俺との交際が人生最大の汚点だと言っていた元カノが、今でも俺の贈ったペアリングを嵌めている件
「別れましょうとは、言わないわ。その代わり、付き合っていた事実自体をなかったことにして欲しいの」
高校2年の秋、俺・倉田雅樹は恋人の咲田叶恵にフラれた。
忘れもしない。あれは文化祭最終日の出来事だった。
一般公開が終わり、残すは後夜祭だけとなった夕暮れの頃。俺は叶恵に呼び出されて、屋上にやって来ていた。
もしかして、この後行われるフォークダンスに誘われるのかな? 一緒に踊れば結ばれると噂の、フォークダンスに誘われるのかな?
そんなことしなくても、俺の方から誘うつもりだったのに。
「Shall we dance?」と、一足早く手を差し出すとしようか。
などと上機嫌で屋上に来るやいなや、突きつけられた予想外の三行半。
天国から地獄とは、まさにこのことである。
閻魔様、俺何か悪いことしましたっけ?
確かに叶恵の家に行った時、彼女のパンツを嗅いだことはあったけど、あれは洗濯済みだったし、そもそも恋人同士だからセーフだよね?
しかしながら、どんなに内心で弁明しても、閻魔様は考えを変えてくれない。
その証拠に、「ごめんなさい」と叶恵は小さな声で謝った。
「……どういうことだ? 何で別れるってことになるんだよ?」
叶恵と付き合い始めて、およそ一年。俺たちの関係性は、着実にステップアップしていた。
幾度ものデートを重ね、キスも済ませ、俺の計画だともうすぐ初体験も終わらせるつもりだった。
気が早いかもしれないけど、「クリスマスデートはどこに行こう?」と二人で話し合っていたし、バレンタインに貰えるであろう手作りチョコにワクワクしていた。
大学だって、一緒の学校に通うべく努力していた。なのに――
いきなり別れたいだなんて、全くもって意味がわからない。全国模試でもこんな難問、出題されたことないぞ。
俺の問い掛けに、叶恵は首を横に振って応える。
「別れるとは言っていないわ。交際自体をなかったことにすると言っているの」
尚のこと意味不明だ。そして、悪質だ。
だって、そうだろう? 心臓が爆発しそうなくらい緊張した告白も、心の底から笑い合ったデートも、思い出深いファーストキスも、それら全てを叶恵は否定しているのだ。
そんなの、納得出来るわけがない。
「……きちんと説明してくれ。叶恵には、その義務がある筈だ」
「そうね。雅樹との交際をなかったことにしたい理由、それは……あなたが恋人だったという事実が、汚点でしかないからよ!」
汚点。叶恵は俺との一年間の思い出を、おおよそ考え得る限り最悪の2文字で集約してみせた。
「顔がカッコ良いわけじゃない。運動も出来ない。クラスの中心人物どころかいてもいなくても変わらない空気みたいな存在だし、帰宅部だから部活で活躍することもない。勉強は出来るけど、そのせいで周りを馬鹿にしてる感じが滲み出ててムカつく」
ダムが決壊したかのように、叶恵は今まで抑え込んできた俺への不満を次々に列挙していく。
不満、いや、悪口は留まることを知らない。底を尽きることもない。
……そうか。そうだったのか。
上手くいっていると思っていたのは俺の方だけで、お前はずっと俺をそんな風に思っていたのか。
ボロクソに言われても、不思議と怒りは込み上げてこなかった。
胸に巣食うのは、喪失感のみ。俺の青春は、叶恵中心で回っていたのだ。
「お願いだから、未来永劫私を元カノと呼ばないで。あなたは誰とも付き合ったことがない。キスだってしたことがない。わかった?」
「……嫌だと言ったら?」
「嫌だと言って、何が変わるというの? あなたと私がただのクラスメイトだという事実は、変わらないわ」
どんなに縋っても、どうやら俺は叶恵の彼氏ではいられないらしい。
「……」
俺は俯いたまま、黙り込んだ。
沈黙が表すのは、肯定だ。
勿論、納得したわけじゃない。理解だって出来ない。単に、どうしようもないと諦めただけだ。
「また明日ね、倉田くん。あと……志望校、受かると良いわね」
最後の最後に餞別の言葉を残して、叶恵は屋上から立ち去る。
あんなに楽しみにしていた筈なのに、流れ始めたフォークダンスの音楽が、今となってはこの上なく耳障りに感じた。
◇
屋上での一件は、俺の人生における大きな転換点となった。
最愛の人を失ったというのも理由の一つだが、それ以上に、あの出来事は俺の価値観を変化させたのだ。
もう二度と、恋なんてするものか。
俺はそう、固く誓う。
それからというもの、俺の青春は勉強という学生の本分に侵食されていた。
周りのリア充共がイチャイチャしている間に、一つでも多くの英単語を覚えてやる。クラスのカップルがデートしている間に、過去問を数年分解き終えてやる。
そんな風に自身を鼓舞しながら、死に物狂いで勉強に励む。
決して青春時代を無駄にしているわけじゃない。これはそう、幸せな未来への投資なのだ。
あれ以来、叶恵とは会話をしていない。
一応クラスメイトではあるから、すれ違った時に「おはよう」と挨拶くらいはするけれど、雑談をすることはなくなってしまった。
無論、手を繋いだりすることも。
帰宅部の俺は放課後になるなり、叶恵から逃げるように下校する。それが新たな俺のルーティン。
帰宅して、自分の机に腰を掛けて。
文化祭前までならここで一度愛しい恋人にメッセージを送るのが恒例なんだけど、今はそんなことしない。というより、出来ない。
俺は叶恵に、ブロックされてしまっている。
恒例といえば、そういえば。
付き合って1年記念日に買った、高校生には少しお高めなペアリング。それを嵌めて勉強すると不思議と気合が入るのだが、今は見たいとも思わない。
「……こんなもの、捨ててやる」
吐き捨ててから、俺はペアリングをゴミ箱に向かって投げる。
ペアリングはゴミ箱の中に入らず、その少し手前に落下した。
俺は立ち上がり、ゴミ箱に近付く。
ペアリングを拾うと、そのままゴミ箱にーー
「……」
ーー捨てなかった。
正しくは、捨てられなかった。
高価だったから、惜しくなったわけじゃない。
購入費用なんて端金だと思えてしまうくらい、このペアリングには思い出が詰まっていた。
結局ペアリングを捨てられず、俺は鍵付きの引き出しの奥底にしまいこむ。
指輪を嵌めない代わりに両頬をペシンと軽く叩いて、気合いを入れ直して、俺は改めて勉学に励む。
結果ーー俺は日本で1番偏差値の高い大学に進学したのだった。
◇
あれから10年。
27歳になった俺のもとに、1通の手紙が送られてきた。
手紙の内容は、同窓会の案内だった。
同窓会。その響きを聞くと、自分が大人になったのだと思い、感慨深くなる。
当たり前だけど、高校生の頃は高校の同窓会なんて開催されなかったからな。
後半は特に勉学に没頭していた高校時代だけど、友達がいなかったわけじゃない。
体育の授業で一緒にストレッチをしてくれたり、修学旅行で写真に入れてくれた友達はいる。
「あいつら、今何しているんだろうな」
この10年で、色々なものが変わった。
リモートワークが珍しいものではなくなったり、スマホ1台あれば何でも出来るようになったり。
社会同様、人間だって10年経てば変わる。
そんな彼らと再会し、旧交を暖めるのも悪くないかもしれない。
『同窓会、参加します』
俺は招待状に書かれていた主催者のメールアドレスに、参加する旨を綴ったメッセージを送信した。
そしてやって来た、同窓会当日。
会場に到着するなり、俺は早々に参加したことを後悔した。
「……久しぶりね」
「……おう。久しぶりだな」
どうしてこうなることを予測出来なかったのだろうか?
同窓会というからには、そりゃあ当然叶恵も参加しているわけだ。
不運にも俺にあてがわれた席は叶恵の隣で。
疎遠になった元カノと隣同士だなんて、気まずい以外の何ものでもない。
おい、主催者。
みんなが楽しく過ごせるように計画したのなら、席順くらいは気を遣おうぜ。
そんなことを考えていると、意外にも叶恵は普通に俺に話しかけてきた。
「10年ぶりね。今は何をしているの?」
「……」
「どうかしたの?」
「いや。あんな別れ方をした元カレに、普通に話しかけてくるんだなと思ってさ」
「元カレじゃない。ただの元クラスメイト。元クラスメイトに話しかけるのに、遠慮なんて必要なのかしら?」
……そうだったな。俺たちは元クラスメイトであって、元カップルじゃないんだった。
そういうことになっているんだった。
ならば俺も元クラスメイトとして、会話させて貰うとしよう。
そのことを少しくらいは悲しいと思うけど、フラれた直後程のショックはない。
これも10年経ったが故の変化なのだろう。
「今は銀行員をしているよ。お前は?」
「私は幼稚園の先生。昔から、子供が好きだったから」
言いながら、叶恵は頬杖をつく。
キラリンと、ふと彼女の左手の薬指が光ったのに気が付いた。
……叶恵のやつ、結婚していたのか。
今は旦那と幸せに毎日を過ごしているのかな? もしかしたら、子供がいるのかもしれない。
そう思ったのも、束の間で。
俺はその後すぐに、驚愕の事実に気が付くのだった。
「あれって……」
確かに叶恵の左手の薬指には、指輪が嵌められている。しかしその指輪は、エンゲージリングなどではなく……俺がかつて贈ったペアリングだった。
まだ持っていたのか? というより、どうしてそんなものを嵌めている? それもわざわざ、左手の薬指に。
会話をする時は相手の顔を見るのが礼儀だというのに、叶恵の薬指で輝くペアリングが気になって、ついそちらにばかり目がいってしまう。
会話の内容が、全く入ってこない。
先程から俺は、相槌しか打っていなかった。
ペアリングについて問いただしたいわけだけど、今は同窓会。ここには周囲の目や耳がありすぎる。
この場で「どうして俺の贈ったペアリングを嵌めているんだ?」なんて聞けるわけがない。
頭を悩ませていると、チャンスは突然訪れた。
「ごめんなさい。ちょっと、席を外すわね」
「どこか行くのか?」
「御手洗よ。聞くな」
それは女性に対して、失礼なことを聞いてしまった。
反省する一方で、俺は「これは絶好の機会だ」と考えてた。
トイレから出たところを捕まえれば、叶恵と二人きりで話をすることが出来る。
二人きりならば、ペアリングのことを尋ねることが出来る。
叶恵が席を外すのと少し時間をズラして、俺もまた立ち上がる。
御手洗に向かうと、丁度叶恵が会場に戻ろうとしていたところだった。
「叶恵」
会場に戻ろうとした叶恵を、俺は呼び止める。
「あら、あなたも御手洗?」
「いいや。ちょっとお前と二人で話がしたくてな」
「話? 何かしら?」
「それ」と、俺は叶恵の左手の薬指を指差す。
「俺とは元カップルですらいたくないって言っているくせに、どうしてそんなものを嵌めているんだ?」
「……気付いたんだ」
「当たり前だろ? ひと目見れば、わかるっての」
叶恵は右手でペアリングに触れる。
その表情が嬉しそうに見えたのは、俺の気のせいだろうか?
「ペアリング、雅樹はもう捨てちゃった?」
「……捨てられたら、どんなに楽だったことだろうな」
10年経った今でも、ペアリングは変わらず鍵付きの引き出しの奥底に眠っている。
どんなに拒絶されても、否定されても、捨てられなかったのだ。
ペアリングも、思い出も。
「ごめんね、雅樹。私あの時、嘘ついたの」
唐突に、叶恵は謝罪をする。
「あの時」が俺をフッた時であることは、考えるまでもなかった。
「嘘?」
「えぇ。……あなたとの交際が汚点だなんて、嘘。そんなこと、これっぽっちも思っていなかった。それどころか、二人で過ごした日々をとても愛おしく感じていたわ」
「……」
10年越しに明らかになった真実は、驚きよりも憤りを先行させた。
お前にフラれて、恋人だった思い出すらなかったことにしたいと言われて、俺がどれだけ傷ついたと思っているんだよ?
あれから恋愛に臆病になった。
だからこの10年、恋人がいた期間なんて1秒たりともなかったし、女の子とデートに行ったことすらなかった。
それなのに、「嘘ついていた」? 「ごめんなさい」?
もう27歳であるけれど、そんな言葉だけで納得出来る程大人じゃない。
俺はあの日屋上でしたのと同じ疑問を、叶恵に投げかけた。
「それじゃあどうして、俺と別れるだなんて言ったんだよ? あのまま恋人同士で過ごすって選択肢はなかったのか?」
「なかったわ」
「どうして?」
「あなたの夢の邪魔をしたくなかったの」
当時俺と叶恵は、「一緒の大学に行こう」と約束していた。
その約束は恋人と一緒にいたいという願いからきたものである一方で、どちらかの志望校を諦めなければならないという事実も表していた。
俺は叶恵より頭が良い。志望校も、自ずと俺の方がランクの高い大学になるわけで。
俺が叶恵の志望校に合わせることは出来る。でも、その逆は難しい。
だから俺は叶恵と同じ大学に通う為に、自分の志望校を諦めていた。
そのことに、叶恵は気付いていたのだろう。
そのことで、叶恵は罪悪感を覚えていたのだろう。
「あなたの夢の邪魔をしたくない」。有言実行する為に、彼女は俺をああして突き放したのだ。
「……だからって、何もあんなフリ方する必要なかっただろ? 受験が終わった後ヨリを戻すって選択も出来ただろう?」
「そうね。そういう考えがなかったと言えば、嘘になるわ。でも……そんなの、都合良すぎるじゃない。あなたを深く傷付けておいて、それでも「まだ好きです。付き合って下さい」なんて、虫が良すぎるわ」
「でも、好きなんだろ?」
「えぇ。大好きよ」
もう一度、叶恵はペアリングに触れる。
今度はギュッと、胸の前で握り締める。
「……今日で最後にしようと思っていた。もし10年経った今でもあなたに恋人がいなくて、もし10年経った今でもあなたが私を好きでいてくれたのなら。どんなに成長しても、そこだけは変わってなかったら。もう一度あなたに想いを伝えてみようって、そう思ったの」
ペアリングを嵌めてきたのは、俺に対する告白だった。
「好き」と口にすることは決してせず、成熟した身体を使って迫ることもせず。見落とす可能性の方が遥かに高い方法で、俺に想いを伝えてきた。
……相変わらず、わかりづらい女だ。
俺が気付かなかったら、また誤解したままさよならすることになったじゃないか。
しかしながら、素直じゃないところは俺も似たようなものだ。
それに……10年も傷つけられたんだ。少しくらい仕返しをしたって、バチは当たらないだろう。
「その指輪を左手の薬指に嵌めるのは、やめてくれないか?」
「あなたが私に未練がないと言うのなら、外してあげても良いけど?」
仕返しのつもりが、思わぬ反撃に遭ってしまった。
全く、ズルい女だ。
未練も後悔も、数え切れないくらいあるに決まっている。叶恵はそのことを、きちんと見抜いていた。
それでも、そのペアリングは外して欲しかった。
「……3ヶ月待ってくれ。別のというか……その指に嵌めるに相応しい指輪を、きちんと贈るからさ」
今この瞬間は、俺の人生における最高の思い出じゃない。勿論、汚点でも。
叶恵との日々は、これからもずっと続いていくんだ。最高の思い出を今使ってしまうのは、勿体ないだろう?