常嗣と篁(3)
神泉苑は、大内裏の南に位置する禁苑であった。
禁苑とは天皇の所有する庭園をさす言葉であり、平安京の禁苑である神泉苑は、大内裏から二条大路を挟んで南に位置している広大な敷地面積を持つ庭園である。この神泉苑では、歴代の天皇たちが釣りや遊猟、詩宴や宴遊といったことを楽しんだり、東寺の空海による祈雨、請雨などといった雨乞いの儀の場所として使われたりと多種多様な使われ方がしていた。また、神泉苑は禁苑であるから平民が中に入れないというわけでもなく、詩宴や宴遊などの際は一般開放され、多くの民たちが神泉苑の景色を楽しんだといった記述も残されたりしている。
そんな神泉苑のすぐ近くで、三つ目の老人のあやかしに遭遇したという話を篁に聞かせた藤原豊並は、その話を篁にしたことを後悔しはじめていた。
「牛車を使いませんか、篁殿」
「神泉苑はすぐそこだ。歩いていけば良い」
「え……」
篁の言葉に、豊並は言葉を失っていた。
平安時代の貴族たちは、どこへ行くにも牛車を使用しており、屋敷には牛車専用の車宿と呼ばれる場所を設けていたほどである。
確かに豊並の屋敷から神泉苑までは、歩けばすぐの距離であった。しかし、豊並からすれば、平安京内を徒歩で移動するということなど、考えたことも無いことであったのだ。
「……では、供の者を連れて行ってもよろしいでしょうか」
「何故、供が必要なのでしょうか」
じっと豊並のことを見つめながら、篁が答える。
篁はただ見つめているだけなのだが、豊並からすると野狂と呼ばれる恐ろしい男にじっと睨みつけられているように思え、気が気でなかった。
「い、いや、それは……必要なのです」
「まあ、良いでしょう」
その言葉を聞いた豊並は篁の気が変わらないうちにと思い、すぐに家人たちに出掛ける支度をさせた。
神泉苑までの道のり、篁たちとすれ違う人々は何事かといった顔をして振り返って見ていた。
偉丈夫と呼ばれるほど体の大きな篁と、童子と見間違うほどに背は小さく、肥えた体つきをした、豊並。そして、それに従うようについてくる腰に太刀を佩き、箙と弓を背負った三人の豊並の供たち。篁たちは、これから何かが起きるのだろうかと、すれ違う人々に思わせるような格好の一行であった。
辻の角を曲がったところで、篁は急に足を止めた。すぐ後ろで、篁の後を追いかけるように小走りをしていた豊並は、篁の背中に衝突してしまった。
「あなやっ! な、なんぞ、篁殿。急に止まりおってからに……」
「しっ。豊並殿、黙られよ」
そういって、篁は豊並の口に手のひらを当てて黙らせる。
篁の視線の先。ちょうど、そこは豊並が三つ目のあやかしを見たと言っていた場所である。だが、そこには三つ目のあやかしの姿はどこにもなかった。あやかしの代わりにいるのは、見覚えのある男だった。
いや、いるのは男だけではない。もう一人、市女笠を被った女が立っている。
「あれは……」
「黙られよ」
篁に口をふさがれても喋ろうとする豊並に、篁は少し強めの口調で言った。
そこにいる男のことを見間違うはずはなかった。あれは、藤原常嗣である。
市女笠の女の顔を見ることはできないが、それが伴右大ではないということだけはわかった。
どういうことなのだろうか。
篁は混乱する頭の中で様々なことを考えていた。
そもそも、今回の話は藤原常嗣が豊並の話を聞いてやってほしいというから、豊並のもとを訪ねたのだ。そして、豊並が三つ目の老人のあやかしを見たという場所へと足を運んでみれば、そこにいたのは常嗣であった。
篁は常嗣から見えぬ位置まで下がってから、豊並に問いかけた。
「あの場所で三つ目の老人のあやかしを見たといわれるのですな」
「ええ、間違いなくあの場所です。向かいに地蔵があるでしょ。あれが目印みたいなものですから」
「地蔵?」
篁はちらりとその場所へと視線を送る。
豊並の言うように、そこには小さなお堂のようなものが建っており、一体の地蔵が安置されていた。
なんだか、おかしなことになってきたぞ。
そんなことを思いながら、篁は踵を返した。
「え、篁殿。場所の確認だけで良いのですか?」
急に帰ろうとしはじめた篁を見た豊並は、慌てた様子で後を追いかける。
しかし、その声は篁には届いていないらしく、篁は何やら独り言をぶつぶつといいながら、大股で歩いて行ってしまった。
「なんなんじゃ、あのお方は……。野狂は理解できん」
置いてけぼりをくらった豊並は、去っていく篁の大きな背中を見ながら呟くように言った。




