流人、篁(2)
翌朝、雪は止み、風が凪いだ。
再び縄で縛られた篁は、検非違使たちに連れられて、船へと乗り込む。
船の向かう先は決まっていた。流刑地の隠岐である。
当時の隠岐へのルートは出雲まで陸路を取り、そこから船で隠岐へと向かうというものではなく、住吉津(現在の大阪湾)から船で海路を取り、瀬戸内海を通り、関門海峡を抜けて、隠岐の島を目指すというものであった。
隠岐、そこは天皇や公家など身分の高き者が遠流される土地である。
古くは、後の右大臣・藤原田麻呂が、兄である藤原広嗣の起こした反乱により、連座する形で配流となっていたり、二品(官位、ニ位)・船王が藤原仲麻呂の乱に加担した罪で配流されている。
複数の島からなる隠岐国は、大きくふたつにわけられており、中ノ島・西ノ島・知夫里島の三つの島からなる諸島を島前、もうひとつの大きな島を島後と呼んでいた。
隠岐は流刑地ではあるが、国司によって統治されている国であり、平安京ほどではないものの、多くの人がその地で暮らしている。
船は寒空の中をゆっくりと移動していた。乗っているのは、篁と五人の検非違使たち、そして漕ぎ手だけである。
途中、海賊が出没するといわれる海域があり、その区間では検非違使たちが弓矢を構えて襲撃に備えながらの通過となったが、篁を乗せた船は何事もなく順調に航海を進めた。
この航路は、篁にとって思い出深い航路であった。関門海峡を抜けるところまでは、大宰府へと向かう遣唐使船と同じ航路なのである。
その見慣れた景色を眺めながら、篁は小さくため息をついていた。
「どうかなされましたか、篁様」
一番年かさの検非違使が声をかけてくる。
「いや、この風景ともお別れかと思うとな」
「すぐに戻れますとも」
「そうだと良いが……」
そんな会話をしていると、また雪がちらつきはじめた。
船頭によれば、ちょうど安芸国の辺りを通過しているところとのことだった。
月が夜空に姿を現す頃になると、篁は自分の身体を縄できつく絞めさせて自由に動けないようにした。また、余計なことを話さないようにするために、持っていた布で猿ぐつわをさせるといった念の入れようである。
篁の中に居る鍾鬼は呪を操ることもできるはずだ。もし鍾鬼が呪術を使って検非違使たちを操ったりしようものならば、ここまでの篁の苦労が水の泡となってしまう。そういったあらゆる可能性を考えた結果、篁は自らの身体を縄で縛らせ、口を噤ませるという手段を取ったのだった。
もちろん、最初は検非違使たちも困惑していた。しかし、篁が真剣に頼むため、何かあるのだなと察した検非違使たちは、篁のことを縛り上げ、交代で夜中に篁の様子を見るようにしていた。
鍾鬼は、夜中になると篁の中に現れて、様々な言葉で篁のことを誘惑した。
しかし、篁は鍾鬼の言葉には一切耳を貸そうとはしなかった。
その言葉は日が昇るまで続き、日の出とともに鍾鬼は篁の中から姿を消すのだった。
そんな数日間に渡る船旅もついに終わりを迎える時が来た。
船が隠岐についたのである。
篁たちの乗る船が到着したのは、島後の港であった。
五人の検非違使に取り囲まれるようにして船を降りた篁は、国司と面会をするために隠岐政庁へと向かった。
隠岐政庁は、他の政庁と比べると小さな建物ではあったが、隠岐国の中心地であり、ここで隠岐の政が行われている。
隠岐国司は篁に住む場所として、島前にある村の家を一軒与え、世話役としてふたりの男をつけた。おそらく、世話役は監視役でもあるのだろう。
本来であれば、国司に篁の身柄を引き渡したところで五人の検非違使の役目は終わりであった。しかし、検非違使たちは篁を島前まで送り届けると言って、島前に向かう船にも同乗してきた。
篁の流刑地として選ばれたのは、島前海士という場所であった。そこは小さな漁村であり、少し離れたところには険しい山がそびえ立っている。
隠岐には数年に一度くらいの割合で、流罪となった公卿などが流されてきていた。そのたびに隠岐国司は流刑者の住居などを割り当てているのだが、よほどのことがない限りは流刑者を過酷な環境に置くようなことはしなかった。
船を降りた篁は、船上にいる五人の検非違使たちに礼を述べた。
検非違使たちは、流刑地に足を踏み入れることは許されていないのである。
「篁様」
五人の検非違使の中でも一番若い男が、篁の名を呼んだ。
この検非違使は、船の中でもあまり篁には接してこようとはしなかった、ひとりだった。
「どうした」
篁がそう答えると、その男は船から飛び降りた。
一緒にいた検非違使たちもあっけに取られており、男のことを止めることはできなかった。
「私は、とある命を受けて、この任に就きました。お許しください」
そう言った若い男は腰に佩いていた太刀をゆっくりと抜く。
流人である篁は、丸腰であった。
太刀を振りかざした男は、一気に間合いを詰めて篁へと斬りかかる。
篁には、その剣筋が見えていた。
ただの京務めの公卿であれば、その一撃で終わっていただろう。
しかし、相手はあの小野篁である。
若い頃は、陸奥国で蝦夷を相手に武芸の腕を磨いており、平安京に入ってからも、あやかし相手に太刀を振っていた男だ。
男の太刀は篁の頬を掠めて、空を斬っていた。
それと同時に、篁の握った拳が男の脾腹へと食い込む。
妙な音がした。おそらく肋骨が折れた音だろう。
その一撃で、男は太刀を捨て、膝から崩れ落ちた。
「誰の命令でやったのかは知らぬが、その御仁にお伝え願おう。小野篁は流刑地で元気にやっていると」
篁はそう男に告げると、残った四人の検非違使たちの方へと目を向けた。
その眼は「どうするお前らもやるか」と問いかけるような眼であった。
平安京には、篁のことを快く思っていない人間がいることは確かだった。どうにかして、篁のことを踏み台にして出世しようと考える人間や、篁が邪魔であるから排除してしまおうと考えるような人間たちがいるのである。
友人である賀陽親王は、そういった人間たちの刺客から篁のことを守ろうと考えて五人の検非違使たちをつけた訳だったが、その検非違使たちの中に相手は刺客を紛れ込ませてきたというわけだ。
「篁様、大変失礼いたしました。この者は、我らが始末します故」
一番年かさの検非違使はそう言い、男のことを縛り上げて船に乗せた。
「それでは、篁様、どうかお元気で」
検非違使はそう言って頭を下げると、船を出発させた。
篁はしばらくの間、去っていく船の姿を見つめていたが、小さくため息をつくとふたりの従者の方を向いた。
「さて、私の家を見に行こうか」
その篁の顔には、どこか吹っ切れたようなものがあった。




