二〇六四年六月六日午前七時五十五分 口原柚葵(ロボット・シュワルセナ)
「ねぇ、セナ。やっぱり声が変だね」
口原柚葵は玄関先で、見送りに来た家庭用ロボット、シュワルセナにそう語りかけた。いつもと変わらぬ凛々しくも感情の起伏に乏しいフェイスが主人を見つめる。ここ最近柚葵のセナに対する違和感は強いものがあった。合成音声が妙にこもって聞こえるし、時には声が途切れることもある。
「今度雫さんにメンテナンスしてもらおっか」
柚葵はセナの頬に手を当てながら、恋人か親友の体調を気遣うように話す。ぽん、と肩を叩いて「行ってきます」と玄関の扉を開けると、「いってら、ませ」とこれまでの不調を確信させるような音声でセナは柚葵を見送った。
「おかーさーん!」
この「いってら、ませ」という音声を聞いた瞬間、柚葵は閉まりかけた玄関の扉を開け、母親を大声で呼んだ。
「なーに? 忘れ物?」
母親がドタドタと廊下の突き当りにある居間に繋がる扉を開け、廊下を駆けてくる。今日はお菓子屋のパートが非番であり、午後から茶飲み友達と久々にお茶会をするというので、否が応でもそのウキウキした感情が伝わってきた。
「ううん、今日できたら雫さんにセナのメンテお願いしておいてくれないかな? お金は後で払いに行くから」
「あら。そういえば最近、ちょっと調子が悪いものねセナちゃん。今から電話しておこうかしら」
母親が快く引き受けてくれたことで、柚葵は破顔一笑。
「ありがと! じゃあよろしくね!」
「今日は雨だから、気を付けるんだよ」
「わかってるー!」
柚葵は今度こそしっかりと扉を閉めて、軽快な足取りで駅へと向かった。
「メンテ代一回三万二千円なんて、もう買い換えたら?」
「んぐっ!?」
親友の五十嵐早苗にあきれ顔でそう言われると、思わず食べていたハンバーグがのどに詰まりそうになって、ぐっと半ば丸呑みに近い形で飲み込んだ。
「ふぅっ……な、なにをおっしゃる! あたしにとって大切な子なんだから」
昼時、柚葵と早苗は二人で昼食を取ることが多い。小学校高学年から、共通の友人を通していつしか二人ワンセットの友人関係に至ったクチではあるが、共通の趣味があるとかそういった理由はなく、簡単に言えば「ウマが合う」という理由で仲が良い。しかし面白いことに二人の性格は真反対といっても良かった。早苗は基本的に無表情でどこか冷めているくせに、時によく分からないギャグを言ったり変な行動をとることがある。対して柚葵は明るくてクラスのムードメーカのような存在ではあるが、実はかなりの心配性であり、何か良くないことが起こった時やプレッシャーを感じた場面の豆腐メンタルぶりは尋常ではない。そんな二人だが、基本的には柚葵が早苗を引っ張る形で過ごすことが多い。この双葉高校への受験を誘ったのも柚葵であったし、今日も昼食は学食にしようと提案したのも柚葵の方だった。
「分かんないね。買い換えたほうが早いじゃない」
早苗はオムライスをスプーンで口に運びながら、わざと挑発するような口ぶりで答える。すると柚葵は自分のハンバーグ定食についてくるじゃがいもの煮っ転がしをつついていた箸で、早苗のまだほとんど手を付けていない、綺麗な楕円の形をしたオムライスをちょうど真ん中のところで真っ二つに切断した。
「何をする」
上目づかいで柚葵を睨む。
「制裁。セナを否定するのは許さん」
「はぁ……大変失礼しました」
箸についたケチャップを舐める。狂気の殺人犯が返り血の付いたナイフを味わうような仕草に思わず早苗は苦笑した。割られたオムライスから湯気がほわりと立ちのぼって、そこからスプーンで少しずつ崩しながら食べ進める。
先ほどから早苗があきれるのは、言わずもがな口原家に仕える家庭用ロボット、セナに対する柚葵の異常なまでの愛についてだ。今までも「セナがちょっと汚れていたから一緒にお風呂に入った」とか、「充電中セナが寂しそうだったから夜添い寝してあげた」などというおおよそ常人が家庭用ロボットに対してはまず行わないであろう奇妙な行動を暴露されることは多々あった。しかしロボットというのは車の車検と同じようなもので、ガタが来るほど直すところも多く、そのためメンテナンス代はバカにならない。セナは最も古い型であり、機械に疎い気質がある口原家では買ってからの五年間、必要最低限のメンテナンスも行わないままセナを働かせていた。十年ちょっとが経った現在では至る所でガタが来ていて、焼け石に水と言った具合なのだ。今日の朝の音声の不調もその一つである。
そのたまにあるメンテナンスの代金に、柚葵は週三日ほどの駅前の喫茶店のアルバイト代のほとんどをつぎ込んでいるというので、根がどちらかと言えば倹約に偏る早苗にとっては単なる効率の悪い、一種の浪費にしか思えないのだった。
「実際さ、ロボットなんて新しいの買い換えればいいじゃん。今なら型落ち新品で十数万って所でしょ? メンテンスフリーでも二十年とか行けるかもよ?」
「違うの。セナがいいの! セナの代わりなんていないの!!」
やけ食い気味にハンバーグ定食を平らげる柚葵。ふと早苗は何故柚葵が、単なる家庭用ロボットに過ぎないセナをこれほど大切に扱っているのか知らないという事実に気付いた。特別思い入れがあるというエピソードなどは聞いた覚えが無かったのだ。
「……改めて聞きたいんだけど」
「ん?」
「あんたのその……愛しのセナちゃんへの異常な愛情はどっから湧いてくんの?」
「あ……それはね」
柚葵はその時、妙に悲しげな表情を浮かべた。思い出したく無いような事を思い出させてしまっただろうかと、早苗は少し申し訳ない気持ちになった。しかし柚葵は、無理矢理気味の笑顔を作って話をつづけた。
「あたしの家、お父さんとお母さん共働きだから、どっちも帰りが遅いと夜は家にセナと二人きりなんだよね。だから寂しくて……それでセナに話しかけたり。お人形ごっこみたいな感じ? セナちゃんも一緒にご飯食べようよ、とか」
「おいおい泣かせるな」
冗談とかではなく、純粋に早苗はそう思って眉をハの字に下げた。柚葵は幼少期を懐かしんでいる様子で、大分ぬるくなったコーヒーを一口飲む。
「セナって五歳とかそこらのあたしから見ればすごい大人で、もう見た目とか人間と変わらないわけだし。何となく心強かったんだよね。そう。だから今でもお姉ちゃんって感じで見ちゃうし。壊れたらお葬式とかあげたいと思うね」
「いやいや前言撤回。これまで柚葵の事、ロボットに欲情している変態だと思っていた自分を恥じる」
「な、何が欲情じゃ! 制裁! 制裁ッ!!」
無駄に神妙な面持ちで頭を下げる早苗に対し、柚葵は今度は早苗のオムライスについてきた丸く形どられたポテトサラダを箸で四等分し始めた。その顔がなぜ赤面しているのかは柚葵にはよく分からなかったが、早苗はその赤い照れ顔を見た瞬間、「コイツは本当に無自覚にセナちゃんに恋してるのではなかろうか」という先ほどのエピソードから考えればあながち冗談にも思えない仮説を脳内で組み立てるのだった。
名ばかり美術部員の柚葵と早苗は怪しい空模様を考えて早々に学校を後にしようと考えていたが、学習委員長の坂戸頼子に捕まったのが運の尽きだった。頼子と柚葵、早苗は同じ中学出身で仲は良いが、高校に入ってから野球部のマネージャーに加えて生徒会や学習委員長なるクラスの役職に就いて忙しく過ごす彼女と二人は少し疎遠になっていた。元々「勉強が好き」という稀代の思想を持った頼子は根っから真面目な性格であり、友人との遊びより勉学を優先させるスタンスを持っている。それは「のんびり楽に生き、勉強はやる気があればやる」スタイルの柚葵と早苗にとっては半ば理解しがたいものであった。放課後に遊びに行くことは高校に入ってからの二カ月間では、入学式終了後に柚葵のバイト先の喫茶店でサンドイッチを食べた後に日が暮れるまで喋り続けた、その一日だけであった。最近では廊下ですれ違った時に挨拶や世間話をする程度の関係になっていたが、今日に限って放課後、帰り支度をしていた二人を立て続けに頼子が呼び止めた。
「サナ、ユズ。お帰りのところ申し訳ないけどいーかな?」
頼子は神妙な面持ち二人の前に立っている。手には大きいサイズのプリントが数枚握られていた。
「ん?」
「どったのヨリー?」
「二人だけだよ。先週出た数学の宿題出してないの」
「あ」
「げっ」
二人はそろって「しまった」という顔をした。数学教師の原田はこの学校で厳しい教諭の部類に入る。毎週宿題を鬼のように出し、出さない生徒は数学の総合評価を下げるという情け容赦ない裁定を下すのだ。ただ、宿題を出さない生徒には自分もしくは学習委員長である頼子を経由して警告することがあるので、その時は何とか宿題を終わらせて評価を得ようとする学生が必ずいるのである。
柚葵と早苗は先週に配られた宿題プリントを、特に何も考えず「明日一緒にやろう」と考えながらそのまま存在を忘れ去り、いつの間にか一週間が経っていたのだ。
「やばいめっちゃやるの忘れてた」
柚葵が頭を掻きながら顔をしかめた。早苗もすっかり意気消沈して、机にもたれかかっている。
「もう原田先生に催促されちゃって、今日持ってきたらそれなりの評価はしてやるって。はい」
頼子は手に収まっていた宿題プリントを二人にそれぞれ手渡す。
「今からやれば間に合うかな? サナちゃん」
「いやぁ我々の頭脳ではどうにもしようがありませんなぁ、ユズ」
「どうしようね」
「誰か手伝ってくれないかな」
「ねぇ……」
「ねぇ……」
二人揃ってチラリと横目で頼子を伺うが、頼子は二人の物欲しげな目線を遮断するようにくるりと背を向け「それじゃ頑張ってね」と手を振りながら教室を後にしようとした。
「おねげぇです! 手伝ってくんなまし!」
柚葵はプライドを捨て去った格好で、無様に頼子の足にしがみついて哀願する。
「知った事ではない。触れるな下民が」
頼子も柚葵のノリに合わせる形で、乱暴に足を振って柚葵の手を振りほどいた。
「それでも学習委員長か。弱者に背を向けるなど……」
早苗も柚葵に加勢し、頼子の前に立ちふさがって厳しい口調で問い詰める。頼子は小声で「何よこの時代劇は」とツッコミながら、またくるりと今度は正面を向いた。
「まぁ……二人とはちょっと最近話してなかったし。ちょっと手伝うくらいならいいよ」
照れ笑いを浮かべながらそう答える頼子が、柚葵と早苗には眩しかった。
それからきっかり三十分。プリントを全て解き終え、原田に多少の叱責を受けながらも何とか無事提出することができた。しかしその代償は大きかった。高校から歩いて十五分。最寄りの駅に着いた時、新潟スカイレールは全面運休、エアーバス乗り場は長蛇の列ができていた。
「これはもう帰れないかもなぁ」
スカイレールの乗り場まで向かう高速エレベーターに乗り込んだ際、エレベーター内の人口密度を肌で感じながら、早苗はそう話した。柚葵も半ば諦めにも似た気持ちを持ちながら、心のどこかで「もしかしたら案外動いているかも」と期待を寄せていた。
しかしある意味予想通り、スカイレールは激しい雷雨による全面運休。地上の電車線はかろうじて動いているらしいが、それも一時間以上遅延しているという情報を駅構内のホログラムの掲示板によって知ると、二人は顔を見合わせて、大きくため息をついた。結局最終手段として、早苗がなんとか七つ上の姉の瞳に連絡をとり、コンビニのアイス二百円分を引き換えに車で迎えに来てもらう事で決着がついた。
「お帰りなさい」
「おっ、いい感じじゃん、セナ!」
瞳と早苗に恭しく感謝の意を述べたのち、家の前で出迎えてくれたのは、見違えるほど声に濁り、混じり気がなくなった、いつものセナであった。穢れやネガティブなモノを一切排除した素敵な声で迎えられ、柚葵は靴の中まで浸透した雨水の不快感とか、今度の数学の宿題とか、そういった日常の些細な憂鬱も全快したセナの前では霞んでしまう。
「メンテナンス代、今度はちょっと高いよ。とりあえず立て替えておいたから」
「うん。明日お金おろしてくるよ」
母親がテーブルの上に置かれた請求書に目を向ける。請求書にはしめて三万一千円。古い型故、声帯装置の取り寄せが思ったより大変だったらしい、というのが母親の話だ。
「ほんと、買い換えればこんな出費しなくて済むのにねぇ」
母親のボヤキは、柚葵の耳に届くことは無かった。うっとりしたような目でセナを見やる柚葵は、すっかりセナが回復した満足感に包まれていた。同時に、瞳に無理を言ってホームセンターまで寄ってもらい、いつもより高いエナジーオイルを買っておくべきだったというちょっとした後悔も生まれていた。ロボットにとって人間の血液とも言えるエナジーオイル。人間と寸分違わない高精度でスムーズな動きを実現させるためにビーイング社が開発した、簡単に言えば燃料である。これは質が高ければ高いほど寿命は延びるし、逆に質が低いと動きが鈍くなったり、寿命が多少変動することもある。セナを想う気持ちは誰よりも強い柚葵にとって、セナにいつもの一本四五〇円のスタンダードなエナジーオイルではなく、退院祝いのような気持ちをこめて一本一二〇〇円近くする最上級のエナジーオイルを与えることは何一つ不自然な事ではなかった。明日買ってきてあげようと決意を固め、セナの感情表現に乏しい顔をゆったりと眺めると、自然を頬が緩むのを抑えきれなかった。
夕食を食べ、自室へ戻った柚葵はベッドに横たわると目を閉じ、いつの間にか眠りについていた。柚葵は夢を見ていた。夢の中で柚葵は、ぼんやりと居間のソファに横になっていた。暖かい午後の気怠い雰囲気に包まれながらゆったりまどろむ柚葵の横に、優しく微笑む女性が一人佇んでいる。それはセナのよく知る人であり、またそれは人とは呼ぶものではない存在であった。
夢の中の柚葵は、ふと何故彼女が笑っているのか疑問に思い、口を開いた。
「セナ? どうしたの?」
夢の中のセナは何も言わない。柚葵の横に相変わらず凛とした雰囲気で立ち続けている。目を少し細めて、慈愛の表情を浮かべるセナは初めて見る光景であり、柚葵はまたそれにえらくドキドキしていた。
時空を切り裂くような衝撃が柚葵を揺らし、起き上がると目を閉じていないにもかかわらず目の前が真っ暗だった。停電だと直感したが、すぐにそれは復旧したので、思わず安堵の息を漏らす。時計は夜の九時を過ぎていて、まだ寝起きの薄ぼんやりとした頭を無理やり抱き起し、風呂に入って歯を磨こうと自室を出て行った。