第十三章 貴女様にはどんな衣服だって似合います
例えば木から落ちている最中の林檎があったとする。その林檎が地面に落ちるのが最も『確率が高い結末』だろう。
だが、そうなることが決まっているわけではない。もしかしたら突風が発生して林檎を巻き上げるかもしれないし、間欠泉が吹き飛ばすかもしれないし、何なら隕石が降ってきて林檎が地面に落ちる前に消し飛ばしてやってもいい。
普段は当たり前に起こる結末に隠れているだけで、林檎が地面に落ちないという『確率が低い結末』が起きる可能性はあるのだ。単にその確率が低いゆえに観測されることがあまりないというだけで。
目的を達するためなら、天変地異さえも引き寄せる。それがスキル『運命変率』である。
まさしく奇跡の顕現。
アリス=ピースセンスを最強たらしめている必殺であった。
だから。
だから。
だから。
何も、起きなかった。
奇跡さえも自在に振るう必殺が不発に終わったのだ。
「…………、え?」
スキル『運命変率』。
天文学的確率さえも引き寄せ、一発逆転の奇跡を紡ぐ必殺は、しかし、
(あるはずなのにぃ。どんな事象にだってぇほんのわずかな勝機くらいは残っているはずなのにぃ、何でこんなぁ、『運命変率』が作用しないのよぉ!!)
定めた目的を達するために確率を操作するのがスキル『運命変率』の効果であるが、迎撃、逃走などいくつかの目的を設定しようとしても不発に終わるのだ。
理由があるとすれば、一つだけ。
定めようとしている目的を達する確率がゼロパーセントなのだ。
不可能から新たな何かを生み出すことはできない。ゆえに迎撃も逃走もできない。
それほどにあのメイドは『強い』のだ。
『復元』なんか比較にもならない、アリスが想像もできないような規格外の力を秘めているのだ。
(こんなのあり得ないってぇ! どんな強敵であれ逃げるくらいはできるはずなのにぃ!!)
ぎゅるり、とメイドの瞳が動く。
まさしく闇を凝縮したような、虚無が蠢く。
無であった。漆黒のその瞳はアリスたちを見てはいるが、それだけだ。あれだけ多くの人間を消し飛ばしたというのに、何の感情も見えない。
価値を見出していない。
命を吹き飛ばすことに正と負、どちらにも感情が傾いていない。完全なる無。虚無の漆黒がただただ広がっているだけだった。
「それが貴女の選択ですか」
ざり、とメイドの足が一歩前へ。
土を踏んだその音がひどく強烈にアリスの脳髄へと走り巡った。
「ひっ、ひぃっ」
ガチャンッ、と鎧がこすれる。尻餅をつく。怖い、ただただ怖い。あれだけの力を振るうこともそうだが、あれだけの死を振り撒いても何も感じていない無が怖いのだ。
何もない。
まさしく死を体現した漆黒の闇が迫るようなものだった。
じわりと下半身が濡れたような気がしたが、そんなもの気にする余裕はなかった。
なぜなら、目の前に漆黒の闇が揺蕩う瞳が迫って──
「そうです。一つ忠告があったんでした。正直どうでもいいのですが、全てはセシリー様のためです。しっかりと記憶しておくように」
その言葉は。
不思議と恐怖に沈むアリスの耳に入っていった。
「第一王子のクソ馬鹿が強烈で薄れていますが、本当に厄介なのはアイラ=ミルクフォトン男爵令嬢です。あれをなんとかしないと、後悔すると思いますよ?」
ーーー☆ーーー
「ごめんなさいごめんなさい許して助けてもうしませんだからお願いだからもうやめてぇ!!」
「おいしっかりしろ! 聞いてるのか!?」
ガヅンッ! と肩を掴まれ、思いきり揺さぶられたことでアリスは気づく。目の前に厳つい顔の兵士が立っていて、アリスに声をかけていることに。
「あ、れぇ? わっちメイドにぃ、あれぇ???」
「疑問に思うのは当然だわな。周りを見ろよ。全員揃ってやがるぜ。俺を含めて魔獣に殺されたはずの奴らもな」
兵士の男の言う通りだった。
場所は森の入り口前。しかも百を越す兵士と彼らが乗り回していた軍馬が揃っていたのだ。突入前と変わらずに。そう、誰一人欠けることなくだ。
「…………、」
「確認したが誰一人欠けちゃいねえし、かすり傷の一つもねえ。こりゃ幻覚にでもかけられたんだろうよ。チッ、つまんねえ小細工だな」
彼は比較的早い段階で魔獣に殺されていた。だからだろうか、あのメイドと出会っていない分アリスに比べればまだ余裕があった。
幻覚、などと思う余裕がだ。
(あれが全部幻覚ぅ? そうだったなら最高だけどぉ、もしもわっちの想像通りなら……)
そこで。
アリスはあることに気づき、首を横に振る。
「撤退よぉ」
「おいおい、何をビビってやがる。そんなのメイドどもの思う壺だろうが! 幻覚だと分かれば対処だってでき──」
「いいからぁ、撤退よぉ!!」
鎧の右肩から左の脇腹にかけて亀裂が入っていた。他の兵士と違って肉体にダメージがなかったから何もされなかった、とするならば──やはり、であった。
鎧の内側、下半身に冷たい感触があった。それを自覚して、アリスはぶるりと背筋を震わせる。幻覚などという希望的観測に命をかけるわけにはいかない。
──メイドの力を考えるならば、この場の全員を『復元』した、なんてこともありえるのだから。
(早く着替えないとだしねぇ)
女の尊厳に意識を向けることができるだけマシなほうだ。こんなもので済んでいるうちに逃げるべきに決まっていた。
ーーー☆ーーー
「あ、ミーナ。どこに行っていたのでございますか?」
「羽虫が飛び回っていたので、追い払っていました。もちろん殺してはいませんのでご安心を」
アタシは明るい青のドレスを纏ったセシリー様の神秘さに目を奪われながら、そう返しました。は、はふっ、セシリー様は何を身につけようとも綺麗です。そのお姿を拝見するだけで心がじんわりと温かくなります。
──あの羽虫どもが対応してくれるといいのですが。まあアタシが動いてもいいんですが、我が身はセシリー様のおそばに仕えるために存在します。羽虫を追い払うために離れることだって本当は嫌でしたのに、男爵令嬢の相手なんてしてられません。
というわけで頑張ってくださいね、最強の兵士。アタシが奴を殺すとセシリー様が悲しみますので、アタシの代わりにさっさと対処するように。