bwd,bwd! bwd!!
ぐじゅ、ぐじゅ、ぐじゅう、と、
『不浄なる左』からこぼれ落ちた漆黒が地面を溶かす。スキル『消去』。『勇者』を超えた力を持ち、スキル『絶対王政』のような無効化系統の力が通用しない『魔王』の深奥である。その力は、誰にも対抗できない。
効果は読んで字のごとく。
スキル『消去』はあらゆるものを消し飛ばす。
「セシリー様に、知られました。もういっしょには、いられ……ない、です」
身体の芯が砕けたように、不安定な足取りだった。ふらつきながらも、倒れそうになりながらも、しかし着実に距離は縮まっていく。第一王子へと。
──『左』腕を覆い尽くすほどに、腐った漆黒が噴き出していた。亀裂から溢れ出るように。
「ようやく、見つけた、価値あるものが……セシリー様のそばに、いるだけ、が、アタシの存在理由、でしたのに……」
右腕が、伸びる。
第一王子の胸ぐらを掴む。
そして。
そこまで追い詰められて。
「……はは」
第一王子の口が醜悪に歪む。
あるいは彼だからこそ、こんな時でも笑えるのか。
「ははは! ははははは!! おい、おいおいおい!! マジかよそんな理由かよっ。『魔王』ともあろう者が、元公爵令嬢のそばにいたいだけだったって? やろうと思えば世界を統一できるだけの力があるくせに、これまで元公爵令嬢のメイドなんてくっだらない立ち位置で満足していたって!? ははははっ、傑作だ!! どいつもこいつも馬鹿ばっかりじゃあないか!!」
右腕、だった。
この期に及んで『左』を使っていないことに気づき、第一王子は口元をつり上げる。
……おそらく第一王子はここで死ぬ。それを認識した瞬間、彼は生きようと足掻きはしなかった。『魔王』に目をつけられ、生きていられるわけがないと魂の底から理解したからか。
だからこそ挑発を繰り返す。
彼は第一王子なのだ。その最後が加減したものであっていいわけがない。偉大で崇高な王子たる己が死ぬのならば、それは絶対的な暴虐であるべきだ。
世界を滅ぼすくらいの暴虐でないと納得できない。
「殺、してやる……」
「どうやって? そんな貧弱な手で何ができるというんだ!? スキル『絶対王政』は『元に戻す』ぞ。私に半端な攻撃は通用しないんだよ!!」
嘲笑う、嘲笑う、嘲笑う。
そして、
「ミーナ、駄目でございます!!」
「……っ」
ぴくり、と。
ミーナの肩が微かに震え、振り返り、セシリーを見つめた、その瞬間であった。
ザッぢゅう!! と。
風の刃がセシリーの頚動脈を切り裂いた。
魔法陣が展開されていた。
セシリーのそばに、第一王子の魔法が顕現していた。
ゆえに、地面に倒れる音があった。
首筋から赤い液体が流れる。命が、こぼれる。
「駄目だろ、そんなの駄目だろ! 私は王子だ、偉大なる第一王子なんだよ!! で、お前はなんだ? まさかとは思うがセシリーごときの言葉一つで止まる程度の半端者なわけないよな!? 私を追い詰めし者がそんな小物で収まっていいわけないよなあ!? お前は『魔王』だろうが。魔族の頂点にして、大陸中に戦火を広げた最低最悪の覇権争奪大戦の中心だろうが!! そこまで巨大な悪であるなら、きちんとその本質を見せてくれよ!! それくらい絶望的な脅威でないと、最後の闘争の相手にはふさわしくないんだよ!!」
『次』に進み、見つけることができた大切なものが、『衝動』以外の価値あるものが、目の前で失われていく。
「さあ始めよう、殺し合おう! この世の誰もたどり着けないほど圧倒的にして破滅的にして究極的な!! 頂点にふさわしい殺し合いを始めようではないか!!」
「……ああ……」
──もう、どうなったっていい、と。
限界なんて遥かに超えた負荷がもたらすは、激情ですらない。波のない、完全に平坦な感傷がミーナの中に浮かび上がる。
瞬間。
『不浄なる左』が第一王子の胸板を貫いた。
ぐじゅ、ぐじゅう、と漆黒が染み込む。
『左』腕を引き抜き、そこらに投げ捨てる。
スキル『消去』。消し去る力が胸板にあいた穴から第一王子の肉体を侵食していく。
……胸板に風穴があくという致命傷であるというのに、未だに第一王子は死んでいなかった。
「が、ぎ、がああああ!? なんっ、なんで、これっ、死ななっ、ああ、ァがああ!?」
傷口という現象を漆黒が消し去る。なかったことにしながら、突き進む。肉体を侵食、抹消しながら、『傷がある』『死んでしまう』という現象を消し去っているのだ。
長く長く苦しめるために。
ただ死ぬだけで終わらせないために。
ぐぢゅう!! と漆黒が完全に第一王子を呑み込み、肉体『は』消し飛ばしたが、未だに第一王子という人格は殺され続ける苦痛を味わっている。『肉体が消えた』『殺された』という現象さえも消すことで肉体としては観測できない状況でも苦痛を感じることができるのだ。
肉体が消えた程度でどうした。
魂が吹き飛んだって終わらない。
まさしく無限なる地獄。死なずに痛めつけるであれば限度はあるだろうし、自死することで苦痛を終わらせることもできただろうが、そもそも肉体も魂さえも消し飛んだとしても関係なく苦痛が襲いかかるとするなら、どうしようもない。
誰にも観測されず、誰にも助けることはできない。それこそ世界が滅びたって第一王子だけは肉体が消し飛び魂が弾ける苦痛を味わい続けることだろう。
だけど。
それでも。
「…………、」
その程度で。
今更第一王子が惨たらしく死ぬ程度で押さえつけられるわけがなかった。
「……………………、」
溢れる。
栓が壊れる。
封が砕かれ、本質が噴き出す。
「………………………………、」
これまでは『勇者』シェリフィーンが『次』に進めるようにと与えてくれた『封印』があった。致命的なまでに進んでしまっても、耐えられるだけの防波堤があった。
だが、その防波堤は既に崩壊している。
むき出しの『衝動』が『魔王』の魂を揺さぶり、侵食し、促し、解放する。
直後に噴出があった。
頭上に掲げた『不浄なる左』から溢れた漆黒が間欠泉のように勢いよく噴き出し、上へと、青空へと殺到する。
瞬く間に天空が腐ったような漆黒の闇で覆われる。そこで止まらない。次から次へと、まさしく世界を覆い尽くす勢いで漆黒が吐き出されていく。
その黒が惑星を覆い尽くした時。
世界はカケラも残さず圧殺されることだろう。