第二話 善悪の幅は七十億に到達しそうだ
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視点:日比谷コウジ
警察学校時代、まるで軍隊の様な生活の最中、壮年の助教が朝礼で言っていた言葉が未だに鼓膜にこびりついている。
「正義の対義語は悪ではない、無関心だ。無関心がこの世で最も忌むべき人間の本質である」
それについて、俺の中で未だに変わらない結論があった。
正義に対義語など存在しない、傲慢な理由さえも正義と言いはれば正義なのだ。
実際に警察庁という組織はそうだった。
分かりやすい、教科書に載っているような正義を唱える連中は文句を言いながら消えていった。
自分の正義一辺倒では、必ず障害にぶつかる。
大事なのは秘める事だ、そしてある程度の寛容な応用力。
実際、俺は上の地位に上り詰めてから自身の正義を行使した。
俺は自身の行いを誇りに思っている。
警察組織という特殊な環境の中では、ある程度の善行は遂行できた筈だ。
そんな時、歳を食ってから唐突に見合い話がきた。
最初は気乗りしなかったが、資料を見て、すぐに気が変わった。
正義を唱えて、消えていった連中の一人。
その元婚約者だったのだ。
会ってみると美人で気立てがよく、よく気がつく女だった。
だが、彼女は愚かだった。
自身の元婚約者を葬り去った、警察という組織を正義だと思っていたのだ。
彼女の元婚約者も愚かであった。
その事実を彼女に知らせていなかったのだ。
彼は記録上、正義の名の元で死ぬことを選んでいた。
そのせいで、俺の様な人間に見合い話がきたのだ。
彼女は終始、過去の婚約者の事が気がかりな様で、乗り気では無かったが、「彼も君が幸せになることを望んでいる」そう説得をし、結婚をした。
この自身の行動に、暫く疑念があった。
何故こんなことをしたのか、別に結婚欲があった訳でもない。
しかし今だからこそ、一つの答えが出た。
贖罪なのかもしれない、自身の正義のために、正義を唱えた連中を助けなかった事への。
数年後、子供が産まれた。
名前はミオと名付けた。
玉のように可愛い娘だった。
ミオは生まれてこのかた、消極的な娘だった。
決して、その様な意図があったわけではない。
修正しようときつく叱った事もある。
しかし、それが逆効果だった。
ミオは萎縮し、一人での行動が出来ないほどに消極的で暗い性格になってしまった。
頭を悩ませていると、一人の少年が現れる。
白山リュウスケという、活発な男の子だった。
少年の割には頭の回転が早く、常にリーダー的立ち位置にいた。
彼と出会ってから、ミオは変わった。
よく笑い、自ら主張が出来る様になった。
俺は少年に感謝した。
俺では、なし得なかった事をなしたのだ。
しかし、それと同時に懸念が生まれる。
ミオは段々と少年に依存し始めたのだ。
何処に行くのも一緒で、少年の選択しなかった道は必ず選択しなかった。
中学への進学もそうだ。
名門校を拒み、一般の中学校へ進んだ。
俺は渋々それを承諾する、一般高で悪影響を受けないか心配だったが、密かに少年と付き合っていた事を知っていたからだ。
バレているのが子供らしくお粗末だが、親に隠し事をする位には成長したのだと、ひっそりと安心していた。
ミオは顔が整っていたので、かなりモテていたようだ。
他学校からも学生が見に来る程だそうで、妙な気を起こす奴がいないか心配になった。
しかし、それらを少年が跳ね除け、ミオを独占していると聞いて、妙に感心したのを覚えている。
だが、少年は焦っていたようだ。
ミオはロマンチックな事を好む性格をしていた。
それを利用して、少年はミオが更に依存する様に仕向けていた。
夜に2階にあるミオの部屋の窓から侵入し、会いにきたり。
その他にもさまざまなアプローチを仕掛け、ミオを夢中にさせていた。
ここまで来れば悪影響だ、と判断した俺はミオと少年を一時的に引き離す事にした。
ミオの自立に支障をきたすと判断している間は絶対に会わせない。
多少酷だとは思ったが、俺にバレている以上、見過ごす事は出来ない。
これは少年の落ち度だ。
俺は少年に詰め寄った。
これで諦めるようならその程度の男なのだろう。
そう思いながら、いい年の部下さえも震え上がる口調で脅しをかけた。
しかし、少年は一歩も引かなかった。
俺の稼ぎすら超えてやる、と大口を叩いたのだ。
これには素直に感心した。
勝算のありそうな目をしていたからだ。
俺は人を見る能力があると自負している。
警察組織で成りあがったのがその証明だ。
嘘を吐くヤツと、馬鹿みたいに無謀なヤツとを見抜く位は簡単に出来る。
少年は二十歳には、と言った。
進学すれば大学、高卒で平凡に就職すれば俺の稼ぎを超えるなんて事はできない。
少年は決して馬鹿では無かった。
普通に考えればもう少し上の年齢で達成できると見積もる筈だ。
年収一千万以上稼ぐには、二十歳は早すぎる。
だが、自信満々で言い放つ様は単純に興味が湧いた。
やってみろ、と言うと、ありがとうございますと返された。
思わず笑ってしまいそうになった。
少年はこれで晴れてミオと結ばれる、そんな顔をしていたからだ。
正直、期待していた。
少年が何を見せてくれるのだろうか、と。
数年後、青年は約束を果たした。
俺は青年はミオと結ばれる運命にあるのだと、思った。
その頃から、正義を貫いて、最愛の婚約者と結婚でき無かった男の事を考えるようになった。
今、俺は妻とミオを幸せにする事でその贖罪は果たされるのだと、そんな風に思いたった。
それには彼が必要だった。
青年は直ぐにでも結婚したがっていたが、このタイプは目的が達成されると自堕落になる事を知っていた。
俺がそうだったからだ、生活が更に安定してくる頃合いに結婚を設定し、妊娠もさせるな、と約束をした。
それから数年後、一本の電話が入る。
暗い声色で、大事な話があると青年が言い出したのだ。
俺は料亭に彼を呼び出した。
そして、彼は俺と会うなり、土下座をしたのだ。
「娘さんが……妊娠しました」
妙な言い回しだったが、数瞬で理解した。
ミオを妊娠させたので、彼は約束を破った事を後悔しているのだ。
なんだそんな事か、とは思った。
正直、こんなところで彼が約束を破るとは思わなかったが、若い男女なのだ、そんな事もあるだろう。
なんと声をかけるか、と口を開こうとして、思いとどまった。
彼の様子が尋常では無いのだ。
顔はやつれ、死にそうな顔をしている。
何より、ミオが居ない。
そのことが全てを物語っていた。
これは、ただの妊娠騒ぎではないな。
そう直感した。
俺は一先ず、彼に約束を違えたペナルティーとして、婚約は破棄する、と告げてみた。
彼はハイ、とあっさりと首を縦に振ったのだ。
これには驚きを隠せなかった。
彼なら、かならず食い下がってくると思っていたからだ。
彼は財布から万札を取り出すと、部屋を後にしようとする。
俺は思わず呼び止めた。
顔を上げた彼は俺の予想以上にやつれていたのだ。
ミオに怒りが湧いた。
こんな出来た婚約者に何をやっているのか、と。
メシを作ってないのだろうか?
ミオは頭は悪くは無いが、凡人だ。
血の滲む様な努力をする彼の少しでも支えになるように、花嫁修行全般はやらせた筈だが。
甘やかし過ぎたのかもしれない。
ミオはもうかなり自立している筈だ、かなりキツいお灸を据えてやらなければならない。
何より、妊娠するな、とは彼だけに言った言葉では無いのだ。
ミオ自身も自覚しなければならなかった。
そして、暫く俺たちは食事を共にする。
彼はフラフラと箸を振って死霊のように食事をとっていた。
「お前……大丈夫か?」
流石に心配になった俺は肩を叩いて呼びかけたが、聞こえていないようだった。
俺は食事をお開きにし、タクシーを呼んで家まで促した。
彼はフラフラとした足取りで、タクシーに乗り込む。
とりあえず宣言通りミオを連れて帰り、お灸を据えた後に事情を聞いて、また彼には連絡しよう。
今まで試すように、二人を束縛しすぎた事を詫びなければならない。
これは、ミオと彼の結婚式で話そうと思っていた事だが、早期に打開せねばなるまい。
何より、俺は彼を信頼していた。
下手な警察官僚より気骨のある彼なら、何があっても再び立ち直ると思い、このままタクシーで見送ってしまったのだ。
この判断を俺は一生後悔する事になるとは、思いもしなかった。
△2021/6/14 月
視点:白山リュウスケ
俺は都内にある、平凡なアパートのチャイムを鳴らす。
暫くすると、無精髭を生やしたメガネの男が出迎えた。
「久しぶりだな」
「えっ?お前どうしたの」
「色々あってな、一晩泊めてくれないか?」
「お前……何があったんだよ」
「聞きたいか?」
「……いや、いい。入れよ」
「ありがとな」
顔色を見て、理由も聞かず中に入れてくれた。
彼の名は町田シンヤ。
大学からの特に親しい友人で、社長業を譲った相手だった。
今や相当な金持ちになっているはずだが、大学時代に借りた平凡なこのアパートに愛着があるらしく住み続けているそうだ。
中に入ると、数匹の猫がビクついて各々何処かに隠れた。
ペットを飼ってるのに室内は割と清潔だった。
匂いも気にならない。
ポコポコとした音に振り返ると、蛍光ライトに照らされた水槽で金魚が数匹遊泳していた。
「酒買いに行ってくるわ」
ゴソゴソと靴を履き出すシンヤに、チータラもな、と伝えると。
うーい、と気の抜けた返事を後に、彼はガタガタとやかましく玄関を出ていった。
改めて部屋を見回してみる。
何だかひどく様変わりしていた。
アニメキャラのポスターが所狭しと貼られ、たくさんのフィギュアが飾られている。
学生時代はあまりにも殺風景過ぎたので、アマゾンで買ってやったブレードランナーのポスターはクルクルと巻かれ、部屋の隅に置いやられていた。
ふと、ベッド下の猫と目が合う。
警戒しているのか、ジーっと俺を見たまま置物みたく固まっていた。
数分後、コンビニ袋を揺らしながらシンヤが帰ってきた。
冷蔵庫に酒とツマミを入れながらシンヤは振りかえる。
「お前持ってる服スーツだけか?てゆうか金はあるのか?」
「……まあ、明日には出てくからさ。気にしないでくれ」
「何言ってんだよ、気の済むまで居ていいよ。お前は恩人だしな。とにかくその堅苦しいスーツを脱げよ、風呂入ってこい。かわりの服用意しとくから」
「……ありがとうな」
風呂から上がると、毛だまりの物体が部屋の方面に逃げていった。
俺を警戒していたネコだ、興味本位に浴室にいる人間の存在を確認しに来ていた様だ。
体を拭いて、シンヤの用意してくれたセンスの悪いパジャマでリビングに行くと。
ビール缶片手に、シンヤはテレビを見ていた。
机の上にはツマミが並んでいる。
「お先やってるぞー」
「最高だな、お前ん家」
席に座って、俺もビールを開ける。
ミオが居たから酒量は今まで制限していたが、もう関係ない。
明日には全部おさらばなのだから。
「みろよ、俺の推し」
「推し?」
シンヤの見るテレビに視線を移すと、CGで出来たアニメキャラがコンサートホールでアイドルライブをしていた。
「アニメーションなのに動きが滑らかだな」
「モーションキャプチャーだよ、Vtuberって知ってる?」
「Vtuber?あー、概念というか存在は知ってるが、これがそうなのか?」
「ああ、これライブ映像なんだぜ」
「へー……」
シンヤは嬉しそうにVtuberについて語り出した。
気づけばメモを取っていた。
俺はアイディアが浮かんだり、話のネタになりそうな事はメモをとる習慣があった。
見返す事はほぼ無いが、万が一忘れた時や新たなアイディアを生み出す基礎になるからだ。
その様子を見て、シンヤは吹き出す。
「まだ、その癖治って無いのな」
「ん?あー、まあな」
「今度は何を思いついたんだ?」
大学時代、講堂でシンヤはよく俺にそう聞いてきた。
予想以上に利益が出ず、金策を産むためのアイディアをひたすら練っていた時だ。
授業すらもヒントにアイディアを書き溜めていた。
そんな様子を見て、俺は笑う。
「ゴミだよ、使えないやつ」
使えないのではなく、使わないのだ。
誰かがこのメモを見れば別だが。
暫く飲み明かして、俺たちは二時ごろに眠りについた。
早朝、俺はありがとな、と書き置きを残し、シンヤ宅を後にした。
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