【0】プロローグ
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――最も古い記憶は、神秘ささえ感じられるほど白い雪景色。その中で、一人の女性と年老いた男性が向き合って立っている。
「————!」
顔に炎のような激しい怒りを浮かべた老爺が、何かを怒鳴りながら女性へと突進する。その様子は獣のそれであり、しかし駆ける速さは獣を超越している。
だが、その猛進は、女性の右拳によりあっけなく止められてしまった。女性は、これから雪遊びでもしに行くかのような自然な動作で前に踏み出し、背筋が凍るほどの精密な突き《パンチ》で老爺の心臓を文字通り打ち抜いたのだ。
カウンターパンチで心臓を破壊された老爺は、信じられないものを見るような目で女性を凝視した後、断末魔も無く息絶えた。
女性は生気のなくなった『老爺だったもの』から無造作に拳を引き抜き、自分の身体を見下ろした。その身体は老爺の返り血だけではなく、様々な血に彩られている。しかし彼女はその惨状を特に気にした様子も無く、今度はこちらへと向かって来る。
逃げなければならない。そう、自分の中の何かが警鐘を鳴らすが、身体はぴくりとも動いてくれなかった。現状が、どこか他人事のように感じるほどの非現実感がある。
目の前で、女性がピタリと足を止めた。もしかして見逃してくれるのだろうかと、涙に濡れた目を彼女に向ける。すると、彼女は笑顔で何かを自分に話した後、石ころでも蹴とばすように致死の蹴撃を放った。
自分が走馬灯を見ることはなかった。見る暇がないほどに、その蹴りは速かった。
肉が削げ、骨が砕ける音が鼓膜を叩く。今まで耳にしたどんな音よりも不快なそれを聞いたとき、目を瞑り自分の絶命を悟った。
――だが、一向に痛みが襲ってこない。死とは冷たいものだと思っていたが、今はむしろ身体が暖かいほどだ。
おそるおそる目蓋を開けると、凄惨な光景が自分の目に飛び込んできた。息も絶え絶えな男の子が、血だらけになりながら自分に覆いかぶさっていたのだ。
彼が身をていして庇ってくれたおかげで、自分には傷一つない。だが、代わりに男の子は瀕死の重傷を負っている。
逃げることができなかった自分のせいで、彼が犠牲になるなんてあってはならない。助けなければ――そう思うが、しかし彼の息は長くは続きそうになかった。
男の子は、わき腹から背中にかけて肉が露わになっており、即死していないのが不思議なくらいの重傷だった。
苦しいのか、出血が多すぎて寒さを感じているのか、男の子は浅い呼吸を繰り返しながら身体を震わせている。
助けてあげたいけど、どうすればいいのかわからなくて、そう考えている間にも男の子の呼吸はどんどん浅くなっていって。
男の子の身体の震えが止まり、綺麗な黒目が輝きを失ったところで、その記憶は途切れている。