第六十五章 甘美な夢の中に沈むような心地です
純白の着物を用いた試練は何とか凌いだようです。良かった、本当に良かったです。あの時みたいに嫌っ、きらっ、ふぐう。『あんなこと』言われることにならなくて。
と。
安堵した、その瞬間でした。
鼻と鼻とが触れ合いそうになるほど近くにセシリー様がいらっしゃることにようやく認識が追いつきました。『素直』に吐き出しているうちに両肩に両手を置いて、こんなにも近づいていたことに気づいてはいましたが、『あんなこと』言われたくない一心だったのできちんと認識できてはいなかったんです。
近い、近いです。
ああやっぱりセシリー様は綺麗です。最高で最強です。なんだかいい匂いがします。熱いです。完璧にして完全です。美味しそうです。好きです。大好きです。はふ、ふっ、ふっ、あふっ!! ああ欲しい、ちょうだい、もっと近くがいいです、触れ合いたいです。ぐちゃぐちゃに溶けて蕩けて混ざり合って一つになりたいです。好き、好き、好きが止まりません。止まるわけありません。だから、です。足りない、足りないんです。好きになればなるほど、焦がれます。求めます。我儘になってしまいます。もっと、もっともっとセシリー様を感じたいです。
ぶじゅっ、と。
頭の奥で何かが弾けました。
「…………、」
「ミーナ? あの、ミーナ? あんまり見つめられると恥ずかしいのでございますが」
くらくらと頭が酔ったように混濁します。熱く、熱く燃え滾る熱が頭の奥から噴き出すような感覚があります。
ごくり、とヨダレを飲み込んでいました。
魔族は肉体内部にて循環する永久機関によって外的要因さえなければ永遠に活動できます。ゆえに食事のような外的要素を取り入れてエネルギーとする行為は必須ではありません。
なのに。
必要ないからこそ存在しないはずなのに。
この胸の奥から湧き上がる感情は、欲は、食欲……です? 無性に焦がれています。目を奪われています。求めています。
『素直』に。
行動したくてたまりません。
「あの、ミーナ? 聞いているでございますか?」
「セシリー様、綺麗です」
「ひゅっ。だっ、だからそれはもう伝わっ──」
「本当に綺麗です」
分かりません。
アタシの中に渦巻くこの感情が何なのか、正確に表現する術がありません。ヨダレが溢れるほどに、饑えるほどに求める欲望といえば食欲ですが、それも少し違う気がします。
一つだけ言えるのは。
『素直』な欲望を抑えることができそうにないことです。
こんなに近くで見つめ合って、我慢しろなんて無理に決まっているではないですか。
だから。
アタシは顔を近づけていました。
鼻と鼻とが触れ合うほどの至近距離、それよりもっとずっと近くに。そう望む『素直』な欲望に導かれて。
「……ッッッ!!!! みっ、ミーナ、えっと、その、だってまだ、だけど、ええとええとっ!!」
「嫌なら、命じてください。その一言でアタシの中に渦巻く欲望をねじ伏せるだけの起点となります」
「う、うう」
「ですが、もしも嫌でないのならばそのままでお願いします。アタシも知らない『何か』、こんなにも熱い夢から『覚める』前に味わってみたいんです」
「うう、ううううううううう!!」
アタシはきっとおかしくなっているんです。
主に、セシリー様に『何か』を求めるだなんて。
だっておそばにいられるだけで幸せなんです。それ以上なんてないんです。そのはずなんです。
なのに。
こうして近くで見つめ合っているうちに溢れ出てきました。どんどん、どんどんと『素直』な感情が溢れて、セシリー様に『何か』を求めています。
分かりません。
分かりません。
分かりません。
これが何であるのか、アタシにはわからないんです。だから知りたいんです。この先にある『何か』を。
ですから、どうか。
もしもセシリー様が嫌でないのならば。
この瞬間だけでいいので、全てが終わるまで夢の中にいさせてください。
ほんの僅かな外的要因でも『目が覚める』気がするんです。ですから、何らかの外的要因によって狂ったアタシの心理状態が『覚める』前に、どうか。
「……、んっ」
セシリー様からの答えでした。
ぎゅっと目を瞑り、何かを受け入れるようにほんの僅かに前に顔を出したんです。
命令はありませんでした。
無言のまま、夢の中にいていいと許可してくれたんです。
アタシも知らない『何か』を受け入れてくれました。そのことが、アタシ自身何を求めているのか正確にはわかっていないというのに、涙が浮かぶほどに嬉しかったんです。
そして。
そして。
そして。
ゴッッッ!!!! と。
森を縦断し、この建物まで殺到したドラゴンブレスが『防壁』に激突した轟音が炸裂しました。
『連中』が近づいていたので念のために隠れ家を守るように『防壁』を展開していました。今代の『勇者』もいることですし、用心に越したことはないですから。
ですが、ドラゴンブレスですか。
森と一緒に『復元』しておいた古龍の攻撃……ですか。
は、はは、ははは。
なにもないと、安全だと断言はできません。アタシの強さとセシリー様の安全はイコールとはなりません。だって、つい昨日第一王子ごときにセシリー様が傷つけられたのですから。壊すことと守ることは全く違うんですから。
だから。
アタシのつまらない望みなんて今すぐ捨て去るべきです。セシリー様の安全を優先する、そんなの当然ですよね。
急激に熱が冷えていくのを感じます。
まるで一時の夢から『覚める』ように。
ああ、やっぱりです。『外』に意識を向けてしまっては、もう駄目ですね。セシリー様しか目に入っていなかったからこそ、『素直』な欲望がアタシの魂を支配していたのですから。
……どうしてだか、ほっと安心しているような、でも凄く残念なような、おかしな心理状態ですが、何はともあれ『目が覚めました』。
「セシリー様」
「んっ、あれ……? ミーナ?」
「しばしお待ちを。招かれざる客を相手してきますので」
本当におかしな心理状態です。
安心しているくせに、怒りがとまりません。
殺しを嫌うセシリー様に嫌悪感を抱いてほしくない一心で取り返しがつくレベルで殺していた古龍を『復元』したアタシのせいだとは理解しています。あいつが何をしようがどうとでも対処できると甘く見ていたせいなんです。
理解はできています。
納得なんて全然できませんが。
クソトカゲと『連中』との勝負の余波に邪魔されました。熱に浮かされて、『素直』な欲望にこの身を浸し、ようやくできる『何か』だったんです。それを、たった一手の外的要因で『目が覚めた』せいです。そのせいでアタシでもわかっていない『何か』ができなくなりました。
ああ。
やってくれたものです。