広嗣の怨霊(5)
その日、朝堂院で開かれた朝堂では、篁の書いた解状が読み上げられていた。
解状とは、朝廷や自分よりも身分が上の者に対して出す上申書のようなものだと考えていただければよいだろう。
篁の解状を読み上げたのは、篁の上司である弾正尹の秀良親王であった。
秀良親王の読み上げた解状によれば、三日後の新月の晩、平安京に厳戒警備体制を敷く必要があるとのことであった。その理由に関しては、特に書かれてはおらず、読み上げている秀良親王でさえも、この解状は説得力に欠けるものだと思っていた。
あの篁がこのような説得力の無い解状を書くなどということは、あり得ないことだ。おそらく、なにか書くことのできない理由があるのだろう。解状を読み上げながら秀良親王は、そう解釈をしていた。
朝堂では、同じような解状を読み上げた人物がもう一人いた。中務卿の直世王である。直世王は、陰陽寮からの解状として、新月の晩に平安京および大内裏、内裏では出歩くのを禁ずるべきだという解状を読み上げた。こちらの解状も明確な理由は書かれてはいなかった。
このふたつの解状が読み上げられたことによって、朝堂はざわついた。読み上げた秀良親王、直世王のふたりでさえも、同じ内容の解状に驚きを隠せないといった表情をしている。
別々の朝廷機関から出された解状。その中身は共に、新月の晩に出歩くのを禁ずるというものであった。しかも、明確な理由は語られてはいない。
「新月の晩に一体、何があるというのだ」
そう言ったのは、三品・賀陽親王であった。賀陽親王は、かつての篁の上司であり、友人でもあった。
「それは、わかりませぬ……」
賀陽親王の言葉に、直世王は困ったように表情を曇らせる。直世王も秀良親王も同様に解状を書いた部下からは、何も聞かされてはいないのだ。
「それでは話になりませんね。ただ新月の晩に外へ出るなと通達してほしいと言われましても、誰も納得はしませんよ」
賀陽親王たちの会話に割って入るようにして声を上げたのは、参議・藤原常嗣であった。
「この解状を書いたのは、野狂ですよね。あの男は、いつも突拍子も無いことを言い出す」
常嗣は吐き捨てるようにいう。その言葉にはどこか嫌味のようなものが込められているように感じられた。
「どうするかは、朝廷で検討してもらうとして、私は解状を伝えましたからね」
唇を尖らせるようにして直世王はそう言うと、踵を返して自分の席へと戻って行ってしまった。どうやら、直世王は藤原常嗣とは馬が合わないらしい。
「私も解状は伝えさせていただきました。弾正台と中務省の両方が、時を同じくして同じ内容の解状を読み上げた。それだけは忘れないでくだされ」
秀良親王はじっと藤原常嗣の顔を見つめながらそう言うと、賀陽親王に頷きかけるようにしてから自分の席へと戻った。
その後の朝堂では、各省からの報告やその他の解状が読み上げられたりしたが、特に誰も話を止めることもなく、その日の朝堂は終了した。
「常嗣殿、お待ちを」
朝堂を終えて、朝堂院から出ていこうとした藤原常嗣を呼び止めたのは、賀陽親王であった。
「ああ、賀陽様でしたか。どうかなさいましたか」
「いや、先ほどの解状について、常嗣殿の考えをお聞かせいただきたい」
「解状?」
まるで朝堂の内容を忘れてしまっているかのように常嗣が言う。
「弾正台と中務省が出してきた解状ですよ」
「ああ、三日後の新月の話ですか」
「どう思われます」
「戯言ですな」
「本当にそう思われますか? 陰陽寮の者が申しているのですぞ」
「ええ。私は陰陽師の言うことなど信じませぬ」
常嗣はそう言うと、話はもう終わりと言わんばかりに歩き出そうとした。
「お待ちを。もし、何かがあってからでは遅いのでは?」
「そう思われるのは、賀陽様の自由。京の守りは検非違使に任せておけば良いのですよ。弾正台などという政に関与する機関があること自体が間違えなのです」
その言葉に賀陽親王は常嗣の顔をじっと見た。まるで藤原常嗣が別人のように思えたからである。藤原常嗣という男は、このような発言をする男ではなかったはずだ。どこかおかしい。そう思って、常嗣の顔をじっと見たわけだったが、常嗣の顔はいつもと変わらない神経質そうな細面であり、顔色も決して悪くはなかった。
「もし、どうしてもやりたいのであれば、解状を書いてきた二人にやらせれば良いのです」
常嗣は捨て台詞のようにそう言うと、賀陽親王の前から去っていった。




