第三話 彗星の泣く夜はいつも曇り空
△2021/6/14 月
視点:白山リュウスケ
息を切らしながら、階段を昇る。
時折り現れる非常出口を示す、緑の蛍光看板だけが周囲を照らしていた。
現在時、午前四時二十八分。
外ではうっすら明るくなり始めている頃だろうか。
一段、一段と踏みしめるように階段を昇る。
これが人生で最後に昇る階段だ、そう思ったら不思議と苦では無かった。
午前五時ジャストと同時に、屋上の扉へと到達する。
扉を勢いよく開けると、眩む程に網膜を突き刺す朝日が降り注いできた。
そして、風も。
まるで吹き飛ばそうと意思を持っているような強さに、フラフラと壁際に移動する。
ここは高層廃ビルの屋上、4日後には解体工事が始まる場所だった。
かつて元いた会社のライバル企業が存在していたが、俺が潰したのだ。
さまざまな不祥事を告発し、最も効果的に拡散する様にSNSを利用した。
俺は力なく壁を背に腰を落とすと、なんだか妙に体がだるくなってきた。
久しぶりに階段を昇ったし、昨日酒を飲んだからだろう。
飯も昨日の夜のツマミぐらいしか食べてない。
だが、不思議と腹は空いてない。
もう必要ないので、問題はないが。
少しばかり、俺は座ったまま自身の人生を振り返っていた。
初恋の相手と結婚し、幸せになる。
その目標に取り憑かれた様に走り続けた人生を。
両親は仲が悪かった。
事あるごとに喧嘩をして、俺に八つ当たりしてきた。
「お前は間違いで生まれたんだ、あの時堕しておけばよかった」
そんな風に言う両親からは当然、ゲームなんか買ってもらった事は無いし、服も洗濯してもらえなかった。
髪はボサボサ、最低限な事をしていなかった俺はかなり不潔な状態だった。
そうなると、始まるのは差別だ。
自身と異なる人間の忌避、これは本質なので仕方がない。
幼年組では常にゴミの様に殴られて生きてきた。
別にそれでも構わなかった。
夢も希望も無い中、環境の改善を求めたところで意味なんか無い。
どうあるべきかの正当な答えが目の前に無いのだから。
そんなある日、一人の転校生が現れた。
日々谷ミオ、まるで人形の様に整った顔立ちをしていた少女だった。
彼女は大変な人気で、いつも周囲には人が居た。
そんな環境下で、俺の待遇は変わった。
単純に全員の興味が彼女に映ったからだろう。
だが、幼い俺は彼女を救いの女神だと思ったのだ。
同級生に殴られて絶えることの無かったアザが、消え去った時に。
やはりどうでもよかったとはいえ、罵声を浴びて殴られるのは嫌だったのだろう。
その後、俺は自分を変える努力をした。
どうしても女神を手に入れたくて、ボロボロだった服をなんとかした。
髪もサッパリさせた。
リーダーとして、周囲を率いる様にした。
元々素質があったのか、変わりゆく俺を困惑しつつ、周りはついてきた。
元々俺を虐めていた、気に食わなそうなヤツは、逆に孤立させた。
時折り強引に、そして気づかれない様に周囲を動かす。
それだけで俺に取り入る連中が、俺の邪魔をする連中を排除する事を知った。
両親に取り入る事を知った、大人をコントロールする術も、金が武器になる事も知った。
誠実さを人々が好む事も。
俺は女神を追い縋るあまり、いつのまにか取り付けた仮面を脱げなくなっていた。
本来の弱い自分をひたすら押し殺したのだ。
そのせいで間違いも起こした、数えきれない程の。
だが、止まるわけにはいかなかった。
離婚した両親を傍目に軽蔑していたのだ、俺は絶対に幸せな家庭を築いて見せると。
その為に女神は必要だった。
気づけば目標に到達する事が快感になっていた。
ゴールは目前だった、夢は果たされる筈だった。
しかし、ゴール直前で立ち止まって下を見ると、漆黒の奈落へと続く崖が広がっていた。
正直、俺は自身のクズさに驚いていた。
俺はミオに真田と一緒になれ、と言った。
しかし、その時、ミオは真田と一緒になったところで幸せにはなれない事を知っていた。
一瞬、俺はミオに子供を堕ろさせ、今まで通り過ごすことや、真田を制裁して二度と日の目を浴びさせない様にする事など、様々な事を考えた。
しかし、無理だった。
俺自身、子供を堕ろさせるのには抵抗があった。
かつての自分とダブったのだ。
全てを手放したのは誠実さでも、何でもない。
脱ぎ捨てた仮面で弱いだけの自分となった今、残っているのは憎悪と絶望と、悪どい計算を重ねる卑屈さだけだった。
ここで自ら命を経てば、俺の財産に関係する書類を全て持っている真田は警察に調査される。
詳しいことは弁護士を通じて話すと書類には記載しておいた。
警察は真田を必ずマークする。
捜査も大々的に行われる筈だ。
何故なら、警察庁の重鎮である娘の婚約者なのだから。
会社もまだ出勤日が残っている、俺は無断欠勤した事の無い真面目な社員だ。
絶対に会社側は調査に乗り出すだろう。
双方の調査は必ずぶつかる、情報は膨れ上がり、より真実に近づく筈だ。
俺が残す複数の遺書には真田に騙されて全てを奪われた、と記載してある。
真田は否定するだろうが、俺の財産関係書類を保有している事が証明だ。
誰も真田の戯言なんか信じないだろう。
真実を知ったミオの親父は真田を許さない、裏で手を回して徹底して潰しにかかる筈だ。
それはミオも同じだ、彼女はおそらくあの頑固な親父に勘当される。
消極的な彼女はいく宛もなく、真田を頼る筈だ。
真田は俺を貶める為にミオに手を出したのか、ミオを純粋に狙っていたのか、両方なのか。
どっちにしろ、真田は破滅する運命にあるので、彼女がどういった選択肢をとろうと最悪な方向に進む。
……物事はボードゲームと一緒だと、俺はいつも部下に言っていた。
複数のプランを並行して行う方法は、流れを作ることだ。
利益を出す仕組みだけを作り、最終的に全てを勝ちとる。
俺は最後に自分が死ぬ事で、それを完結させるのだ。
ミオの事はもう女神だとは思えない。
盲目的に見ない様にしていたが、彼女の本質は自己中心的思考一つなのだ。
俺のことも都合のいい何かと思っていたのだろう。
だから浮気が出来るのだ。
だが、なぜか悪魔とも思えなかった。
彼女は俺の中で、特別さは無くなった。
こうなれば今まで頑張ってきた意味なんか全て無くなった。
俺は決して、やり直す事は出来ないだろう。
失ったモノが大きすぎる。
もう、頑張れない。
頑張ろうと思えない。
真田の子供をミオと育てようとも思えない。
絶対に子供を堕ろさせれない。
詰みだ、もう八方塞がりなのだ。
どうせ幼年期で絶とうと思った命だ。
せいぜいミオには後悔して一生涯を過ごして欲しい。
俺は立ち上がり、ビルの手摺りに触れる。
下を見ると、交差点では人の流れが活発化していた。
時計を見ると午前七時。
時間が経ち過ぎた、このまま飛び降りたら下の人間を巻き込んでしまうかもしれない。
俺は屋上を後にし、下のフロアに入る。
コンクリートが剥き出しとなった、かつてはオフィスだった場所だ。
俺はスーツの上着を脱いだ。
壁に立てかけてある脚立を動かし、天井の鉄骨部分に腰のベルトを巻きつける。
「よし」
明るい声で言った。
人の首一つ入る、輪っかが出来上がった。
なんだか、清々しい気分だった。
やっとこれで終わりに出来るのだ。
後は他の連中が地獄を見れば良い。
まさに首にかけようとした瞬間。
後方でガチガチャと扉を開こうとする音が聞こえた。
俺が入ってきた扉とは別の扉だ。
誰だ、こんな時に。
もしかしたら邪魔をされるかもしれない。
俺はベルトはそのままに、脚立から飛び降りて物陰に隠れた。
暫くして、ドアを蹴破る様な音がした。
コツコツコツ、と足音が聞こえる。
ちょうど俺が脚立を置いて、ベルトを巻きつけた位の位置で足音は止んだ。
陰から様子を見ると、若い女だった。
額には汗を流し、何故か肩にギターケースを担いでいた。
服装から察するに、彼女も不法侵入者だった。
俺は工事関係者や守衛じゃない事を知り、ホッとする。
長居されても困るからだ。
女は固まった様に、鉄骨に巻かれたベルトを見上げていた。
まさに、自殺現場だ。
怯えて直ぐに立ち去って欲しかったが、驚くべき事に女はその場に腰を下ろしてギターケースからギターを取り出した。
どんな神経をしているのだろうか?
舌打ちをしたいのを堪えつつ、俺は女に視線を向けるのは止めて壁に背中を預けた。
女はギターの練習にでも来たのだろう。
こうなれば女が去るのを待つしか無かった。
やがて、ギターによってメロディが奏でられる。
女が歌い始めた。
歌の内容は気の抜けたラブソングでも、卑屈に世界を呪う歌でも無かった。
夢を諦めきれない、少女の歌だった。
彗星の泣く夜に
叶わない夢を願った
諦めきれないと
酷くそれに縋った
街ゆく影さえも
絶望の色となった
初めて奏でた
この歌を歌った
だけど、見えてくる世界は灰色
地べたで踊るしかないの
夢を追うことさえ許されないのなら
色を混ぜて黒くするさ
明日さえ見えぬ環境に
僅かに握る感情に
黒く染める不完全に
夢よ、夢よ、もう叶わないでくれ
明日さえ見えぬ環境に
僅かに握る感情に
黒く染める不完全に
夢よ、夢よ、もう叶わないでくれ
憧れのままでいさせて
何故か涙が溢れてきた。
決して、歌詞に共感したとか、メロディが気に言った訳では無い。
彼女の心からの叫びを聞いた気がしたのだ。
そうしたら涙は止まらなくなった。
気づけば、メロディは聞こえなくなっていた。
かわりに、ギシギシと脚立を昇る音が聞こえた。
そしてーーー微かな呻きとともに、脚立が崩れ去る様な音がした。
俺は勢いよく彼女の方を見る。
彼女は俺のベルトで首を吊った状態から、地面に落下していた。
俺は走り寄って彼女の様子を伺う。
頭を強打したようだ。
脚立の上で、ピクリとも動かなくなっていた。
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