ノウミツ
クラスメイトの黒崎由梨は変人だった。大人しくて、露骨に人を避けていて、おまけに一人称が「ぼく」だ。俺を含めて、彼女は誰にとっても良く分からない奴だった。それなのに、あいつの方は妙に俺たちのことに詳しくて――そんな気味の悪い女に興味を持ってしまったからだろう。俺は今、嘗てないほどに不貞腐れている。
三日前の昼休み。廊下ですれ違った彼女が声をかけてきた。
「井坂くん」
妙に緊張した面持ちだった。俺は立ち止まって、何、と聞き返す。
「真久保先生が、井坂くんのこと呼んでたよ」
「真久保先生……ああ」
英語の教師だが、何か用でもあるのだろうか。
「職員室に居るって」
「そうか、ありがと」
そう言って去ろうとした俺を、待って、と彼女は引き止めた。
「あのね……たぶん、人違いだと思う」
「人違い?」
「うん。一応、ちゃんと行ったほうがいいだろうけど……すっごく、怒ってたから」
「怒ってたって、真久保が?」
彼にはどちらかというと温厚なイメージしかない。怒っている姿なんて、その時の俺には想像もつかなかった。
「気をつけてね」
そう言って、逃げるように彼女は去っていった。色々な違和感があって、後に残された俺は思わず首を傾げてしまったのを今も覚えている。
とりあえず、彼女の言う通り職員室に出向いた。喧騒に包まれながら奥の席にいる真久保先生に声をかけると、おう、と立ち上がって出迎えられる。
「井坂か」
「はい」
彼は笑顔で、別に怒っているようには見えなかった。
「井坂さ、昨日の5時頃グラウンドにいなかったか」
「いえ、居ませんでしたけど」
人違い。彼女の言う通りだ。
「そうか」
彼は携帯を取り出し、何かを入力し始めた。相変わらず、その顔には微笑が浮かんでいる。温和な空気は保たれたままだった。
それなのに。
俺にはその笑顔が、何かを隠すための作り笑いに思えてならなかった。
「井坂」
「は、はい」
若干たじろぎながら返事をすると、彼は持っていた携帯を差し出した。
「ここ、触ってみてくれないか」
透明な画面の中心を指差す。何をしているのかは分からないが、断る気にはなれなかった。俺は言われるがまま、人差し指で画面に触れる。何の変化も起きないが、真久保は顎をつまみながら頷いた。
「悪いな、人違いだったみたいだ」
「そうですか。それじゃあ……」
俺は真久保に頭を下げ、職員室から逃げ出した。周囲が振り返るような早足で廊下を抜け、階段を駆け上がりながら考える。英語の授業、明日まで無いよな――しばらく、あの人には会いたくない。自分でも何を恐れているのか全く分からないにもかかわらず、俺は半ば本気で怯えていた。
『すっごく、怒ってたから』
黒崎の言葉を反芻する。真久保の怒りを見抜いた彼女は、いったい何を知っているのだろうか……。
❇︎
「じゃあ、何があったのか、聞いてもいいかな」
向かい合って座った冴木さんがそう切り出すと同時に、俺は彼女から目を逸らした。黒崎とあった出来事に関しては、誰であろうと一切話す気にはなれない。そんな俺の意思表示を見て、彼女はどこか満足げに頷いた。
「別に、話したくないことは無理に話さなくていいんだよ? ただの雑談でも全然おっけー。そういうのも全部、無駄にはならないから」
そう言って微笑む冴木さんを見て、なんとなく優しい人なんだと理解する。勿論、そうでなきゃカウンセラーにはならないだろうが。先程は肌の白さに驚いたが、彼女からは決して病的な感じはしなかった。むしろ、整った顔立ちと相まってプラスな要素にすら思える。肌とは対照的に髪は真っ黒で長く、カチューシャで止めている。淡いピンク色のセーターを羽織っており、部屋の内装と同じくラフな出で立ちにも見えるが、むしろフォーマルさを押し殺したいという意図にも映った。指輪など装飾品の類は見当たらず、全体を通して職業柄にふさわしい清潔感が漂っている。
「雑談、ですか」
困った俺は、再び辺りを見回した。相変わらず、校内とは思えないような柔らかい空気に包まれている。そんな中、ふいにグレーの物体を視界の端が捉えた。箱のような、機械のような灰色の物体だ。
「なんですか、あれ」
俺はその箱を指差す。
「どれ? ……ああ、あれは、スーパーファミコン」
知ってる? と目で問いかけられたので、俺は首を振った。
「昔のゲーム機だよ。もう何十年も前になるのかな」
「なんでそんなものがここに……」
「家にあったから、持ってきちゃった」あっけらかんとした調子で、彼女は言った。「ゲーム機でもあれば、誰かしら遊びに来るんじゃないかと思って」
「けど、動かないんじゃ」
「そう、ダメだったの。だから、今はただの骨董品」
「骨董品って」
俺は思わず吹き出した。骨董品――プラスチックの安っぽい光沢とは、中々噛み合わない言葉だ。
「変だよね」
冴木さんも笑った。
「うちに、こういう古いのか古くないのかよく分からない物がいっぱいあるの」
❇︎
教室に戻った俺は、うな垂れるように席に座り込んだ。そのまま机に突っ伏すと、頭上からけらけらと数人の笑い声が聞こえる。
「どうしたんだよ、お前」
「ん……樋口か」
聞きなれたクラスメイトの声に妙な安心感を覚えるが、返事をする気力がなかった。俺は察してくれと言わんばかりに大きなため息をつく。笑い声はさらに大きくなったが、不意に教室の扉が開く音がすると辺りは一気に静まり返った。何事かと思い僅かに顔を上げると、そこには真久保が立っていた。
「ちょっといいかな」
俺は上げた頭を下ろして寝たふり――もとい、死んだふりをする。急いで教室に戻ってきた俺と間を置かず現れたのだ。自意識過剰を拗らせていた俺には、追われてるとしか考えられなかった。
「樋口いる?」
いつもの、さっきの調子で彼は言った。予想外の指名。自分が標的でないことを喜ぶのも束の間、俺は間近で樋口が息を飲む音を聞いた。
「居ますよー。ほら、そこ」
何も知らない他の生徒が、無神経な返答をする。我慢できずに再び顔を上げると、真久保の視線はしっかりと樋口を捉えていた。
「ちょっと、来てくれるか」
「……今ですか」
樋口の返答と同時にチャイムが鳴ったが、真久保は全く気にならないといった感じで頷く。
「大丈夫。許可は取ってるよ」
退路は絶たれた。樋口は、そんな顔をしていた。
教室を出て行く二人と入れ替わるようにあのデブ担任が入ってきて、何事もなかったかのように授業を始めようとする。俺以外の人間は、自体を重く受け止めてはいないようだった。ただ先生が来て、ただ話があると生徒を一人連れて行った。実際のところ、それだけだった。
けれど、俺には何かが起きているという予感があった。何かを知っている奴が居るとすれば、黒崎だ。俺は彼女に目をやった。すると、俺の視線に気づいたかのように黒崎もこちらを振り返る。彼女は静かに首を振り、俯いて頭を抱えた。
❇︎
冴木さんとの雑談は続く。昨日は何を食べたとか、趣味はなんだとか、そんな他愛もない話だった。ここ数日何をやっていたのかも聞かれたが、彼女は決して深入りしなかった。適当に寝たましたと答えると、わたしも昨日は誰も来なかったから寝てたなぁとこぼした。飾らない人柄には好感が持てる。
「昨日先生と面談してたって聞いたけど、どうだった?」
「最悪ですね」
自重しなくていい相手なのが分かったので、俺は本音を打ち明けた。比較対象が冴木さんになった今、あのKY教師の評価はどん底まで落ちている。
「半分説教でした」
「それはそれは、ご愁傷様」
苦笑しながら彼女は言った。
「面倒だよね、ああいうのって」
生徒目線に理解があるあたり、彼女もまだ若いのだろうか。見た目に関しては大学を出て間もないくらいにも見えた。
「まあ、先生たちも今、色々大変らしいけど」
「そうなんですか?」
「うん、実は……」
彼女はわざとらしく声をひそめたが、そこで言葉を切った。困ったような顔で首をかしげる。その自重の無さが裏目に出てしまったようだ。言うべきか言わざるべきか、かなり迷っている様子だ。
「ちょっと、問題が起きててね」
「……それって」
彼女の言う問題には、既に心当たりがあった。
ああ、と俺は天を仰ぐ。わざとらしく聞き返したのはこっちの方だ。担任が妙に必死だったのも、翻って冴木さんが妙に奥手なのも、全部納得のいく理由がある。それだけ大きな問題が校内で起きていることを、俺は黒崎に知らされていた。
ドラッグですよね。俺は彼女に問いかける。樋口が連れて行かれたのも、あいつがドラッグに手を出したからなんですよね。
真久保に連れ去られてから数時間後、授業が終わってみんなが帰宅準備を始めた頃に、やっと樋口は戻ってきた。誰も彼に声をかけることができなかった。樋口の眼が真っ赤に腫れ上がっていたからだ。彼は乱暴に鞄を掴んで教室を出て行った。そうしてあいつは、ちょうど俺と同じ日から、学校に来なくなったらしい。
冴木さんは俺の指摘に驚いたというより、やってしまったという感じで俯いた。俺も無関係ではないと既に察していたのだろう。気まずい沈黙が、部屋の中に流れる。
「樋口くんのこと、知ってたの?」
「はい、でも」
俺はできるだけ冷静に弁解した。
「俺はやってないです」
「うん、それは分かってる」
彼女は頷く。
「井坂くんは、どこまで知っているのかな」
「学校のコンピュータから、簡単にダウンロードできるってことと……必要な機材も、なぜか全部揃うこと」
「そうなんだよね」
冴木さんは再度頷いた。
「電子ドラッグ。ノウミツって呼ばれてる、アレね」
ノウミツ。語源は日本語で、センスのない誰かが濃密とかけて脳蜜と命名した。抗うつ薬の電子化という、一億総うつ状態のわが国が産み出した新技術。映画の違法アップロードと何一つ変わらない手法で、ある時まだ不安定だったそれは電脳世界にばらまかれた。
「専用のヘッドセットで頭に光を当てて、脳機能をいじる仕組みなんだけど。ヘッドセットさえ無ければ無害だから、意味はないはずだったのに」
「光遺伝学ですよね。調べました」
ネットで調べたところ、流出した抗うつ薬というのはオプトジェネティクス——光遺伝学と呼ばれる技術で作られた試作品だ。光によって活性化するタンパク質を利用して、神経活動をコントロールする。これによって、向精神薬のIT化という驚くべき新技術が実現された。その第一歩として抗うつ薬が作られていたわけだが、突然何者かによってネット上にアップロードされてしまったのだ。未完成の抗うつ薬は副作用も強く、現状ただの麻薬でしかない。特殊な機材が必要という事実は、不特定多数の人間をクスリ漬けの未来から救っていた。
そんな危険なヘッドセットが、なぜか我が校で発見されたのだ。
「現時点で5個、ヘッドセットは発見されている。けど、まだ他にもあるだろうし……問題もそれだけじゃなくて」
「生徒が拾って、使ってる」
冴木さんの言葉を遮りながらも、俺は未だに信じられないでいた。一番最初に発見されたのが、よりによってクラスメイトの樋口だ。ついこの間までいつも通りに生活していた彼が、一体どこでクスリに出会ってしまったのだろう。
冴木さんがため息をつく。
「ほんと、呪われてるとしか思えない」
俺も頷いた。あちこち電子ドラッグのニュースがやっているのは知っていたが、メディアが物騒な情報を流すのはいつものことじゃないか。自分の学校やクラスメイトがその渦中にいることなんて、想像だにしなかった。危険だと思ったから、俺は登校をやめた。教師たちも、詮索こそすれど決して復帰させようとはしない。そもそも、こんな状態で学校が普通に開いてること自体おかしいのだ。
「本当は、今すぐ休校にするべきなんだけどね」
「どうして、やらないんですか」
「止められてるの。わたし達には想像もできないくらい偉い人たちにね。ヘッドセットの出所も不明な今の状態で、下手に報道すると本当に危ないから。別に報道なんかしなくたって、色々やりようはあるんじゃないかって個人的には思うんだけど……難しいみたい」
情報統制。映画か何かかよと突っ込みたくなる。今になって、真久保に感じた恐怖の正体が少し分かった気がした。話すに話せない状況に、やり場のない怒りを覚えるのも無理はない。彼はそれでも、生徒の前ではいたって普通に振る舞い続けたのだ。見ているこっちが妙な緊張感を覚えてしまうのも、頷ける所がある。
「樋口は、どうなったんですか」
「とりあえず、自宅で謹慎中かな。道具もたまたま拾っただけみたいだし、むしろ被害者だよね、彼」
「あの、逮捕されたりとかは」
「どうなのかなぁ」
冴木さんは首をかしげた。
「わたしも、あまり詳しくは知らされてないんだよね。というか、見つかったヘッドセットの個数とか、本来は今話したことも知らないはずだったんだけど」
「へ?」
「個人的に嗅ぎ回ったの。超がつくほどの機密情報を、いろいろと」
にやっと、冴木さんはいたずらっ子のように笑った。それから、部屋をぐるっと見回して言う。
「この部屋、変わってるでしょ?」
「まぁ、そうですね」
「扉の色からして違うのは、防音だから。カウンセリングの守秘義務の都合で、監視カメラとか録音装置の類は一切ないし、あっても使えないようになってる。携帯のカメラすら機能しないんだよ?」
俺は驚いて自分の携帯を取り出した。まず目に入ったのは圏外の二文字。彼女の言う通り、カメラも使用不可になっていた。冴木さんはすごいでしょ、と自慢げに笑いながら続ける。
「そういう部屋だから、秘密のばらしあいにはもってこいなわけ」
「良いんですか、そういうのって」
「ダメだろうね。今みたいに、生徒に話すのなんて言語道断だろうし……」
若干引きつる俺の表情を見て、けどね、と彼女は付け加えた。
「みんな、本当は知っているべきだと思うの。特に、井坂くんには必要な情報じゃないかな」
「どうして」
問い返す俺に、冴木さんは微笑んだ。
「庇ってるんでしょ? 誰かは聞かないけど」
❇︎
樋口が出て行った後、生徒たちは戸惑いを隠せなかったが、時間が経つにつれて一人、また一人と帰って行った。後に残ったのは俺と黒崎だけだ。
誰もいなくなったのを確認して、俺は彼女に声をかけた。彼女は黙って頷くと、ついてきて、と手招きした。鞄を背負った彼女に教室を連れ出され、廊下を練り歩く。
「どこへ行くんだ」
と問いかけると、
「人が居ないところ」
と彼女は言う。着いた先は最上階のトイレだった。男女別に分かれた扉を眺め、彼女は首をひねる。
「どっちに入る?」
「…………」
「じゃあ、ぼくが妥協するね」
そう言って堂々と男子トイレに入っていく彼女を、俺は止めることができずに追いかける。
幸か不幸か、薄暗いトイレには誰もいない。黒崎は個室の一つ一つを念入りに確認してから、一番奥の扉を押した。
「こっちに来て」
「いやだ……」
「大丈夫だから」
何が大丈夫なのか分からなかったが、断るのも今更な気がした俺は彼女と共に一つの個室に収まった。真上の電球に明かりが灯る。鍵を閉めて一息つくと、黒崎は俺に質問した。
「ノウミツって、知ってる?」
「ニュースでやってる、電子ドラッグってやつか」
彼女は頷く。俺は質問の意図を理解できないでいた。
「樋口くんはね、それをやって先生に捕まったの」
「は?」
黒崎はゴソゴソと鞄の中を漁り、中から良く分からない銀色の器具を取り出した。分厚くて、不恰好なカチューシャみたいな機械だった。
掌の上に置いたその機械を俺に見せながら、彼女は言った。
「これが、ノウミツ……」
ふざけるなと言い返そうとしたが、その言葉は途中で痞える。黒崎は、今にも泣き出しそうな顔をしていたのだ。
彼女はその器具をヘッドホンの様に頭にかぶる。俺は焦って彼女を制止した。
「や、やめとけよ。ドラッグなんだろ、それ」
口に出してはみたものの、なんとなく止めるだけ無駄な気がしていた。
「ぼくは」黒崎は首を振る。「ぼくは意気地なしの、共犯者」
とろん、と彼女の目つきがぼやけて、その表情も虚ろになった。
そうして、黒崎は俺の目の前でラリってみせた。
昔カウンセリングに行った時、マジでスーファミが置いてありました。