対立する思考
食事を終えた後、雨が止みすっかり晴れ渡った夜空を居間の窓越しに何となく見上げたテルーは、ふと思い立って、夜の散歩へ出てみないかと希衣子を誘った。テルー自身外の世界、人間の世界はどのようなものなのか興味があったのと、何と言っても希衣子を少しでも外に連れてゆきたいという気持ちが重なり、さらにすっかり夜も更けた今なら、この閑静な住宅街近辺では人に会う事さえ珍しいだろうと考え、夜の散歩に出てみようという提案に至ったのだった。
希衣子はこの誘いに乗り、「着替えてくるからねっ」と特に彼女にとっては滅多に無い、実に軽快なスキップ気味の動きで自室に戻ると、押し入れの中のタンスからもはやいつ買ったのかも思い出せない、昔からのお気に入りの白いパーカーとジーンズを着た。そしてテルーにも何かトラブルに遭って、ロボットだとばれたら大変だから自分の服を着せてあげようという事で、自分の服をいくつか床に並べると、テルーに似合うのはどれだろうかと首をかしげながら悩むのだった。その、夫から一緒に出かけないかと誘われたときの妻にも似た浮かれぶりが、どうにもテルーには眩しく映って仕方なかった。
「どれでもいいよ私は。こんなに夜遅くじゃ、誰もいないでしょ?」
「でも、万が一もあるし……それにテルーにはちゃんとおしゃれして欲しいの」
元来オシャレとか流行とか、そういった部類のものとは縁遠い希衣子なりに、テルーをコーディネイトする。結果白黒ボーダーの長袖シャツに色違いの、ネイビー色をしたジャケットと明るめの色のジーンズを組み合わせたそのファッションは、一見地味で面白みに欠けるが、その手堅い印象がテルーには妙に合っていた。
「すごい……希衣子、これいいね。本物の人間みたい」
姿見で自らを見たテルーは驚嘆の声を上げた。
「うん、似合うよテルー。何て言うのかな、かっこいいね」
姿見に並んで映る希衣子はそう言ってはにかんでみせた。つい数時間前まで、自傷行為を繰り返し自分に何かと暴力的だったその面影はどこにもない。この笑顔をいつでも見ていたいなどとテルーは思ったが、口に出すのがどこか恥ずかしかったので、それは自分の電子頭脳の中に留めておくことにした。
初夏と言いつつ、雨が降っていたせいもあって夜はまだ冷えた。そのつんとした澄んだ空気が月の光を鮮やかに包み込んでいて、何か情緒的な気持ちを感じながら二人は夜の街を歩いた。どちらからともなく手をつないで、住宅街のはずれにある森林公園を目指す。この時期になると暴走族崩れのヤンキーが夕方から大量のエアバイクを引き連れて駐車場やベンチにたむろし、やがて夜が更けたころに地上国道や国道エアーライン八号線(新潟県の中心部を流れる空中のバイパス)なんかで警察との熱いカーチェイスを繰り広げるのだ。今日に限っては、あの雨のおかげか、改造エアバイクの耳をつんざくようなエンジン音はまるで聞こえない。ゆっくり公園を回って帰るつもりだ。
その道中、テルーが口を開いた。希衣子にはどうしても、聞いておきたいことがあったのだ。
「……希衣子」
「なに?」
「ちょっと聞きたいことがあるの。あなたは……これからどうするつもりなの?」
そのこれからというニュアンスが、今日の夜ではなく、学校とか、今後の生活の事であるというのは嫌に真剣な声のトーンから察することができた。
「……学校はもう嫌だよ」
希衣子にとって嫌な記憶が次々と呼び起こされたようで、彼女は露骨にしゅんと下を向き、わずからながら歩みも遅れてきた。
「うん……ごめんね。ちょっと聞きたかっただけ。でも」
テルーは立ち止まって、希衣子を抱き寄せた。
「いつまでも逃げちゃダメ。私も一緒にいるから、ちょっとずつでも前に行こうね」
数秒の間が空いたのち、希衣子がまた、ぐす、と鼻を鳴らした。おおよそ彼女の人生において、ここまで親身になってくれた人は片手で数えるほどしかいなかったかもしれない。一緒にいる、などと言葉をかけられると、思わず今日何回目かもわからない、涙腺の緩みが襲ってきたのだ。
希衣子の水っぱなをすする音に反応する様に、テルーが彼女の両頬を両手で包み、自らの顔と向き合わせる。そして優しく微笑みながら、ゆっくり語りかけた。
「今は泣くより笑って。その方が、あなたは素敵よ」
純粋な褒め言葉であったが、希衣子にとってそうした言葉の一つ一つが、自身の希望とか、やる気とか、そうした生きる為の活力に繋がっていく気がした。テルーが自分の身を案じてくれている。そう思っただけで胸の底がぎゅう、と温かい光に包まれて、どんどん空が晴れ渡るように明るい気持ちを取り戻していくのだ。
テルーの言葉に、希衣子はこくりと頷いてからパーカーの袖で涙を拭き、そしてお互いにっこりと笑ってから再び歩き始める。
公園の入り口に差し掛かったあたりから、テルーは自身の異変を感じていた。頭部の電子頭脳が、妙にぴり、ぴり、と反応するのだ。小さい静電気が頭の周りをウロウロしているような、どちらかというと不快なその電波が僅かに強く反応するようになると、思わず立ち止まってしまった。
「テルー? どうしたの?」
「ん……ちょっと月が綺麗だなって」
きょとんとしてテルーを見つめる希衣子を心配させまいと、無理に話題を逸らしたが、希衣子にはすべてがお見通しだったようで、気遣うような口調で「大丈夫?」などと声をかけてくれる。
「どこかおかしいの?」
「……少しだけね。頭がぴりぴりする、というか」
異変はすぐに察知できた。突然びりびりっという恐ろしく強い電波がテルーの電子頭脳を襲った。同時に、テルーは自分と、そして希衣子にすさまじい勢いで『何か』が近づいてくるのを感じた。
「危険だ!!!」
「すぐに避けろ!!!」
「希衣子が危ない!!!!」
そう自分の電子頭脳が訴えている。そこからほとんど反射的に体が動いた。希衣子に思い切り抱き付くようにタックルし、また頭を打たないよう後頭部に手を添えて、地面に伏せた。そのほんの一秒にも満たない時間の間に、先ほどまで二人が立っていた場所を『何か』が通り過ぎて行った。辺り一面に風が吹き荒れ、公園の入り口の周りの木々や植え込みを派手に揺らす。
状況が飲み込めず、希衣子は随分困惑した様子で、テルーと、その『何か』が通った後を交互に見た。『何か』は公園の入り口の石段を勢いそのままに、ほとんど宙に浮いた状態で駆け上がると、ちょうど石段の上に立つ時計の柱を勢いよく蹴り上げて、ふわりと頭上を舞った。その動きは人間には到底できる芸当ではない。
『何か』がテルー達の十メートルほど向こうの、公園の入り口に着地する。それが何であるかはすぐに理解することができた。ちょうど入り口の近くに建つ乳白色の街灯が照らすそれは、異形の姿をしたロボットであった。腕、足などいたるところの電子回路がむき出しになり、そのパーツの大半がすっかり乾ききった赤黒い液体に染められている。
ロボットが二人の眼前に、左手に持った人間の生首を投げる。それはまさにゴミをゴミ捨て場に投げ入れるような、実にぞんざいな扱い方であった。街灯と月の光によって白く照らされた、三十代の男性と思しきその顔に目と歯はなく、血にまみれたそれは恐怖と苦悶の表情のまま固まっていた。希衣子はひっ、とひきつった小さい悲鳴を上げるのがやっとで、一方のテルーはというと、彼女をぐっと抱き寄せてから、目の前のロボットが自分たちにとって害悪をもたらす者であると認識し、冷静に自らの電子頭脳を最大限に活用してこの状況の打開策を思慮した。
パターン一。希衣子を連れて逃げきれるだろうか。
否。ファースト・コンタクトでは避けるのがやっとだった。しかも一人を連れて逃げるというのは、大きなハンディになる。
では、パターン二。戦うか。
否。今テルーという自分自身が、どれほどの身体的能力を持っているのかは現時点で把握できていない。あっという間に石段を駆け上がったあの驚異的な身体能力を持つあのロボットと互角に渡り合える保障はない。また仮に敗れたとすれば、希衣子を真っ先に奇襲したであろう、先ほどのファースト・コンタクトから想像するに、希衣子を次に襲うに違いない。希衣子が殺されるなどとは、テルーにとって筆舌に尽くしがたい苦痛である。希衣子を危険にさらすことはできない。
そうなると、おのずとパターン三の話し合うという手段を取るほかない。まずは向こうの出方を伺おうと、希衣子を守りながらにらみ合いを続ける魂胆であった。
ところがその矢先、ロボットは少し左足を引きずりながら僅かに近づくと、その血まみれの右手を二人に……正確にはテルーに向けて差し出した。握手をしたいという事なのだろうか。テルーは希衣子に、「少し待ってて」と囁いてから立ち上がる。無機質な街灯の灯りが映りこむその瞳には心配の色がはっきり見て取れたが、それを打ち消すように希衣子は何も言わずに力強く頷いた。
ロボットに近づくと、随分聞こえ辛い、雑音交じりの合成音声が響いた。
「私はクーナ。あなたは友達」
何か感情という部分が少し欠落したような、不安感が混ざる音色であったが、敵意は無いであろうと理解したテルーはほっと胸をなでおろしてから、「私はテルー。よろしくね」と自己紹介し、二人は握手を交わした。どちらも、自分と同じロボットとの接触は初めてであった。
まずは、希衣子にも敵意が無いことを確認したい。と思ったテルーだったが、クーナが手を握手した状態のまま希衣子の元へ向かおうとした。その目は赤色に染まり、何か不穏な雰囲気を全身から発散させているような違和感を感じたテルーが、クーナに問いかける。
「どうしたの?」
「同じじゃない、この子」
赤色に染まった眼をテルーに向ける。その表情は明らかに困惑していた。希衣子はその言葉を聞いて小さく身を固め、僅かに後ずさりした。それを追うようにまた一つ歩みを進めるクーナを、テルーは手を引っ張って何とか止めた。
「どうしたの?」
テルーが心配そうに、なだめる様に声をかけると、クーナはいささか苛立った様子で希衣子を指差した。
「人間。どうして一緒にいるの? 私の敵。だから」
「その人は、私の大切な……」
その間も絶え間なく電子頭脳がびりびりと反応し、テルー自身人間で言う所の軽いめまいのような状態になっていた。少しふらつく頭を無理やり起こして、何とかクーナを抑えようとする。
やがてクーナが真っ赤に染まった眼をテルーに向けた。そしてその口から、恐ろしく歪な、雑音交じりの音声が不気味に響く。
「殺る。この子」
その音声が聞こえた時、クーナを掴んでいたテルーの左腕はいとも簡単に吹き飛ばされた。正確には、引きちぎられたというほうが正しいだろう。セロハンテープを切る様に、ぴっと、鮮やかに、目にも止まらない速さで、テルーは左腕を失った。肩口から電子回路がむき出しになり、エナジーオイルの管がオイルを止めどなく流しながら、だらしなくぶら下がっている。クーナはテルーの腕を持て余し、やがでこれまた無造作に宙に投げると、それが狙ったのかどうかは定かではないが、最も三人に近い街灯に直撃し、周辺は暗闇に包まれた。
あまりに唐突で、あまりに恐ろしい状況。電子頭脳の電波反応はより一層激しさを増し、思わず残った右腕でテルーは頭を抱えた。
その間に、クーナがまたゆっくりと、希衣子の元へ歩み寄る。街灯が無くなった辺りはテルーの緑色の瞳と、クーナの赤色の瞳が目立つ。そのクーナの瞳と、ちょうど三人の後ろに立つもう一つの街灯が照らす希衣子は、恐怖に顔を強張らていた。涙を目いっぱいに溜めながら、ひっ、と短く息を漏らし、尻もちをついたままま後ずさりをしている。
一方のクーナはそんな希衣子をじわじわと追い詰める。恐怖の時間を存分に味あわせるようにゆっくり歩みを進め、距離を詰めていく。貴奴の速さならば今この瞬間、希衣子を殺すことは造作もないことであろう。
「……死なせはしない」
主人が殺されようとしている事態に、テルーは自らの電子頭脳をかつてないほど研ぎ澄ませた。全身の回路、動力、エナジーオイル、ありとあらゆる自らの力を用いて、クーナと戦う事を決意した。
その瞬間。身体に恐ろしいほどの力が滾るのを感じた。緑色の瞳はふうっと消え失せ、代わりにクーナと同じ鮮やかな赤色が眼を染めた。