謎の影
午前一時半頃であった。すっかりアルコールに支配され、麻痺した脳に、一階工場からの直通電話の音が響く。
修理受付だろうか。雫は重たい身体を起こして電話を取った。しかし、雫が何か言おうとする前に、電話の向こうの麻美が切羽詰ったような声で切り出した。
「あの、店長。なんか変な人……というか、人かも分からないんですけど、とにかく変なんです。人が店先にずっと立ってて、不気味で……すみません。こんなことで起こしてしまって。でも、怖くて……」
ほとんど泣きそうな声で窮状を伝える麻美。雫は徐々に目がさえてきていた。いつも物静かな麻美が、このようなパニックに近い姿を見せることはまず無い。よほどの事象が、階下で起こっているに違いないと、雫は確信した。
「分かった。すぐに行くから」
そう言い残して雫は早々に電話を切ると、その店の前に立っている影とやらの正体が、たちの悪い酔っ払いの類であることを願いつつ、階段を下りる。階段の先には麻美が、恐怖に顔を引きつらせ、今にも泣きそうな表情で立ち尽くしていた。
「すみません、店長」
「大丈夫だよ。店先だっけ?」
「はい、そこに……」
二階と一階をつなぐ階段は工場にあり、工場と修理受付をする店頭はとは壁で仕切られていた。修理中に受付に来た客の声がすぐ聞こえるよう、工場と店頭の間の出入り口に扉はついていない。雫は工場からひょこ、と顔を出し、店頭の全面ガラス戸の出入り口を覗き見ると、思わず息を呑んだ。ガラス戸に映る、おそらく今まさにこの店先に立っているであろうその影は、明らかに奇妙であった。左足がグラグラと不安定に震えており、ほとんど右足一本で、まるで出来損ないの案山子の如くふらりふらりとしながらその場にたたずんでいた。
「何……?」
この世のものとは思えない妙な禍々しさを感じ、背筋に言いようの無い寒気を覚える。しかし、正体を確認しなければどうしようもないので、一歩足を踏み出して店頭のカウンターに前に立ち、改めて影の様子を窺おうとした時だった。謎の影は右手の拳を大きく振り上げるポーズをとると、思い切りガラス戸を殴った。ガラスはいとも簡単に砕け、辺り一面に飛び散る。
雫はすぐに身構えたが、割れたガラス戸から店内に入ってきた影の正体……外の街灯に照らされたその姿がまぎれも無い、さまざまな部品が欠落しオイル漏れが身体のあちこちで起きている、家庭用ロボットA-1型であることが分かると、思わず心の底の恐怖心と好奇心が拮抗し、一瞬その場に立ちつくしてしまった。
「私を直せ」
思わず耳をふさぎたくなる不愉快な合成音声で、ロボットが口を開いた。
「な、直せって。あなたは一体」
その瞬間、ロボットは目にも止まらぬ速さで雫の前に来、胸倉を掴むと、怒気を含んだ声で再度話す。
「直せ」
「っ……」
ぎらついたロボットの瞳は赤く、明確な殺意の色を含んでいる。雫は目の前の出来事が信じられなかった。ロボットが人を襲うなんて、まず考えられないことだ。
「て、店長」
店の奥から様子を窺っていた麻美の震え声が耳に入る。何とかこの状況を打開するためには、やはりこのロボットに従わなければならない。雫は、つとめて冷静に判断した。
「分かった。奥へ来て……」
落ち着いて答えたつもりだったが、やはり声は震えた。ロボットはさして何か訝ったりすることもなく、意外にも素直に雫を解放した。
「急げ。すぐにだ」
修理台に乗せられたロボットはクーナと名乗った。そして、すべての部品を完璧に治さなければ殺す、などと言うので、雫は細心の注意を払いながら、クーナのボディに点在する故障を直した。
所々剥がれ落ち、オイル漏れが起こっているボディパーツはロボット専用の強化補修パテで新しくパーツを作り直した。全身を巡るオイル管はボロボロで、雫はすぐに新しいエナジーオイルが入ったバックアップオイルボックスをクーナのボディに直接つなぎ、古くなったエナジーオイルとオイル管を新しいものに交換する。剥き出しになった電子回路の部分にはロボットの動作に影響が及びそうな傷やゴミの類が無いかきっちりチェックをした上で、万一のため防水、防塵コーティングを施す。
特に左足は、何かに思い切り引きちぎられたようなひどい傷口をしていたので、関節部品のパーツと電子回路の在庫を倉庫から取り出し、それらを取り付けることで対応した。充電も少なくなっていたので、念のため修理の間に充電もしておく。加えて、ほとんど全裸状態のクーナに、修理が終わった箇所から、ロボット用の、動作に影響が及びづらい新素材でできたTシャツとジーンズも着せた。
修理をしている間、雫は時たまクーナの顔色を窺ったが、その表情はさして穏やかではなく、かといって機嫌が悪そうにも見えない。何か複雑な色を持ったその表情をチラリチラリと見ては、いったい何者なのだろうかと、修理の手を必死に動かしつつ思案に暮れたが、結局のところ修理完了まで、その結論はつかずじまいだった。
最後に電子頭脳のクリーンアップをしようと、頭部にヘッドホン型のクリーンアップツールを装着した時であった。ツールの本体画面にerror7と表示され、動作がストップしてしまったのだ。error7とは、クリーンアップできないプログラムファイルが動作中という意味だ。
まさか、このロボットの正体とエラーにはなにか関係があるのではないか?
クーナは雫の考えがまとまらぬうちに起き上がり、修理箇所の具合を見ながら修理台から降りた。その表情は本当にわずかではあるが、満足げな様子だった。
「充電はいつまでもつんだ?」
クーナの相も変わらない不愉快な音声を聞き、雫はそう言えば声帯機能の修理をしていなかったと、内心焦りを覚えた。完璧に直さなければどうするか。目の前のロボットは、はっきり先ほど明言していた。
まずい。表情を固め、唇を噛みしめる雫であるが、幸いなことにクーナは自身の音声には全く触れず、むしろ質問にサッと答えないことの方に苛立ちを見せていた。
「早く答えろ」
「あ、えっと……一概には言えないけど、だいたい一日は」
「しばらく、充電なしで動けるようにしろ」
クーナはまた無理難題をふっかけてくるが、雫はちょうど、ロボットが自ら動くことで充電ができる、アウトドア用のロボット自力充電器が一つ、発注ミスにより倉庫に眠っていることを思い出した。
「少し待ってて」
そう言い残して倉庫から自力充電器を持ち出し、うすっぺらいリュックサック状のそれを取り付ける。
「一応、相応の日常的な動作をすれば、三十分動くごとにプラス十五分間動けるだけの充電がされるの。つまり、充電が減りづらくなるという……」
「細かいことはいい」
あっさりそう言うと、後は何も言わず、まさに何事もなかったかのように、それでいて修理箇所の具合を再度確かめるかのような軽快な動きで、見違えるように綺麗になった謎のロボットはさっさと店から出ていってしまった。嵐のような奇妙なロボットの襲来が終わり、雫は修理台にもたれ、ずるずると床に崩れ落ちる。店の奥で様子を窺っていた麻美が、震える自身の身体をおさえながら雫に歩み寄った。
「大丈夫ですか、店長」
「なんとか、大丈夫……」
「まさか。いや、まさかでなくても、さっきのロボットは紛れもない……ビーイング社の初期型家庭用ロボット」
「うん。それは間違いない」
二人は顔を見合わせ、しばらく沈黙した。
「……疲れているのかもしれないですね」
「そうだ、明日は臨時休業にしようか」
「そうですね」
「そうしよう」
ほとんど現実逃避に近いかたちで早々に話を切り上げると、麻美は先ほどの出来事の記憶を振り払うようにガラス片をせっせと片付け、雫は全てを忘れるべく再び酒をあおると、改めて眠りにつく。どう考えてもありえることではない非科学的な事象を目の当たりにして頭がパンクしそうになっていた二人は、今しがたの出来事について深く考えないという結論を、暗黙の了解という具合で導き出したのだ。
しかしわずか二十分後、再び穂村ロボット修理店に、二人と二台の来客は訪れたのだった。