第七十九章 貴女様が生まれるきっかけとなった、それ以上の価値はないようですね
ディグリーの森の深奥にひっそりと立つ隠れ家ではセシリーが『ふんふんふーんっ』と鼻歌を漏らしながら鍋の中のスープをかき混ぜていた。
悶えに悶えた後、ふと思い立ち、こうして朝食の用意をしているのだ。
……あれだけ悶えてもまだ足りないのか、表情はニヤニヤと崩れていたが。
(ミーナがいきなり飛び出した理由は分からないでございますが、そのうち帰ってくるはずでございます。お腹すかせているだろうし、まずはご飯を食べてから、その、うふ、ふふふっ。あんなことしたのでございますもの、きちんと言葉にしてもらうでございます)
料理を作りながら、ミーナの帰りを待つ。
こういう光景を何と呼ぶのか。確か娯楽小説の中では夫の帰りを待つ妻といった形で描写され──
「まっ、まだでございますっ。そんな、だって、うふふっ」
ポカポカと胸の奥から熱が溢れる。
夢心地のように現実感がない。
セシリーは公爵令嬢としての身分を失い、国外に追放された。これまでの十五年、当然と思っていた様々なものは一瞬にして壊れた。
それで良かったのだ。
そのお陰でセシリーは本当に望んでいた幸せを掴むことができる。
『貴族としての必須項目』。
実の娘さえも利用価値がある道具としか思っていない父親が張り巡らせた呪縛はもうどこにもない。
だから。
だから。
だから。
トントン、と。
扉がノックされた瞬間、セシリーの心臓は幸せに脈動した。
「か、帰ってきたでございますねっ!!」
飛びつくように玄関まで走っていた。
扉に手をかけ、開き、そして──伸びた手がセシリーの胸ぐらを掴み取る。
「ようやくたどり着いたぞ」
その声はどこまでも威圧的なものだった。
決して、どうあっても、聞いただけで胸が高鳴るいつもの平坦なものではなかった。
全身から鮮血を垂らす男が凄惨に笑う。
それは、彼は、その男は──
「お、父様……?」
「久しいな、セシリー」
バルズ=シルバーバースト。
今年で六十歳になるとは思えないほどに衰えることなき強靭な肉体を持つ偉丈夫は魔獣蠢く森を突破して、この隠れ家までたどり着いたのだ。その道のりが決して楽なものではなかったことが全身に刻まれた傷から察せられるが、それでも彼はここまでたどり着いた、着いてしまった。
「なんで、お父様が、そんな、どうして!?」
「利用価値があるから、回収しにきた。それ以上何かあるとでも?」
声が、響く。
『貴族としては』優秀なバルズ=シルバーバーストにとってセシリーは利用価値のある道具に過ぎない。ゆえに『貴族としての必須項目』を詰め込むことで令嬢としての価値を底上げした。『封印』の核としての価値を前面に出すことで第一王子との婚約を成立させた。
全ては家を繁栄させるため。
それだけだった。
そんなもののために、十五年間セシリーは文句の一つもなく従ってきた。それが常識であるために。シルバーバースト公爵家が長女として生まれてからずっと、『こうあるべき』と思い込まされてきたのだから。
公爵家のためにその身を捧げるのは当然、そんな空気に生まれてからの十五年ずっと、ずっとずっと晒されてきたのだ。『こうあるべき』という空気はまさしく呪縛のようにセシリーを縛っていた。
「例のメイドの価値は確認した。『魔王』だったらしいな」
「なんで、そのことを……っ!!」
「第一王子に公爵家の手駒が同伴していただろうが。そこが情報源であることくらい少し考えれば分かるだろうに」
シルバーバースト公爵家が当主バルズ=シルバーバーストは己が言葉が絶対であると疑わない声音で言う。
「セシリーから『封印』の核としての価値は消失したが、それ以上の価値があるなら使ってやる。分かったな? 分かったなら、例のメイドを公爵家のために動かしてもらうぞ」
「……っ!?」
「何せ時間がないからな。グリズビーが王家に従っている『風に装う』ことで稼げる時間も僅かだ。その間に没落や処分を回避する、なんてちっさく纏まるつもりはない。光栄に思え。あのメイドは我がシルバーバースト公爵家が王家を滅して、ヘグリア国を支配するための栄誉ある尖兵に──」
ドッゴォン!!!! と。
轟音があった。
「が、ぶあ!?」
バルズ=シルバーバーストが吹き飛ぶ。おそらくはセシリーを人質にでもして、『魔王』を掌握するつもりだったのだろうが、一瞬で状況は変化した。
出現、そして撃破。
一瞬でもって状況をひっくり返した女は言う。
「申し訳ありません、セシリー様。見えた時にはすでにセシリー様が襲われていて、その、遅くなって本当に申し訳ありません」
ミーナ。
時空の壁さえも無視してありとあらゆるものを見通す『遠視』で状況を確認、ありとあらゆるものを移動させる『転送』で駆けつけたメイドは無表情にセシリーを見つめる。表情は変わらず、声音は平坦なものだったが、その想いはセシリーにきちんと伝わっている。
「いえ、いいえっ。遅くなんてないでございますっ!!」
「……ふざ、けるなよ……」
殴り飛ばされ、壁にめり込んでいたバルズ=シルバーバーストがドロドロとした憎悪を吐き出す。
「シルバーバースト公爵家が当主をメイドごときが殴り飛ばしたのだぞ! さっさとそのメイドを制御せよ、シルバーバースト公爵家のために動かせ!! 聞いているのか、セシリー!! 俺の、当主の命令だぞ!! 上下関係は明白だろうが、おとなしく従えよ、なあ!?」
「お父様……いいえ、バルズ=シルバーバースト」
信じて、疑わない目だった。
悪意も何もなく、心の底から己の命令にセシリーが従うのが当然だと信じきっている目だった。
少し前までだったならば、逆らえなかっただろう。生まれてからの十五年もの間絶えず晒されてきた常識という呪縛、『こうあるべき』という空気を疑うことすら知らなかったのだから。
だが、今は違う。
『好き』に気づくことができた。
常識なんて投げ捨て、呪縛なんて引き千切ってでも優先すべき感情がある。
ゆえに、父親の言葉であってもどうでもいいと切り捨てることができた。
温かな心地が、安堵の象徴が、セシリーを突き動かす。『こうあるべき』という常識よりも、『こうしたい』という意思が勝る。
ミーナと一緒に幸せになりたい。
それだけあればいい。
「その言葉には従えないでございます。シルバーバースト公爵家、いいえお前なんかにミーナはやらないでございます!!」
「セシ、リィーッ!! ガキは黙って親のために消費されればいいんだ!! セシリーの価値は俺のために消費されることにこそあるんだよ!! それを──ッ!!」
声が途切れ、姿が消える。
バルズ=シルバーバーストが『転送』され、この場から消え失せたのだ。
「耳障りな雑音でしたので、除去しました」
「そうでございますか。ねえミーナ、殺してはいないでございますよね?」
「はい。本来であれば百回殺したって足りないくらいなのですが、セシリー様のお心に従いアタシ『は』殺しませんでした。が、一言命じてくださったならば今すぐにでも殺──」
「ミーナにそんなことさせないでございます」
「それがセシリー様のお望みならば……しかし」
「えいっ!」
未だにバルズ=シルバーバーストがいた場所を無表情に、それでいて殺意をもって睨むミーナへとセシリーが飛びつく。
ミーナがびくりと肩を跳ね上げるのも構わず、ぎゅうぎゅうと力強く抱きつき、触れ合う。
「ミーナの未来に殺しなんていらないでございます。ね?」
「……、そうですね。アタシの未来にはセシリー様がいれば、最高に幸せなんですから」
「ひゃわ!? みっ、ミーナはすぐそうやって、うう、ううう!! わたっ、わたくしの未来にもミーナがいれば最高に幸せでございますからねっ!!」
「そうですか」
「うう、うううううーっ!! 勢いあまって凄いこと言った気がするでございますう!!」
「アタシは嬉しかったですよ。ですので、もっと言ってほしいです」
「も、ももっ、もっとお!? そんなの、うう、恥ずかしいでございますよお!!」
好きの反対は嫌いではない、無関心である。
そう、すでにバルズ=シルバーバーストのことなどセシリーの中からは消え去っていた。呪縛は引き千切られ、そんなものに意識を割り振る余地はなくなった。
今はただ、ミーナがそばにいる喜びを味わうことが重要なのだから。
「ではアタシから言うとしましょう。先ほどもアタシの発言に答えてくれましたし、先にアタシが言ってしまえば、どう思っていてくれているか答えてくれますよね」
「ぅえ?」
……なぜか気がついた時には喜びを羞恥で引っ掻き回す展開まっしぐらであったが。