Epilogue</>Prologue 1
Epilogue 1
男は笑顔だった。笑顔で死んでいた。
周囲の人々は、男がなぜ事切れているのか理解できなかった。絶命する数秒前、男は刃物を持って一人の女に襲い掛かった。地面に押し倒し、馬乗りになって刃物を振り上げ――次の瞬間、全身から力が抜けたように女の上に倒れこんだのだ。突然のし掛かられた女は小さな呻き声を上げたが、やがて男が全く動かないことに気付くと、重そうにその体を押しのけて起き上がった。そして、男の手首に自分の指を押し当てて、静かにつぶやく。
「死んじゃった」
少女が手を離すと、男の腕は勢い良く地面に落ちていく。ぱたん、と小さな音がした。女はうつ伏せになった男の体をひっくり返す。襲い掛かってきた時の顔とは打って変わり、彼の表情はとても安らかだった。
そこから数分が経ったが、状況は何一つ変わらない。女はなんとなく地面に正座しながら、男の頭を持ち上げて自らの膝に重ねた。男の髪を優しく撫でると、まるで静かに眠っているようにすら見える。もちろん、現実がそこまでロマンティックでないことは彼女自身が誰よりも理解していた。さらに数分が経過すると、微動だにしない男に少し飽きてきたのだろうか、女は周囲の人々を観察し始めた。辺りには無数の人がいて、彼らは男の屍体をじっと見つめている。しかし、ただ見つめているだけで何の反応も示さなかった。
「ひどい顔だね」女は苦笑する。「死んでるこの子の方が、ずっと人間らしい表情してる」
そう小馬鹿にされても、人々は何も言わない。虚ろな表情で、焦点が合っているかも定かでない視線を男の亡骸に送るばかりだ。女はため息をついた。彼女の話を聞いてくれる人は、生死を問わずここには居ない。諦めたような表情で再びため息をつくと、そっと男の頭を持ち上げる。優しく地面に横たえ直し、自身は膝や脛の汚れを払いながら立ち上がった。
「じゃ、葬儀は丁重にね」
そう言って背を向け、立ち去ろうとした時だった。誰かが彼女に問いかけた。
「なぜ殺した」
少女は動きを止める。
「なぜ殺した」
別の誰かも彼女に問うた。意思の疎通を図ろうというより、うわごとに近いような声の調子だった。女は顔だけ後ろに振り返った。人々の虚ろな視線は、屍体ではなく彼女に当てられている。
「悪魔だから」
女は言った。
「悪いことすんのが、悪魔でしょ?」
再び背を向けると、女は何処かへ歩いて行く。誰も彼女の後を追わなかった。
女の姿が見えなくなってからしばらくして、やっと人々は動きだした。誰かが連絡を取ろうと携帯を取り出した。他の誰かが、男の屍体を別のところへ運ぼうと提案する。黄土色の砂の上にいつまでも寝かせておくのは可哀想だ。数人が同意し、のろのろと亡骸のもとへ歩いて行った。運び先すら決めないまま手足を掴んで男の体を持ち上げ、一歩、また一歩と歩き始める。残った数人は、相変わらず宙を揺れる男の体を見つめたまま、微動だにしない。辺りの異様平静さは保たれたままだった。誰一人としてこの状況に疑問を感じてはいない。というより、感じることができないようだった。現状をまともに捉える心があれば、まさかこんなに静かで居られるはずがない。人々には感情が無かった。そのおかげで彼らはありのままの状況を受け入れ、行動することができたのだ。皮肉としか言えない境遇にありながら、彼らはそれすら理解せず、淡々と作業をこなしていた。
そんな時だった。
不意に、男の屍体が地面に投げ出された。
小さな砂埃が舞った。屍体を抱えた男たちが、驚きの声を上げて男から手を離したのだ。それはとても人間的な反応だった。亡骸が地面に落ちる音を聞き、他の人々も我に返った。誰かが膝から崩れ落ち、誰かが声にならない悲鳴を上げた。一人の男が、信じられないといった表情で屍体に話しかける。
「井坂……?」
もう一人の男が乱暴に頭を振って、彼を仕留めた犯人を捜す。目星は付いていた。
「どこにいる」
大声で叫んだが、辺りに女の姿はない。当然だ。彼は女が立ち去ったことを知っている。親友を殺した女を何もせずに見送った記憶が、彼の頭の中にあった。
「どうして」
困惑と苛立ちで、その声は震えていた。ずっと屍体を眺めていたにもかかわらず、人々はそこで初めて自分たちの仲間が殺されたかのような反応を見せた。
「どうしてっ」
誰かが絶叫した。その叫び声は人から人へと渡って行く。誰もが怒り狂い、泣き叫んだ。それはとても異様な光景だった。人々は発狂しながら、自分たちが居るのが嘗て通っていた高校であることに気付いた。誰にとっても思い出深い、始まりの場所。そこで今、すべてが終わってしまったのだ。
<遠くから小さく、悲鳴が聞こえる。多分、私以外に聞こえた人はいないだろう。どうやら作業は完了したみたいだ。私は眼前の海を眺めながら彼女を待った。学校を出てしばらく東に行くと、この浜辺に行き当たる。どれだけ長い時間が経ってもそれは変わっていなくて、なんだかとても嬉しかった。
波の音に混じって、彼女の足音が聞こえる。私は振り返って手を振り、声をかけた。
「おかえりなさい……ミサちゃん」>
Prologue 1
成長期を迎えると、体のいろんなところから毛が生えたり、濃くなったりする。子供達はそういった変化に神経質気味になりながら、少しずつ大人になっていくのだ。だが、大人になってからは別の変化が人々を襲う。ある時期を越えたおっさんやおばさんの毛は脱色したり、行方不明になったりする。大人たちの毛は一体どこへ消えてしまったのだろうか?
心臓だ、と俺は思う。奴らの毛はきっと心臓に移動している。そう、だから大人は無神経なんだ。奴らは剛毛に覆われた下品なハートで、子ども達の心をズタズタにする……。
そんな俺の推察を裏付けるように、目の前の担任教師はずぼらな質問を投げかけてきた。
『ねぇ、何があったか教えてくれない? でないと……ホラ、あなたのためにもならないでしょ。一人でずっと抱え込むのは、大変だと思うから』
二日前から突然不登校になった俺に対する、スクリーン越しの面談。意図的に暗くした自室の中(頬杖をついていてもバレない)で、俺は中身のない提案を聞いた。社交辞令として相手の方に目をやったが、口を開こうとは思わない。黙ってる方が明らかにマシだった。そもそも、俺はナイーブだから口を噤んでいるという訳ではない。人には言えないような、言ったら誰かを傷つけるような秘密を抱えてしまったのだ。そうやすやすと話せるはずがない。
そんな俺の意図を全く汲み取らず、彼女は猛攻撃を浴びせてくる。
『友達と何かあったの? それか、先生かも……もしかして、いじめられてたりする?』
この人は、よく言えば粘り強い。悪く言えば、粘り気が強い。別に嫌っているわけではないが、物分かりが悪くて面倒くさいというのが本音だ。
『はぁ……』
彼女も俺に似たような感情を抱き始めたのだろう。厚ぼったい唇から大げさなため息を吐き出す。
『あんまり何も言ってくれないようだと、相談室に行かなきゃ行けなくなるのよ。そうなったら、面倒でしょう?』
「相談室行きます」
即答だった。答えられない質問攻めにうんざりしていた俺は、脅しとも取れる申し出に思わずがっついてしまったのだ。カウンセラーならこんな直接的な聞き方しないし、簡単にお茶を濁せるはずだ。話していて苦痛を感じることも少ないだろう。
「是非行かせてください。カウンセリング受けたいです」
『…………』
自分でも念を押すのはやりすぎな気がしたが、オブラートに包む程の心に余裕がなかった。突然身を乗り出して話し始めた俺に対し、相手はかなり戸惑った様子でしばらく口を開けたまま硬直していた。息をするのも忘れていたらしく、画面越しでもよく聞こえるような荒い呼吸を始める。驚き過ぎというより、 不摂生が祟っている感じの息遣いにも聞こえた。
『そ、そう……? じゃあ、冴木先生に聞いてみます』
「ありがとうございます」
もう充分だろう。適当に挨拶してから、俺は一方的に通話を切った。椅子の背にもたれ掛かり、天井を見上げて溜め息をつく。明日は何回溜め息をつくんだろうと思いながら、ふと胸騒ぎがして頭頂部に触れた。髪の毛の感触を丁寧に確かめ、それでも消えない不安の中で独りごちる。
「衰退しない、よな」
色々言ったけど、俺は死んでもハゲたくない。
次の日。俺は久しぶりに高校に出向き、人気のない廊下を歩いていた。周りが授業を受けている中、私服で校内を歩き回るのに謂れのない優越感を覚えた。調子に乗って目一杯遠回りしてから——途中からは道に迷っているだけだったが——やっと相談室に辿り着く。余裕を持って到着するはずが、時間ぴったりになっていた。しかし、ちゃんと相談室を見つけられたのは幸いだ。ありがたいことに、ここだけ扉が茶色くて、かなり目立っていてくれたのだ。数年ぶりのカウンセリングを前に妙な緊張を感じ、深呼吸をしてから扉をノックする。すると、中から声が聞こえた。
「どうぞ」
自動ドアが開く。中から現れた相談室の内装を見て、俺はかなり戸惑った。ここ、学校か?
黄色い照明に照らされて、壁や天井がみんなクリーム色に見えた。茶色いフローリングの上に、ガラス製の机や白いソファが並んでいる。窓から差し込む日光が、薄いカーテンで適度に遮られていて……どこもかしこも、カジュアルなオーラを醸し出している。
「こんにちは」
そんな部屋の奥に、一人の女性がいた。あたりをキョロキョロ見回す俺を見て、彼女は笑いながら言う。
「いいとこでしょ、ここ」
そうですね、他の教室がみんな収容所に思えます。初対面の人にそう答える勇気がなくて、俺は小さく会釈した。彼女は手元のタブレットにちらりと目をやってから、再び俺を見る。
「井坂、蓮くんだね。わたしは冴木ミサです。よろしくね」
「よろしく、お願いします」
彼女が右手を差し出してきた。その手を握り返してギョッとする。日焼けとは無縁の生活を送る俺と比べても、彼女の手は圧倒的に白かった。人種が違うのか、それとも体質か——何故かは分からないが、後者だと俺の直感が告げていた。
最低で楽しくて死にたくなる感じのお話にする予定です。よろしくお願いします。