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緑色の瞳

 びしょ濡れの体を横たえて、希衣子は玄関のたたきに腰かけたまま横になって、いつの間にか眠っていた。梅雨時特有のじめじめした不快な気候もさながら、濡れた体が外気に触れて、不快感が全身で蠢いている。まだ自分なんてどうとでもなれという自暴自棄の気持ちに支配されている彼女は、このまま眠ってしまっていつの間にか天国に行けたら、という夢想じみた願望を懲りず再び頭に描きながら、ほんの少し芽生えていた眠気を無理やり呼び起こすように目を閉じた。夢は見なかったが、眠りに落ちかける直前、ほんの一瞬だけ父親の事。顔も知らない母親の事。そして自分にとって最も身近にいた、テルーの顔を思い浮かべながら浅い眠りについた。

 ほんの十数分ほど経った頃。ふと再び目を開いた時、希衣子は自分の体に生じている違和感を咄嗟に感じ取った。まず体が宙に浮いている感覚、そして背中と両足のひざ裏の異物感。何者かに抱きかかえられていると気づいた時、思わず小さく身構えた。しかし眼の前に二つ輝く緑色の光の正体を見て希衣子は我が目を疑った。希衣子自身の体を抱きかかえ、どこかへ運んでいるその人物こそ、大島家の家庭用ロボットテルーだったのだ。しかしロボットというものは基本的に命令をしなければ動かない。雨音か、もしくは何かしら偶発的に起きた音が原因で誤作動を起こしたのだろうか、と希衣子は薄ぼんやりした頭で考えたが、何より彼女を困惑させたのは緑色に輝くテルーの瞳だった。ロボットの瞳の色は正常である事を示す青、充電が少なくなっていることを示すオレンジ、故障など異常が起きていることを示すオレンジの点滅。これら意外にロボットの瞳に備わっているアクションは無いはずだ。寝ぼけているのだろうかと希衣子は考えたが、脳が覚醒してゆくにつれ、やはりこれは疑いようのない現実であることを悟った。そして希衣子が目覚めたことに気付いたテルーはわずかに首を希衣子の方に向け、ゆっくりとほほ笑んだ。

「希衣子、おはよう」

 合成音声には無機質な要素は無く、まさに人間が話しているかのように表現豊かだった。家庭用ロボットが命令もせずに動き、さらに挨拶までした。そんな目の前の現実を希衣子はまだ信じられなかったが、心の底から湧き上がる困惑と好奇心が重なり、無意識のうちに思わずテルーに話しかけてしまった。

「テルー……」

 名前を呼び、何でもいい、何か続けて言おうとした瞬間。テルーは希衣子を足からゆっくりと床に下ろした。目の前には浴室の扉があり、隙間からは光が漏れていた。

「一緒にお風呂に入るましょ。風邪ひいちゃうでしょう」

 友達か、恋人か。そんな存在に話すような柔らかく棘のない声。ただの合成音声が、希衣子にとっては傷ついた心を少しずつ修復してくれる魔法のように染みた。希衣子の手を引き、二人は浴室の光りの中へ向かっていった。


 温かい湯気に包まれた浴室には、アロマテラピー効果がある蝶が飛び交っていた。テルーは防水処理が施されているとはいえ、湯につかるのは何かしらの不具合に繋がるかもしれないという懸念からか、希衣子が湯船につかっている間は風呂椅子に腰を下ろしていた。希衣子はというと、テルーにどう接してよいのかがまだ分からず、内心謎の緊張感のようなものがあった。

 今まで何かと八つ当たり気味に接してきたこと、自分が彼女に「私を殺して」と哀願したこと。それらを果たしてテルーは覚えているのだろうか。まず、何故急に喋り、笑い、テルーの意思で行動をするようになったのか。腕の生々しいアームカットの傷痕が湯に染み、ジンジンと痛み出す。が、アロマの心地よい香りに包まれ、温かい湯につかっているうちに、腕の痛みも気持ちも少し落ち着きを取り戻してきた。

 冷静になればなるほどテルーに対するクエスチョンマークが頭の中で狂ったように飛び跳ねている。何から喋ろうかと考えながらテルーに目配せをすると、テルーはそれを察知したのか自ら口を開き始めた。

「私にもどうしてなのか分からないけどね。さっき……ちょうど大きい雷が鳴ったの覚えてる?」

「……うん」

「あの時、動けるようになったの。頭の回路にちょっとぴりって衝撃が来て、そこから。自分で考えて、自分で動いたり、笑ったりすることができるの。おかしいよね、ロボットなのに」

 テルーは時折身振り手振りを交えながら、感情豊かに希衣子に事の顛末を語る。最近あったおかしな出来事を友達に喋りたくてたまらない、そんな嬉しげな気持ちさえ伝わってきて、希衣子は一瞬テルーがロボットであることに疑問を抱かざるを得ない様な、何とも信じられない気持ちになった。しかしテルーが人間のようにふるまえるようになったその根拠たるものは分からない。ただ分かる事は、あの希衣子が身の危険を感じた、街の停電を誘発した巨大な雷が何かしら関係しているという事だ。

「感情発火なのかな。それって」

 ロボットに感情を生み出すバグが何かしらの原因で生じ、結果邪険に扱ってきた主人に殺害という形で復讐をする。一昔前に流行った都市伝説だ。

「そうかもね。でももう都市伝説なんかじゃないよ。現に私がここにいるもの」

 テルーが胸を張って、にこやかに答えた。

「それにね、私はこうして希衣子とお喋りできるようになったことが嬉しいの」

「えっ……」

 嬉しそうに話すテルーの、何気ない「嬉しい」という言葉に思わず小さく心が躍った希衣子だったが、その反面希衣子の心には、今日までのテルーへの乱雑な扱いがまざまざと思い起こされていた。何かあれば攻撃し、その黒い感情の全てをぶつけてきたただの家庭用ロボット。それが今こうして、どうしたメカニズムか分からないが自らの意志で動き、喋り、考えている。テルーの穏やかで主人である希衣子を心の底から愛しているような立ち振る舞いは、実は演技であり、今にもテルーに何か仕返しをされるのではないかという恐怖感が、希衣子の心の片隅に確かに存在していた。実際、「感情発火」の都市伝説も主人への不満を蓄積されたロボットが主人を殺す。そんな内容なのである。故に希衣子は何かとてつもなく酷いことをされるのではないか、という怖れのようなものを抱いていたのである。


 しかし、その希衣子の気持ちはいい意味で裏切られた。


 テルーは「ゆっくりお風呂に入ってて」と先に風呂場から出て行った。何か裏があるのではと勘繰らざるを得ない希衣子は風呂から上がり、体をジェットドライヤー(一瞬で全身が乾く近未来型ドライヤー)で乾かした。すぐに脱衣場から出ると、何やらとても甘い、脳をとろけさせるような幸福感に包まれた匂いを感じて、蜜に誘われる蝶のごとく台所につい足を運んでしまった。

「あ、もう上がったの?」

 テルーはまた、見る人を安心させる麗しい笑顔で、ホットプレートであるものを焼いていた。甘い匂いの正体はホットケーキ。それは希衣子の好物の一つであった。暖かい香りに導かれて、台所のテーブルに腰かけた。皿に盛られた三枚のホットケーキの上にはシロップとバターがよい塩梅で溶けて、見るだけで涎が滴り落ちそうだった。

「今日は希衣子が一番好きなものにしたの。おいしそうでしょう?」

 混ぜている時にはねたのか、ホットケーキの生地を頬につけながらテルーは満足げにはにかんだ。

「た、食べても、いい?」

 またぎこちなく話すと、テルーは心底不思議そうにきょとんとした顔をしながら、「どうぞ」と皿を希衣子に近づける。ふっくらと焼きあがった美味しそうなホットケーキを、希衣子は一口かじった。これまで食べたどんなものよりも美味で、活動の原動力というか、生きる為のエネルギーのようなものが体の芯からグングン湧き上がるのを感じた。こんな気持ちは、希衣子は久しく感じたことは無かった。同時に、自身の荒れ果てた対外的心情に、わずかながら希望に満ちた暖かい風が吹いたのを確かに感じた。今まで誰にも相手にされず、ただ自暴自棄になり続けた自分を唯一見てくれた者がここにいる。単純ではあるが、確かなものと思いたい。テルーに対する信頼のような、友情のような、愛情のような……とても甘美な気持ちを確かに感じる。そしてその気持ちに気付いた時、自然とまた希衣子の頬から涙が伝った。

「また泣いちゃって、もう」

「てるっ……テルー……わ、たしだって、あなたのことっ……ひ、酷いことっ、し、したのにっ……」

 希衣子の涙にすぐ気づき、その涙を自らの指で拭うテルーの姿がとても眩しい。絶え間ない嗚咽の中で、希衣子は途切れ途切れにテルーにその想いを必死に伝えた。

「なぁに? 今まで私をボコボコにしたこと、気にしてるの?」

 ぐっと希衣子を引き寄せ、頭を抱き寄せる。希衣子は喋ることもままならず、呼吸困難になりそうな勢いで泣き続けながら、それでもテルーに対する感謝というか、甘酸っぱい愛の告白のような言葉をテルーに伝え続ける。その間、テルーはずっと希衣子を抱きながら、背中をゆっくり撫で続けた。その緑色の瞳には希衣子への愛。感情の無い家庭用ロボットには芽生えるはずのない愛が確かに存在していた。

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