したきり雀 最終話(第13話)
天気の良い日。その日差しは今年も猛暑だと知らせるような強い物だった。
警視庁の廊下を、ヒールの音を響かせて颯爽と歩く女性。その美しい髪と端正な顔立ちはすれ違う男を振り向かせた。
ある角で女性が来るのを待ち伏せていた男は、意を決して飛び出す。
「おっはよー。吉岡、元気ぃ?」
「おはようございます、静香先輩! 新しい部署はいかがですかっ?」
「何言ってるのよ……。仕事なんて資料の整理だけ。いかがも何も無いわよ。飛ばされたんだから」
「でも、あんな事があって、首にならなかっただけでもマシだよな」
吉岡の後ろから、スーツの上着を肩にかけた男が話しに加わってきた。歳は二人よりも一目で上だと分かる。
「日ごろの行いが良いからかな? 矢沢さんと違ってね!」
「ふん……。おまけに降格も無しなんてな……」
「矢沢先輩、いくら先輩と言っても……階級は静香先輩の方が上なんですから……もう少し言葉遣いを……」
矢沢は吉岡を見てフンと鼻を鳴らすと、背を向けて行ってしまった。
「良いのよ。矢沢さんの方がずっと年上なんだから。それに、私は警部って言っても、離れ小島の警部だし。まあ、部下がいないってのは気楽だけどね。じゃねっ!」
恵美の姉、川岸静香は小さく舌を見せると、吉岡が顔を赤くしているのにも気が付かず歩いて行く。
廊下を曲がり、突き当りの右側にある倉庫かと思えるような古く小さな扉を開けて静香は中に入る。狭い室内の真ん中には机があり、その上に置かれている古いデスクトップパソコンは、ディスプレイが今の時代でも厚みのあるCRTモニターだった。その横にある整理のされていない棚には、見なくなって久しいフロッピーディスクが並べてある。これを管理するのが今の静香の仕事である。
パソコンに電源を入れる事無く、椅子に座ったまま小説を読む静香。昼過ぎになってようやくあくびを一つしながら伸びをしたかと思うと、カバンからパンとオレンジジュースを取り出して、それを食べながらまた本に目を戻す。
時計が14時半を指し示した頃、ようやく本を閉じると、静香は昼食のゴミとお菓子の袋、チョコレートの箱をカバンに押し込んだ。
「さて、これからお外で一仕事して……後は……直帰! 仕事の後の一杯がこれまた旨いんだなぁ!」
何も盗られるような物が無い部屋に鍵をかける。そして、駐車場まで行くとパトカーやミニパトでは無く、何も変哲の無い普通の小さな軽自動車に乗り込む。これは静香の愛車である。小さなエンジン音、僅かな排気ガスを出して車は走り去った。
郊外にある工場のような施設。大して広くも無い作業場では、熱心に仕事をする作業者達がいた。しかし、その手つきはやや拙い。
流れ出てくるベルトコンベアに一列に並んでいる作業者達の中、椅子に踏ん反り返っている男がいた。いい歳だと言うのに茶髪にピアス。『作業場禁煙』と言う張り紙の真横で煙草を吸っている。
自分の前を横切る段ボール箱を持つ作業者。男は足を引っ掛けて転ばすと、ダンボールから転がった部品を眺めて笑った。
そこに、おどおどとした様子で小柄で小太りの青年が近づいてくる。男は何かを伝え聞くと、煙草を壁に押し付けて火を消した。
「女ぁ?」
「はっ……はい……。あっち、あっちで……待っている……。言ってました」
青年はしきりに建物の裏を指差している。男は少し考えた後、めんどくさそうに立ち上がった。
「手を抜くなよ!」
男が拳で青年の側頭部を強く殴ると、彼は頭を押さえながらうずくまった。
それを一瞥すると、男は歩く。熱心に働いている作業者の横を通り過ぎながら、
「障害者共が」
と聞こえよがしに言う。だが、作業者達はそんな男に目を向ける事無く、熱心に、ただ熱心に働いていた。
男は体育館ほどの大きさの作業場を出ると、あたりを見回す。すると、右側の林の中へ入っていく黒いスーツの女が小さく見えた。
男は舌なめずりをしながら真っ直ぐに女の後を追う。障害者ばかりの作業場の監督と言う仕事、そして、その寮長。男はチラッと見えたスタイルの良い女の裸を妄想しながら林に入った。日が最も長い時期だが、林の中は薄暗かった。周囲には女の気配は何も感じられない。
「おい! 俺を呼んだんじゃなかったのかっ?」
林は静まり返っていた。遠くから自分の作業場で立てられた音が小さく聞こえてくる。
「幽霊……って、まさかな……」
来た道を戻ろうとした男だったが、どこからとも無く自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「大田……俊彦ね」
若い女の声だった。色めき立った男は勢い良く振り返った。すると、木の陰からきちんとスーツを着こなした女が現れた。髪は長く、目が大きくてどこぞの女優のように美人だった。男の目は上に三日月のようになり、興奮した声で言う。
「だっ……誰だよっ! 俺に用か?」
「私? 私の名前は川岸静香。覚えてる?」
「か……川岸? ええっと……誰だったっけ……」
「…………あなたが10年前に撲殺した男女。その……娘よ」
男の頬が震えた。瞳が揺れ動き、額から目を伝って汗が流れ落ちた。
「さっ……さぁ? ひょっ…ひょっとして……あれか? 俺が若い頃、悪い奴等から無理やり吸わされた……あれで、事件を起こした……時の?」
「無理やり……吸わされたのですか? 自分の意思では無く?」
目の前の女とは別の場所から違う声が聞こえた。男は左を見ると、見慣れない制服を着た女の子が二人立っていた。身長差から中学生と高校生のように見えるが、二人とも同じ制服を着ている。
男は声を震わせながら言い訳がましく言う。
「そうなんだよ。クラブにいた売人にさ……。結局そいつも捕まって無いけど……」
「そいつも? 今、そいつ『も』って言ったわよね?」
長身の女子学生が男に鋭い視線を送ってくる。
「いや……別に……言い間違えただけだ……」
「はっきりおっしゃってくれます? その売人に、無理やり吸わされたのですか? 自主的にでは無く?」
一歩前に出てそう言った小柄な方の女子学生を見ながら、男は一度舌打ちをした。
「だから言っているだろ。無理やり吸わされたって……うっ……ゴホッ……ゴホゴホッ」
男はむせ込んで、激しく咳をした。
それを眺めながら、黒いスーツの女は女子学生の二人のそばまで歩いてくると、大田に言う。
「その雪の降る日……サンタさんとしてのプレゼントの買い物を終えた……夫婦を襲って殺した。執拗に……何度も何度も殴って……。蹴って……。そばにあった自転車を投げつけ……」
スーツの女は涙に詰まって目を閉じた。
「だから、覚えて無いんだって! 警察も、裁判もそういう判断だったろ?」
「本当に……覚えて無いのですか? あなたはドラッグのせいで……何も覚えてない。殺したくて殺した訳じゃないと?」
「だからっ…」
男はイラついた顔をすると、怒鳴るような声で言った。
「あれは俺のせいじゃない! 薬だ! ドラッグのせいでああなった! 俺には全く意識は無かったんだっ!」
「……舌きり雀はちんとんしゃん。嘘つき悪い子はちんとんしゃん。舌を引き抜き黙らせろ……」
小柄な少女が小さな声で歌い出した。両脇に立っている長身のスーツの女と長身の女子学生は黙って男を見つめている。
大田は何やら薄気味悪くなり、後ろに下がると木に腕をぶつけた。
「き……気持ちの悪い奴等だなっ! あの事件はとっくに無罪判決が出たんだ! もう俺を裁ける者なんていないっ! あ……あははっ!」
男は背を向けると、作業場に向かって走り出した。その背中に向かって莉緒は言う。
「私に……嘘は付けない!」
「がっっ……がはっぁ……」
大田は林を出たところで首を押さえる。顔が赤くなり、すぐに血の気が失せて青くなる。
「なっ……なん…だ…? い……息が……か……か……か…」
白目を剥くとうつぶせに倒れた。そしてそのまま、大田は二度と動く事が無かった。
「ありがとう……莉緒ちゃん……」
静香が目を押さえるハンカチは、すでに濡れきっており、ぼとぼとになっていた。
莉緒と華子は自分のハンカチをそれぞれ差し出す。それを静香は笑顔で二つとも受け取った。
「こちらこそすみません。雀に挙がって来る犯罪は全てではありません……。この一件のように、見逃されている物もあります……」
頭を深々と下げた莉緒を、慌てて静香が止める。
「莉緒ちゃんのせいじゃ無いよ。雀に回すかどうか判断しているのは普通の人間、私みたいな凡人なんだから」
「それにさぁ、これからは静香さんが味方になってくれる。凡人共が見逃している犯罪を静香さんが見つけ、莉緒に回す! これで罪を犯しながら大手を振って生活をしている奴らの数がぐっと減る! 恵美の言葉を借りるなら、神様が増えた! って事よね!」
華子が両手のこぶしを握って、力強くそう言うと、静香も同じようにガッツボーズをする。
「死ぬつもりだった私。これからはまさに死んだつもりで犯罪に当たるよ! 恵美もきっとそれを望んでる。雀の力は神から与えられし能力。残った私の人生全て賭ける! 華子ちゃんも協力してねっ!」
「もちろん! 私達は運命共同体! それに、莉緒の力は、最期の、最期の力。確実な犯罪者を私達で見つけなきゃいけない! 探偵と生まれた私、命はこのためにあったんだって気が付いた。探偵と刑事と執行者。この組み合わせは、きっと人を裁くために神様が用意したものだと思うわっ!」
「でも……本当に良いのですか……、お二人とも……」
「良いに決まってるでしょ! 私は冒険を望んでいた! しかばね刑事と暇人高校生を従えて、十七代目雀ご一行は今日も悪を討つ!」
「しかばね……は言いすぎじゃない?」
うっそうとした林の中で、三人の和やかな空気が輝きを放つ。
それは、この世界に蔓延る悪を消す正義の光だったのかもしれない。
第一部完
お読みいただいてありがとうございます。
第二部からは堂々と莉緒が主人公となり、悪を裁きます。
莉緒、華子、静香の話でお会いできる機会を近いうちに……。