二〇六四年 六月六日 午前六時十分 ヴェラ・キナメリ(ロボット・アイ)
コガイと呼ばれるその街は、新潟県の中心街の中で特に治安が悪い街とされている。元々は、約四十年ほど前に日本全体を襲った経済危機を契機にマフィアが流入し、多数の抗争が発展した場でもあった。その名残ともいうべきか、かつてない好景気と平和に包まれた現代の日本社会において、闇の一角と言えるダークな雰囲気を纏っている。
そのコガイの一角にある小さい平屋型のアパートにヴェラ・キナメリが帰宅したとき、すでに夜は明けきっていた。注射器や何かわからない液体と悪臭に包まれた裏路地に朝もやが漂う中、彼女のの細い影が音もなく揺れる。
現代では当たり前となった音声認識のパスコードを入力し、部屋に入る。八畳ほどの部屋には、ちょっとした本棚やホログラム型のテレビ以外には、ぽつりと真ん中に置かれた、ヴェラにとっての娯楽であるコタツが目立つのみだ。その部屋の手前にある台所の一角に立つ影。ヴェラが使う家庭用ロボット、アイの充電はいっぱいになっていた。アイの後頭部を探り、電源スイッチを入れると彼女の瞳は青く光った。
「ご飯作って。温かいものがいい」
彼女の言葉に反応し、アイが台所へと向かう。返事機能を設定でオフにしているため、音声の反応はせずにそれこそロボットらしく命令に従事するのだ。
アイを見送りながら、着ていた薄手のコートを脱ぐ。そして、留守中に何者かが侵入した形跡がないか一通り部屋の中を確認する。何者かが留守中に侵入して来た場合、アイの型番A-1型に搭載された警察通報機能が作動するところであるが、警察というものが仕事上もっとも厄介な存在であり、心底毛嫌いしている彼女にとって、その警察にお世話になる事はもってのほかであるため、通報機能をオフに設定している。そのため自らの命を狙うような輩が何かを仕掛けていないか、自らの手で確認しなければならないのだ。やがて何事もなくその作業を終えると、一直線にバスルームに入る。ほどよく湯が沸いたそこは、生来風呂好きのヴェラにとって得難いひと時であった。
艶やかな銀色のショートヘアには硝煙の匂いが染みつき、シャンプーの前にお湯を浴びれば、その匂いは水に流れ、蒸発し、否が応にも彼女の鼻孔をくすぐる。しかしその匂いも、何にかも、全ては湯に流されて、やがて自分が新しく生まれ変わったような、少しばかり爽快な心持になる。
ヴェラは今年の一月に十七となったばかりだったが、それを祝ってくれる家族や、友人の類が彼女には一切存在しない。それは生業でもある殺し屋と言う職業に縛られているため、他人に気を許すようなこと、関係を持つことは決して許されない事であるという信念を持っているためだが、もっとも大きな理由はまずヴェラ自身、家族から愛情というものをまるで受けないまま育ったこと。そして、友人を作るような環境に育った経験もないということであった。
ロシアンマフィア高級構成員の一家の長女として、当時マフィアの日本支部に在籍していたロシア人の父親、ツァギールと日本人の母親、木滑勁子の間に生を受けて以降、ヴェラはそのあらゆる暗殺術を叩き込まれた。家系は代々暗殺を担ってきていたこともあり、そのエリート教育を受けたヴェラは少しずつ実践を交えながら成長を続けた。初等教育を終えた頃には既に一流の「殺し屋」として自分が所属するマフィアに貢献するはずであった。
ところが、折しもその頃に全世界を挙げてのマフィア、テロ組織の最終撲滅運動が起き、いくつかの小さな抗争を経た上でほとんどのマフィア組織は分裂、消滅してしまう。豊かな生活が当たり前となった現代で、貧困層や社会的弱者をターゲットにしてきたマフィア自体の存在意義が無くなってきていたことも拍車をかけた。
この多感な時期に、ヴェラは両親から基本的な教育と暗殺術云々以外の事はまったく教えられることは無かった。何と言ってもそれは、「殺人をする上で情は最大の敵である」という暗殺家業における鉄の掟に従い、ロボットのように感情の起伏に乏しい、つまり殺人をすることを決してためらわない子供に成長することが、一家の最大の目標であったためだ。
学校に行くことも許されず、初等教育は組織内で最低限の読み書きの類しか教わらなかった。家族や友人から当たり前の愛情を享受することも無いまま育ったヴェラは、育ててくれた自分の組織にその血肉を捧げることこそがアイデンティティであり、つまり自らの存在意義であると感じたのだ。
だが、豊かな社会となった現在においてマフィアの弱体化は進み、最終撲滅運動では対策を講じる間もなく、嬲り殺されるようにヴェラがその身を共にすると誓った組織は消滅した。ヴェラはまだ幼いということで抗争に参加することはできなかったが、自分たちの組織にとって敵対する存在、警察を血祭りにあげる日を夢想しながら、日々鍛錬を磨いた。
四年前の冬。当時の組織のボスや残った地方の高級構成員が軒並み捕えられた。その時点でほとんどの構成員は抗争で命を落としており、組織の消滅は決定的なものとなった。
父親と母親はこの時点で、自殺することを決意していた。ヴェラと両親、そしてふたつ年下の妹ソーニャの四人は本部の高級構成員のみが使える上階の個室に集まり、静かにその時を迎えた。
しかしヴェラはこの時、どういったことか、組織が消滅するという事と、自分が死ぬというふたつの事実を受け止めることができなかった。というよりは、単純に理解できなかった。それこそ、五歳の子供が中学生向けの計算ドリルを見て首をかしげるように。自分が身をもって捧げると誓った組織が壊滅し、そして自分たちは自殺しなければならないという事。まさしくそれは「受け入れがたい事実」であった。
「父さん。私は……私は組織に殉ずると誓いました。その組織が無くなろうとしている今、私はどうすればよいのですか」
「よく聞くんだ。俺たちの組織はもう終わりだ。警察の手で組織の内情を吐かされ、裁判にかけられ、殺されるくらいなら、我々は自らの手で誇り高い死を選ぶ。それ以上でもそれ以下でもない。何も考えるな。さあ……」
そう言って毒入りの包みを差し出す父親の手を見た瞬間、ヴェラは激昂した。完全に諦めきったようすの、情けない、弱々しい両親の姿を見て、ほとんど反射的に体を動かした。まず包みを持つ父親の手を、右手に隠し持っていた護身用の拳銃で撃ち抜き、そして父親の背後に素早く回って右足のブーツに仕込んだナイフでその首を落とすのと、向かいに座る母親の脳天を持ち替えた左手に構えた拳銃で撃ち抜くのはほぼ同時であった。まるで生みの親であり暗殺を教授してくれたふたりに対して、その暗殺術の成長を見せつける様に。あまりにも早く、鮮やかな手だった。だが、目の前の姉の凶行に怯え切ったソーニャには、どうにも手を出す気が起きなかった。
「必ず組織を再興して見せる……それが私の全てだ」
ソーニャにはそう言い残して、突入直前に緊急脱出用にと、個人で隠し持っていた高速グライダーを使って窓から逃げ出した。当てもなく、そこから数か月放浪したのちにたどり着いたのが、現在居を構えているコガイである。
あれから、もう四年余りが経ったのだ。
風呂から上がると、アイはまだ食事を作っている途中であった。コンソメの匂いが台所いっぱいに広がり、空腹を刺激する。
その台所の出口の脇、廊下側にヴェラは壁伝いにすっと立った。壁と一体化するかの如く、息を殺して。やがてアイが、料理に使う材料を取り出すため、出口のすぐ脇にある冷蔵庫へ向かった。そして冷蔵庫を開け、中を探っているそのとき。ヴェラは音もなく、そして素早くアイの背後に回り、右手に隠し持っていたボールペン型のピストルで彼女の頭を正確に撃ち抜いた。アイは故障の警告音を発し、エナジーオイルをまさに人間で言う血液の如く垂れ流しながら膝から崩れ落ちた。人間とは寸分違わない精密な動きをもつ現代のロボットを使った暗殺術の訓練。これはアイを購入した三年前から、ヴェラにとっては完全なる日課と化していた。
本棚に置かれた自前の修理工具を持ち出すと、アイの修理を始める。毎回のように修理に出していては、メンテナンス諸々を任せている業者に怪しまれるのではないかと考えているため、今回のような暗殺の練習台として使ったゆえの故障はもちろん、必要範囲内のメンテナンス云々は可能な限り自分で処理するよう心掛けているのだ。
今回も致命傷を負わせるというより、射撃の精度向上を目的に絞ったため、頭部の中でも比較的軽傷で済む部位を狙った。おかけで修理も楽にすみ、電源を入れて再び起動した彼女にちょっとした安心感さえ覚えた。
夕食はウィンナーが入ったポトフと、温野菜のサラダであった。コタツの上に置かれたそれらからは湯気が立ちのぼり、何ともいい匂いが部屋中に立ち込める。フォークを持ったヴェラは、神妙な面持ちで食事の席につく。
「アイ。返事機能オン」
「返事機能、オンに設定しました」
「ストップウォッチ、今から五秒後にスタート」
「……四、三、二、一、ゼロ」
その瞬間。ヴェラは音もなくさささ、と、一切の無駄がない俊敏な動きで食事をかきこんだ。とにかく目の前のモノを腹に入れることに全精力を注ぐ。そんな固い意志が見て取れる、鮮やかな早食いぶりだった。
「むぐっ……ストップ」
「タイムは一分二秒です」
アイが結果を伝えるが、そのタイムに納得がいかず、浮かない顔で食後のオレンジジュースを口にする。
「……前は三十秒切るのも簡単だったのに」
小さくそう呟いてからころんと横になって、薄暗い天井を見上げる。ふと横を見ると、アイがその青色の瞳を光らせながらじっとこちらを見ていた。コガイに来てから格安で購入した彼女は、おそらく両親を殺し、妹を見捨てたあの日から今日まで、人生の中で最も過ごした時間が多いであろう。そのアイに、ふと語り掛けてみた。
「私も衰えたかしら」
アイのロボット型番、A-1型は返事があらかじめコンピュータにプログラミングされているため、変則的な命令には対処できない。無論、そのような抽象的な命令には答えることができず、じっとその場に立ち尽くすほかない。それが何となく物悲しくて、さっさと残った仕事を終わらせようとヴェラは起き上がった。
武器のメンテナンスを行い眠りについた時、時計はすでに八時を過ぎていた。布団やベッドの類よりコタツが好きなヴェラは、コタツに潜りこむと目を閉じ、あっさり眠りにつく。睡眠は幼少のころからきっかり三時間と決まっているため、ちょうど十一時には目覚めるはずであった。
ところが、ヴェラがふいと雨音を感じて眠りから覚め起き上がったとき。直感で彼女は寝過ごしたと確信した。
「アイ。今何時?」
「ただいまの時刻は、午後四時五十一分二十七秒です」
アイの返事を聞いて、人知れず落胆の色を漏らす。特にこの数カ月、ヴェラは近年では考えられないほど、寝坊をすることが多くあった。常にマフィアの一員として神経を尖らせ、ことに睡眠や食事といったごく一般の生活は必要最小限にすませてきたが、特にこの数か月の自分は、異常にたるんでいるというか、どうにも調子が思わしくなかった。それはさきほどの食事の"遅さ″にも、今の6時間近い寝過ごしぶりにも表れている。
ふとヴェラは、昨夜の仕事について回想を始めた。自分を侮辱した前の職場の上司を殺して欲しいという、コガイにほど近い繁華街、モトマチに住む風俗嬢からの依頼であった。その上司の日ごろの出勤、行動パターンを十分に下調べをし、人気のない路地裏をターゲットが近道に通ることに目をつけ、帰宅時間の午前五時半を狙って、サイレンサーの銃で狙撃した。しかし、その狙撃の瞬間。いままで何度か感じていた、一瞬のためらいが生じた。ターゲットに情けをかけたというような感覚である。彼にも家族がいる。生活があるだろう。自分のような、かような一殺し屋が彼の生命を奪う権利があるのか。
そんな、殺し屋という職を否定するような。そしていままでマフィア再興を誓い、自らの手が他人の血で染まることに何らためらいを持たなかったヴェラらしくない思考が、ほんの一瞬だけ頭をよぎるのだ。それを振り払うように、この日の依頼では一発脳天を狙撃した以外に、胸と腹、口の中にまで計4回も引き金を引いてしまった。本来であれば1回1発でとどめを刺すべきであり、脳を狙撃できれば死は確実であるところを、自らのよく分からぬターゲットへの同情心を頭からかき消すため無駄な狙撃を加えてしまったのである。
こうした心境の変化に、ヴェラは恐れを抱いていた。加えてここ近年、特に殺し屋として活動することにより生計と立てるという点に集中していたのもあるが、自身の至上命題であるとも思っていたマフィア組織の再興という目標も、どこか自らの心の中から消え去りそうになっていることも感じた。
マフィアであり、殺し屋である矜持を捨て去り、普通の人間として生きたいのではないか。そんな自覚がふと頭に浮かぶ。しかしそれは、マフィアの末裔であり、人を殺す技術に長ける、悪く言えば人殺しをして報酬を得る殺し屋という職を続けるより脳が無い彼女にとって、その存在意義、アイデンティティーの喪失を意味する。
いったいにこの心境の変化は、どうしたことだろう。自らの気持ちがコントロールできぬまま、ヴェラは雨が激しい中、街に繰り出した。充電が残り少ないことを示す瞳のオレンジ色の点滅を確認し、アイを充電プラグにつなげることも、しっかり忘れずに。
コガイの中でも特に雑多な、怪しい雰囲気を匂わす十二番通りの、廃墟に近いボロボロのビルに辿り着くと、小さいシャッターが閉じた入り口の前で、斜め上にある小型の、壊れた電燈に見せかけた監視カメラに向かってこめかみを三回、トントンと人差し指で叩くジェスチャーをした。するとシャッターがぎごちない動きでわずかながら開き、ヴェラはそこに滑り込むように入って行った。
ビルに入ってすぐ、下に繋がる階段がある。そこを降りたところに、ちょっとしたバー街がある。客は半グレというか、ちょっとしたヤクザ者が多く、平気で違法なハーブを吸っていたりする。もはや世界中でも数少ない、世界遺産級の地下脱法バー街であった。
そのバー街の中の片隅にあるヘブンズゲートという、電飾がほとんど機能しなくなった看板をヴェラは確認し、ドアを開ける。客は一瞬、来客者を一瞥するが、またすぐに自分たちの世界に浸る。賭けトランプであったり、ハーブをキメて涎を垂らしながら酒の快楽に浸っていたり。温色の電灯と煙草の煙に照らされたその光景は、実に退廃的である。カウンターには、コガイに来てから顔なじみであったアリサがいた。アリサは手招きし、カウンターに座るよう促した。彼女はこのヘブンズゲートの経営者であり、殺し屋と依頼者の仲介役でもある。
酒が苦手なヴェラは、オレンジジュースを注文した。
「今朝確認した。ま、お疲れ」
アリサは素っ気なくはあるが、一応今日の仕事の完遂について労いの言葉をかける。軽く頷くと、ヴェラは差し出されたジュースをちび、と飲み始めた。
「アンタ宛の依頼は今のところ来てないが……誰でもいいから殺してくれってのはあるよ。模試で自分より成績が良かったことを鼻にかけて、自分をバカにしたクラスメイトを殺してって。ノースブロックの十八歳のコドモから」
そういったアリサの仕事の依頼が着た時、ヴェラはいつも持ち歩いている手帳を開くのが癖であった。紙媒体であれば何かあった際も、燃やせばデータは残らないのだ。
この日もすぐに手帳を取り出したヴェラであったが、ふと開くのを躊躇った。
「いや、いい……少し休む」
「……?」
「どうも最近、調子が良くない」
「へぇ。どうりでいつにもましてシケたツラをしてると思ったら」
アリサの挑発じみた言葉を聞き、思わずヴェラは彼女をじろりと睨む。ぼさっとしたくせのある、透き通った銀髪も相まって、獲物を狙う狼のような、殺気立った瞳がアリサをとらえた。だがアリサは、むしろヴェラの反応を楽しんでいる様だった。
「なぁに? 人生疲れておセンチ気分? あんたもガキのくせに」
「っ……」
思わずヴェラは、手元の手帳に差されたボールペン型のピストルに手をかけた。一瞬で思いとどまったが、その冗談ではない殺気にアリサは僅かながら動揺したのか、「なんてね」と笑いながら、まだ全然減っていないヴェラのコップに、ジュースをつぎ足す。
「そんな目が出来るうちは大丈夫でしょ。アンタの腕は確かさ」
「……」
そんな霧がかかったような返事に妙に納得できず、オレンジジュースをぐい、と飲み干すと、ヴェラは手帳をさっとポケットにしまいすぐに席を立った。
「復帰はいつ頃?」
背後からかけられた声にこたえるように、腕を上げ、手をくいくい、と、車の誘導を行うガソリンスタンド店員のように振った。いつになるかわからない。整理のつかない、深い澱みにはまった彼女の思考は、もはや自身ののしゃべる気力さえも削いでいた。
ヘブンズゲートを出て、コガイを南に下った一番町についたとき、時刻は午後六時を過ぎていた。県下有数の飲み屋街として絶えず人々が行きかい、現代の好景気ぶりを如実に表している。年中陽気な雰囲気に包まれたこの一番町は、風俗関連の店がない影響もあるのか、コガイの中でも十二番町に比べて格段に治安が良い。ヴェラはこれまで幾度となく通っている、中心部の大衆食堂に顔を出した。どうにも脳内で鬱屈した思考が堂々巡りを繰り返しており、薄暗い家に帰って一人わびしく夕食を食べる気が起きなかったのだ。加えて、この思考を振り払うために、ちょっとだけ苦手な酒を飲んでしまおうという気にもなっていた。
テーブル席に座を占めると、店員が注文を聞きにやってくる。ヴェラは極めて事務的に、一切の感情を押し殺して注文を告げた。
「天重と……コップ酒」
「あら。お酒なんて珍しいですね」
「え?」
思いもよらぬ店員の返事に、思わずヴェラは顔を上げて店員を見た。そのかわいらしい、あどけない雰囲気を残した、おそらくヴェラと寸分違わない年頃の少女はすこしはにかんだ笑顔を見せた。
「いえ、いつも天重が親子丼だけなので……つい」
「おいおいみっちゃん、よしなさいって」
厨房から太く、良く通る声が聞こえた。そちらを見ると頭にバンダナを巻いた初老の恰幅の良い男性が、ニヤニヤと笑いながらこちらを見ていた。
「お客さんと話してたら注文が滞っちゃうから」
店長の指摘に、店員はまたちょっと恥ずかしそうにはにかんだ。
「すみません店長。あの、いつもの天重のお客さんです」
「ああ。食べるのがすごく早い……いやいや、いつもありがとうございます」
いつもの天重のお客さん、という言葉にヴェラはぴくりと反応する。それは、顔を覚えられているという事を意味する。殺し屋にとって最もタブー視されることだ。
「すみませんね。友達や常連の知り合いなんかが来ると、その子いつも喋ってばかりでなかなか注文取らないもんですから」
「もう取りましたってば! 天重とコップひとつです」
「こないだは彼氏だっけ? 十分近く延々喋ってて……」
「いーですから! 早く作って下さい!!」
ふたりの笑いが絶えない会話を聞いて、おもわずヴェラも一瞬ではあるが、ふっと笑いそうになる。しかしすぐに、現実の思考へと引き戻される。自分の事を常連の客と認識し、注文の傾向と自身の顔をこの店員と店長が覚えていたことに、本当にわずかながら、一種のうれしさを感じてしまっていたのだ。前述のとおり、自らの立場を考えると、例え一般人であっても顔を覚えられることはタブーなのだ。
しかしヴェラは、店員の言葉を聞き、無防備に顔を覚えられていたことに対して己を律するより先に、何とも言えぬ心地よさ覚えてしまっていた。その心境に気付き、それを振り払うため、思わず口から言いたくもない言葉が飛び出した。
「もういいから……はやく」
ぞんざいな、さも迷惑そうというヴェラの反応には、さきほどまで店長と笑い合っていた店員も少しばかり傷ついた顔を一瞬見せつつ、それでいて接客用とでも言うべき、無理矢理気味に作った笑顔を見せながら、一言「失礼いたしました。すぐにお作りしてお持ちしますので」と残して厨房へ消えて行った。
ヴェラは頭を抱えた。おそらくごく普通に学校に通い、友達もいて、平穏な世の中に置いてこれ以上にないハッピーな青春を謳歌しているであろう件の店員と、かたや壊滅したマフィアの末裔として、自らの組織の再興という幻影を追いながら唯一の特技である暗殺術を使って、数多くの人々を死に追いやってきた自分を重ね、思わず酷い自己嫌悪に陥りそうになる。自分が、普通の家庭に生まれ、暗殺術の代わりに勉学に励みながら、そして恋に落ちて……そんな妄想じみた幻燈が脳内に生まれては消えてゆくのだ。
七分後、ヴェラは出された天重と酒を一気にかきこんだ。もはや、何もかも忘れたい。そう言わんばかりの、やけくそ気味の食事風景であった。
勘定を払い外を出た時、恐ろしい勢いで豪雨が街を濡らしていた。酒が入り、気分が悪くなっていたこともあり、ヴェラはエア・タクシーで帰ろうかと考えたが、すぐ近くの乗り場がいっぱいになっているのが確認できたため、運よく通りがかったガソリン車の路上タクシーを拾い、帰路についた。
すっかりアルコールで麻痺した脳は、急速に眠気に襲われていた。自宅まで車では十分ほどのところであったが、この豪雨のせいでどこかで事故でもあったのか、道は混雑を極めた。タクシーの中は何とも居心地がよく、ついにヴェラは、眠りの世界へと落ちてしまった。
やがて二十分ほど経ってから、コガイの十番町付近に車をつけた運転手が、ヴェラを起こした。すっかり寝ぼけ眼で運賃を払うと、運転手はこの場から一刻も早く立ち去りたい、とでも言うような勢いで走り去っていった。その姿を見て、幾分酔ったヴェラでも、ああいった堅気の人にとって自分のホーム付近はやはり近寄りたくもない場なのだと理解することができた。
部屋に戻ると、どうにも気分が悪くなり、トイレに行くこともままならず玄関で盛大にもどしてしまった。涙で視界がぼやけ、今更ながら酒を飲んだことを後悔する。ずり、ずりと息絶え絶えにアイの元へ向かうと、電源のスイッチを入れた。
「玄関のアレ……片づけておいて」
「はい。かしこまりました」
そう言えば返事機能をオフにしていなかったな、と思いながら、アイが片づけを始める中、ヴェラは着替えもせずにコタツで横になり、あっという間に眠ってしまった。
眠っている間、ある夢を見た。夢の中でヴェラは、ひどく悲しんでいた。涙を流し、ただただ幼い子供の様に泣きじゃくっている。目の前にはアイが横たわっていたが、目にはランプが光っておらず、故障している様だった。そのアイの姿を見ると、ついにヴェラは絶叫した。ほとんど、狂っていると言ってもよい。逃れられない絶望的な現実に直面してしまった、か弱い少女の最後の叫びといった具合だ。しかし、なぜこれほどヴェラの故障を嘆いているのか、夢の中のヴェラは分からなかった。
部屋を震わせるような爆発音が鳴り響き、ヴェラはすぐに飛び起きた。外は雨音が一層激しくなっており、どこかで落雷があったと直感した。随分心臓に悪い起こされ方をされたものだと、ふっとため息をつく。時計を見ると、帰って来てから二時間近くが経過していた。眠ったおかげで脳は多少スッキリしてはいた。再びコタツに潜ると、何となく先ほどの夢の回想をはじめる。家事の類が苦手なヴェラにとって、アイが生活する上で必要不可欠な存在であることは分かっている。しかし、故障しただけであれほど自分が泣きわめくというのは、夢の中の話とはいえ引っかかるものがあった。そして何とはなしに起き上がり、アイの元へ向かおうとした。
しかしここで、ヴェラはある違和感を覚えた。殺し屋としての勘というのか。殺気にも似た、どこか妙な雰囲気がある。思わず台所へ繋がる廊下を睨み、身構えると、廊下奥からふたつの赤い光が現れた。それは、間違いなく、台所にいるはずのアイの瞳であった。