広嗣の怨霊(12)
外界には穢れが存在していると、平安京では信じられていた。
穢れとは、目に見えぬものであり、時に人を死へと誘うものとされており、平安京に住まう人々はその穢れをひどく嫌い、恐れていた。
外界の穢れ。それは西の化野、北の蓮台野、東の鳥辺野といった風葬地帯に原因があった。風葬は、死んだ者を野に放置し、自然に還すというものであり、それが原因で鼠などの害獣やハエなどの害虫といったものが多く発生し、疫病が広がる原因となっている。
穢れの正体。それは人を苦しめ、時に死へと至らしめる病なのである。
疫病は、時に外界からやってくる怨霊の仕業と考えられる事もあった。特に朝廷の上役である公卿などが疫病に倒れたりすると、その敵対関係にあった人物の怨霊の仕業であるなどと騒がれたりしたのだ。
穢れが溢れる外界から平安京を守る。そんな目的で作られたのが、羅城門であり、羅城門は平安京と外界の境目とされていた。
そんな羅城門であるが、ひと月ほど前に落雷があり、屋根の部分が破損していた。幸いなことに失火となることはなかったが、派手に壊れた屋根の部分は骨組みが見えてしまっている状態となっており、そこから雨漏りがしてしまう状態となっていた。
この門の修繕については、弾正少弼である小野篁が、平安京の治安維持のためにも、羅城門を修繕すべきであるといった解状を上げていたが、その解状が通ったことは一度もなかった。
朝廷は羅城門に金を使うというつもりはなく、公卿たちは穢れから自分たちを守ってくれている羅城門のことなど、無関心なのである。
解状が通らなかったという話を弾正尹の秀良親王から聞かされた篁は、朝廷という組織に落胆した。
そして、あの新月の夜に起きた出来事は、篁の口から語られることはなかった。
話したところで、誰も信じまい。
あの夜の出来事について、篁は口を噤んだままであった。
誰が、九〇年前に処刑された藤原広嗣の怨霊が百鬼夜行の魑魅魍魎たちを率いて、平安京に攻め込んできたという話を信じるだろうか。
そういったこともあり、篁が朝廷に報告したのは、二度の落雷があり、羅城門の屋根の一部が破損したという事実だけだった。
※
その夜は、雲の隙間から三日月の姿が見えていた。
闇の中を松明も持たずに歩く篁の姿は、珍しく白の狩衣姿であった。腰にはいつものように太刀を佩いており、物静かに歩く姿はいつもと変わらないように見える。しかし、どこか篁の雰囲気はいつもと違っていた。
六道辻の井戸より冥府へと向かった篁は、冥府の入口である門扉の前に佇んだ。
いつもであれば、いるはずの牛頭馬頭の姿はどこにもない。
ただ、人がひとり通れるくらいに門扉は開いていた。
妙だ。
そう思いながら、篁は冥府の門を潜り抜け、閻魔大王のいる冥府裁判所へと歩みを進めた。
その様子を物陰で見守っていた者たちがいた。牛頭馬頭のふたりである。
「おい、なんで隠れなきゃいけないんだよ、馬頭」
牛頭が不満の声をあげる。
「いいから黙ってろ、牛頭。これは上からの命令なんだよ」
「上って誰だよ?」
不満そうな表情で、牛頭が言う。
「知らないよ。俺だって、鹿頭の羅刹から言われただけだから」
「そうなのか。我々の上って、誰のことだ。司命の花様か?」
「どうだろうな。もしかしたら、閻魔大王直々の命令かもしれんぞ」
「そうか。じゃあ、従おう」
急に素直になった牛頭は、物陰に身をひそめたまま、篁が門を通って行く姿を見送った。
牛頭馬頭の目から見ても、篁の様子はどこか違っているように見えた。
何が違っているのかはわからない。ただ、何か篁がとてつもないものを背負っているようにも見えていた。




