 × × ×


 それから三年間、クルトはエレオノーラの「調整」に振り回され続けた。


──食糧価格の安定化、研究費の配分、地方自治体への補助金、災害対策費──ありとあらゆる予算項目が、彼女の「調整」の対象だった。


 そそのすべてが完璧で、論理的には筋が通っていて、手続き的にも問題なかった。だからこそ監査課にとっては悪夢だった。予算書と実際の支出が乖離している。金の流れが複雑すぎて追えない。報告書は膨大すぎて、読むだけで数日かかる。


 そして何より──エレオノーラ・フォン・ベルンシュタイン一人にしか全体像が見えていない。


「帳簿の数字が合わない。理由は、一人の令嬢の『調整』によって」


 こんな馬鹿げた報告書を、クルトは何度書いたことか。決裁ルートを無視した金の流れ。それを確認するたびに突き返される「特例」の稟議書。不正を追及しようとすれば、それをどこに使ったのかとぐうの音も出ないほどの資料でもって正規のものだと見せつけてくる。


 クルトはエレオノーラを憎んだ。いや、正確には、彼女の「調整」を憎んだ。あれは組織への冒涜だ。一人の人間が、国の財政を支配している。そんな国が、まともな国と言えるのか。


 × × ×


 さて、では粛々と進む茶番劇にも近い婚約破棄劇にて、断罪される当のエレオノーラといえば、完璧な淑女の作法のまま、ただ冷然とそれを受け入れていた。彼女の表情からは、怒りも、悲しみも、絶望も読み取れない。やがて、王太子の一声で兵士たちが壇上に上がると、彼らはエレオノーラの両脇を掴み、会場から引きずり出そうとする。


 その間際──そこでようやく彼女は薄い唇を開いた。


「婚約破棄、謹んでお受けいたします」


 声はまるで降り積もる雪のように静かだった。だが、その声は不思議と会場全体に響いた。その堂々たる振る舞いに兵たちは戸惑ったような態度になる。


「一つだけご忠告を──私を追放すれば、この国の予算は半年で破綻しますわ」


 ざわめく会場を背にエレオノーラが兵士に連れられて会場を出た──その背中をクルトは冷たい目で見送った。


 破綻するだと? 

 一人の人間がいなくなったとて破綻するわけがない。多少のごたつきは起きるだろうが、明日からは正常な金の動きに戻るだけのことだ。明日からはきっと、数字が合う帳簿だけを相手にできる。規則に則った正しい手続きだけを踏める──そう思うと心が軽くなった。


 そう、クルトはこの時点では、あの女の言葉の本当の重みを──その「調整」という名の細い一本の綱の上で、この国が綱渡りをしていたという事実を──まったく理解していなかったのだ。


 × × ×


 翌日。


 クルトが財務局の執務室に出勤すると、そこは既に修羅場と化していた。


「おい、クルト! お前、昨日の夜会にいただろう! 本当にベルンシュタイン令嬢が追放されたのか!?」


 同僚のフランツが、血相を変えて詰め寄ってくる。


「ああ、見た。盛大な茶番劇だったよ。……それより、なんでこんなに朝から慌ただしいんだ?」


「決済が回らない!承認が降りない!あの女が一手に引き受けていた『処理』が全部止まってる!」


 フランツは、机の上に積まれた書類の山を指差す。


「これが全部、昨日までなら『ベルンシュタイン令嬢の調整』で一日で片付いてたやつだ。それが今日は、誰も決済できない。稟議書の決裁ルートが全部宙ぶらりんだ!」


 クルトは書類の山を見る。確かに多い。だが──。


「落ち着け。今まで特例で通していたものを正規のルートに戻すだけだ。時間はかかるが、それが正しい手続きだろう?」


「そんなことはわかってる!!だけどこれが今日の昼までにやらないといけないのにさっぱり進まないんだよ!!このままじゃ国が崩壊しちまうよ!!」


「わかったから落ち着けフランツ、俺もやるから。まったく大げさだな」


 クルトは鼻で笑った。

 だが、その笑いが凍りつくのに、そう時間はかからなかった。


 × × ×


 エレオノーラ追放から、わずか三日。

 クルトの楽観は、完全に吹き飛んでいた。


 財務局の扉が、次々と蹴破るように開けられる。


「国境守備隊への『特別手当』が止まっている! 士気に関わる!」


 軍服を着た軍務省の官僚が書類を叩きつけるように机に置く。


「パンの価格が高騰している! 『補填金』がなければ明日から市場連動価格に戻すぞ!」


 商業ギルドの代表が怒鳴り込んでくる。


「『儀典費用』から回されていた研究費が凍結された! 蒸気研究が止まるぞ! 国の未来を何だと思っている!」


 王宮技官たちが顔を真っ赤にして詰め寄ってくるので、クルトは、それらすべてに同じ答えを返した。


「帳簿上そんな予算は存在しない」


 予算は、議会で承認されたものだけが執行される。それ以外の支出は認められない。それが、財務局監査課の鉄則だ。というよりはそれ以外の返答は許されないというのが正しいだろう。


「特別手当は予算書のどこにも記載されていない」


「食糧価格の調整は食糧庁の管轄だ。財務局は関知しない」


「儀典費用から研究費への流用が許されるわけがない。却下だ」


 クルトの答えは監査部としては正しかった。そもそもにして予算が下りないのだから出すこと自体が間違っているのだ。


──だが現実は彼の正しさなど待ってくれなかった。


 × × ×


 四日目。


 朝一番の財務局にマリアンネ・シュトラウスが現れた。


 彼女はクルトの住む長屋の近所に住んでいた女性で、夫は国境守備隊の一兵卒、エーリヒ・シュトラウス軍曹だった。


 だった──過去形だ。


 エーリヒは二週間前、国境の小競り合いで戦死した。隣国の山賊団が国境を越えて侵入し、それを撃退する過程で流れ弾に当たったのだという。


 クルトは葬儀に参列した。長屋の住人として、顔見知りとして、それが最低限の礼儀だと思ったからだ。


 葬儀で、マリアンネは泣いていなかった。ただ黒い喪服を着て、じっと棺を見つめていた。その隣には、10歳になったばかりの長男や次男、末弟が立っていた。子供たちも、母親の手を握りしめて、じっと立っていた。誰も泣かなかった。いや、泣けなかったのかもしれない。


 葬儀が終わり、クルトがマリアンネに声をかければ、憔悴しながらも彼女は悲痛ながらもなんとか微笑んでみせた。


「大丈夫です、私が頑張らないとこの子達の未来がありませんから」


 その声は震えていたが、母としての強さがそこにはあった。クルトは何も言えず、ただ頭を下げることしかできなかった。


 そして今──その彼女が、財務局の執務室に立っていた。


 だが、葬儀の時とはまるで違う姿だった。彼女の顔は青ざめ、目の下には深い隈ができている。髪は乱れ、服はどこか薄汚れていた。あの時見せた母としての強さは、もう残っていなかった。


「夫の特別弔慰金が支払われないんです!!お願いします! 子供が三人いるんです!今月の家賃も払えないんです!」


 マリアンネの声が執務室に響く。その声は、もはや懇願というより悲鳴に近かった。


「マリアンネさん……落ち着いて。まず、状況を説明してください」


 クルトは席を立ち、できる限り落ち着いた声で答えようとした。


「説明って…特別弔慰金が支払われないから軍務省に行ったんです。そうしたら、『特別弔慰金の支払いは財務局が止めている』と言われて……」


 クルトは眉をひそめた。特別弔慰金?そんな予算項目は、聞いたことがない。


「少し待ってください」


 クルトは、軍務省に問い合わせれば軍務省の官僚は、苦々しい声で答えた。


「特別弔慰金は、『戦死した兵士の遺族に対する一時金』です。通常の弔慰金に加えて、生活支援の意味合いで支払われます」


「予算項目は?」


「ありません」


「……は?」


「正式な予算項目としては存在しません。ベルンシュタイン令嬢が『調整』で捻出していたんです」


クルトは頭を抱えた。


「どこから捻出を?」


「主に『王室儀典費』と『緊急災害対策費』からです。儀典費の余剰分と、災害対策費の繰越分を按分して──」


「待て。それは、完全に目的外使用だ」


「ですから、『調整』なんです。ベルンシュタイン令嬢が宰相と国王陛下の決裁を得て、特例として──」


「その特例はもう使えないんだ!!」


 クルトは電話を切った。そしてマリアンネに向き直った。


「申し訳ありませんが……特別弔慰金は、正式な予算項目ではありません。したがって、支払うことができません」


「え……?」


 マリアンネの顔が、絶望に歪む。


「で、でも……軍務省の人は、『必ず支払われる』と……葬儀の時に、そう言ってくれたんです……」


「それは、ベルンシュタイン令嬢がいた頃の話です。今は──」


「どういうことですか!夫は国のために死んだんです!それなのに、お金が払ってもらえないなんて!!!!」


 絶叫に近いマリアンネの声が執務室に響き、他の官僚たちが一斉にこちらを見た。


「規則です。予算として承認されていないものは、支払えません。その、生活保護などの正規の手続きを踏んでいただければ──」


「手続き?手続きって…どれだけかかるんです?」


「役所に書類を提出し、承認を得て……最短でも三ヶ月は──」


「三ヶ月!?」


 マリアンネが、クルトの机に手をついた。その手は、震えていた。


「今月の家賃が払えないんです。子供たちに食べさせるものもないんです。三ヶ月なんて、待てません!」


「ですが、規則は──」


「規則!規則!あんたたち役人は、規則さえ守っていれば、人が死んでもいいんですか!」


 その叫びがクルトの胸を貫いた。彼は何も言い返せなかった。


「私、信じてたんです。国が、私たちを見捨てないって。夫が命をかけて守った国が、私たちを見捨てるはずがないって……」


 マリアンネの目から涙が溢れた。その声は嗚咽に変わった。


「でも、違ったんですね。国は、帳簿しか見てない。数字しか見てない。私たちのことなんて、見てくれない……」


 マリアンネは泣き崩れた。そして、絞り出すように言った。


「あんたたち役人が帳簿ばかり見て……夫は、犬死によ……」


 マリアンネは、よろよろと立ち上がり、執務室を出て行った。その背中を、クルトは見送ることしかできなかった。


 執務室は、静まり返っていた。誰も、何も言わなかった。ただ、空気が重かった。


「……国境守備隊の士気が、下がっているらしい」


 フランツが、小さく呟いた。


「何?」


「特別弔慰金が支払われないことが広まって……兵士たちが動揺しているそうだ。『俺たちが死んでも、国は何もしてくれないのか』って」


「それは……」


「軍務省からも報告が上がってる。『このままでは、国境守備隊の維持が困難になる』と」


 フランツは、別の書類を取り出した。


「特別弔慰金は兵士たちの『保険』だったんだ。危険な任務でも、『もし自分が死んでも、家族は守られる』という安心感があったから、兵士たちは戦えた」


「だが、それは正式な予算ではない」


「わかってる。でも、それがなくなった今……兵士たちは、何のために戦うんだ?」


 クルトは答えられなかった。彼の頭の中には、マリアンネの言葉が響いていた。


──夫は犬死によ。


 同時にエレオノーラの言葉が頭に響く。


──私を追放すれば、この国の予算は半年で破綻しますわ


 そしてクルトは、ようやく気づき始めていた。エレオノーラの「調整」が支えていたものの重さに。それは単なる数字の羅列ではなく、マリアンネのような、生きた人間たちの命だったのだと。だが、その理解はまだ完全ではなかった。本当の意味で理解するには、さらなる衝撃が必要だった。


 × × ×


 五日目。


 朝、クルトが執務室に着くと、フランツが青ざめた顔で待っていた。その顔色は、まるで幽霊でも見たかのように血の気が失せている。


「クルト、大変だ。パンの価格が暴騰している」


「パンの?」


「ああ。昨日の夕方から、市場のパン屋が一斉に値上げを始めた。前日の二倍だ」


 クルトは、フランツが差し出した報告書を手に取った。そこには、王都の主要市場における食糧価格の推移が細かく記載されていたが、そのグラフの曲線は、まるで断崖絶壁のように急激に上昇していた。


 パンの価格──確かに、二倍に跳ね上がっている。いや、一部の市場では三倍近い値をつけているところもある。


「原因は?」


「食糧庁の備蓄放出が止まっている。ベルンシュタイン令嬢が『調整』で出していた『物価安定補填金』が途絶えたせいだ」


 フランツは、別の書類を取り出す。その手が微かに震えていることに、クルトは気づいた。


「商業ギルドから、緊急の通告が来ている。『このままでは、市場が混乱する。早急に対応しなければ、責任は取れない』と」


 クルトは、立ち上がった。執務室の窓から外を見ると、いつもなら穏やかな王都の街並みが、どこか不穏な空気を帯びているように見えた。


「市場の調査に行く」


「っ!! 俺も同行する」


 二人は、財務局を飛び出した。


 × × ×


 王都の中央市場は、いつもなら朝の活気に満ちているはずだった。焼きたてのパンの香ばしい匂い、新鮮な野菜を並べる店主たちの掛け声、買い物客たちの賑やかな会話──そうした日常の音と匂いが、市場を彩っているはずだった。


 だが、今日は違った。


 市場全体が、怒りと絶望という名の重苦しい空気に包まれていた。クルトとフランツが石畳の敷かれた市場の入口に足を踏み入れた瞬間、それは肌で感じられるほどの圧力となって二人に襲いかかってきた。


 まず目に飛び込んできたのは、パン屋の店先に形成された群衆だった。それは行列というよりは、むしろ暴動の一歩手前といった様相を呈していた。人々が押し合いへし合い、我先にとパンを買おうとしている。その光景は、まるで難民キャンプで配給を奪い合う人々のようだった。


「一家族一斤まで!それ以上は売れません!」


 パン屋の店主が、悲鳴のような声を上げている。その声は、もはや商売人のものではなく、追い詰められた人間の叫びだった。


「なんでそんなに高いんだ!昨日は半分の値段だったぞ!」


 群衆の中から、中年の男性の怒号が飛ぶ。その顔は怒りで赤く染まり、拳を振り上げている。


「小麦が高騰してるんだ!こっちだって仕入れ値が倍になってる!これでも利益なんてほとんど出ないんだよ!」


 店主の返答は必死だった。だが、群衆はそれを聞き入れようとしない。


「嘘をつくな!お前らが儲けようとしてるだけだろう!火事場泥棒め!」


 怒号が飛び交う中を、クルトは歩いた。その光景は、まるで悪夢のようだった。これが、つい数日前まで平和だった王都の市場だとは、とても信じられない。


 市場の中を進むにつれて、状況はさらに悪化しているように見えた。肉屋も、八百屋も、魚屋も──ありとあらゆる食料品店が軒並み値上げをしていた。そしてどの店の前にも、怒りと不安に満ちた群衆が押し寄せていた。


 ある八百屋の前で、クルトは足を止めた。そこでは、母親らしき女性が、店主に必死に懇願していた。


「お願いします、子供が4人いるんです!この値段じゃ、まともに食べさせられない!せめて、じゃがいもだけでも昨日の値段で売ってもらえませんか!」


 その女性の声には、涙が混じっていた。やつれた頬、疲労で濁った目、震える唇──それは、飢えた人間の顔だった。


「お気持ちはわかります。でもこっちだって、仕入れ値が上がってるんです。これ以上は無理なんですよ。本当に申し訳ない」


 店主の声にも、苦悩が滲んでいた。彼もまた、被害者なのだ。

だが今のクルトたちにはどうすることもできない。ただ俯き、その場を離れようとした──その時だった



「役人だ!」


 誰かが叫んだ。その声は、まるで敵を見つけた狩人のようだった。


「財務局の役人だ!」


 クルトたちは財務局の制服を着ていた。王都の市民なら、誰もが知っている紺色の制服だ。


 群衆の空気が、一瞬で変わった。怒りの矛先が、一斉にクルトとフランツに向けられる。人々が、じりじりと二人を取り囲み始めた。クルトは制服を着てきたことを後悔した。


「お前たちが仕事をしないから、こんなことになったんだ!」


「説明しろ!なぜパンが高騰している!なぜ何もしない!」


 怒号が、石畳に反響する。その音は、まるで地獄の底から響いてくるようだった。


 クルトは必死に冷静さを保とうとした。心臓が早鐘を打っている。だが、ここで怯んではいけない。彼はできる限り落ち着いた声で答えようとした。


「価格高騰の原因は、食糧庁の備蓄放出が遅れているためです。財務局としては、正規の手続きを踏んで──」


「そんな役所の名前なんて、どうでもいい!」


 群衆の一人、労働者風の服を着た若い男が、クルトの胸ぐらを掴んだ。その手には、力仕事で鍛えられた強い力がこもっている。


「パンをよこせ!まともな値段で食べ物を売れ!俺たちは、ただそれだけを言ってるんだ!」


「手続きを踏めば、備蓄は放出されます。ただ、議会の承認が必要で──」


「手続き? 議会の承認?」


 別の男性が、吐き捨てるように言った。


「そんなもの待ってられるか!今日、今この瞬間、俺たちの子供が腹を空かせて泣いてるんだ!一週間後、一ヶ月後の話なんか聞きたくない!」


 フランツが、クルトを掴んでいる男を引き離そうとする。だが、群衆はさらに詰め寄ってきた。その数は、もはや数十人に膨れ上がっていた。


 クルトは初めて本当の意味での恐怖を感じた。帳簿は完璧だ。手続きは正しい。予算執行のルールに則っている。財務局監査課として、自分たちは何一つ間違ったことはしていない。


 だが、その正しさが、飢えた市民の怒りの前で、まったく無力だった。いや、むしろその正しさこそが彼らの怒りを増幅させているのだ。


「あんたらが帳簿ばっかり見てるから、こんなことになったんだ!」


 群衆の中から老婆の声がした。その声は震えていたが怒りに満ちていた。


「ベルンシュタイン令嬢がいた頃は、こんなことにならなかった!あの方は、ちゃんとパンの値段を抑えてくれてた!俺たちが飢えないように、ちゃんと考えてくれてた!」


 その言葉に、群衆が一斉に沸いた。まるで、堰を切ったように。


「そうだ! あの人は本当の意味で国民のことを考えてくれてた!」


「王太子殿下が余計なことをするから!正義だの何だの言って、結局俺たちが苦しむだけじゃないか!」


「役人どもが無能だから!マニュアル通りにしか動けない無能どもが!」


 様々な罵声が、クルトとフランツに浴びせられる。その一つ一つがクルトの心に突き刺さった。


 その中でクルトは考えていた。エレオノーラ・フォン・ベルンシュタイン。あの女が、いかにしてパンの価格を抑えていたのか。


 クルトは知らない。知ろうともしなかった。ただ、帳簿に載らない金の流れがあることだけを、苦々しく思っていた。それは組織への冒涜だ、システムへの挑戦だ──そう断じていた。


 だが、今この瞬間。その「帳簿に載らない金」がなくなった途端、目の前で市民が飢えている。市民が怒っている。市民が絶望している。


 そして何より──市民が、エレオノーラの名を呼んでいる。追放された「悪女」の名を、救世主のように呼んでいる。


「説明しろ!役人!お前たちの給料は俺たちの税金だぞ!」


 群衆の怒号が、クルトを包む。その声の中に、彼は必死に言葉を探した。

何か、この人々を納得させられる言葉を。

何か、この怒りを鎮められる説明を。


 だが、見つからなかった。


 どんな説明をしても人々の腹は満たされない。どんな正論を言っても、この人々の怒りは収まらない。手続きが、規則が、予算が──そんな言葉は、飢えた人間には何の意味も持たない。


 群衆がさらに詰め寄ってきた。その圧力に、クルトは後退する。石畳に足を取られ、よろめき倒れるが、民衆は止まらない。伝播する怒りが波のように迫る中──甲高い笛の音が響いた。


 市場を警備していた衛兵たちが駆けつけてきたのだ。彼らは、群衆とクルトたちの間に割って入り、必死に二人を守ろうとする。


「下がれ! 下がるんだ!暴動を起こせば、お前たちが損をするだけだぞ!」


 衛兵隊長の声が響く。だが、群衆はすぐには引かなかった。怒りに駆られた人々は、まだ何か叫び続けている。


 衛兵たちに守られながら、クルトとフランツは、何とか市場から逃げ出した。石畳を蹴る足音が、二人の背中を追いかけてくるように響く。市場を出て、ようやく二人は立ち止まった。どちらも息を切らし、しばらく何も言わなかった。ただ、足音だけが石畳に響く。


「……クルト」


 ようやくフランツが口を開いた。


「俺たちは、間違ってるのか?」


 その問いに、クルトは答えられなかった。


 間違っていない。手続きは正しい。規則に則っている。財務局監査課として、やるべきことをやっている。


 だが──。


 だが、それが正しいのなら、なぜ市民が飢えているのか。なぜ、母親が泣いているのか。なぜ、子供が腹を空かせているのか。


「……わからない」


 クルトは、そう答えるしかなかった。その言葉は、自分自身への問いかけでもあった。


 × × ×


 その夜、クルトは自室で帳簿を眺めていた。


 数字は完璧に合っている。予算執行の記録も、正確だ。財務局監査課として、何一つ間違ったことはしていない。


 だが──。


 その数字の向こう側で、誰かが泣いている。誰かが飢えている。誰かが死にかけている。


 クルトは帳簿を閉じた。そして窓の外を見た。


 王都の夜景が静かに広がっている。灯りの一つ一つが、そこに住む人々の営みを表している。


 だが、その静けさの下で何千人もの市民が、パンを買えずに苦しんでいる。何百人もの母親が、子供に食べ物を与えられずに泣いている。


 マリアンネの顔が浮かぶ。

 市場で見た母親の顔が浮かぶ。


 そして、エレオノーラの最後の言葉が耳に響く。


──私を追放すれば、この国の予算は半年で破綻しますわ


 彼女は正しかった。いや、正しいというより──彼女は知っていたのだ。


 自分の「調整」が何を支えていたのか。その「調整」がなくなれば何が起きるのか。数字の向こう側に生きた人間がいることを。


 クルトは初めて本当の意味で気づいた。


 エレオノーラの「調整」は、単なる予算の最適化ではなかった。それは、効率化でもなく、天才の自己満足でもなかったことを。


 それは、数字の向こう側にいる、生きた人間たちの命を支えていた。一人一人の、顔のある人間たちの生活を守っていた。


 そして──その「調整」を、クルトは憎んでいた。組織への冒涜だと、システムの破壊だと、罵っていた。


 だが、今。その「冒涜」がなくなった途端、人が死にかけている。


 クルトは小さく嗤った──嗤うしかなかった。


 × × ×


 七日目。


 財務局は完全に機能不全に陥っていた。執務室は怒鳴り声と悲鳴に満ちている。机の上には、処理しきれない書類が山積みになっていた。休みなんぞとれるわけもなく、朝から晩まで働き続けるしかできない中で、もはや正常な判断能力さえ失いつつあった。


 そんな中でフランツとクルトは、最後の望みをかけて、ある場所に向かった。


 宰相執務室。エレオノーラの父、宰相フリードリヒ・フォン・ベルンシュタイン。


 娘が金の流れを「調整」していたのなら、父である宰相が何か知っているはずだ。そう考えたのだ。


 だが──


 宰相執務室のドアを開けた瞬間、クルトたちは絶句した。


 そこにいたのは、「抜け殻」という言葉が相応しいものであった。宰相フリードリヒは、執務室の椅子に座っていた。だが、その目には光がなかった。顔は青ざめ、手は震えている。かつて王国の宰相として君臨していた男の面影は、もうどこにもなかった。


 机の上には、書類が散乱していた。いや、散乱しているというより、放置されていた。決裁印が押されていない稟議書が、山のように積まれている。


「宰相閣下……」


 クルトが声をかけると、宰相はゆっくりと顔を上げた。その動きは、まるで重い錘でも持ち上げるかのように緩慢だった。


「ああ……君たちか……財務局の……」


 その声は、か細かった。


「閣下、お伺いしたいことがあります。ベルンシュタイン令嬢の『調整』について──」


「調整……ああ、調整……」


 宰相は、首を振った。まるで悪夢から逃れようとするかのように。


「私は……何も知らない……」


「何も、ですか?」


「金の『調整』は、すべてあの子が……私は、最終報告を受けていただけだ……」


 宰相の目が、虚ろに部屋を彷徨う。


「毎月、あの子が分厚い報告書を持ってくる。『こう調整しました』『ここから按分しました』『この予算をこう使いました』……数百ページの報告書を、あの子は一時間で説明する」


 宰相は、震える手で机の上の書類に触れた。


「私は……それに決裁印を押すだけだった。内容を理解する暇もなく……いや、理解しようとしても、できなかった……」


「閣下……」


「あの子は、天才だった。私の娘なのに……いや、だからこそか……私は、あの子に甘えていた。すべてを任せていた……」


 宰相の声が、途切れた。その沈黙の中に、後悔と絶望が滲んでいた。


「そして今……あの子がいない。私は、何もできない……国が……国が、止まっていく……」


 クルトは、この男が本当に何も知らないのだと理解した。いや、知っていたのかもしれない。だが、すべてを娘に任せきりにしていた。そして今、娘が追放され、何もできなくなっている。宰相という地位にありながら、実質的には何一つ機能していない。この国の頂点にいる男が、もはや抜け殻に過ぎないという現実が、クルトに突きつけられた。


「閣下、令嬢の執務室に、何か資料は残っていないのですか?」


「資料……ああ、あるかもしれない……もう……私には、何もできない……すまない……本当に、すまない……」


 その言葉は、まるで懺悔のようだった。クルトたちは、これ以上何を聞いても無駄だと悟り、宰相執務室を後にした。廊下に出ると、フランツが小さく息を吐いた。


「あれが、この国の宰相か……」


 フランツの言葉に、クルトは何も答えなかった。答えられなかった。


 × × ×


 クルトたちは最後の望みをかけてエレオノーラの執務室に入った。


 執務室は、彼女の性格を表すかのように整然としていた。本棚には法律書や経済書が並んでいる。窓からは、王都の街並みが見える。どこまでも几帳面で、完璧主義者らしい部屋だった。


 彼らは、部屋中を徹底的に調査した。机の引き出し、書棚の隙間、床板の下──あらゆる場所を調べた。まるで宝探しのように、必死に何かの手がかりを探し求めた。


 そして──机の奥の引き出しに一冊の台帳があった。


「これだ……!」


 フランツが、歓喜の声を上げる。クルトは、その台帳を手に取った。革装丁の台帳は、使い込まれた跡があった。ページの角が少し折れていて、所々にインクの染みがついている。彼女が、どれほどこの台帳と向き合っていたかが伝わってくる。


 これが、エレオノーラ・フォン・ベルンシュタインの「調整」の記録。この国の財政の真実。


 クルトは、期待と不安が入り混じった気持ちで、台帳を開いた。この中に、すべての答えがあるはずだ。そう信じて。


 そして──絶望した。


 台帳には、数字が並んでいた。だが、それは普通の数字ではなかった。複雑な数式。暗号のような記号。意味不明の略語。それらが、ページ全体を埋め尽くしていた。


 クルトは数学が得意だった。財務局に入るために会計学も経済学も学んだ。だが台帳に書かれていることは、まったく理解できなかった。


 

 何の略語かまったくわからない。次のページには複雑な表が描かれていた。縦軸と横軸に記号が並び数字が詰め込まれている。だが何を表しているのか、まったく読み取れない。


 そして、ページの隅には、小さな文字でこう書かれていた。


 『※月次調整係数は、前月比+季節変動+予測誤差補正の三要素積分値を基準とする』


「これは……」


 フランツが、呆然と呟く。


 クルトは、歯を食いしばった。エレオノーラ・フォン・ベルンシュタインの台帳はまさしく暗号としか言いようのないものだった。いや、これは彼女の思考そのものなのだろう。彼女の頭の中では、すべてが数式で表現されていた。予算も、調整も、按分も、すべてが数学的に最適化されていた。


 彼女は、天才だった──天才は自分の頭の中を、他人に理解させるつもりがなかった。いや、理解させる必要がないと思っていたのかもしれない。凡人は従っていろということだろうか──これが答えだとでもいうのか。誰も読めない答えに、一体何の意味がある。


 × × ×


 8日目。


 クルトたちは最後の望みをかけてヴィルヘルム博士のもとを訪ねた。彼は王立大学の教授でもあり、数々の数学賞を受賞している。王国における数学の権威と言っても過言ではない。もしこの男が解読できないなら、誰にもできないだろう。


 ヴィルヘルム博士は、台帳を受け取ると、眼鏡越しにページをめくり始めた。最初は興味深そうに見ていた彼の顔が、ページをめくるごとに曇っていく。眉間に皺が寄り、時折小さく唸り声を上げる。まるで難解なパズルに挑んでいるかのように。


 五分、十分、十五分──

博士は、一言も発せず、ただページをめくり続けた。クルトとフランツは、固唾を呑んで待った。この沈黙の時間が、永遠のように感じられた。


 二十分後、博士は眼鏡を外し、額に手を当てた。


「……これは…驚異的だ……数学的最適化モデルだ。それも、極めて高度な」


 博士は、再び台帳を開いた。その手は、わずかに震えていた。


「ここに書かれている数式は、多変数最適化問題を解くためのものです。おそらく、予算配分を複数の制約条件下で最適化している」


「つまり……?」


「つまりベルンシュタイン令嬢は、国家予算全体を一つの巨大な数学モデルとして捉えていたんです。そして、そのモデルを使って、最適な資金配分を計算していた」


 博士の声には、感嘆が滲んでいた。


「……驚くべき仕事です。この水準の数学を実務に応用するなど……私が知る限り、前例がありません」


 博士は、別のページを開く。


「ここを見てください。この『月次調整係数』という概念──これは、時系列分析と予測理論を組み合わせたものです。過去のデータから未来の需要を予測し、それに基づいて予算を調整している」


「それは……すごいことなのですか?」


 フランツが問う。


「すごい、などという言葉では足りません」


 博士は、興奮した様子で答える。


「天才の仕事です。いや、天才を超えている。私が今まで見たどんな数学論文よりも、実用的で、高度で、美しい」


 博士は、台帳を抱きしめるように持った。


「もしこれを論文にすれば、間違いなく数学界を震撼させるでしょう。いや、経済学の分野でも、革命的な発見として扱われるはずです」


 クルトは、その言葉を聞いて、複雑な気持ちになった。確かに、エレオノーラは天才だった。だが──


「博士、お聞きしたいのは、この台帳を解読できるか、です」


 クルトの言葉に、博士の表情が曇った。


「解読は……可能でしょう。理論的には」


「では──」


「しかし、時間がかかります」


 博士は、深いため息をついた。


「まず、この数式の構造を完全に解析する必要があります。どの記号が何を意味するのか、どの係数がどの要素を表しているのか──それを一つ一つ特定していく作業が必要です」


 博士は、台帳のページをめくる。


「そして、パターンを理解しなければなりません。ベルンシュタイン令嬢は、おそらく独自の数学的体系を構築していました。その体系全体を理解しなければ、個々の数式も理解できません」


「それには、どれくらい……」


「最短で、三年は要するでしょう」


「三年……だと……?」


 クルトは、信じられないものを見る目で博士を見た。


「はい。そして、それは最短の見積もりです。もしかしたら、五年、十年かかるかもしれない」


 博士は、台帳を撫でた。


「ベルンシュタイン令嬢が用いた数学は、既存のどの理論にも完全には当てはまりません。おそらく、彼女が独自に開発したものでしょう」


「独自に……」


「数学者として言わせていただければ、これは歴史的発見です。この台帳に書かれた理論を完全に理解し、体系化できれば、それだけで一つの学問分野が確立できるほどのものです」


 博士の目は、学者として輝いていた。だが、クルトには、そんな余裕はなかった。


「三年も待てません。国が止まってしまう」


「それは……理解しています。しかし、これを短期間で解読するのは不可能です」


 博士は、申し訳なさそうに首を振った。


「天才の思考を凡人が理解するには……時間が、あまりにも足りない」


 クルトは、台帳を見た。この薄い一冊の台帳に、この国の秘密が詰まっている。だが、誰もそれを読めない。


 マリアンネの顔が浮かぶ。市場で見た、飢えた子供の顔が浮かぶ。そして、エレオノーラの最後の言葉が、耳に響く。


──私を追放すれば、この国の予算は半年で破綻しますわ


 クルトは、小さく息を吐いた。三年──。その間に、何人が死ぬ?何人が飢える?国が…崩壊する?

 × × ×


 十二日目。


 財務局の会議室は、怒号と絶望に満ちていた。


「解読班を増員しろ!」


「三年も待てるか!」


「王太子殿下に直訴しろ! エレオノーラ様に戻ってきていただくんだ!」


「直訴して、何が変わる!殿下は『正義は為された』と思っているんだぞ!」


 官僚たちの声が、石壁に反響する。それは怒りであり、恐怖であり、絶望だった。


 クルトは、その喧騒の中で、静かに目を閉じていた。彼の頭の中には、マリアンネの顔があった。


──夫は犬死によ


 頭の中には市民の怒号があった。


──ベルンシュタイン令嬢がいた頃は、こんなことにならなかった!


 頭の中には宰相の抜け殻のような姿があった。


──私は、何もできない……


 そして、エレオノーラの最後の言葉があった。


──私を追放すれば、この国の予算は半年で破綻しますわ


 彼女は正しかった。この国は、確かに彼女の「調整」で回っていた。彼女という天才の、細い一本の綱の上で。


 だが、それでも。それでもクルトは思う。

──間違っていた、と。


 × × ×


 クルトは立ち上がった。そして、会議室のテーブルの上に置かれていた台帳を掴んだ。


この台帳には、確かに答えが書かれている。だが、その答えは、誰も読めない。三年かけて解読する? その間に、何人が死ぬ? 何人が飢える?


 クルトは台帳を──床に叩きつけた。


 それと同時に喧騒が完全に止まった。全員が息を呑んでクルトを見た。


 


「もうやめだ」


 クルトは静かに、だが明確に言った。


「天才の真似事は、もう、やめだ」


「クルト……?」


 フランツが、困惑した顔で彼を見る。クルトは、床に落ちた台帳を見下ろした。


「俺たちは、ずっと彼女の『調整』に振り回されてきた。帳簿が合わない。金の流れが追えない。それは全部、彼女が天才すぎたからだ」


「……それが、何だというんだ」


「天才は素晴らしい。効率的で完璧で美しいものを作り上げる」


 クルトは、会議室の仲間たちを見回した。


「だが、天才がいなくなって──国が止まるのが正常なのか?それは国ではない。一人の人間に依存した、砂上の楼閣だ」


 クルトの声は静かだったが、確固たる意志を帯びていた。


「彼女はいない。そして、この暗号を解読するには三年かかる。その三年を俺たちは待てない」


「では、どうする?」


 フランツが問う。


「俺たちは、俺たちのやり方で国を回す」


「俺たちのやり方……?」


「そうだ。天才の真似をするのはやめだ。凡人が、凡人のまま、ミスなく回せるシステムを作る」


 クルトは、窓の外を見た。そこには、王都の街並みが広がっている。その街の中で、市民が泣いている。飢えている。兵士が、希望を失っている。


「時間がかかっても、非効率でも、構わない。俺はもう二度と、市民に『わからないから待て』とは言わん。『天才がいないから無理だ』とも言わん」


 クルトは仲間たちを見た。


「あの地獄を終わりにする。俺たちの手で」


 会議室が、静まり返る。そして──フランツが、小さく頷いた。


「……わかった。やろう」


 他の官僚たちも、次々と頷いた。その中には、迷いも、不安もあった。だが、それ以上に、決意があった。クルトは小さく息を吐くと、黒板の前に立った。そして、彼らは動き出した。天才の影から抜け出すために。

凡人の国を作るために。


 × × ×


 十五日目。


 クルトたちは、「天才の調整」を解読することを完全に放棄した。代わりに新しい方針を打ち出した。


「すべての特例措置を廃止する」


 会議室で、クルトは方針を説明した。


「エレオノーラ・フォン・ベルンシュタインの『調整』は、確かに効率的だった。だが、それは彼女一人にしか理解できないシステムだった」


 クルトは黒板にチョークで書く。


「俺たちは誰でも理解できるシステムを作る。透明で、単純で、引き継ぎ可能なシステムだ」


 具体的な方針は、こうだった。

一、すべての「特例」を廃止する。

二、すべての予算を、正式な予算項目として計上する。

三、すべての決裁ルートを、明文化する。

四、誰でも理解できるマニュアルを作成する。


「『特別手当』は廃止。代わりに『公式の戦時危険手当』を議会に申請する」


 クルトはチョークを置いた。


「時間はかかる。議会の承認を得るのに、数週間、いや数ヶ月かかるかもしれない」


「その間兵士たちは?」


 誰かが問う。


「待ってもらう。だが、『いつ支払われるか』は明確にする。『手続きの進捗』も公開する。少なくとも、『わからないから待て』とは言わない」


 クルトは、別の項目を書く。


「『物価安定補填金』も廃止。代わりに、食糧庁の備蓄放出ルールを議会で承認させ、一元化する」


「『儀典費用からの研究費流用』は禁止。代わりに、研究費を正式な予算項目として計上し、議会の承認を得る」


 一つ一つの方針をクルトは丁寧に説明した。それは遅く非効率なものだ。だが、確実だった。


「天才のやり方は早い。だが、天才がいなくなれば止まる」


 クルトは、仲間たちを見た。


「俺たちのやり方は遅い。だが、誰かがいなくなっても、回り続ける」


 そして、彼らは動き始めた。最初は小さな一歩だった。だが、その一歩が、やがて大きな変革へとつながっていく。クルトは、それを信じていた。いや、信じるしかなかった。


 × × ×


 しかし現実は厳しかった。議会での審議は、予想以上に長引いた。


「戦時危険手当の新設」は、野党議員からの反対にあった。


「財政を圧迫する」「前例がない」「軍部への過度な優遇だ」


 様々な反対意見が出された。それは単なる反対ではなく、政治的駆け引きの材料にもされた。


 クルトたちは一つ一つの反対意見に答えた。データを集め、資料を作り、説明会を開いた。それは、地獄のような作業だった。朝から晩まで、議員たちに説明する。


「なぜ必要なのか」「どれだけの予算が必要なのか」「どのように運用するのか」


 同じ質問に何度も答えた。時には明らかに理解する気のない議員にも、辛抱強く説明を繰り返した。そして、ようやく──三ヶ月後。


「戦時危険手当」は議会で承認された。


 その日、クルトはマリアンネの家を訪ねた。長屋の階段を上り、彼女の部屋のドアをノックする。ドアが開くとマリアンネは驚いた顔でクルトを見た。


「特別弔慰金は、支払えませんでした」


 クルトは正直に言った。嘘をつくことはできなかった。


「ですが、『戦時危険手当』が新設されました。あなたの夫、エーリヒ・シュトラウス軍曹は、危険任務手当の対象者でした」


 クルトは書類を渡した。


「遡及適用されます。来月から支払いが始まります」


 マリアンネは書類を見た。そして──泣いた。


「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」


 その涙は、怒りの涙ではなかった。感謝の涙だった。彼女は書類を胸に抱きしめ、何度も何度も頭を下げた。


 クルトは小さく頭を下げた。


「遅くなって、申し訳ありませんでした」


 マリアンネの家を出るとき、クルトは思った。遅かった。本当に遅かった。エレオノーラなら、一日で解決していただろう。


 だが、それでいい。遅くても、確実に届ける。それが、俺たちのやり方だ。この遅さこそが、この国を守る盾になるのだ。クルトは、そう自分に言い聞かせた。


 × × ×


 百日目。


「王太子殿下が焦燥されているそうです」

「焦燥?」

「はい。『なぜすぐに民を救えんのだ』と、側近に怒鳴っておられたとか」

クルトは小さく舌打ちした。理想主義者め、と心の中で毒づく。


 王太子殿下は正義を為したと思っている。悪を断罪し国を正しい道に戻したと信じている。だが、その「正義」の後始末をしているのは凡人なのだ。現場がどれだけ血を流しているか。手続きがどれだけ時間を要するか。


 そんなことは、理想家には理解できないのだろう。天才も、理想家も、結局は同じだ。瞬間的には素晴らしいことができる。だが、その後始末は俺たち凡人がする。


 クルトは窓の外を見た。

王都の街は、少しずつ落ち着きを取り戻していた。パンの価格も徐々に下がっている。兵士たちの不満も和らいでいる。遅々とした進歩だが、確実に前に進んでいた。それで十分だとクルトは思った。


 × × ×


 百五十日目。


 部下の一人が、凍結された「蒸気研究」の予算申請書を持ってきた。


「これはどうしますか? 技官たちは、『未来に必要な技術だ』と息巻いていますが……」


 クルトは申請書を手に取った。蒸気機関の研究。エレオノーラが、儀典費用から密かに資金を回していた研究だ。技官たちの話では、これは将来的に工業を革新する可能性がある技術だという。


 確かに未来には必要かもしれない。だが──。


 クルトは机の上を見た。そこには、「パン価格高騰対策」と「軍事費未払い」の緊急決済書類が、まだ山積みになっている。


──夫は犬死によ


マリアンネの叫び声が、耳に蘇る。


──子供たちに食べさせるものもないんです!


市場で見た母親の姿が浮かぶ。


今が苦しい時に未来だと? 蒸気だと? 今、目の前で人が死にかけているのに?


「前例がない!凍結だ!そんな夢物語を考えている暇は、今の我々にはない!」


──これでいい。これが正しい。今、必要なものから順に優先順位をつける。未来は、今を生き延びた者だけが語れるのだから。


 × × ×


 五年が過ぎた。


 イリスフィールド王国の財政は徐々に安定軌道に乗り始めた。エレオノーラがいた頃の派手さはない。だが確実に、一歩ずつ前に進んでいた。


「戦時危険手当」は正式に議会で承認され、兵士たちに支払われるようになった。国境守備隊の士気も、徐々に回復している。

食糧庁の備蓄放出ルールが確立され、パンの価格も落ち着いた。市民の不満も和らいでいる。


 研究費は……凍結されたままだったが、技官たちも諦めて他の仕事に就いた。蒸気研究は、事実上終了した。


王太子は「お飾り」になった──夜会で高らかに正義を叫んだ男は、今や政務会議にも姿を見せず、儀礼的な行事に出席するだけの存在となっていた。自ら主張することはなく、ただ官僚たちの決定に頷くだけ。彼は自分が軽い神輿であることを理解し、それを受け入れたのだ。官僚たちにとっては、むしろ好都合だった。


そして、クルトたちは分厚い「予算執行マニュアル」を作成した。それは誰でもわかるように書かれていた。どの部署が、どの予算を、どのように使い、どのように申請し、どのように承認を得るか。すべてが明文化されていた。


──それは非効率だった。時間がかかるものであった。だが確実だった。誰か一人がいなくなっても、システムは回る。それがクルトたちが作った国だった。 



 × × ×


 十年後。


 クルトは財務局の局長に昇進していた。彼の部屋には分厚い「予算執行マニュアル」の束が置かれている。

 クルトは窓の外を見た。王都は穏やかだった。大きな混乱もなく、市民も落ち着いていた──天才がいなくても国は回る証明に他ならなかった。


 クルトは日課である大陸の情勢報告書や新聞類に目を通していた。他国の経済状況、政治動向、軍事情勢──それらを把握することは、財務局長の重要な仕事だ。


 イリスフィールド王国は、今や安定していた。財政は健全で、市民の生活も落ち着いている。しかし問題もあった。停滞…新しい技術の導入は遅れ、他国との競争には後れを取っていた。


 報告書によれば、隣国のアルビオン公国では「蒸気機関」を用いた工業化が進んでいるという。クルトは小さく舌打ちした。蒸気機関──あの時、凍結した研究だ。


 だが仕方ない。優先順位をつけた結果だ。今を生き延びるために未来を諦めた。それが、正しい選択だった。そう、自分に言い聞かせながら、クルトは報告書をめくり、ある一行で手が止まった。


 『アルビオン公国、内乱により事実上崩壊。原因は財政破綻』


 クルトの目が、その一行に釘付けになる。心臓が、一瞬止まったような気がした。そのまま視線を次の文章へと向ける


 『同公国に亡命した女性、ベルシュタイン卿が財政を一人で立て直したが、彼女が馬車の事故で急死した途端、全機能が麻痺。彼女が残した「台帳」を誰も解読できず、金の流れが完全に停止したため』


 それを見た瞬間、報告書を落としてしまった。

 亡命した女性。財政を一人で立て直した。台帳。それは──


「エレオノーラ・フォン・ベルンシュタイン……」


 クルトは、呆然と呟いた。あの女だ。追放された後、アルビオン公国に亡命していたのか。そして、あの国でも同じことをしていた。一人で、金の流れを「調整」していた。天才として。救世主として。


 だが、彼女が死んだ。事故で、急に。そして、誰も彼女の「調整」を理解できず──国が、崩壊した。


 × × ×


 クルトは震える手で報告書を拾い上げた。


──アルビオン公国は、数年前に深刻な財政危機に陥っていた。そこにイリスフィールド王国から追放されたエレオノーラ・フォン・ベルンシュタインが公爵に見出され、彼女を財務長官に任命された。


そして、わずか半年で彼女は公国の財政を立て直した。


赤字は黒字に転換し、市民の生活は安定し、経済は成長軌道に乗った。それは奇跡だった。公国の人々は彼女を「救世主」と呼んだ。


 だが──その奇跡は、彼女一人の肩に乗っていた。彼女は、すべての財政を「調整」していた。予算の按分、資金の流れ、経済政策──すべてを、彼女一人が管理していた。そして、それをすべて、あの「台帳」に記録していた。誰も理解できない数式で満たされた台帳に。


 そして──彼女は唐突に突然の馬車の事故で死んだ。


 彼女が死んだ瞬間、公国の財政は止まった。誰も、何をすればいいかわからなかった。彼女の台帳を開いても、誰も理解できなかった。数式と記号の羅列を前に、公国の官僚たちは立ち尽くすしかなかった。


 金の流れが止まった。給与が払えなくなった。食糧が流通しなくなった。軍が動けなくなった。そして──内乱が起きた。飢えた市民が暴徒化し、政府を襲撃した。軍は給与が払えないため、統制を失った。


 彼女の死後、公国はわずか三ヶ月で崩壊した。


 クルトは、報告書を読み終えた。そして、数年ぶりにエレオノーラの顔を思い出した。夜会で、冷然と断罪を受け入れていた彼女の顔。栗色の髪。青い瞳。薄い唇。そして、最後に言った言葉。


──私を追放すれば、この国の予算は半年で破綻しますわ


 彼女は、予言していたのだ。いや、予言ではない。警告だ。「私がいなくなれば、国が崩壊する」と。


 × × ×


 クルトは自分の机の上を見た。そこには、分厚く、非効率で、しかし誰でもわかる「予算執行マニュアル」の束が置かれている。

このマニュアルは、エレオノーラから見れば幼稚なものだろう。非効率で、遅くて、美しくない。


 だが──たった一人がいなくなって回らない国など国ではない。組織への冒涜だ。システムの否定だ。エレオノーラ・フォン・ベルンシュタインがやったことは、まさにそれだった。


 彼女は自分一人で国を回していた。そんなやり方をすれば国が滅びることを理解していなかったのか。

いや理解していたかもしれない。だが、それを止めなかった。止められなかった。なぜなら彼女は天才だったからだ。


 天才は凡人に合わせることができない。天才は、凡人が理解できるように説明することができない。そしてそれに依存すれば、天才がいなくなれば──国が滅びる。


 クルトは小さく息を吐いた。そして、机の引き出しを開けた──そこには台帳が仕舞われていた。

台帳を開けば、相変わらず意味不明な数式が並んでいた。

クルトは、予算書を引っ張り出して読み始める──やはり無理だった。理解などできやしなかった。

十年前も、今も、何も変わらない。この台帳は、エレオノーラ・フォン・ベルンシュタインという一人の天才だけが理解できるように書かれている。

 クルトは小さく笑った。これが天才の墓標であると。

 クルトは、台帳を再び引き出しに仕舞い──二度と開くことはなかった。


 × × ×


 それから、百年の時が流れた。


 イリスフィールド王国史研究家の老教授ハインリヒ・ミュラーが、古びた資料室で一冊の論文を書いていた。

 教授は、羽ペンを走らせる。論文のタイトルは、『令嬢追放事件とイリスフィールド王国の停滞』

これは教授の畢生の研究だった。三十年にわたる調査の集大成といってもいい。




──かの『令嬢追放事件』は、イリスフィールド王国史の転換点であった。

天才エレオノーラ・フォン・ベルンシュタインが示した『属人化した支配』の危険性。後に『アルビオンの悲劇』と呼ばれる公国の崩壊を目の当たりにした官僚クルト・マイヤーらは、強固な官僚主導システムを構築した。


クルトが作った「予算執行マニュアル」は、今も王国で使われている。

 彼は、正しいと信じていた。天才に依存する国は滅び、システムに支えられた国は生き延びる、と。

そして、その信念は半分は正しかった。


 イリスフィールド王国は、確かに生き延びた。アルビオン公国のように崩壊することはなかった。

だが、その「正しさ」が国を停滞させた。「前例がない」ことは、すべて却下された。「リスクがある」ことは全て回避された。新しい技術も、新しい政策も、新しい試みも──すべてが、マニュアルの壁に阻まれた。そして国は──老いた。

 教授は、一度筆を止め、窓の外へと目を向ける。窓からは、かつて栄華を誇った王国の街並みの残骸が目に入った。石造りの建物は修繕されず、道路は舗装が剥がれ、かつての大通りには人影もまばらだ。


──教授は、再び筆を走らせる。


──


 『前例主義』と『セクショニズム(縦割り行政)』に陥った王国は、大陸全土を席巻した『蒸気革命』の波に乗り遅れた。蒸気機関を導入した隣国は、この百年で生産量を十倍に増やした。一方、イリスフィールド王国は──ほぼ横ばい、いや、近年は減少傾向にある。


 皮肉にも、その『蒸気革命』の芽を育てたのはエレオノーラ・フォン・ベルンシュタインであり、その芽を『前例がない』という理由で凍結させたのはクルト・マイヤーであった


 エレオノーラは、儀典費用から密かに研究費を捻出し、王宮技官たちに蒸気機関の研究をさせていた。その研究は世界最先端だった。だがエレオノーラが追放され、クルトがその研究を凍結させた。


 今や、蒸気機関は世界に取って革新的な技術であった。一方、イリスフィールド王国は取り残された。


──教授は、小さく呟く。


「彼らが否定した『天才』の不在が、彼らの首を絞めたのか。あるいは、これこそがクルト・マイヤーが望んだ『凡庸なる安定』の結末だったのか」


 確かに「天才」が、国を危険に晒した。彼女一人に依存したアルビオン公国は、滅びた。だが、彼女の先見性を否定したイリスフィールド王国は停滞した。


 どちらが正しかったのか──答えはないのだろう。

だが、教授は思う


──天才と凡人。個人の能力と組織の持続性。効率と安定。革新と前例


 エレオノーラ・フォン・ベルンシュタインは、天才として国を救った。だが、その天才性ゆえに、国を危険に晒した


 クルト・マイヤーは、凡人として国を守った。だが、その堅実性ゆえに、国を停滞させた


──もし、エレオノーラとクルトが──天才と凡人が──手を取り合うことができていたら。


 もし、エレオノーラが自分の知識を凡人にも理解できるように伝え、クルトがその革新性を受け入れることができていたら。この国は、どうなっていただろうか。


 天才の革新性と、凡人の持続性。その両方を兼ね備えたシステムを作ることができれば──だが、それは叶わなかった。天才は凡人を見ようともせず。凡人は天才を理解しようともせずに恐れた。


天才は、自分の能力を過信する

凡人は、変化を恐れる


 両者の間に、橋を架けることこそが人類にとっての──永遠の課題なのかもしれない

 

 教授は、そう締めくくると論文を閉じた。そして、窓の外の古びた王都を、静かに見つめ続けた。


 教授は小さくため息をついた。

 歴史は繰り返すものだ。どこかで、また同じことが起きるだろう。天才が現れ、国を救い、そして崩壊する。

 凡人がシステムを作り、国を守り、そして停滞させる。その繰り返し。

──それが人類の歴史なのかもしれない。


 教授は、羊皮紙を丁寧に巻くと資料室を後にした。夕日に染まる王都の街を、一人の老人が歩いていく。

──足音は、やがて静寂の中に消えていったのだった。

ここまでありがとうございましま

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