常嗣と篁(13)
ひどく酔っていた。それは誰の目から見ても明らかであった。
すでに自分の足で歩けなくなるほどに酔っていた藤原常嗣は、従者たちに両脇を支えられるようにして紫宸殿を後にした。
その日、紫宸殿へと呼び出された篁たち遣唐使たちは、帝より餞が送られた。常嗣と篁は、餞を送られるのは二度目であり、今度こそ失敗は許されぬぞという意味があるのだと受け取っていた。
紫宸殿に入った時から、常嗣の様子はおかしかった。緊張のせいからなのか、やたら饒舌であり、普段なら話しかけることのない篁の従者にまで話しかけてみたり、そわそわとした様子を見せたりしていた。
餞では酒が振舞われた他、帝自ら詩を詠み、それに答えるように皆が詩を献じた。篁も詩を献じたりしていたが、その時点で常嗣は泥酔状態であり、詩など献じられるような状態ではなかった。
篁は気を利かせて常嗣の従者を呼ぶと、少し水を飲ませて常嗣の酔いを醒まさせてから紫宸殿を後にするように指示をした。
しかし、常嗣は酒を飲むのをやめなかった。急に大きな声を出して笑ったり、よろけて他の者の膳をひっくり返したりと粗相が続いたため、篁は常嗣のことを紫宸殿の出口まで見送ることにした。
「おい、野狂。我は酔ってはおらぬ。まだ飲めるぞ」
「わかっております、常嗣殿。しかし、今宵はもう引き取られた方が良い」
「何を言うか。まだ飲める。飲ませるのだ。そうか、わかったぞ。我を帰して、己だけで帝より頂戴した酒を飲もうというのだな。ずるいぞ、野狂」
常嗣は大声で叫びながら言う。
さすがの篁も、これには困ったという表情を浮かべながら、常嗣の身体を支えるようにして紫宸殿を出た。
「野狂、戻るぞ。我は帰らん」
「常嗣殿、今宵はもう終いです」
「ならぬ。そこをどけ。どかぬなら、力づくでも……」
常嗣はそういって、篁の顔を見上げた。
身体の大きさだけでいえば、偉丈夫といわれる篁と常嗣では親子ほどの差がある。どれだけ常嗣がその場で足を踏ん張ったとしても、篁はひょいと常嗣のことを持ち上げるだけだった。
「ささ、屋敷でゆっくり休んでくだされ」
牛車に常嗣を乗せた篁は、そう常嗣に言い聞かせ、従者たちに「あとは頼んだぞ」と伝えて、常嗣を屋敷へと帰らせた。
その四日後、再び紫宸殿に常嗣と篁の姿があった。この日は、ふたりとも束帯姿であり、厳かな雰囲気に包まれていた。
遣唐使への二度目の節刀の儀である。
この日の常嗣は体調も良いらしく、周りの公卿たちと冗談などを飛ばしたりしていた。
節刀の儀では、右大臣である清原夏野より口宣があったが、この口宣は昨年の節刀の儀と同じ言葉であった。
遣唐大使である藤原常嗣は前進して、帝より節刀を受け、捧げて左肩にあて退出する。
遣唐副使の篁は、節刀を受けた常嗣のことを走るようにして追いかけ、共に連なって節刀の儀の会場を退出した。
これで、第二次遣唐使のすべてが整った。あとは出航するのみである。
この日から、篁たち遣唐使は鴻臚館で出発の日まで過ごすこととなる。鴻臚館は外交および海外との交易を行う際に使用される施設であり、平安京の鴻臚館は朱雀大路を挟んで東西に存在していた。
第二次遣唐使船は、前回遭難して大破してしまった第三船を除く第一船から四船の三隻が使用され、遣唐使たちは前回とほぼ同じ面子であった。
東の鴻臚館に遣唐大使である常嗣が入り、西の鴻臚館には副使である篁が入って出発の日を待つこととなった。
しかし、その鴻臚館で奇妙な出来事が起きた。それは篁の滞在していた西の鴻臚館で起きたことだった。
その音に最初に気づいたのは、良岑長松であった。長松は琴の名手であり、その才能を買われて遣唐使の一員となった人物であった。
長松は、琴の名手であるだけに耳が良い。だから、誰もが気づかなかった音に気づけたのだ。
「もし――――」
「もし――――」
誰かが自分のことを揺さぶっている。薄っすらと目を開けた篁の視界には、二人の男が見えた。
そこにいるのは、良岑長松と菅原善主である。
「どうかしたのか」
床に寝そべっていた篁は起き上がると二人に問いかけた。
菅原善主に関しては、善主の職が弾正少忠であるため、篁はよく知っていた。
「妙な音が聞こえると、長松殿が」
「妙な音?」
篁の言葉に長松は頷くと語り始めた。
長松が目を覚ましたのは、その奇妙な音が聞こえたからだった。
最初はどこかで猫が鳴いていると思った。ミャオ、ミャオという鳴き声に聞こえたのだ。
しかし、繰り返しその鳴き声を聞いていると、猫の鳴き声ではないということに長松は気づいた。
これは人の声だ。若い女が声を押し殺して何かを繰り返し呟いている。
お前は耳が良いな、長松。よく、琴の師匠に褒められた。
しかし、いまはこの耳の良さを長松は呪っていた。
「善主殿、善主殿、起きてくだされ」
長松は自分の隣で床に就いていた善主のことを起こした。
寝ぼけ眼の善主に「声が聞こえる」と小声で訴える。
「気のせいだろ」
まだ眠かった善主はそう長松に言って、背を向けて寝ようとした。
その時だった。はっきりと聞こえたのだ。
「妙じゃ、妙じゃ」
女の声だった。若い女の押し殺した声だと思っていたが、はっきりと聞こえたのは老婆の声だった。
「聞こえたであろう、善主殿」
「ああ、聞こえた」
ふたりは顔を見合わせた。
夜は更けている。このような時間に、鴻臚館に老婆がいるということは考えにくかった。
では、誰の声だというのだろうか。
声の主を探そう。そう言い出したのは、善主であった。善主は弾正少忠という職務に就いているということもあり、腕に自信もあった。もし、あやかしの類であれば成敗してやろう。そのくらいのつもりだったのかもしれない。
「妙じゃ、妙じゃ」
また声が聞こえた。
耳の良い長松は、その声が聞こえた方向を正確に聞き分けることが出来た。
長松はそっと善主の袖を引っ張ると、上を指差した。
ふたりで上を見上げると、そこには襤褸を身にまとった老婆が天井に張り付いていた。
「あなや!」
そう叫んだかと思うと長松は気を失ってしまった。
善主は剣を手にしようとしたが、気を失った長松がもたれかかってきたため、それはできなかった。
天井に張り付いていた老婆は、長松の声に気づき、まるで蜘蛛のように天井を張って、逃げていった。
それが半刻ほど前のことである。




