赤色の瞳
歯を磨きながら、まだ完全に覚醒しきっていない頭で先ほどの夢について柚葵はぼんやりと思案を始めた。夢の中で、セナが自分に笑いかけてくれる。柚葵にとってある意味願いがかなったような夢であった。そして夢を思い出すと、何かセナに会いたい気持ちがわいて、歯磨きを済ませるとそのまま台所で充電中のセナにおやすみの一言を言いに行こうと思い立った。
しかし、台所にはセナの姿が見当たらなかった。充電プラグだけがだらしなく床に投げ出されており、これに柚葵は「セナは停電の間に泥棒に連れて行かれたのではないか」という飛躍した心配を覚え、母親に事を確認するため廊下に飛び出し、母親の寝室へ向かおうとした。
台所に隣接した、電灯は点いていないはずの居間が微かに明るいことに気付いた時、ふとそちらを見た柚葵は思わず手で口を覆った。居間には一人、誰かが寝っ転がってテレビを見てる。その背格好はまぎれもなく、柚葵がよく知る人物であった。
「セナ」
柚葵が呼びかけると、その人物はゆっくりと首だけ振り向いて柚葵を見つめる。柚葵が愛してやまない家庭用ロボットのシュワルセナが、休日のオヤジの様にゴロリとテレビの前に横になっている。
「嘘。え?」
「何よ、そんなに慌てて」
混乱しきった柚葵に、随分と冷静で、それでいて棘がある透き通った声が聞こえた。セナの声だ。しかし、家庭用ロボットが暗闇の中でテレビをつけて横になっている……そんな普段の生活ではありえないシュールな光景を、柚葵は初めて目の当たりにした。
「セナ……どうしてテレビなんか見てるの?」
「私の勝手でしょ。ニュースが面白いだけ。今集中してるから邪魔しないで、柚葵」
冷たく突き放すように言う。その間も視線はテレビに釘づけであった。
「うそっ……セナ!? セナが喋ってる! 私の事柚葵って呼んだ!!!」
わっと一気にテンションが高まり、思わず寝転がるセナに思い切り抱き付く。セナが喋り、さらに自分を「柚葵」と認識し、喋っている。何故そのような事になったのかは分かるはずもないが、目の前の疑いようのない光景を見ると、いやでも柚葵の心が躍った。
「うっとおしい、離れて」
肘で抱き付いてくる柚葵を軽く小突くが、そんなものはおかまいなしに柚葵はぎゅうぎゅうと暑苦しく抱き付く。
やがてセナが諦めて、再びテレビを見ようとする。しかし、そのテレビが不意ぷつんと消える。柚葵がニコニコ顔でリモコンを持っているのを見ると、セナはふっと大げさなため息をついてから口を開いた。
「なんなの?」
「それはこっちのセリフ!」
セナの両手を握って、その顔をじっと見る。柚葵にとっては幾度となく行ってきたセナへのコミュニケーションの一つだったが、今日に限っては特に力が入る。
当のセナはというと、突然そんな行動をとられたものだから、ロボットであるという点で見るとおかしい表現かもしれないが、妙に顔を赤らめて、手も少し熱を帯びている様であった。
「ねぇ、誰かが中に入ってるとかのドッキリだったりするの? 雫さんが何かしたのかな? でも本物のセナだよね。私が誰か分かる?」
「し、知らないわけないじゃない。口原柚葵。二〇四七年四月二一日、午前八時五一分三三秒生まれ。公立双葉高校普通科一年五組。性格は大雑把で基本的に明るめ、しかし極端な心配性。趣味はお昼寝とジグソーパズルただし一度も完成したことは無い。特技はバドミントン。好きな食べ物はサイダーと無糖ヨーグルト。嫌いな食べ物はあんかけとビールの泡……」
「あ、いーよ、もういーよ!」
柚葵は何か自分の恥ずかしい、もしくは思い出したくない様な過去を穿り返されそうな気がして、無理やりさえぎった。
「これで分かったでしょ?」
少し、どうだというような得意気な表情を見せるセナ。しかし柚葵は、そのセナの目の前でチッチッチと舌を鳴らしながら人差し指を動かす。
「重大なところが抜けているねぇ、趣味はセナのケア。好きな食べ物はセナ」
「なっ……」
この二つを聞いて、またセナは人間で言う所の頬が熱くなる、というような感覚に襲われた。
「……あれ? ここは好きな食べ物は違うでしょってツッコむところじゃないの?」
「っ……もう……」
すっと立ち上がって、台所に向かおうとする。そのセナの背中に、柚葵は優しく抱き付いた。
「嬉しいよ、私。セナが喋るなんて、夢なのかな」
「……」
「夢でもいいよ。でも、起きてまたセナが私に喋ってくれたら、飛び跳ねて喜んじゃう」
「……朝っぱらからやめて、うっとおしいから」
「ひどーい」
「……」
「一緒に寝ようよセナ、私あったかいよ?」
「……」
「……セナ?」
セナの反応がまるでないことを訝った柚葵が、ふとセナの顔を見ると、ぱちりとした瞳がゆったりと閉じられ、何とも安らかな寝顔をしていた。充電が切れた証拠である。それに気づくと、柚葵はすぐセナをプラグに繋げ、充電を始める。充電が開始されたのを確認すると、頬を撫でながらセナを眺めた。
「……ほんとに夢だったりしてね」
ぎゅう、と少しきつめに自分の頬をつねっては見たが、しっかりと痛みが頬中に広がるのを感じる。柚葵には、どうにも先ほどのセナとのやり取りが信じられない気持ちだった。ロボットが自分で動き、喋るなどどう考えてもあり得ないである。
寝起きのようなぽわぽわとした頭のまま、夢見心地でベッドに横になる。外は先ほどまでの雨風が嘘のように晴れ渡り、頭上の空は煌々と輝く半月と美しい星空に包まれていた。窓から漏れる月明かりを浴びながら眠りについたが、夢は見なかった。ただ、眠りに落ちるまでの間、脳内に焼き付いたセナと交わした会話、セナの動作のひとつひとつを思い起こしては、随分幸せな夢を見ているのではないかという、温かい気持ちに包まれたのだった。
翌朝になり、目が覚めた柚葵はすぐにセナのもとへ向かった。台所でフランパンを操るセナの後ろ姿を見つけると、背後からぎゅ、と抱き着いた。ベタな新婚夫婦の朝の光景に似たものがある。
「おはよう、セナ」
そうしゃべりかけてみても、返事はなかった。その横顔はまるきり柚葵を無視している。つまりは感情の起伏に乏しい、まさにごく普通のロボットそのものだ。昨日のようなどこかクールでとっつきにくく、それでいて人間味があふれた、あのセナの面影はそこにはない。どうにも、妙に切ない心持ちになる。
もしかしたら昨日の停電が影響して、何らかの誤作動を起こしたんじゃないだろうか。などという淡い期待のもと、誤作動でもなんでももう一度自分の名前を呼んでくれないだろうかと考えた柚葵は、とにかく絶え間なく話しかけることにした。
「ねーセナ。昨日私としゃべったの覚えてない?」
「……」
「セナってばー」
「……」
「あ、UFO!」
「……」
「今日は学校サボっちゃおっかな~!」
「……」
「うう、急に心臓がっ……!」
「……」
「……返事してよっ」
「……」
ここでふと、柚葵にある種の悪戯心が湧いた。どうで、感情も無いロボットである。セクハラのような事を多少はしてもバチは当たらんだろう。実に邪な発想の元、セナの耳元で熱く呟いてみる。
「……今日も綺麗だね。セナ」
「……」
「君のその瞳に、私は映っているのかな?」
「……」
勢いに任せて喉元や腹部をまさぐってみると、これまた妙な背徳感に襲われ、思わず悪乗りに力が入った。
「どうだい今夜、私はまだまだ現役さ……」
「……柚葵、何してんだよ」
「どぅえぁっ!?」
唐突に声をかけられて思わず振り返ると、従妹の翠が寝ぼけ眼をこすりながら、呆れ顔で立っていた。
「……見たな、我が妹よ」
「朝っぱらからお熱いねぇ」
テーブルの上にあるトーストを一枚手に取り、ダイニングの椅子に体育座りを崩したような格好で腰かけてから、カリカリとパンを耳からかじる。その従妹の目は、呆れというより憐みに近いものもあった。
「ロボット相手についにそんな事……もうさ、完全イケてない独身男だぜそれ」
「やかましゃー! お前に私の気持ちが分かってたまっかい!」
ぎゅぶ、とセナを抱きしめ、頬ずりをする柚葵を見やりながら、翠は眉間に皺を寄せてふう、と膝に頬杖をつく。そしてこれまでこうした光景を幾度となく目にしてきた彼女は、こう呟くのだった。
「なんでただのロボットをそんなに愛せるのか、全く持って分からん」
好神翠は柚葵の父親の弟の子であり、柚葵の従妹にあたる。同い年で幼少期から悪友と呼ぶべき仲であり、今年の春からは高校こそ違えど二人は同じ地域の学校に進学することになった。
翠の進学先である私立南葉高校は、実家の好神家から電車、スカイレール諸々を乗り継いで三時間はかかる場所にある。翠自身は頭の出来はかなり良いほうであり、高校受験では地元にある公立の進学校を受験していた。若干自信家の面がある彼女にとっては、遠方にある南葉高校なぞにまず進学することはないだろう、とタカをくくっていたのだ。あくまで滑り止めであり、そして滑ることはあり得ないだろうという自信があった。
ところがそうした慢心が試験に影響が出たのか、もしくは神から与えられた試練か。見事に不合格となった彼女は、南葉高校に通う羽目になってしまった。往復六時間の道のりを毎日通うのかと、夢にまで見た高校生活を目前に早くも暗澹とした気持ちになったが、事情を知った柚葵の「みどちゃんもウチに住めばいいよ!」という提案により、南葉高校と同じ地域に建つ口原家に高校三年間居候する運びとなった。通学時間はスカイレールと徒歩で二十分という大幅な時間短縮を達成でき、加えて気心知れた従姉が近くにいることは心強くもあり、翠にとっては結果オーライの形になった。
その翠にとっての従姉である口原柚葵の印象は、「明るくて面白いが、えらい変わり者」という言葉に片付けられる。どういう訳か家庭用ロボットシュワルセナを溺愛し、実の身内か恋人のように扱うその様は、過保護とも言えるし、愛情の間違った方向への供給とも例えられた。お人形遊びで人形に話しかけるとか、髪を梳かしてあげるとか、そうした範疇なら分かる行動をはるかに超越しているのだ。主に一緒にお風呂に入ったり電源が切れたセナに添い寝をしたり、バイト代を九割メンテナンス代にほとんどつぎ込んだり。簡単に言えば「やりすぎ」なのではないかと言う話だ。ロボット=単なる機械という人類の大多数の思考に従っている翠の瞳に、柚葵の言動はやはり奇妙に映るのだった。
「昨日、夢ってわけじゃないんだけどね」
「んー?」
セナへのセクハラめいた朝の挨拶をひとしきりすませた後、朝食をせわしなく食べながら柚葵が口を開いた。翠は食後の無糖紅茶をすすりながら、柚葵の話を片手間に朝のニュースをザッピングしている。
「奇妙な体験をしました」
「……マジで? 幽霊でも見た?」
「それに近いというか、何と言うか」
翠がカッと柚葵の方を振り返った。超常現象とかUMAの類にはひどく興味がある彼女にとって、否が応にも惹かれる話題である。
「どこで、いつ? 何があった?」
ずい、ずい、ずい、と椅子ごと柚葵へ近づいていく。その強大な好奇心ゆえの機敏な動きは、さしもの柚葵も軽く引くありさまであった。
「いや……えっと……すっげぇ椅子がスケートを履いている様だったよ」
「そういうのいーから、何を見た?」
「あのね」
「うんうん」
「……セナが喋りました」
一瞬間が開いたのち。翠はまさにベタなギャグ漫画の様に椅子からズデンと転がり落ちた。そして、しばらく足をヒクヒクさせたのちにさっそうと立ち上がる。
「柚葵、サイテー。アタシのトキメキを返して」
最高にクールで冷たい表情を作り、まるで本気で柚葵を蔑むような目線を送る。柚葵はわずかながら恐れおののき、思わず椅子から立ち上がった。
「だってほんとなんだよ! いや、本当っていうかなんて言うか……!」
「ふん。安っぽい都市伝説じゃあるまいし。ま、妄想の延長線上かなんかでしょ」
「そ、そうじゃなくて……私だって夢なのかと思ったけど! でも! でも昨日の夜セナがそこで横になってテレビ見てたの!」
「アホか」
「ほんとだって……!」
「どうせならもっとマトモなネタをよこしなっての。さーて、ロボットバカはほっといて学校に行って来ましょうかね」
ぷい、と柚葵に背を向けて玄関へ向かおうとする翠であったが、ふと違和感を覚える。たびたび柚葵の「セナバカ」っぷりを見たり聞かされたりする柚葵は、その都度こうして柚葵のセナへの想いを茶化すことがお約束なのだ。カップルのラブラブおノロケ話をあからさまに聞き流す、という感覚に近いかもしれない。
そしていつもであれば、『貴様を妹と認めた覚えはねぇー!!』等芝居がかった台詞と共にドロップキックの一発でもかましてくる柚葵である。しかし今回に限り、そのようなアクションを起こす気配がないと背中で感じ取ったのだ。
翠が振り返ると、そこには向こう数年は見ていないであろう、従姉の泣き顔があった。
「な……ど、どーした急に……」
「うぐっ……ホントっ、なの、にぃっ……!」
予想外の展開に翠は狼狽し、一方ぼろぼろと目から零れ落ちる涙を制服の袖で拭う柚葵の姿は、まるきり子供のようだった。
例え夢でも幻覚でも、大好きなロボットが自分の名前を呼び、お互いコミュニケーションを取れたという昨夜の出来事は、セナを長年愛し続けてきた柚葵にとって何物にも代えられない思い出なのだ。それを面と向かって、『妄想の延長線上』などという一言で片づけた上、冗談とはいえ全く相手にしない、小馬鹿にしたような態度を取る翠に対し、柚葵は大好きな実の従妹にかつてないほど強烈な怒りが沸き立ちそうになっていた。しかし、現時点でセナは普段通りのごく普通のロボットとして働いているし、翠が言っていること自体はその通り、安っぽい都市伝説……感情発火でも起こさない限りあり得ない話なのだ。
柚葵の心には、次第に無性に悔しい思いが現れた。セナのあの感情がこもった声。「柚葵」と名を呼んだこと。自分の事をちゃんと知っていてくれたこと。それらを証明したくても、所詮は自分が見た夢か幻なのだ。ロボットが主人に感情を持って接するなんてあり得ない。やはり、夢か幻覚か。寝ぼけていたのかもしれない。
そう思うと、二度とあの体験をできないという確信めいた考えが頭の中を巡り、同時に超常現象的なものに目が無い翠にセナが喋った体験を少しでも伝えたい、なんて考えていた柚葵は、その翠のまるきり相手にしないというような態度(重ねて言うが翠にとっていつも通り、お約束の冗談である)を見せられたこともショックな事ではあった。
諸々の考えが、どうにもならない悲しさとか、様々な感情を呼び起こし、ついには涙腺が飽和状態となってしまったのだ。
「えっ、いやごめんって。そんな泣かなくても」
「ううぅっ……だっでぇ、セナ。私の事、ひっ、わがってるって……なま、ひぐっ……名前、呼んで、くれたんだっで……!」
「おおお、よしよし」
思いもよらぬ従姉の涙に、思わず抱きしめ、子供をあやすように背中を撫でる。
一方で、これほど感情的になるということは、本当にセナが喋ったのだろうかという疑念が自然と生まれる。
「……柚葵。本当にセナが喋ったの?」
まだ嗚咽が落ち着かない柚葵は、その問いにコク、と首を縦に振るだけだった。
「ちょっと待っててね」
翠は居間の掃除をしているセナのもとへ向かおうとする。翠の行動を察した柚葵はすぐに後を追った。居間ではセナがいつものように、ベランダの窓を拭いていた。
「セナさんおはよう」
「……」
「ねー、アンタのご主人が泣いてるよー」
「……」
「可哀想にねぇ。アンタと喋りたくてたまんないんだって」
「……」
「……ブアイソな奴」
ぷい、とセナに背を向ける。柚葵は涙こそ止まっているが、まだすんすんと鼻水をすすり、時折ふぅと口から息を漏らしていた。
いつも明るくふるまっている柚葵にしてこの状態なので、居間は暗く、澱んだ空気に包まれていた。翠はこういった雰囲気が妙に苦手であった。友達数人と遊んでいて、何かのきっかけに一人が怒ったり泣きだしたりしたときの何とも言えない気まずい空気というのが、どうしても耐えられないのだ。今まさに、それと似たような空気が二人と一台を支配していた。
何とかこの空気を打開しようと、翠は簡単に言えば「ふざける」ことにした。柚葵のそばに立ってぐい、と抱き寄せる。
「……みどちゃん?」
「柚葵。聞いて」
耳元で囁くように柚葵に語り掛ける。ふと目線をセナに向けるが、相変わらず窓ふきに集中している。
「アタシ、あんたの事がずっと好きだったの」
「……へっ?」
思いもよらぬ告白にぎくりとする柚葵。翠はより強く柚葵を抱きしめ、愛の告白を続ける。
「あのロボットの事がそんなに好きなのかって思うと、もう我慢できなくなっちゃった」
「い、いやいやみどちゃん。待って待っでゅわっ!?」
少し抵抗を試みるが無駄であった。翠は体育の授業で習ったばかりの大内刈りを使い、柚葵を強引に押し倒した。柚葵の両手を頭上でまとめ上げ、馬乗りになる。
「あのロボットの事、今日は忘れさせてあ・げ・る」
ご飯にする? お風呂にする? それとも……というトーンで話す翠。そのおふざけに思わず柚葵は笑みがこぼれた。同時に十分な抵抗が出来る状態ではなくなったこともあり、従妹の妙な劇団に付き合うことにした。
「そ、そんな。嘘! やだぁっ!! どうしたの急に!」
大げさな芝居で抵抗をする。その顔には、いつもと変わらぬ笑顔が戻っていた。それを見て安堵した翠も、思わず調子を上げた。
「大人しくしろー! 大丈夫悪いようにはしないから! 先っちょだけだから!!」
「セナ! 助けてぇ!!」
「またあのロボットの名を……!」
ここまで来て、不意に翠が柚葵の拘束を解いた。それは解いた、というよりは解かされたといった方が正しい。
柚葵の視界から、従妹の今まで幾度となく見てきた笑顔が一瞬で消えた。そして一瞬、翠が何者かの手によって突き飛ばされ、居間の扉を突き破り、廊下で目を回しているのを理解した。
代わりに視界にいるのは、柚葵にとって世界で最も大切なロボット。顔は無表情だが、どこかに静かな怒りを堪えている様にも見える。感情を持ったその表情は、赤色に輝くその瞳以外、昨夜柚葵が見たものと変わらなかった。
「セ、ナ……?」
驚きのあまり、囁くような小さな声でそう話しかける。セナは一瞬しまったというような表情を見せる。変えたばかりの声帯装置が奏でるあのクールな音色で、やがて柚葵に話しかけた。
「別に、柚葵がピンチだと思っただけで……その。無視してたわけじゃないけど、ちょっと反応が楽しかったから、何ていうか」
バツが悪そうにごにょごにょと喋るセナ。その姿を見た瞬間、柚葵の視界がまたぼんやりとぶれ始めた。
「セナ……セナっ……」
立ち上がり、セナを抱きしめる柚葵。いつもより温かく、そして力強かった。
「……何?」
セナも腰に両手を回して、控えめに抱きしめる。
「夢じゃ、ないよね」
「ん……」
目を赤くしながら、自分より五センチ高いセナの瞳を見上げる。まるきりだらしなく、それでいてつられてこちらもつい口角が上がってしまうような柚葵の満面の笑顔。そのスマイルに応えるようにセナも少し表情を崩して、わずからながら微笑んだ。
「その顔、昨日見た夢にそっくり」
「……朝のアレ、うっとおしかったんだけど」
「えー、分かってたんだ」
「だって、相手にするのもめんどくさい。言ったでしょ、朝っぱらからそういうのやめてって」
「だからって、あんなに無視することないじゃない」
「ん……まぁ……ちょっと反応が可愛かったから」
「……やだぁ。なんか恥ずかし」
そして抱き合いながら、少しばかり無言の時間が訪れた。指、腕、胸、腹部……様々なところから、セナにとっての主人、そして柚葵にとってのロボットであるお互いが長年抱き続けた温かく、安らぎに満ちた愛情の様なものを感じる。
やがて柚葵が、何も言わずセナの頬に手を添え、ゆっくりと唇を近づけた。自分が今できる最大級の愛情表現をしたいと考えた彼女の、精一杯の行動だった。
セナはその行為の意味するところを知ってるのかは分からない。ただ、決して拒もうとはしなかった。柚葵の心臓はばくばくと激しく脈打ち、セナもコンピュータが焼き付きそうな感覚に襲われる。
が。
「おいおいおい!! 何で!? どーして!?」
実にグッド(バッド)なタイミングで目を覚ました翠の素っ頓狂な叫び声に、思わず二人は驚いて顔をそちらに向ける。翠が新しいおもちゃを手にした子供のように目を輝かせて、セナに抱き付いた。その衝撃で二人は柚葵を取り残し床にどしゃんと転ぶ形となった。
「セナが喋ってるよ! 嘘でしょちょっと、何があったキミ! やばいってこれやばいって! うわっははは! あーっはっはっは!!」
「うぎぎ、やめりょ、はふぁしなふぁい!!」
セナの頬をぐにぐに引っ張りながら歓喜する翠を、無理矢理引っぺがそうとするセナ。その光景を見ていた柚葵は、いつもなら自分が翠のポジションにいるのに、というちょっとした嫉妬の様なものを覚えていた。同時に、どこかほほえましいその光景に自分も参加したいと感じて、二人の輪の中に飛び込む。
「やめてってば! 暑苦しい! もう!」
「やだやだ! 離さないんだから!」
「ああっ! ずるいぞ柚葵!」
「なにがずるいだ! お前のような者にセナは渡さんぞ!」
「にゃにおう!!」
「だーかーらー! やめなさい!!」
ここからたっぷり三十分少々、口原家歴代史上最大のバカ騒ぎは続いた。長年セナに愛情を注ぎ続けた柚葵にとっても、生粋のオカルトマニアである翠にとっても、夢のような時間であった。