流人、篁(8)
まるで別人のような顔であった。
邪悪。その顔つきを例えるなら、その言葉が一番合うといえるだろう。
あの穏やかな顔をした小野篁はどこにもいない。
それもそのはずである。
いまの篁は、篁であって篁ではない。
外見は確かに小野篁、その人に間違いはない。しかし、中身は、鍾鬼と入れ替わっているのである。
篁はといえば、先ほどの牛頭女の一撃でこん倒していた。
その隙に、篁の中にいた鍾鬼が篁の身体を乗っ取ったというわけである。
篁が役人から借り受けた鈍らの太刀を構えた鍾鬼は、じっと牛頭女のことを見つめると、にやりと口元に笑みを浮かべた。
「なるほど。牛頭大王の化身だというわけか。よりによって、女とはな」
すると牛頭女が鉈で斬りかかってきた。
強烈な一撃だった。
その鉈を太刀で受けた手が痺れる。
さらに追撃が来る。
今度は受けた太刀が弾き飛ばされ、鍾鬼の手から離れてしまう。
「すごい力だな、女」
弾き飛ばされた太刀は、草むらの中に突き刺さっていた。
その太刀をちらりと見た鍾鬼は口元に笑みを浮かべる。
「だが、その程度では、我を倒すことなどは無理ぞ」
鍾鬼はそう言って、牛頭女へと素手で殴りかかった。
牛頭女の鉈が、殴りかかろうとした鍾鬼に襲い掛かってくる。
ぎりぎりのところで鍾鬼は鉈を避け、牛頭女を腹の辺りに前蹴りを見舞う。
前蹴りを防げないと判断した牛頭女は、その衝撃を殺すかのように身体に力を込めて、ぎゅっと腹部の筋肉を硬くした。
まるで岩を蹴ったような感覚だった。
「なんぞ……」
驚いた鍾鬼は下がって距離を取ると、草むらに落ちていた太刀を拾い上げた。
「貴様、何者なのだ」
鍾鬼が問う。
「それはこちらのせりふじゃ」
はじめて牛頭女が口を開いた。
声は女のものであった。
鍾鬼はじっと、牛頭女のことを観察するような目で見る。
「なるほど、わかったぞ。その体に描かれた文字。それは呪じゃな。お前は、元はただの人間。……そうか、巫女なのか。牛頭大王、いや須佐之男命の力を借りてまで、この男のことを救いたいか、阿古那よ」
篁……いや、鍾鬼はにやりと笑って見せた。
その言葉を聞いた牛頭女は小さくため息をつくと、被っていた牛頭を脱ぎ捨てて、その正体を露わにした。
牛頭女の正体。それは、鍾鬼の言った通り阿古那であった。
阿古那の顔には奇妙な化粧が施されており、それも呪の一部であるということが、鍾鬼にはわかった。
「篁様の身体を返しなさい、悪鬼」
「我は鬼神なり。悪鬼などという低俗な者と一緒にするでない」
鍾鬼は叫ぶようにいうと、阿古那にものすごい勢いで走り寄っていき、体当たりを喰らわせようとした。
しかし、阿古那はその動きを読んでいた。
身体を斜にずらすと、突っ込んできた鍾鬼のことを避けて、その足を払う。
足払いを掛けられた鍾鬼は、そのまま勢いよく地面の上を転がった。
「私とお前の力の差は歴然である。それはわかっているであろう、悪鬼」
阿古那は、じっと倒れた鍾鬼のことを見下ろしながら言った。
その声は先ほどの女の声ではなく、男の声と変わっていた。
須佐之男命。いまの阿古那に憑依しているのは、須佐之男命に間違いなかった。
神降ろし。それは隠岐の巫女に代々伝わる秘儀であった。阿古那は、その秘儀を使い、自らの身体に須佐之男命を降ろしたのだった。
隠岐は須佐之男命に護られし、島である。須佐之男命は邪の者を嫌い、島に強い結界を張っていた。その結界を掻い潜って、隠岐に入り込んだ者を須佐之男命が許すわけがなかった。
鬼神である鍾鬼といえども、須佐之男命が相手では勝ち目はなかった。
格が違い過ぎるのだ。
「悪鬼よ、篁様の身体から去れ」
阿古那は強い口調で鍾鬼に言う。
しかし、鍾鬼はその言葉に従おうとはせず、篁の身体のまま、阿古那へと襲い掛かった。
鍾鬼は太刀を振り回したが、まったく阿古那に当たることは無く空を斬るばかりだった。
「諦めの悪い奴よのう」
阿古那が言った。しかし、その声は阿古那のものではなく、男のものであった。
須佐之男命と阿古那が入れ替わった。
それに気づいた時、鍾鬼の全身が粟立った。
「まずい、まずいぞ」
鍾鬼は独り言をつぶやく。
「何がまずいのだ、鍾鬼よ」
心の中で声が聞こえる。篁である。
鍾鬼は心の中に入る篁のことを睨みつけた。
全部、罠だった。
篁は知っていたのだ。
村に出るあやかしの噂。次々と襲われる家畜。光山寺に助けを求める村人。そして、牛頭女。
すべてが芝居だった。
鍾鬼を表に出させ、罠にはめるための芝居。
まんまと嵌められた、というわけだ。
「おのれ、篁。我は貴様のことを許さぬぞ」
「ほう。どう、許さぬというのだ、鍾鬼よ」
「貴様の肉体など、こうしてくれるわ」
鍾鬼はそう言って太刀を自分の首に当てた。
阿古那は両手の指を動かし、印のようなものを結んでいた。
それは密の印とは違っていた。
見たことのない印。
それを見た瞬間、鍾鬼は時が止まったかのように、呆然としていた。
その印が自分にとって危険なものであるということを鍾鬼はわかっていた。
逃げろ。
本能がそう告げている。
逃げろ。篁の身体を捨てて、いますぐ逃げろ。
首に当てていた太刀を放り投げて、阿古那に背を向けようとする。
しかし、身体は動かない。
動けないのだ。
阿古那の身体に浮かび上がる梵字が青白く光を帯びている。
なぜじゃ。なぜ、我が負けなければならない。
ふざけるな。
許さん、許さんぞ。
これもすべて、こいつが悪いのだ。
そうだ、この小野篁という男が悪いのだ。
唐に行くことを拒絶し、平安京へ戻って、帝の命を奪う。
我の計画は万全であった。
この男が邪魔さえしなければ、今ごろ我は平安京を乗っ取り、現世に死者たちを蘇らせて支配していたはずだった。
そして、その死者の軍を率いて、常世も制圧するはずだったのだ。
吉備真備。あの男は使えた。我と契約し、右大臣にしてやった。あの男の野心は、我の強い力となった。しかし、歳を取り過ぎていた。
一度は滅びた肉体を冥府で取り戻した。閻魔は真備の中に入る我に気づいていたが、真備ごと我を封印した。
しかし、その封印は100年も持たなかった。閻魔も中途半端な封印をしてくれたものだ。
吉備真備と共に蘇った我は、新しい体を手に入れるべく現世へと向かった。
そして、ようやく見つけたのだ。若く、そして強き力を持つ者を。
小野篁。帝からの信頼も厚いこの男を利用する以外に手はなかった。
途中、色々と邪魔が入ったりもしたが、我は無事、篁の身体を手に入れることに成功した。
それなのに、どういうことだ。
なぜだ。
なぜ、我が……。
鍾鬼が怒りの感情を爆発させようとした時、世界は蒼い光に包まれた――――。




