カウントダウン・トイレット
「敷き布団のシキフ、トンだ!」
「毛布を、モウ、フまないで!」
「……イマイチだな」
タツトは、こんなもんじゃないと思いながらも、肌身離さず持っているメモ帳に、書き留めた。毎朝の習慣、登校前のネタ作りだ。
「タツト! 早く出てーっ!」
トイレのドアが、ドコドコ叩かれる。
「オカン! そんなにドアを叩いたら、アカン!」
「臭い洒落しゃれ言ってないで、早く出てよ。会社に遅れるぅ」
しゃーないなぁと言って、タツトは、学生ズボンを上げて、壁のシャワートイレのリモコンに手を伸ばす。
「ん?」
モニターの時刻表示が変だった。数字が、目まぐるしく動いている。
「なぁ、オカン。リモコン、壊れたっぽい」
「そんな事どーでもいいから、出てーっ! もう、駄目ぇ」
入れ違いに、必死の形相でトイレに飛び込んだ母親は、
「んん? ……壊れてないよ。気を付けて行ってらっしゃい」
ドア越しに言った。
「オカンも気を付けな」
タツトは、テーブルの上の弁当を掴むと、かかとを踏みつぶした、中学指定の運動靴を突っ掛けて飛び出した。
「おっはよーさんし、ごくろーななはち」
背後から、のんびりとした声がした。隣家のレイジだ。
「おはよー、レイジ。いつも思うんだが、それ、ちょっとおかしくね? 三、四は、良いけど、五、九、六、七、八って」
「細かいことは、良いんだよ。……あ、タッチャンのお母さん、行ってらっしゃーい!」
レイジは、ドアの開く音に振り返り、出勤するタツトの母親に、ぽっちゃりした手を振った。
「いつ見ても、美しい……!」
黒縁の丸眼鏡を、クイッと指で上げる。
「そうか? オカン、もうアラフォーだぜ?」
二十代にしか見えない。お前、何で、あんな超絶美人を、オカンなんて呼ぶんだよ? 関西人でもないのに」
「レイジは、分かってないな。俺達、お笑い芸人を目指してんだぜ? そしたら、関西弁に決まってるだろ」
タツトの言葉に、レイジは脱力した。
「オカン以外は、関西弁じゃない訳だが?」
「まだ、勉強中だっつーの」
タツトは、色素の薄い猫っ毛の頭を掻き、レイジの左巻きのつむじに乗っかった、桜の花びらを見下ろす。
隣家の桜は、もうすぐ散り終えそうだ。
「今朝も、ネタ考えたか?」
レイジが、つむじを見る視線を遮るように顔を上げた。
「おう、あたぼーよ。そういえば、変な事があったんだ」
タツトは、トイレのリモコンの話をした。
「でも、お母さんが、その後、入って何でもなかったんだろ? お前、寝ぼけてたんじゃね?」
そう言われると、何だか自信が無くなる。
「そうかなぁ。ま、そんな事はどうでもいいか。今日も、昼休みに練習な」
この春、中学三年生になった、タツトとレイジは、小学生の時から、お笑い芸人を目指している。芸名も決めてある。タツトとレイジのレイで、『たっとれー!』だ。
だが、実績はない。せいぜい、クラスメイトの前で披露したり、町内の祭りの一芸コンテストに出るくらいだ。ちゃんとしたオーディションを受けるのには、保護者の承諾がいる。けれど、タツトもレイジも、将来の夢を、まだ、親に打ち明けられないでいた。
「高校は、出ておけ」と、尻を叩かれ、受験生の振りはしているが、その実、中学を卒業したら、お笑いの養成所へ行こうと考えていた。
タツトの父親は、八年前、事故で亡くなり、母親が、Wパートで、生活を支えている。
「超絶美人なのだから、お水系に行ったら、もっと稼げる」と、誘う人は山ほどいたが、母親は、「自分には無理だ」と、その都度、やんわりと断っていた。
思春期になって、気付いたのだが、どうやら、母親は、男女間のトラブルを避けている節がある。実際、男のいる職場は、一方的なトラブルで、何度も変わらざるを得なかった。だから、今は、時給は低いが、女だけの職場に落ち着いている。
家で平気でオナラをへったり、亡くなった父親の股引ももひきを、スパッツ代わりに穿はいたりしている母親を、職場の男どもが追いかけ回すのが、タツトには、不思議でしょうがない。
母親似で端正な顔立ちのタツトもまた、恋愛関係は、からきし駄目だった。
母親とテレビを観ていて、ラブシーンが映ると、あらぬ方を見ながら、ゲフンゲフンと咳払いをして、やり過ごすくらいだ。
女の子に興味が無いわけではないが、『まだだ』感が強くて踏み出せない。何度か、告られているが、ろくすっぽ聞きもせずに断ってしまう。「俺に、色事は、早すぎるぜ」と。
レイジに、「幼稚園児か」と笑われるが、お笑い芸人になることの方が、百万倍も重要だった。
母親の為に「早く、稼げるようになりたい」と、タツトは言う。が、何故、その手段が、お笑いなのか、実は、自分でもよく分かっていない。気づいたら、将来の夢になっていた。
その日も、学校から帰ると、いつものように、トイレでネタを考えていた。トイレは良い。広すぎず、余計な物が少ないから、集中できる。
「コロッケ、ころけた」
タツトが、メモしようとすると、どこからともなく、電子音声のカウントダウンが、聞こえて来た。
『……9、8、7、6』
「はぁっ? えっ?」
壁のリモコンの時刻表示が、目まぐるしく変わっている。
「何じゃ、こりゃー!」
視界がブレ始め、トイレ全体が細かく振動した。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ
『……3、2、1……』
ズウウウン!
突き上げるような衝撃に、一瞬、五感が麻痺した。気を失っていたのかもしれない。
気付くと、振動は収まり、リモコンのモニターには、何も表示されていなかった。
「……一体、何なんだよ」
乗り物酔いしたように、頭がふらつく。
トイレを出て、驚いた。ここは、どこだろう? 見た事のない、いや、どこかで見た気もする、洗面所だった。見慣れぬ化粧洗面台と、洗濯機が目に入る。トイレのドアと隣り合わせているのは、浴室の扉だ。家の洗面所と、作りは似ているが、内装が全然違う。
しかも、今は、夕方のはずが、窓の外は、昼のように明るかった。
夢を見ているのだろうか。タツトは、不安になって、呼んでみた。
「オカン?」
いるはずない。まだ、仕事から帰る時間ではなかった。が、
「ウンチ、出た?」
母親が、洗面所の戸口から、ひょいと顔をのぞかせた。
「わ、若い……」
タツトは絶句する。
「えっ?」
「髪、切ったん?」
「何、言ってんの? お母さんは、ずっとショートヘアじゃない。それより、早くしなさい。お父さん、待ち くたびれているわよ」
「オトン? オトンがいるの?」
「ふざけるのも、いい加減にしなさい。その変な関西弁やめて。ほら、顔洗う」
顔を洗おうとすると、洗面台が、いやに高い。
「踏み台しないと、届かないでしょ?」
母親が、踏み台を足元に置いた。
(?)
踏み台に乗り、鏡に映った自分を見て、驚いた。
鏡には、色素の薄い猫っ毛の幼児が、映っていた。幼稚園の頃のタツトだ。
(どうなってるんだ? 俺、ちっちゃくなっちゃった?)
鏡の前で、呆然として埒の明かないタツトを見かねて、母親が、後ろから世話を焼く。
濡らしたタオルで顔を拭き、寝ぐせで鳥の巣のようになった髪に櫛を当てた。
「おーい、支度、出来たか?」
男の声が、足音の重みと一緒に近づいて来る。
(まさか)
期待に、鼓動が速くなった。
「タツト!」
振り向くと、懐かしい顔が。
「お父さん!」
父親は、まだ生きている。
幼児になった自分の姿と考え合わせると、どうやら、ここは、過去の時間の中らしい。
何が起きているのか分からないが、自分の中で朧になった過去の記憶を辿れるのなら。
タツトは、このまま様子を見ることにした。
「さぁ、動物園に行くゾウ!」
父親は大きな手で、踏み台の上の息子を、軽々と抱き上げた。
笑顔に引き込まれる。お日様のように明るく温かいのに、可愛いらしい笑顔だった。大の男に可愛いというのもおかしいのだが。
車で二十分ほどのところに市立動物園はある。
園内の桜は満開で、散るのをギリギリ堪えていた。表面張力で盛り上がった水のように、少しでも触れたら、零れてしまいそうだ。
猿だの、鳥だの、猛獣だの。順路に沿って園内を歩く内、段々、思い出して来た。この動物園には、小さな遊園地があり、タツトはメリーゴーランドが、お気に入りだった。
遊園地の横には、小動物と触れ合える『ふれあい広場』がある。動物好きの父親が、子供のタツトより子供になる場所だった。
案の定、父親は、『ふれあい広場』に行き、タツトを口実に、子供しか入れない柵の中に入ると、子ウサギを抱き上げた。
「ほら、タツト」
小刻みに震える、ふわふわの小さなぬくもりを、大切そうに手渡し、自分用にヒヨコを掬い上げた。
「すみません、子供が心配で」などと言い訳をしながら、一向に柵から出ようとせず、係員も呆れて、注意しなくなってしまった。
柵の外で、二人を眺めていた母親が、声を掛ける。
「そろそろ、お昼にしましょう。手を洗って来てね」
桜の木の下は、家族連れが、そこかしこで弁当を広げていた。
「はい、お父さんの好きな梅干しのおむすび。タツトは、オカカ」
母親の作る弁当は、今も昔も変わらない。だし巻き卵、たこウインナー、鶏の唐揚げに、フライドポテト。小さめのおむすびには、持つ所にだけ海苔が巻いてある。全体を包むと、タツトが、海苔を噛み切れないからだ。
タツトは、満ち足りていた。両親が揃い、二人に愛されている。
(だが、待てよ)
時折吹く冷たい風の如く、この場にふさわしくない不安が頭をもたげた。
父親は、自分が六歳の、四月十五日に死ぬ。
だとしたら、遠からず、それは起きてしまうのではないか。
タツトは、父親の最期を知らない。母親に訊ねても、詳しく語らず、「仕事中の事故で」と言葉を濁す。その辺りの記憶が、すっぽ抜けており、思い出すのは、散り終えた隣家の桜だけだった。つまり、桜が散り終える頃――
(嫌だ。何とか、このままで)
体は幼稚園児、心は中学三年生のタツトは、難しい顔をして、考え込んだ。
「どうした? 寒いのか? 鼻水出てるぞ、花の下(鼻の下)だけに。なんちゃって」
(あ……)
「あら、風邪を引かすところだったわ」
母親が、自分のストールを外して、タツトの肩を包むと、
「これ、お母さんのストール。スっトル(知ってる)?」
父親は、ストールを、指先でつまんで、二カッと笑った。
(やっぱり……)
「親父ギャグばっかり。幼稚園児には、分からないって」
あきれる母親だったが、タツトは、父親に共感の笑顔を向ける。
「いや、こいつ、分かってるって。なぁ?」
さすが、俺の子だと、幼い息子の頭をガシガシと撫でた。
十日ほどして、隣家の桜も散り終えた、四月十五日。電気工事士の父親が、出勤した後、タツトは、母親と、幼稚園に向かっていた。みずはら幼稚園までは、徒歩七分ほどの道のりだ。年長組の真新しい名札を付けている。
幼稚園舎が見え始めた時、
「お父さんだ!」
タツトが元気よく指差した。
数十メートル先の電柱脇に、高所作業車が停まり、バスケットに乗った父親が、作業をしていた。
「高い所にいるのに、よく分かったね」
「だって、お父さん、ぼくのカエルちゃんを、付けているから、すぐ分かるよ」
カエル=帰るになぞらえ、無事帰るようにと、タツトが手渡した、カエルのマスコット。
父親は、お守りだと言って、ベルトに付けていたが、蛍光グリーンは、遠くからでもよく目立った。
「お父さーん!」
タツトは、繋いだ手を振り払い、走り出す。
(だめだ! 走っては)
頭の中で強く制する声がした。
走り出そうとする体と、止まろうとする意思。バランスを崩したタツトは、盛大に転び、アスファルトに膝を強か打ち付けた。
「痛ってぇ!」
自分の声で我に返ると、中学指定のジャージの足が見えた。膝は、痛くない。着古したパーカーの袖と、大人サイズの手も目に入る。
そこは路上ではなく、自宅のトイレの中だった。
「……戻った?」
壁のリモコンを見る。特におかしなところはない。時刻表示は『18:00』。トイレに籠ってから、一時間ほど経っていた。
恐る恐るドアを開ける。シーリングライトの下、いつもの洗面所の風景が広がり、洗面台も洗濯機も、タオル掛け付近の壁の汚れも、タツトがよく知るものだ。
「タツト?」
ちょうど帰宅した母親が、洗面所の戸口から顔をのぞかせた。肩までの髪を一つに結っている。
「ああ、お帰り……」
「どうかした? ぼんやりして」
「……いや、……何でもない」
夕食を済ませ、母親が二つ目の仕事に出かけた後、入浴中も、宿題をやらずに布団に入ってからも、タツトは、夕方、起きた事を考えていた。
あり得ないことだが、時空を旅した。自分は、確かに『そこ』へ行ったのだと思う。
居眠りをして夢を見たというには、あまりにもリアルだった。桜の花の色、頬を撫ぜた風の匂い、母親の弁当の味、父親の手のぬくもり、打った膝の痛み。
不思議に思う一方、微かな希望が生まれ、願望となって心を占めていく。
(転ぶ前まで、オトンは生きていた)
あの時点から、注意して行動すれば、父親は死なずに済むのではないか。
(死なせない!)
全身の血が沸き立った。
だが、大きな問題がある。
再び過去の、あの日に飛べるか、だ。
「あんた、この頃、トイレ長過ぎよ」
お蔭で会社に遅刻しそうだと、母親が訴えるのをよそに、あれから、タツトは、遅刻ギリギリまで、トイレで粘って登校する。
下校してからも、暇があれば、トイレに籠る。もう一度、飛びたい、その一心だった。
もちろん、ネタ作りも忘れない。自分の親父ギャグが、父親ゆずりだと、知ってからは尚更だった。
そして、その時は、三日後にやって来た。
父親の祥月命日の朝、タツトは、トイレに籠っていた。ドアが、ドコドコ叩かれる。
「早く出てーっ!」
母親の声。いつもの朝の風景だ。
が、ふと横の壁を見ると、リモコンのモニターが異常な動きをしていた。
どこからともなく聞こえる、電子音声のカウントダウン。
「よっしゃ! 来た!」
トイレが、小刻みに振動し始め、母親の声が遠ざかる。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ
ズウウウン!
突き上げるような衝撃。
軽い目眩に閉じた目を開けると、タツトは、胸の名札を確かめた。年長組だ。
「ウンチ出た? 幼稚園に遅れちゃうよ」
ドア越しの母親の声は、さっきより、優しく若々しい。
ドアの外は、先日、見た洗面所。
一度目のタイムスリップ後、母親に確認すると、父親が亡くなって数年後に、家のリフォームをし、洗濯機を買い替えたという。つまり、ここは、リフォーム前の洗面所だった。
「お父さんは?」
「もう、お仕事に行ったよ。さっき、タツトも、バイバイしたじゃない」
「……今日は、何月何日?」
一応確認する。
「えっ? 四月十五日よ」
(よしっ! オトンの命日だ。上手くやれよ、俺。今日を、乗り切れば、オトンは、死なないはずだ)
花の散った隣家の桜。母親と幼稚園に向かう道。タツトは、髪の先まで神経が行き届くほど、細心の注意をして歩いていた。順調だった。
が、高所で作業する父親の姿を見た途端、何かに取り憑かれたように、母親の手を振り払って走り出した。
(やめろ! 走るな!)
心の叫びと裏腹に、体は、勢いよく飛び出していた。
「待って! タツト、危ないから!」
母親の大声に、作業中の父親が反応した。
「タツト! 止まれ!」
高所のバスケットから、脇道を走る軽自動車が確認できたのだろう。
タツトは、転んだ。
だが、すぐに立ち上がって走った。
信号機の無い交差点で、追い付いた母親が肩を掴むのと同時に、軽自動車がタツトの鼻先をかすめる。
ボン!
爆発音に続き、ドスンと鈍い音がした。
視界が開けると、高所作業車脇の路面に、父親が倒れていた。
「……ャアアアアアアアアアア!」
鼓膜が破れるほどの母親の絶叫。
タツトの膝は、がくがく震えた。
同僚が、倒れた父親に呼び掛ける。強張った表情で、スマホを取り出すと救急要請をした。
立ち竦むタツトの手を抜けるほど引っ張り、母親は、父親の元に駆け寄った。
何かが焦げた臭いがする。
腰の蛍光グリーンのカエルが、妙に、目に鮮やかだ。
(うそつき。『無事帰る』のカエルのくせに)
騒ぎを聞きつけた人が集まって来ても、倒れた父親は、うつ伏せのまま、ピクリとも動かなかった。
救急車のサイレンが、近くなる。
目の前が真っ暗になった――
「……ツト、タツト!」
「タッちゃん」
母親の声に混ざって、若い男の声が聞こえる。タツトは、ゆっくりと目を開けた。
母親とレイジが、心配そうに覗き込んでいる。背景に洗面所の天井が見えた。
「……俺、どうしたん?」
「トイレで、気を失ったのよ」
呼び掛けに応えなくなったので、迎えに来たレイジと一緒に、ドアを外して、出したのだという。
「おっはよーさんし、ごーろく、……泣いてるん?」
いつもながら、緊張感のないレイジの声。
体を起こし、自分の顔を触ると、指先が濡れた。
「大丈夫?」
母親の声で、フラッシュバックする。
「うあ、ああああ、オトンが、オトンが……」
たった一度きりのチャンスだったのかもしれない。だが、自分は、失敗した。父親の死を防げなかった。タツトは、両手で顔を覆い、身を捩って泣いた。
戸惑いながらも、肩をあやすように叩く母親は、スマホを取り出した。
「よし、今日は、学校休もう。私も、会社休むわ。レイちゃんは、どうする?」
「ほな、僕も、ついでに」
会社と中学に連絡を入れると、レイジの手を借り、タツトたちは、居間に移動した。
「ここのところ、変だったから、ずっと心配していたの。何があったのか、話して。お父さんに関係あるの?」
母親は、お茶を淹いれた湯呑を差し出した。
少し落ち着いたタツトは、カウントダウン・トイレットのこと、その後、体験したことを、二人に話して聞かせた。
「……だから、俺、オトンを助けようと思ったんだ。なのに……!」
湯呑を握る手に力が入る。
「……百万歩譲って、お前が、タイムスリップしたとしよう。だけど、過去に起こった事は、どうやっても変えられないって、本で読んだことあるわ」
レイジが、辛そうに目を伏せた。
「そうなのか? 俺、本なんて読まないから知らなかった……」
「お前、アホだからな」
「うっせぇ! くそー、俺が、アホなばっかりに」
猫っ毛を、千切れるほど掻きむしる。
「タツトの所為じゃないのよ」
ずっと黙って聞いていた母親が口を開いた。
「どうして、今になって、辛い事を思い出したのか分からないけど、お父さんが亡くなったのは、事故なの。あんたの所為じゃない」
「だって、俺が走りださなければ、お父さんは、バランスを崩すことも、高圧線に触れることもなかったんだろ?」
「……そっか。それが、ずっと心の重荷に、なっていたのね」
「何のことだよ」
「あんたは、お父さんが亡くなった後、気を失って、昏睡状態になった」
一週間後に、意識を取り戻した時には、事故のことを、すっかり忘れていた。それで良いと思った。父親の死を目撃してしまったことが、幼いあんたに、どれほど負担だったか。
母親は、タツトが知らないことを語った。
「ウシトラ?」
「……??」
タツトは、眉根を寄せた。
「それを言うなら、トラウマだろう」
「ああ、それ。すごいトラウマになったと思う。忘れていれば、良かったのにね」
「あのう、おばさん。僕が思うに……」
レイジが、横から口を挟む。
「タッちゃんは、進路のことで悩んでいたから、こんなことになったのではないかと」
のんびりした声だが、丸眼鏡の奥の目は、いつになく真剣だ。
「ついでだから、ぶっちゃけてしまいますが、僕とタッちゃんは、高校に進学せずに、お笑いの養成所へ行きたいと思っています」
「おい、おい」
何故、今言う? タツトは、慌てた。
「そうなの?」と、母親は、タツトに顔を向け、でも、そのことと、どう関係があるの? と首を傾げる。
「続けます。志望の理由が、タッちゃん自身、分からなかった。何故、自分は、お笑いを目指すのかが」
「確かに、そうだった。けど、分かったぜ。オトンが、親父ギャグ好きだったからだ」
「いや、それもあるけど。他にも、理由があるんだ」
まるで、物語の最後に、真実を明かす探偵のようなレイジ。
「……レイちゃんは、覚えていたのね」
うなずき合う母親とレイジに、自分だけ取り残された気がして、タツトは、口をとがらせた。
「何だよ?」
「辛い事故のことを、思い出すといけないから、ずっと、黙っていたけど」
前置きをして、レイジは、記憶の一部を失くし、笑わなくなってしまったタツトを、母親が寄席に連れて行ったのだと言った。
「いつも、おばさんは、僕も一緒に連れて行ってくれた」
「毎週、休みの日には、寄席に通ったね」
懐かしむように、母親は、遠くを見る。
「そうして、通っている内に、最初は、無反応だったタッちゃんが、ある日、笑った」
レイジは、顔を歪め、泣きそうな顔をした。
「『ワォワォン』の漫才を観ている時だった」
『ワォワォン』は、今や中堅クラスになっている、男性二人のお笑いコンビだ。
「それからだよ。タッちゃんが、駄洒落だじゃれや親父ギャグを言うようになって、一緒に、お笑い芸人を目指そうって言ったのは」
「……」
「タッちゃんが笑顔でいられるなら、僕の夢も、それで良いって思った」
「……そうだったの。ありがとうね。ずっと、タツトの側にいてくれて」
母親の声にも、涙がにじむ。
閉ざされたタツトの心を解し、開放したのは、お笑い芸人だった。
「……レイジ、ありがとな」
タツトは、手の甲で涙を拭ぬぐう。
「なーんだ。オカンが、俺とお笑いを結び付けてくれたのか。さっさと、進路について、打ち明ければ良かったぜ」
「それと、これは、話は別なのだけどね」
「えーっ!」
「お母さんは、やっぱり、高校は卒業して欲しいと思う」
「それなんですけど。タッちゃんは、早く稼いで、おばさんに楽をさせてあげたい、って」
「ちょ、ちょっと、……泣かせないでよ……」
母親は、大粒の涙を、ボロボロと零した。
「……気持ちは、嬉しいけど。これは、お母さんの夢なの。お父さんがいなくても、ちゃんと、高校を出すっていう」
でも、あんたの志望も分かった。これから、よく話し合おうね。母親は、そう言って泣き顔で笑った。
「あんたが、気を失って、すごく心配したんだよ。また、前みたいになっちゃうんじゃないかと思って」
「……俺は、大丈夫だ。もう子供じゃない。相方もいるし、いいネタも、できたしな」
「いいネタ?って」
レイジは、のんびりと訊ねた。
「カウントダウン・トイレットって、良くなくね? これで、タイムスリップの小話を作ろうぜ」
「僕は、むしろ、タイムスリップより、トイレ・ロケットが、宇宙に飛んでいく方が、ツボるんだけど」
「お、それも面白いな」
タツトは、ゴソゴソとメモ帳を取り出す。
「よしっ、今日は、三人ともサボったわけだし、これから、こっそり、寄席に行こうか?」
二人のやり取りを見ていた母親が提案した。
「寄席に行くのは、ヨセなんて言わないぜ」
「寄席で、あげあげだぁ」
「……ブラみたいね」
「ところで、オカン。トイレは、いいの?」
「あ!」
窓の外、四月の空は、父親の笑顔のように明るく晴れ渡っていた。
その後、トイレで異変は起きていない。あれは、タツトの父親が見せた幻なのだろうか。