野狂篁(1)
時は平安。京の都に小野篁という男、ありけり。
篁は朝廷に仕える役人であり、皇太子の恒貞親王の東宮学士と弾正少弼という役に就いていた。
東宮学士とは、東宮は皇太子のことを指し、学士は教育係のことを指す言葉である。すなわち、皇太子の教育係ということだった。
また、弾正少弼は法令を取り締まる弾正台の次官であり、弾正台の実務的な部分を担当する頭のようなものでもあった。
文武両道。小野篁という人物を語るのに、最も適した言葉であろう。
篁は身長六尺二寸(約188センチ)の偉丈夫であり、武芸に関してもかなりの腕前であった。さらには知識が深く、律令などにも明るく、漢詩や短歌の才能にも恵まれており、書に関しては後世で書の見本として篁の書を使ったとされているほどである。
ただ、才に恵まれ過ぎた篁のことを世間の人々は奇異な目で見ている節もあった。
野狂。篁のあだ名である。
豪胆であり、時に狂ったかのような行動に出る。理にかなわないことがあれば、相手が自分よりも身分が上であろうとも食って掛かる。曲がったことが嫌いで、相手がそれを正すまでは決して許さない。そういった篁の性格を皮肉として、野狂(粗野や野蛮といった意味と、小野という氏族名を当時流行りだった唐風に一字姓としたものを掛けている)と呼んでいるのだった。
また篁には耳を疑うような奇妙な噂もついて回っていた。篁は、昼は朝廷の役人を務め、夜は冥府で閻魔大王の副官を務めているというのだ。
華やかな衣装や文化で彩られた平安京。その裏で繰り広げられる貴族たちによる出世争い。この魑魅魍魎が跋扈する平安京で、小野篁は注目される人物のひとりであった。
「漢詩は嫌じゃ。剣技の方が良い」
「恒貞様、我がままを言われなさるな。先日は、剣技よりも漢詩の方が良いと言っていたではございませぬか」
篁はそういって、恒貞親王に筆を持たせる。
恒貞親王は、先の帝であった淳和上皇の子であり、皇太子となったこの年にやっと8歳なったばかりであった。
東宮学士の役に就いた篁は、恒貞親王に対して政から剣技、舞踊まで様々なことを教えていた。
「のう、篁。そちは、現世と冥府を行き来していると聞くが、冥府とはどんな場所なのじゃ」
「また、お戯れごとを。そんなのは噂話に過ぎませんよ」
「そうか。篁には知らないことはないと思っていたが、冥府のことは知らないのか」
「その手には乗りませんよ、恒貞様。いまは冥府の話をする時間ではございません。さ、筆をお執りください」
篁はそう言って、恒貞親王の手に筆を握らせる。
いやいやながらも、恒貞は筆を執りいくつかの書を認めた。
「どうじゃ、篁。うまく書けたであろう」
「さすがです、恒貞親王。しかし、ここはもう少し離して書かれた方が」
篁はそう言って、恒貞親王の書いたものを直させる。
最初は嫌々やっていた恒貞親王も篁の教えを受けるようになってから、書が上達していくのが目に見えるようになって行き、最近では自ら進んで教えを乞うようになってきていた。
「先ほどの話ですが、冥府という場所には、閻魔大王と呼ばれる冥府の王がおります」
「閻魔か……。その名は聞いたことがあるぞ」
勉学に励むことが出来れば、話も聞かせる。飴と鞭。篁はそうやって、恒貞親王との関係を保っていた。
「閻魔大王は、赤ら顔の偉丈夫です」
「篁、そなたよりも大きいのか」
「はい。私よりも頭ひとつくらい大きい男です。眼は黄色くぎょろりと大きく、顔の下半分は髭に覆われております」
「なんと……」
篁の言葉を聞いた恒貞親王は、絶句したかのような表情を浮かべる。
もしかしたら今宵、恒貞親王はひとりでは眠れなくなってしまうかもしれない。そんなことも思いながらも、閻魔大王の容姿について篁は語って聞かせた。
「服は唐の道服を着ており、頭には王と描かれた冠を被っております。閻魔は嘘を吐く者を嫌っており、冥界裁判で嘘を吐くような者がおれば、手に持った《《やっとこ》》で舌を抜くと言われております」
「…………」
その言葉を聞いた恒貞親王は、驚いた顔をして口に手を当てた。もしかしたら、なにか嘘をついた心当たりがあり、自分の舌を抜かれる想像をしたのかもしれない。
「恒貞様も嘘は吐かないことです。閻魔大王がどこで見ているかわかりませんよ」
篁はそういって、にやりと笑って見せた。
それがよっぽど怖かったのか恒貞親王は顔を真っ青にして、それ以上閻魔大王についての話を聞いてこなかった。
少々薬が効きすぎたかな。篁はそう思いつつも、皇太子が冥府の閻魔などに興味を抱く必要はないと考えていた。恒貞親王には、皇太子として朝廷の仕事に興味を持ってもらわなければならないのだ。そして、帝になった暁には、この国を引っ張って行ってもらう必要がある。
その時のためにも、恒貞親王には自分の持てる全てを教え伝えなければならない。東宮学士として、今上帝(仁明天皇)より任命された時、篁は心に誓ったのであった。




