したきり雀 第5話
化学教師、瀬田敦彦。印象は不潔とまではいかなくとも、清潔には感じない。その理由は、美容院で整えているとは思えない耳を覆い隠すほどの痛んだ長い髪が原因を担う。
42歳、独身。アパートに一人暮らしだと言う事だ。何故か女子生徒よりも男子生徒からの受けが悪い。その理由は、古ぼけた中年である事かもしれない。自分の不安な未来に対するリアルな姿を想像させてしまうのだろう。
瀬田教諭は、華子達を見たとたん顔色を変える。外で話をしようと誘うと、膝をガクガクと震わせながら付いてきた。後ろめたい事でもあるのかと思わせる。
「な…何だ……。どうして……外で? 授業の事で…質問かい?」
人気の無い階段の前で、三人は瀬田を取り囲んだ。代表して口を開くのはもちろん華子だ。
「うちの学校の化学の先生は二人だけ。瀬田先生って……確か三年生も教えていましたよね? 死んだ幸田由希先輩のクラスも」
幸田由希と言う名前が出たとたん、瀬田の顔に誰にでも分かるほどの動揺が見られた。頬がヒクヒクと細かく痙攣をしている。
「……だっ……だから……何だ?」
「先生……由希先輩と付き合ってたでしょ?」
「――――っ!」
瀬田はすぐ後ろの壁に背中をぶつけ、そのまま力なく下がっていき、尻餅を付いた。
「ま……まさか……。君達も……ゆするつもりか……」
「ゆする?」
三人は眉をひそめながら顔を見合わした。そして、華子は頭を抱えている瀬田に声をかける。
「先生……ゆすられてたんですか? 由希先輩に?」
瀬田は華子を見上げたが、唇を震わすだけで何も言わなかった。
「だから……殺した?」
「ちっ……違うっ!」
しかし、恵美のその言葉には即座に反応を見せた。脅えた様子は、この事について疑われるのを恐れていたのだと三人は悟った。
「彼氏なのに……ゆすられているってのは……どうしてですか?」
由希先輩は同級生と浮気をした。怒るべきである彼氏の瀬田が、なぜゆすられる事になったのかの疑問を華子はぶつけた。
「彼氏なんかじゃない! ………っ」
瀬田は言い切った後、ゴクリと喉を鳴らしてその後に続く言葉を飲み込んだようだった。
「でも……ブランド物を買ってあげていたのは先生ですよね?」
瀬田はうつむきながら、首を一度縦に振った。
「って事は……弱みを握られてたって事ですか?」
「…………」
何も返事しない事が、肯定となる。
「それで、酸素ボンベを準備津に仕掛けた?」
恵美がそう聞くと、瀬田は体育座りの姿勢のままブンブンと首を横に振った。そして、憔悴した目の顔を上げる。
「ボンベは本当に授業に必要なために置いてあったんだ。僕が何か工作した訳じゃない! あれは事故だ! ……しかし、考えれば考えるほど……僕に不利な状況だと気が付いて……」
「準備室には鍵をかけてなかったんですか?」
「ああ……。幸田君が出入りするから……かけるなって言われてた……」
「タバコを吸うために?」
「…………見つかりにくいし、準備室の中にも換気扇があるしね」
華子の質問に瀬田は素直に答えた。しかし、「どうしてゆすられていたのか?」と言う質問には、瀬田は頑として答えなかった。
「私のお姉ちゃん刑事なんですけど……。この事を伝えますよ?」
恵美がそう言うと、瀬田は、
「俺は……殺してない。何もしてない……」
と、繰り返すだけだった。
恵美は華子と目を合わせると、携帯の操作を始める。本人を前にして警察に電話をかけるのは、一応先生だと言う事で遠慮をしたのか、姉にメールを送るようだ。
一人の情けない人間となった先生に向かって少し哀れんでいる目をしていた莉緒も声をかける。
「本当に殺して無いのですか?」
「や……やってない。もう貯金も無くなってどうしようかとは思っていたが……殺していない」
「まあ……後は警察の仕事かな」
華子がそう言った瞬間、廊下に昼休み終了のチャイムが鳴り響いたが、瀬田の教諭としての威厳を取り戻させる事は無かった。
翌日。朝教室に入ってきた恵美は、周りの様子を伺いつつ、小声で華子と莉緒に何かを言った。
「淫行?」
「だってさ。由希先輩と関係を持った瀬田だったんだけど、それからお小遣いを要求され続けた。学校にばらすぞ……みたいな? 多分……それが由希先輩の狙いだったんじゃないかな?」
「なるほど……。売りなら一回ごとの収入だけど、学校の先生相手なら……一回すれば、その後ずっと……何もせずともお小遣いをもらい続ける事が出来る……とか考えたって事ね」
「裏も取ったってさ。瀬田の貯金は、二万、三万単位で減り続けて、最近では家賃の支払いも滞っていたらしいよ。あいつは殺して無いって言ってたけど……私は嘘だと思うな」
「まあ……ドラマや小説と同じ流れだと……やってるだろうね」
華子は伸びをしながら椅子の背もたれに体重を預けた。
「ありきたりな事件で……しかもあっさり解決。なんだか……物足り無いわね。実際はこんな物なのか。まあ、身の回りで殺人事件が起こっただけでも珍しかったんだろうけど……」
「……本当にこれで終わりなのですかね?」
呟いた莉緒の顔を見ながら黙っていた華子がいたが、恵美が雰囲気を変えるためなのか、違う話を始めた。
「結構楽しかったからさ、次も誘ってよね。所長!」
「所長?」
「華子はこの探偵事務所の所長でしょ? 私達二人はアシスタント!」
「所長……それもいいな。大学入ったら、そんな仕事を始めるかな。従業員はもう二人決定している訳だし」
「げっ! 冗談で言ったんだけど……」
いつものように掛け合いが始まった二人のそばで、莉緒は黙って考え込んでいた。
それから数日が経った。
三人からも事件の話題は聞こえなくなり、またいつも通りの生活が始まる。
莉緒は十分余裕を持って家を出ていると言うのに、学校の正門をくぐったのはホームルームが始まる10分前だ。教室の扉を開けると、そこにはスポーツ新聞を読んでいる華子がいた。相変わらず椅子ではなく机に腰掛け、その長い足を組んでいる。
「おやよう華子。いつも思うのですが、……椅子には座らないのですか?」
「ん? おはよう莉緒。椅子に座っている方が疲れない?」
「……足の長さの違いでしょうか。私がそんな事をすると、足がプランプランで大変です」
華子の席で話している二人の所に、教室のドアを激しく開けた女子が突っ込んでくる。相変わらず朝からハイテンションな恵美だが、今日ばかりはそれに怒りが伴っている様子だった。
「ちょっと聞いてよ! 瀬田の奴釈放されたのよっ!」
「……うそ」
華子と莉緒は顔を見合わせる。
「証拠不十分だってさ! またかよって感じ! 何してんのよ警察は! あいつがやったのは間違いないんだから、証拠なんて要らないでしょっ! ねえ!」
肩を掴まれて体を前後に揺すられている莉緒は、眼鏡が落ちないように必死に両手で押さえている。
「これは……また例の不審死事件につながるかもしれないわね。身近だった人がそんな死に方をすれば、私的にウィルス感染のルートを多少予測出来るかも……」
華子が顎に手を当てながら宙に視線を泳がせていると、莉緒は華子が手に持っている物に目を向ける。
「華子、スポーツ新聞には何も載ってなかったのですか?」
「あれ……そう言えば。釈放されたのは昨日なんでしょ? とりあえず……まだ無事みたいね」
華子は恵美に釈放がいつの事だったかを確認すると、再びスポーツ新聞に目を通すが、それらしき死亡記事は無かった。
「まあさっ! 釈放された悪い奴らが変な死に方をしている訳じゃないから……、今回は神様見逃しているのかもしれないけど……、早く気が付いて欲しいよねっ! 瀬田は絶対やってるって!」
神様説、ウィルス説で再び揉める恵美と華子だが、莉緒は二人の説を肯定する訳でも否定する訳でも無く、一つの考えを言う。
「もしかして……神様もウィルスもすでに目を付けているけど……、犯人じゃ無かったとか?」
「なわけ無いわよ!」
恵美は手を大きく広げて肩をすくめながら言った。
「落ち着けって恵美。確かに断トツで怪しいのは瀬田だけど、ちょっと調べれば誰にでも出来た犯行なのよね。実行させる動機さえあれば……」
右の拳を左手で包む華子。二人に対して莉緒は首を傾げながら聞く。
「でも、いけない事を瀬田先生がしたのは事実なので……もう学校には戻って来られないのですよね?」
「私もクビって聞いたわ。瀬田先生の住所なんか学校は教えてくれないだろうし、もう一度会って話を聞くのは難しいわね。恵美のお姉ちゃんなら分かる?」
「えぇっ! 無理無理。さすがにそんな事教えてくれないよ! 酔った時に捜査状況を少し引き出すくらいが精一杯だし」
恵美は困った顔をしながら胸の前で両手を振っている。
「交友関係が辿れないのが痛いのよね。学校に仲のいい友達はいなかったから……、誰とどんなお店で…とか分からないし。街にはいるんだろうけど、さすがに聞きこんで探すのは私にも厳しいわね。危なそうなのもいそうだし……」
そんな時、教室の外がざわついているのに三人は気が付いた。顔面蒼白な女子生徒が何人か目に付き、顔を歪めて走っていく男子生徒もいる。
「……何?」
「なんだろ?」
ホームルームを前にしたこの時間、殆どの生徒は教室にいたが、外の様子に誰もが次々と廊下に出て行く。もちろん三人も人をかき分け教室を出た。