ある夜のこと
「先輩、どうしましょう」
ぱたぱた、とこちらに向かって走ってきた少女は、二ヶ月前からこのお店でアルバイトをしている後輩で、名をかすみという。
「なに、クレーム?」
「そうじゃなくて、へんな注文されたんです」
私は彼女と同じ大学の学生で、このアルバイトは後輩である彼女に私が紹介した。
もうだいぶ仕事に慣れてきたとはいえ、時折こうして私を頼ってくる。それが少し誇らしい。
「なんていわれたの」
私はここで働いてもう一年になるので、大半のことは対処できるようになっていた。
だから、このときも、やれやれまたか、くらいの気持ちで聞いたのだったか。
「それが、ショーをくれっていうんです」
「……ショー?」
レストランの責任者は若い夫婦で、なにか困ったことがあったら彼らに聞くことになっている。とはいえ、ここ半年は私が一人でなんとかできることばかりだったから、厨房にいる彼らを頼るのは久々だ。
客から見えないように作られた厨房の入り口にかけられた暖簾をくぐり、夫婦の片方、接客・経営担当のマミさんを呼ぶ。
「どうかしたの?」
マミさんは髪を明るく染めて、バナナクリップでひとつにまとめている。化粧が上手で実年齢よりだいぶ若く見える。
厨房の入り口でぼそぼそと話す私たちを、奥のほうから調理担当の旦那さんが不思議そうに見ていた。
「へんな注文をされたらしくて」
「今日のメニューにないもの?」
このレストランは客の無理な注文にもわりと柔軟に対応するので、その日のメニューにないものでも、材料があれば作る。メニューの裏にも、『メニューにないご注文も、できる範囲で対応します』と書いてある。
かすみは首をふるふると振って、ちがうんです、と続けた。
「なんか、ショー?がほしい、って」
「ショー?そういわれたの?」
「はい、なんかごにょごにょしてて、聞き取れたのがそれで……」
このお店の方針としては、お客さんを不快にさせないことが条件だから、注文を聞き返すということはご法度なのだ。
マミさんはふん、と考え込んだ。
お店のなかは間接照明のせいか少し薄暗い。夜はバーのような雰囲気になるのだ。実際、お酒は結構な種類がそろえてあるし、飲み会目的でここにくる客も多い。棚に並べられた大量の酒瓶を拭くのが、アルバイトの最初の仕事だったのを覚えている。
「もういちど聞いてきましょうか」
かずみが不安そうに聞く。怒られていると思っているのだろう。
「いえ、その前に、そのお客さん、どの人?」
「五番テーブルの方です。お一人でお越しの……」
厨房は客席より少し上に位置しているので、そのお客さんが座っている席は簡単に見えた。くたびれた背広を椅子の背に引っ掛けた、猫背の男性だった。席に案内したとき、いやに老けて見えたのを思い出す。
「なるほど」
「あの方はほかに、何かいってなかった?」
マミさんは柱によりかかり、腕を組んだ。今日がお客さんの少ない日でよかった。
「ええと、わたしが、ラストオーダーになりますけど、っていったら、少し考えて、『これだけあるなら……』とか独り言を言って……」
「これだけあるなら?どういう意味かしら」
「それで、…ショーをください、って」
いくらなんでも情報が少ない。
「ふうん、なるほどね。ちなみにそのお客さん、メニューの裏、見てた?」
マミさんはカスミに尋ねた。
「……そういえば、メニュー裏返してたと思います」
「うん、わかったわ」
私とかすみの口から、同時に、えっという声が漏れた。
マミさんは軽くウインクして、ちょっと待ってなさい、といった。
「失礼します。お待たせしました」
アルバイトを始めたばかりのころのように緊張した面持ちで、かすみがテーブルへ向かった。そしてそれを、固唾を呑んで見守る私とマミさん。
空になった食器を片手に戻ってきたかすみは、にっこりとわらった。
「正解だったみたいです」
私は安堵のため息をついた。よかった。
いつもまかないは二人で、マミさんがグラスを拭くのを見ながらたべる。
でも今日はなぜか、食べ終わる直前に「ちょっと待ってて」といってグラス磨きをやめて出て行ってしまった。
食器を片付け終わると、マミさんに厨房に呼ばれた。
「ちょっといい?」
「あ、はい」
厨房にはいいにおいが漂っていた。もう全部片付けたはずなのに、調理台の上に二つのマグカップがおいてあった。香りはそこからのようだ。
「どうぞ。これがさっきの答え」
カップの中は真紅の液体で満たされていた。手に取ると暖かい。よく見ると湯気も立っているようだった。
「これ、なんですか?」
「飲んでみて」
かすみと目を合わせて、首を傾げつつ口を付ける。
口の中に含むと、ほわぁ、とぶどうの味が広がった。たぶんシナモンも入ってる。滑らかな口当たりで、のどをするすると落ちていく感覚がやさしい。
「これ……ホットワインですか?」
私が聞くと、マミさんはふふふと笑った。
「そうよ」
これがさっきの答えだという。しかしどうして。
「あのお客さんが言ったのはショーとかっていうのだったんですけど……」
両手でカップを持ち、ふちにくちびるを付けたまま上目遣いでマミさんを見つめるかすみ。まだ怒られるとおもっているのだろうか。
「それなんだけど、たぶんあなたが聞いたのはヴァン・ショーだったんじゃない?」
ヴァン・ショー。なんだろう。
「あのお客さんは、棚にある酒瓶を見て、『これだけあるならホットワインもできるだろう』と思ったんじゃないかしら。メニューの裏には、あんなこと書いてあるわけだし」
それで、ホットワインを頼んだということか。
「でも、ヴァン・ショーって……」
「vin chaud。フランス語でホットワインのことなの」
聞けば、本格フランス料理やさんなんかではそう呼ぶらしい。うちはフランス料理屋ではないんだけど。
「あの人、だいぶ疲れてたでしょう。ヴァン・ショーは、疲れを癒せるような、ほっとできる味なの」
確かに、手の中にあるヴァン・ショーは安心できる味をしている。
マミさんは作り方をなんとなく知っていて、それを出したということだった。
次の日から、メニューには新しく「ヴァン・ショー」が付け加えられた。
いまでも一日一杯は必ず出る、定番メニューになったそうだ。




