18.自首を巡る攻防(1)
干しぶどうみたいな女。
それが、彼女を初めて見たとき、アリアが抱いた感想だった。
ひっつめ髪に、地味な修道服。
顔も、袖から覗く手もしわくちゃで、ちっとも潤いがない。
きっちりとお団子にされた髪はすでに色を失い、ブルーだったのだろう瞳も灰色に濁っていた。
いかにも、気難しそうな老女、といった感じだ。
彼女が、院長就任の挨拶をすべく、孤児院内の講堂につかつかとやって来たときから、アリアたちはすっかり相手の性格を見抜いていた。
几帳面で、生真面目。
四角四面で堅苦しくて――つまり、最悪!
その瞬間、講堂に集まった十人の子どもたちは、目配せだけで意志を疎通しあった。
こいつも、追い出してやろうぜ、と。
孤児院の経営になんて手を出すのは、国からの補助金を狙ったがめつい商人か、子どもたちに悪戯しようと企む聖職者くらいのものだ。
そこにときどき、はき違えた使命感を燃やした、独善的な修道女も加わる。
アリアたちからすれば、どれも等しく厄介だ。
新院長は、間違いなく三番目だと思われた。ほか二つと比べれば実害は少ないが、とにかく鬱陶しいので、孤児院における彼女の立場というものを弁えさせておく必要がある。
そんなわけで、老いた修道女が教壇に立ったその瞬間、当時十歳だったアリアたちは、隠していた泥玉を投げつけ、水を掛け、ありとあらゆる罵声を浴びせた。
修道女という生き物は、たったこれだけで、すっかり意志を挫かれるはずだった。
中には、泣き出したり、卒倒した者だっている。
だが、彼女の反応は違った。
「――恥ずかしいこと」
平然とハンカチで顔を拭うと、ゆっくり、子どもたちの顔を見回したのである。
「発情した獣の群れですか、あなたたちは」
しわがれた声には、貴族的なアクセントがあった。
呆気にとられた子どもたちの前で、彼女は木炭のかけらをつまみ上げた。
文字の書き取り用に寄贈されたものだったが、この数年、落書きにしか使用されてこなかった代物だ。
「精霊は、邪悪な言葉を忌み嫌う。けれどそれ以前に、あなたたちの聞き苦しい雄叫びは、人の言葉の態を成していません。泥や水を引っかけるのも、獣ならば仕方のないこと」
淡々と、静かな口調で、彼女ははっきりと告げた。
「わたくしを傷付けたいのなら、まずはあなたたちが人間になりなさい」
片方の眉を持ち上げる仕草には、何人にも侵しがたい、品と気位の高さがあった。
「な……っ、なんだよ! 偉っそうに!」
子どもたちの代表的な地位にあったアリアは、そのとき即座に立ち上がった。
当時は、襲われないように少年のふりをしていたので、髪も短く、言葉遣いも一層乱暴だった。
「しわくちゃのババアが、俺たちに説教しようなんざ――」
――カッ!
すると、目にも留まらぬ速さで木炭が飛んでくる。
角の丸いそれは、刺さることはなかったが、鈍い音を立ててアリアの額にぶつかった。
「いってえ!」
「精霊の忌み嫌うもの、高ぶる目。師の前ではきちんと席に着きなさい、アリア」
名乗ってもいないのに、名前を呼ばれてアリアは面食らった。
「それに、あなたは女性でしょう。襲われないようにという意図は理解しますが、言動の乱暴さは目に余る。せめて、目上の人間の前では使い分けられるようになりなさい」
性別も、男装の意図もしっかり見抜かれ、アリアは額を押さえたまま呆然とするほかなかった。
「や……やってられっかよ。こんな授業なんてごめんだね。あばよ!」
「精霊の忌み嫌うもの、速やかに悪に走る足」
アリアの弟分・フランツも、席を立って講堂の外に出ようとしたが、たちまち木炭を足に投げつけられた。
「いてえ!」
「外の通りに出て、今日もスリをするつもりですか、フランツ? 今日を限りに、一切の盗難行為を働かないことを誓いなさい」
嘘をついた者。
騒ぎ立てた者。
木炭は次々と飛んでくる。
ものの数分もせぬ間に、子どもたちは皆、体のどこかしらを押さえて蹲る羽目になった。
「な……なにすんだよ、修道女サマがよお!? こんなの、体罰じゃねえか! 修道院に訴えんぞ!」
「訴訟とは、人間に許された行為です。獣にではない」
涙目でアリアが脅しても、老年の修道女はびくともしない。
汚れた指先をきっちりとハンカチで拭って、彼女は再び、ふんと片方の眉を吊り上げた。
「今一度言います。わたくしを傷付けたいのなら、まずはもっと学び、許すことを覚え――さっさと人間になりなさい」
それが、院長ベルタとの出会いだった。
就任後の数ヶ月、ベルタと子どもたちの関係は最悪だった。
それはそうだ、彼女が重んじるのは規則、秩序、教え。
悪さばかりをし、大人に逆らい、精霊を信じない子どもたちと相性がいいはずもない。
彼女はいつも背中に定規が入っているように姿勢を正し、ことあるごとに聖書の一篇をもって子どもたちを戒め、しかも容赦なくこき下ろした。
アリアたちは大いに反発し、暴れ、叫び、罵ったが――しかし、やがて気付く。
自分たちをくそみそに貶す彼女は、同時に、なんの抵抗もなく子どもたちを褒めることもあるのだと。
たとえば、約束を守ったとき。
ふと思い立って、仲間を手伝ったとき。
つまり、彼女の言う「人間の」振る舞いをしたとき、ベルタはしわだらけの顔をわずかに笑ませ、「偉いですね」と言う。
「ありがとうございます」と。
彼女の言う「人間」を定義するのは、出自でも、性別でも、身分でも、なんでもないのだ。
孤児であろうが、女子どもであろうが、移民であろうが貧しかろうが、正しい行いをする者に彼女は微笑みかける。
悪しき行いをする者は、叱る。
たった、それだけ。
彼女を貫く法則はとてもシンプルで、けれどだからこそ、揺るぎなかった。
ベルタは一切の差別をしなかった。
子どもたちを孤児だからと見下すことはしなかったし、可哀想だからと肩入れすることもなかった。
ただし、子どもたちのほうに道理があるときには、必ず最後まで守り通した。
いわれなき中傷を浴びたときには、あの淡々とした顔で犯人を突き止めたし、濡れ衣を掛けられたときには、どんなに不利でも抗論した。
理不尽な暴力を振るわれたときには、相手が荒くれ者であっても本拠地まで乗り込み、謝罪させた。
彼女はけっして梯子を外さなかった。
ベルタが子どもたちに巻き込まれ、怪我を負ったのなんて一度や二度ではない。
それでも、俯いて詫びる子どもたちに、彼女は流血してさえ、平然と告げるのだった。
「だって、あなたたちは悪くないでしょう」
あの、片方の眉を上げた顔で。なんでもないことのように。
ベルタに、自分たちはこんなにも信じられている。
みすぼらしい孤児でも、哀れな子どもでも、卑しい前科者でもなく、ただ対等の存在として――人間として、接せられている。
その実感は、アリアたちの心を、ゆっくりと作り替えた。
ベルタは事あるごとに「よく学べ」と言った。
だからアリアは、字を覚えはじめた。
ベルタは何かにつけて「人を愛せ」と言った。
だからアリアは、石を投げることを控え、言葉を少しずつ整えた。
彼女が危険な窓掃除をやめろと言ったとき、子どもたちは「あーあ、せっかく割のいい仕事だったのに」と肩を竦めてみせたものの――口元は皆、くすぐったそうに綻んでいた。
だって仕方がない。
厳しくて口うるさい、我らの院長が、そう言うのだから。
四年の日々が、そうやって過ぎていった。
十四になったアリアが迎えたのは、ひどく厳しい冬だった。
異様な寒さはすでに夏から予見されていたことで、日差しを十分に浴びなかった作物は痩せ、小麦の発育も十分ではない。
パンも野菜も高騰し、それらを飼料とする食用家畜も、もれなく値上がりした。
王都全体、いや、国全体が殺伐とし、治安の悪い下町ではなおさら、あちこちで小競り合いが起こった。
さらに重ねるように、悪いことが二つ起こった。
ひとつは、流行病。
たちの悪い風邪が広がり、体力の少ない子どもは、飢えと寒さも相まって、次々と命を落とした。
両親に看護されている街の子どもでもそうなのだ。孤児などひとたまりもない。
ベルタは、そして彼女を慕う子どもたちは、身を寄せ合って、この危機に備えた。
もしあの年に起きた不幸が、飢えと病だけであったなら、アリアたちもなんとか、誰一人失わず、冬を越せたのかもしれない。
けれど、まったく予想もしない出来事が、ある日アリアたちを襲った。
不幸の最後のひとつは――暴動。
現王の治政をよしとしない軍部派が、王権を奪取すべく、突然蜂起したことだった。
すぐに精鋭の騎士団によって鎮圧されると思われた謀反は、しかし軍部が予想外に潤沢な資金を確保していたことから即座には終結せず、闘争はあちこちに広がった。
混乱は混乱を、暴動は暴動を呼ぶ。
一日の間にめまぐるしくルールが変わり、戦火が飛び乱れ、民はそれに翻弄された。
王城は完全に麻痺し、国とほぼ一体化していた王都もまた、機能停止に陥った。
治安が乱れ、暴力は下層へ広がるごとに、苛烈さを増していく。
下町に位置する孤児院など、その最も激しい炎に焼かれているようなものだった。
食料や薬は買い占められ、人は人を騙し、襲う。
そんな渦中に、アリアたちの仲間が、病に倒れた。
お調子者の弟分、フランツ。
彼の咳を楽にしてやる、たった一晩分の薬が、どうしても手に入らなかった。
「可哀想に。私のところに来るかね? 『一晩分』ということなら、薬を融通してもいい」
隣の教区の聖職者が声を掛けてきたとき、だからアリアは、即座にその手を取った。
彼の言う「一晩分」という意味――支払うべき「対価」は、もちろん理解していた。
ベルタがいれば止めただろう。
彼女が院長に就任してからというもの、その手のことは、孤児院のある教区では、一切起こらなくなっていたから。
でも彼女はいなかった。
フランツのために、寄付を求めて奔走していたからだ。
自分だって、いつ倒れるかわからない高齢者だというのに。
アリアはベルタの助けになりたかった。
そして、確実にフランツを助けたかった。
だってアリアは彼女に、「人を愛せ」と教わったのだ。
愛するとは、守ること。
自分には立派な武器があるのだから、無力な弟分を守ってやらねばならない。
大丈夫。
友達の多くは花売りになったのだから、嫌というほど知っている。
ただ少しの間、足を開いて横になっていればいいのだ。
たったそれだけ。
それだけの――はずだったのに。
「離して……離せ。離せっつってんだろ!」
耐えられなかった。
頭よりも先に本能が拒否して、制御を失った体はめちゃくちゃに暴れ回った。
男は「愚か者め」と激昂し、殴りかかってきたが、アリアの手足は偶然にも彼の急所に当たり、逃走に成功した。
成功してしまった。
寒い、凍える冬の夕暮れ、破れた服を押さえて走りながら、アリアはただ「どうしよう」と思った。
どうしよう。
どうしよう。どうしよう。
結局、薬は手に入らなかった。
あの聖職者に目を付けられてしまったかもしれない。
だとしたら自分は、余計な火種を増やしただけだ。
白い息が震えている。
頬が熱く腫れている。
薬が手に入らなかった。
フランツ。
自己嫌悪と後悔で頭が掻き回され、そのまま内側から弾けてしまいそうだった。
なにが武器だ、なにが守るだ。
たった数時間、足を開くだけの覚悟も決められないで。
自分はもっと強いと思っていた。
もっと現実を理解していて、もっと冷静にそれを受け入れられていると思っていた。
それなのに。
孤児院に駆け戻ったアリアは、無意識に、ベルタの部屋に飛び込んでいた。
ノックをしなさいと何度も叱られた、院長のための質素な小部屋。
ベルタはちょうど帰宅したばかりだったようで、薄いコートをまとった肩には、まだ粉雪が散っていた。
騒がしい来訪に、ベルタが眉を顰めて振り返る。
アリアは彼女の言葉を遮って胸に縋り付き、途切れ途切れに経緯を吐き出す。
ただ、彼女に聞いてもらいたかった。
それ以上に、彼女の声を聞きたかった。
慰めてくれなくてもいい。
冷ややかに叱られてもいい――いっそ、叱ってくれたほうがいい。この大口を叩くだけの、役立たずの自分を。
目先の薬を求めて、貞節を投げだそうとした自分に、きっと彼女は呆れるはずだ。
厄介事だけを増やして終わった自分に、うんざりするはず。
いいや、心のどこかでは、そんなはずはないと計算していたかもしれない。
だって彼女は、絶対にアリアたちを見捨てない。
本気でなそうとしたことを馬鹿にしない。
だから、ベルタは自分を慰めるはずだ。
淡々と溜め息をつき、仕方なかったと、受け入れてくれる。
その一言を聞きたかった。
それだけでよかった。
しかし、そのときのアリアは理解していなかったのだ、ベルタの慈愛深さを。
彼女が子どもたちに向ける愛情は、自分が思う何倍も深く、何倍も獰猛だということを。
母性とは温かな優しさなどではなく、子どものためなら敵を屠ることも厭わない、苛烈さだということを。
次話、現在に戻って再びのラウル登場!