トワの大いなる学習帳:「霧吹き」
「あ」
少女は俺の存在に気がつくと、白い部屋をキョロキョロと見回し始め、その後部屋の奥へと二本の足で駆けていった。先日「足で歩く」という行為を教えてから、彼女はあまり飛ばなくなっていた――日常会話でも気軽なジョークとして使えるように注釈を入れておくが、ここは夢の世界で、彼女はその世界の住人で、基本的に宙に浮いている――。俺は彼女を観察しながら、覚えたてにしては随分綺麗に走れているな、と感心した。湖面に波紋を作り跳ね回る妖精のようだ。
こちらへと戻って来た少女は、先日強請られて仕方なく自腹を切って買ってやった携帯電話を小さな手の中に携えていた。通話のみの契約で月々千円だ。石油王の息子ならまだしも、一介の高校生には馬鹿にならない額である。しかも少女は毎日暇さえあれば電話をかけてくるので(夢の世界と現実の世界は電波が通じているのか甚だ謎だったのだが、いざ持ちこんでみると普通に三本アンテナが立っていた。感度も多少ノイズが入る程度で良好だ)千円分の通話料などすぐに超過しそうだった。まぁ、喜んでくれているのは分かるので悪い気はしないのだけれど。
「ピポパ」
少女は俺の前で現代においては些か旧式の携帯を開くと、現代においては些か旧式の掛け声とともに俺の番号をダイヤルし始めた。初めて彼女に電話を渡し、かけ方の説明をした際つい口をついて出てしまったのだが、もしかしたら彼女はこの掛け声を言わないと俺の番号に接続出来ないと思っているのかもしれない。
ポケットが震動し始めたので俺は仕方なく思索に逃げるのを諦め、ポケットから携帯電話を取り出しスピーカーに耳を当てた。
「もしもし」
「もしもし、トワです」
「知ってます」
「それは、何?」
彼女は俺の呆れ顔を完全に無視し、俺の右手に握られた霧吹きを指さして尋ねた。俺自身何故霧吹きを握りしめているのかさっぱり分からなかったため、暫く考え込むようにその場にフリーズしていた。
「これは・・・霧吹きだな」
「霧吹きとは何?」
トワは携帯を耳に当てたまま、俺を見上げて質問した。
「霧吹きというのは、そうだな、万能器具の一種だな。水を霧状にして飛ばすことで、鉢の中の草花に水をやったり、部屋の湿度を保ったり、夏場なんかは温度を下げたり出来る」
「キリジョ・・・シツ・・・」
少女は次々と投げつけられるボールに目を回しながら慌ててバットを振り、なんとか「すごい」と書かれた一球だけ俺の方へ打ち返した。
「そうだ、凄いんだぞ」
俺は霧吹きが好きだった。特に理由は無いが、昔から大好きだった。俺の中のその感情は、もはや理由を必要としない一つの真理と化していた。枝の先に花が咲き、愛媛の蛇口からポンジュースが出るのと同じぐらい普遍的な真理だ。特に夏場の霧吹きは最高だ。日本人が冬のコタツに異常な欲望を抱くのと同じように、俺は夏の霧吹きを前にすると抑えられない我欲と衝動にまみれるのである。
「あといざという時には水分補給も出来るな。口にひと吹きして」
「・・・すごいな・・・」
携帯のスピーカーからトワの呟きが漏れ出て俺の耳を擽った。少女の感嘆の声に気を良くした俺は、特別に霧吹きの実演を執り行ってやることにした。少女に手を前に出すように指示し、差し出された彼女の左手の辺りを目標に定めて霧吹きを何度かに分けて吹きかけてやる。彼女は突如現れた水分に驚いて手を竦めたが、すぐに気を取り直して霧の中に手を突っ込んだ。
「な、なんだ・・・涼しい・・・」
「そうだ、涼しくなるんだ」と俺は我が子の功績を褒められた父のような気持ちで胸を張った。
「何か、液体がついた・・・」
少女は霧の中で一頻り手を振り回していた後、自身の手を眺めて携帯電話に呼びかけた。俺はあまり耳障りの良くない表現を訂正すべく、彼女に水について簡単に説明した。
「・・・」
少女は水滴を付着させたままの手で自身の頬を撫でながら暫く物思いに耽るようにポカンとしていた後、俺の顔を真っ直ぐ見上げて右手を差し出してきた。無言で見下ろしている俺を、無言で見上げてくる。これは彼女の「ちょうだい」のサインである。俺は霧吹きを服の中にしまい込むと三歩後ろに下がって彼女に背を向け、耳にあてている携帯電話に向けてしっかりと己の意思を伝えた。
「あげません」
「・・・・・・」
「あげません!!」
今日学んだこと
霧吹き・・・万能器具の一種。
・内容物を拡散させることで、生命維持、環境保全など、様々な良い効果をもたらす。
・涼やかで心地よくなり、精神衛生面にも影響がある。
・あんなに必死なアキラは初めて観測した。人類にとって如何に重要な器具かが窺える。