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Le numero2

アダルトビデオの延滞料金は320円。

 最寄り駅を出ると、夜の商店街が目の前に見えた。仕事の帰り道、久しい風景を歩いた。これを繰り返すのが、今の私の日常。日の下で精一杯働き、日が沈めば、のんびりする。   世間を寝かせ、好きな事に思いを馳せて、自分を重ねていく。そんな毎日が好きだ。昨日までの一日中ドタバタな生活も今考えれば新鮮だったが、やはり私自身を進めていく時間は大切にしたい。メイを預かるのは短い間だと手紙には書いてあった。とりあえず今日帰ってメイの様子を見て、また生活の調子を整えよう。どうせ短い間だ。今はそれでよしとしよう。暗の訪れている商店街を抜け、家への一本道を歩く。先の右手に明るく灯るコンビニエンスストアが見えた。何か買っていくと喜ぶだろうか。麦茶に合いそうな饅頭でも買おうか。そんな自分の様子に、失笑した。照れ隠しに空を見上げると、大きく雲のかかった三日月が遠くに見えた。

メイは今日を無事に過ごしただろうか。出るとき置いておいた朝食のパンは食べてくれただろうか。昼食に冷蔵庫のそばと桃を食べてくれただろうか。歯磨きはしただろうか。寂しがってないだろうか。つい外出したりしてないだろうか。さらっと変なお兄さんに手を引かれたりしていないだろうか。それでうっかり軟禁されたりしていないだろうか。

真っ直ぐ帰ろう。そんな訳はないのに、私は早歩きで家を目指した。

階段を忙しくのぼり、静かに自分の部屋に辿り着き鍵を開けた。

 …部屋は真っ暗で、何も見えなかった。私は体半分を玄関にいれ、部屋にメイの姿を探した。「メイ…さん」返ってくるのは静寂だけだった。目が慣れてくると私はドアを閉め、オレンジ灯を点ける紐を探した。紐を掴むより早く、ズボンの裾が引かれた。足を蹴り上げるそうになるのを制し、後ろを振り返った。メイだった。私は前にしゃがみ込み、見えない表情に語りかけた。「…心配したよ。大丈夫だったか」メイは顔を上げようとし、また伏せた。

寝かせておいてあげよう。そんな安直な朝の私の想いにより、メイの一日は不安に支配されたものになってしまっていたのだろうか。

息が触れる程近くも、触れずに固まるメイの頭が私をそう後悔させた。

私は俯いたメイの頭に手を置いた。メイの肩が一瞬震え止まって、私達はしばらくそのままでいた。

そして、「オレンジ灯を点けよう。それで麦茶でもいれるよ」と私は立ち上がった。するとメイは部屋の隅に走り、布団にもぐりこんだ。

それを見た私は掴んだスイッチ紐から手を放すと、風呂に入り、歯を磨き、麦茶を飲んでから隣に布団を敷き、寝に入った。「ごめん」暗闇にそう言って目を閉じた。

沈むような眠りを頭にした頃、右腕がひんやりと圧された。力を入れそうになり、留まった。その感触は小さな手が私の腕を掴んでいるものだと気づいた。

ごめんなさい。

小さな囁きが聞こえたように思う。

私は目を開け、瞼と同じ暗闇を見つめた。何故謝る。

朝、起きると私はいなかった。メイ。メイにとって、誰もいない寝起きは心細いものだったのだろうか。部屋の隅でうずくまり家族かも分からない私の姿を求めてくれていたのだろうか。揺さぶって起こしてでも一言声を掛けていくべきだったのだろうか。起きている時は見せなかった、歳相応の無垢な安らぎで眠るメイを。

右腕を掴むひんやりとした小さな感触が、私を後悔の懸念から脱させた。

私は目を閉じた。

そして決して右手の感触が離されぬよう、身動きしない、とやがて訪れるだろう睡魔に誓った。

 

朝八時。コーヒーが沸いたところで私はメイの枕元に向かった。「メイ、起きてくれ」

 メイをタオルケットの上から静かに揺さぶると、暗の篭ったまぶたが開き、青墨色に瞳が私を向いた。

 「おはよう」

 「おはよう、ございます」くぐもった声でそう返しながら、メイは布団からのそのそ起き上がった。

 メイが私の前に立ったところで「おはよう」私は再度そう言った。

 怪訝そうに、「……おはよう」でもメイはそう繰り返した。「よし、ご飯にしよう」

 私はメイに背中を向け、テーブルに調理済みの朝ご飯を並べた。

 「君に頼みがあるんだ」パンを口一杯に頬張ったメイに私はそう切り出した。動きを止めたメイに「すまない、それ飲み込んでからでいいよ」と私は言った。

 麦茶を使い結構な頑張りようでパンを飲みこんだメイは椅子に深く座りなおし、床に届かず揺らしていた足を前に揃えた。もう椅子に正座はしない。一間待ち、私は口を開いた。

 「メイ。私は私達が暮らしていくにはご飯や服や家や、もちろん麦茶も必要だと思う」メイの目は呆けていたが、私は構わず続けた。

 「それらを手に入れたり維持したりするのにはお金が必要だ。麦茶を飲ませてあげたいし、私は毎朝毎夜コーヒーを飲みたい」けだるい様子を引きずりながらも、メイはうん、うん、と肯いた。

 「お金を得るために私は七日の内五日間の日中、昨日と同じように仕事に出ようと思うんだ」

 メイの顔に不安な曇りが伺えた。昨日の夜の感触がよぎり、胸奥が冷えた。

 「昨日は黙って出ていって悪かった」私は頭を下げた。「だから今日は言ってから出ようと思う」

「だから、メイには9時から5時まで一人で家でお留守番していて欲しいんだ」結局、今日もそれを繰り返しそうな自分に頭の奥が熱を持った。

 頭の上で、あ、という声が聞こえ私は頭をあげた。メイは両手をテーブルにのせ、小さな体を乗り出していた。「わたしは…おっかあに、あなたの生活やお仕事を邪魔しないように、と約束しました。だから、いいの。昨日は……ごめんなさい」メイはただ私に向いていた。たぶん頭にクーラーの風がそよいでいて、胸に本能を殺すような氷が当てられた、そんな優しくも無情で、少し危うい涼しさだった。「ありがとう」昨日までの私達の情景が遠く離されたなかで私は、また謝らせてしまったか、と何故か微笑みまじりに考えた。

 「じゃあ行ってくるよ、メイ」ドアを半分開け、見送りに立ってくれているメイに言った。

 「行ってらっしゃい、ませ」少し微笑ながらも目元に陰が差している。朝早く起きて疲れているのだろうか。

 「うん、あ、あともう一つお願いが…」メイは目を少し広げて私を見た。私は頭を掻いて「できれば…敬語は使わないで欲しい。私は、メイにはもっと迷惑を掛けてもらった方が嬉しいよ」と言った。

 は…うん、とゆっくりぎこちなく、メイは一回うなずいた。私もうなづいた。「じゃあ、行ってきます」

 「行ってらっしゃい」お辞儀をしたメイに背中を向け、あ、私が敬語使ってしまった、と思いながら私は家を出た。照る日差しをなんとなく懐かしみながら私は仕事に向かった。

 

 そして日が沈んだ。仕事を終え、私はコンビ二エンスストアで麦茶に合いそうな饅頭を買い、家路についた。

 そしてドアの鍵を開け、なんとなくゆっくりと扉を開けて、いつものように暗い自分の家に上がった。

 いや、オレンジ灯はつけていてもいいんじゃないか。真っ暗な部屋に上がり、紐を探り当てオレンジ灯をつけた。メイがいない。

私は部屋を見渡してから寝室に入った。

ベッドのタオルケットを広げて、空いているトイレのドアを開け、湯の張ってない浴槽を覗いて、収納の襖を開けてみた。

 そして最後に私は玄関のドアを開け、外を見回した。が、メイの姿は見つけられなかった。

 …散歩か。

 私はコーヒーを沸かし、椅子に座って新聞を広げた。

 一通りの記事に目を通し、政治家に溜息をつき、明日の天気が曇りと知り三十分経ってもメイは戻って来なかった。コーヒーは空になり、着の身は帰宅した時のままだった。

 私は外に飛び出した。

 家のドアから身を乗り出し、マンションの廊下を目にしたところで気付いた。

 行くあてが分からない。

 私はしばらく地面のタイルを見つめてから、ドアを閉めた。電話を手に取り、ダイヤルを回した。

 「はい、こちら近工交番」

 「近隣の者ですが、そちらに六歳ぐらいで迷子の女の子はいませんか」

 「迷子ねえ…いつからいない子?」

 「一時間程前からです」

 「うーん。・・・いないねえ。お宅の娘さん?」

 「…、はい」

 「フルネームを教えてもらえる?あなたのもね。住所も」

 失礼します、そういって私は電話を切った。

 薄暗いリビングの換気扇に向かい、そうか今はここで吸う必要もないか、と気付き、テーブルの椅子に腰かけて私は煙草に火をつけた。

 二口煙を吐いたが、名案はなかった。私は肘をテーブルにつき、頭を両手で覆った。念の為と、鍵を持たせる必要もなかったか…。違う、やはり寂しい想いをさせてしまったのだ。

 今はそんなこと考えても仕様がない。顔をあげ、もう一口煙草を呑んだ。メイが何処に向かうか、考えてみよう。この短い間、見たメイについてのすべてから。

  暑いのが苦手。少し寒いぐらいが好き。差しこむような眩しさが苦手。麦茶が好き。ウーロン茶も苦手。おそらく苦いのが苦手。アニメのシークレット・アンフィルミエーフが好き。主人公のAnfiがステッキに息を吹き込んで薬を作るシーンがお気に入り。山奥から来た。浴衣・着物を気に入っている。新しく買った子供用の青の斜線が一本入った黒い日傘を部屋でいじっていた。多分、気に入ってくれていた。遠野のあの人が送ってきた。小さくて軽い。遠慮がちだった。子供らしく意思を我がままに示さない。明らかに付け焼き刃だが、敬語をよく使う。今朝お互い敬語を止めようと約束した。そして、私の娘かもしれない。

 私は二本目の煙草に火をつけた。

 玄関に日傘が置いてある。今日も残暑のきつい日差しだった。外へ出たとしたら、私の帰宅時間の間。今から最大一時間前。日の沈みかけた五時。陽の下でメイは日傘がないと立ってられない。メイの足取りは見た目の通り遅い。電車にも乗れない。お金も持っていないはず。唯一メイがウチに持ってきた兎の着物とセッタはここにある。そんなに離れているとは思えない。人気のない場所。衝動的な外出だろう。一番考えられるのは、散歩に行って、迷子になった。以前唯一我々が外出したとき、デパートに行くための進路は人混みだらけだった。もし、人混みで路頭に迷っていたら、六歳のメイは警察に保護されていてもおかしくない。それにメイはあまり人気が好きだとは思えない。だから多分メイが散歩するとしたら逆、公園のある方ではないか。そして涼しいところ。

 遠い先でメイが途方に暮れているような気がした。

 行こう。煙草をもみ消し、私は立ちあがった。買った饅頭を冷蔵庫に入れ、麦茶の残量を確認して家を出た。外は小雨だった。「いつの間に…」玄関に戻り、私は頭にハンチングを被った。そして右手にメイの黒い日傘を持って再度家を出た。

 メイが帰ってきたときのために、とりあえず一時間で戻る。時刻を確認し足を速めた。


 だいぶ迂回しながら、小森公園についた。雨はすぐに止んだが、遅い夜が始まろうとしていた。空の陽は消え、静寂と薄暗さが薄い膜のように風景一帯を覆っていた。

 私は十五分かけて公園内をくまなく走り回った。道端のベンチ。アスレッチックの小山の中。歩道逸れた雑木林。メイの気配も感じられなかった。

 この公園は、そこそこの小学校が建てられるぐらいの広さがある。その上、木がとても多い。公園全体が木に囲まれており、所々に林がある。かくれんぼをすれば鬼は真っ青だ。この公園が小森公園と呼ばれる所以である。おまけに陽のないこの視界。

 考えが甘かった、と休みなしだった私の足は走るのを止めた。途端に肩が重くなり、息も絶え絶えに私は近くの植え込みに腰かけた。

 時計は六時半。探しに家を出てから三十分が経った。

 家に戻っているだろうか。そんな期待が頭を過った。

 そして無力感が胸を拭いた。見当違いだったのか。

 私はアイスコーヒーを買い、煙草を一本吸った。缶はすぐ空になり、煙草は喉に合わず捨てた。

 

 こっちの方だと思ったんだけどな。

方向が分からなくなってわたしは足を止めた。体にネバつくような雨が降った突端、すべてが分からなくなった。それでもふいに感じたおっかあの気配を捜そうとグルグル回っている内に帰り道が分からなくなって、気付いたら沢山人がいる賑やかなここに出た。雨は止んでくれたけど、何処に行けばいいのかは分からない。すごい時間が経ってしまったかも。わたしは道端に腰かけた。

 気のせいだったのかな。一帯の黒に一点広がった透き通るようなおっかあの白。それは上から注ぐ黒い雨によって滲み、黒い地面に滲んで消えてしまった。・・・おっとう、が心配してるかな。また困らせてしまう。空を見上げた。星は見えなかった。

 家に置いてもらうぐらいだから役に立たないと、と思っていたのに・・・ずっと迷惑をかけてる。

 おっかあが居るわけがない。わたしはわたしに強く言った。おっかあはわたしが戻されるとき以外は来ない、と言った。

早く、帰らなきゃ。着地するようにわたしは立ち上がった。

 「なにしてるの?」お尻をはたいたら横から声をかけられた。

 前、麦茶のペットボトルをくれたお姉さんだった。

 「こんにちは、えーと…」お姉さんが辿るように空を指で軽くかき回した。

 「メイといいます」そう言ってわたしはお辞儀をした。この挨拶はもうできる。

 「あ、そうそう。メイちゃんね。こんにちは。黒木えりと云います」そう言ってお姉さんもお辞儀した。

 「こんにちは」わたしが何だかおかしくそう言うとホウキを持ったお姉さんは隣に座った。

 「何してるの」そう言ってお姉さんは私に首をかしげた。

 「お家に帰るの、です」おっとうに心配されないために早く帰らなくちゃ。

 「ふーん。一人?」お姉さんは怪訝そうに聞いた。

 「はい。一人です」そう言うと、お姉さんは口を押さえて少し笑った。

 なんでだろう。すると「あ、ごめんごめん。メイちゃんて敬語使えるんだね」とお姉さんは何故か謝った。

 「へー。でも一人で何してたの。お父さんは?」

 「お仕事」

 「あ、そっか」たはは、とお姉さんはホウキを上下に動かした。

 「君もね」怖い声が後ろから聞こえた。

 わたしもお姉さんもそっちを振り返った。「あ、店長・・・」こないだのおじさんが腕を組んでお姉さんを見ていた。「あはははは・・・失礼しました」そう言ってお姉さんはまたお辞儀をした。

 「あれ、その子・・・」テンチョウさんが私をカカシみたいな顔で見た。この人もわたしの名前を知らない。「メイといいます」そう言って私はお辞儀をした。

 テンチョウさんはびっくりしたみたいに「やや、店長です。これはご丁寧にどうも・・・」と上手にお辞儀した。

 はははは、とお姉さんはまた笑い、テンチョウと目を合わせるとまた「失礼しました」と言った。

 なんだか、簡単だ。わたしは少し楽しくなった。「テンチョウさんとお姉さんはその服がお気に入りですか?」

 テンチョウとお姉さんは顔を合わせ「いや、僕等はお仕事中だからね。これは仕事用の服なんだよ」とテンチョウが言った。横でお姉さんが立ってうなづき「ワタシの本業は高校生だけどね」と言った。

 わたしは頭を傾げた。

 「じゃあなんでお出かけしないんですか」そう言うと二人はまたカカシみたいな顔になった。

 そしてテンチョウさんが後ろを指差した。「ここが私達の仕事場だ」

 あ。テンチョウさんとお姉さんの後ろの建物は見たことがあった。

 こないだおっとうと麦茶とコーヒー飲んだところだ。

 だからわたしはここに座ったんだ。

 「わたしも、ここでしごとしたいな」そうすればお金が入る。そうすればおっとうもあんなに出かけなくてすむ。ううん、おっとうもここで働けば楽しい。おっとうはコーヒーを飲みながら、わたしは麦茶を飲みながら、一緒に仕事をする。

 「それいいね」笑顔でお姉さんが言った。テンチョウさんがお姉さんを見るとお姉さんは笑うのを止めた。

 「ええと、メイちゃん、だっけ」テンチョウさんはわたしの前にしゃがみこんだ。そして頭に手を置いた。ざらりとした。

 「お母さんは何処にいるの」

 「え」何でそれを聞くのかよく分からなかった。「遠いところ、です」でも近くにきたような気がした。だから捜しに家を出た。でも雨が沢山振った途端、その場所が分からなくなった。

 「おとうさんは迎えに来てくれるの」

 「…分かりません」頭が、なにか渇いた。

 「お家の場所はわかるの」

 「もう少しすれば、分かると思いです」なんだか、楽しいお話ではなくなってしまった。なんでかは分からない。

 「・・・お家の電話番号は」

 「分かりません」体の水が小さなさじで掬っては捨て、掬っては捨てられているような、自分が減っていている感じがする。

 「お父さんはこの前一緒に来た人?」後ろでテンチョウ?、と言うお姉さんの低い声が聞こえた。

 体の中の、水面が荒れている。わたしの体から力が抜けていった。ここの空気はわたしに元気をくれない。

 「帰らなくちゃ」わたしはテンチョウさんの手から離れ、足を踏みだした。その足はわたしの体を支えることなく、わたしはかたい地面に倒れてしまった。


 「はい麦茶」ワタシは麦茶の入ったグラスをテーブルに置いた。

 「ありがとうございます」晴れない顔でもメイちゃんは丁寧にお辞儀をし、グラスにうつむいた。

 結局、ワタシも店長も店を空ける訳にはいかないし、メイちゃんをどうしていいかも分からずとりあえずカウンター席に座らせた。

 「どうしましょうか」カウンターでコーヒーカップを磨く店長に聞いた。

 「とりあえず、迷子で両親も困っているだろう。家の電話番号も知らないようだし。警察に電話してみてくれ。両親も気付いているなら交番に連絡しているはずだ」

 警察・・・。そっか、それならすぐメイちゃんもお家にすぐ帰れるだろう。「さすが店長。年の功ってやつですね」こういう発想がすぐ出るあたりが大人だ。

 店長は「まだまだ若いさ」と言ってまんざらでもない顔になった。「そりゃあ、二十年も喫茶店やっていれば色々なことが分かるんだよ…」話が長くなりそうだったので「じゃあ早速電話してきますね」とだけ言ってワタシは店の黒電話に手をつけた。これも大人だ。

 両手でグラスを持ちメイちゃんが顔をテーブルと向かい合うようにうつむかせストローを神妙に吸い始めた。「はい近エ交番」

 「あ、こんにちは。えーと近エ五丁目の喫茶タナカの店員の者ですが…」

 「どうしました」慣れた口調でオマワリさんは用件を急かした。

 「はい、じつはここに五歳くらいの女の子が一人いて迷子のようなんですが」

 「お客さんですか」

 「・・・いいえ。以前父親と一緒に来た子なんですが、お店の前で一人で座っていました」

 「今のところ、届けはありませんねぇ……ああ。じゃあそっちの住所を教えて下さい」

 「はい。近工町五丁目…」じゃあすぐ行きます、そう言ってオマワリさんは電話を切った。

 「あ、電話し終わった?」店長が横に来た。「はい。すぐ来てくれるそうです」

 「メイちゃん」カウンターを挟んで呼びかけると、メイちゃんは億劫そうに顔を上げた。「もうすぐお家に帰れるからね」

 「本当・・・?」メイちゃんの声は今にも沈没しそうな疲労感を感じさせた。「本当。今おまわりさんが来てくれるからね」

 その言葉を転がすようにメイちゃんはしばらく表情を動かさずにいた。そして「ありがとうございます」と言ってまたストローに、さっきよりは勢いをもって口をつけた。

 お母さんはいないのだろうか。色々の質問の途中でメイちゃんはパタリと倒れた。なんだか答えるのも辛そうで少し可哀想だった。複雑な家庭環境なんだろうか。以前父親と二人で居た時も、なんというか、付き合いたてのカップル同士のような初初しさのある不思議な印象を得たものだ。あの若めの父親は淡々とした口調で寝起きの様な目をしていた。ウチのとはちょっと、違う。頑固で不器用で憎めないワタシの父親は今も仙台からデコトラで野菜をどっかに運んでるだろう。繊細なんて言葉は知ってるだろうが馴染みもないし、漢字で書くことは一字もできないだろう。ドラマチックには展開しない家族である。

 メイちゃんはどんな環境にいるのだろう。色々と想像を膨らませてみたが、結局ワタシに何ができるかは分からない。こういう時大人だったらどうするんだろう。

 店長に視線をやると、店長もメイを見ていた。というより、眺めていた。そして視線を磨くグラスに戻し、やはり上の空な感じで細かくグラスを磨いた。別に珍しいことじゃないのかな。

 早くお父さんに会えるといいね。口にはださずにワタシはそう言った。

 メイちゃんがワタシを向いた。そしてほうけていた目に生気が燈り、ストンと席から降りた。ワタシはメイちゃんの向いたドアの方を向いた。「あ」

 自動ドアが開き、勢いよくメイの父親が足を止めた。少し肩で息をすると、両膝に当てていた両手ごと前に傾けていた体を元に戻した。

 突然の大きな音に驚いていたワタシと店長を見て彼は「失礼しました」と言った。


 お姉さんとテンチョウさんがカカシになった。

 「・・・メイ、無事だったか」おっとうはわたしの前に立ちそう言った。

 「うん」おっとうの体から熱いもやが出ている。そして黒い帽子は濡れていた。「ごめんなさい」おっとうは「いいんだ」と言って、テンチョウさんとお姉さんの方に向いた。「色々とお世話になったようで。ありがとうございました」そう頭を下げ、わたしの隣の席に腰掛けた。「エスプレッソを一つ頂けますか」そして帽子を取った。

 「まあ、とりあえず一服しよう」おっとうの心には熱がなく、さざ波さえ立っていなかった。なんでこんなに静かなんだろう。唯一揺れたのは今朝、わたしにお留守番を頼んだときぐらい。わたしはその約束を破った。「ごめんなさい」

 おっとうは頭を掻きながらわたしを見た。ちょっと困ったような顔をして、わたしの頭に手を置いた。「無事ならいいんだ」おっとうの手は少し温まっていたけど、ぐつぐつしていたわたしのあたまを穏やかにしてくれた。

 「よかったね」お姉さんが微笑んで言った。

 「うん」わたしは力をいれて頷いた。「どうも色々とご迷惑をお掛けしました」おっとうは頭を下げた。お姉さんは手を何回も振った。「いえいえ。ガラガラの席を一つ使っただけなので痛くも痒くもありません。ね、メイちゃん。お客さん全然来なかったよねー」

 「うん。ガラガラだった」本当にお客さんは誰も来なかった。お姉さんは笑っていないテンチョウさんに「ごめんなさい」と頭を下げた。

 「でも、オマワリさん呼ぶ必要なかったね」

 おっとうの心に一輪、波紋が広がった。

 そしてドアが一人でに開く音がした。「お邪魔しまーす」青い服と帽子のお兄さんが入ってきた。テンチョウさんがお兄さんのトコロに行った。「あはは噂をすれば、だね」お姉さんは立ち上がり舌を出してわたしに苦く微笑んだ。

 テンチョウさんと青いお兄さんはしばらくお話をしてから、お兄さんが先頭になってこっちに来た。そしておっとうの前に立ち、「この子はあなたの娘さんですか」と聞いた。

 「・・・はい、そうですが」おっとうは普通にそう言ってくれた。でもちょっと声が違う。

 「この人は君のお父さん?」今度はわたしに聞いた。

 「はい、そうです」わたしもそう答えた。

 「ごめんなさい、せっかく来てくれたのに」お姉さんが横からそう言った。

 「お嬢ちゃんは幾つなの」お兄さんがまたわたしに聞いた。「六つです」

 「じゃあ小学生?」

 わたしは首をかしげた。

 「じゃあ幼稚園生かな」

 「ヨウチエンセイって何?」

 「今日のお昼は何をしてたの?」

 「お留守番してました」

 「昨日は?」

 「昨日もお留守番」

 青いお兄さんがおっとうに向いた。

 「お手数ですが、ちょっと交番でお話聞いてもいいですか」

 口をつけていたエスプレッソを置きおっとうは言った。「はい。いいですよ」

 「店長?」熱を持った声でお姉さんが聞いた。「何を話したんですか」一瞬困った顔をしてから、テンチョウさんも熱を発した。「この二人は家族じゃないよ。親が子をさん付けで呼ぶか?」突然飛び交う熱達にわたしは体が苦しくなった。暑いよ。頭がぼうとしながらわたしはすがるようにおっとうに視線を向けることしかできなかった。

 「この二人は家族じゃないよ。親が子をさん付けで呼ぶか?」

 「そんな・・・、そんなの人の好き勝手じゃないですか?てゆうか、こんなところで言うセリフじゃないですよ!」

 投げあう熱の端々がわたしを撫でた。おっとうも突然の出来事に少し困った顔をしている。青いお兄さんも同じだ。おっとうに頼ってばかりじゃ駄目。わたしは必死に麦茶を吸った。が、あまり効果はなかった。氷はほとんど溶けていたし、なにより突然の温度差はわたしを異様に疲れさせた。クーラーのスイッチ・・・。わたしは落ちるように椅子から降りてクーラーのりもこんを探そうとした。「きゃっ」体が持ち上げられ、わたしは椅子に戻された。そして大きな手にかぶされた両手の中に目の覚める冷たい感触があった。大きい氷の入った水のグラスだ。「これは冷えてる」おっとうはそう言ってわたしに笑いかけると気持ちの良い大きな手をわたしの手から離し、椅子から下りて立ちあがった。お姉さんがおっとうに目を向けテンチョウさんがおっとうを横目で見た。「お会計お願いします」お釣りを受け取るとテンチョウさんに「迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」とお姉さんに「ありがとう」と頭を下げた。「いえ・・・」お姉さんはそう呟きテンチョウさんは黙っていた。二人の熱はそれぞれの形でテンチョウさんとお姉さんの中に留まり、その端がわたしに触れることはなくなった。

 「お待たせしました」そう言っておっとうは青いお兄さんについた。「メイ、行こう」

 わたしはおっとうが何て頼もしいんだ、と思った。おっとうはわたしと同じ熱を生まない心でしかも、熱を防ぐこともできる。こんな簡単に・・・。でもおっかあとは違う。心地いい黒い部屋の中の奥のおっとうの底に何回かみた、薪でくべられたようにゆらゆらと水面に映ったピンク色。追いかける背中の端にそれを浮かべ、わたしはおっとうの後に走った。

 

 調べれば、書類上では、メイが私の娘でないことがすぐ知られる。私は認知していないが、心当りのある女性から送られてきた娘だ、と警察官に伝えた。勿論、そういうことなら…などとは言ってはもらえなかった。

 メイは、書類上では、誰の娘でもない。迷子届けも捜索願いも出ていない。メイの嫌がる様子も見受けられなかったためだろう。私とメイは帰された。

 街灯もまばらになり、私とメイは先程とはうって変わって静かな暗闇の中で家路を辿った。何時間か前、記憶のメイに問いた言葉達は実際のメイを横にして、口から出す必要性に迷う。メイも少なからずとも同じなのかもしれない。

 なら、しゃべらなければいい。

 なぜメイは外に出たのか。その理由は私を少し不安にさせた。それは私からすれば何年ぶりかの頼みごとだった。それが破られることは、メイにとって外に出ることが私との約束を破る以上のことだったということ。止めよう。切りがない。

 「はい。そうです」

 私を父と肯定してくれた言葉。それだけを余韻として許し、私は雪の灯りのようだったメイの母親を想った。

薄暗い風景は見慣れた雑踏へと変わっていった。「メイ、眠いか」

 「ううん」

 その中でやわらかく灯る家々の明かりが私を少し切なくさせた。「じゃあちょっと散歩に付き合ってくれないか」

 「うん」

 私は小山公園に向かった。何のためかはなんとなくだが、多分寝たら仕事だからだ。

 家の前を通る道順を辿った。メイが少しでも道を覚えてくれればと思う。

 公園に近づくほど、メイの足取りは心なしか軽く、確実に早足になっていった。

 「わ…」立ち並ぶ木々に穴を開けたように、ひっそりと設置された入り口に着くと、メイは声を出した。

 何時間か前に来たときとは、また何か違う。公園の自然が暗闇を深くしている。

 私達は緑道を歩いた。私は雑木林やベンチに今日メイを探していた記憶を眺めたりしながら、メイはあちこちに忙しく頭を向けながら、公園の内側を円状に囲む砂利道を歩いた。

 一周しかけたところで、私は中心へと向かう石道に足向きを変えた。メイも後ろに続いた。

 するとメイが走り出した。「あ。メイ、気をつけろ」

 私の注意に丁度良く、メイは林を抜けたところで転んだ。私は駆け寄った。「大丈夫か」

 私の言葉に答えずメイは前方に顔を向けていた。私はメイの体を持ち上げた。「しょうこ。小さな湖と書くんだ」

「しょうこ…」眼前に小さく広がったこの小湖は公園の中心に位置する。高い木々に囲まれ夜には秘密を思わせるひっそりと開かれた場所だ。林から十歩程度を余地とし、小湖は黙し凛と構えていた。四百メートルグラウンド小程の水平な楕円湖の上空には、家もビルも電線もなく林に縁取られた空を仰ぐことができる。昼には差し込む日光で川底が見える程澄んだ湖だ。小さくはない公園であるが平日の遅い夜にはほとんど人はこない。「ここは私のお気に入りの場所なんだ」外の自然の空気と繋がっていたい夜、特に冬には携帯灰皿と缶コーヒーを持って私はここで三十分ほど静かにしていたものだ。

 私に降ろされたメイは湖の淵にまで歩み寄り、しゃがみ込んで水面の中央を眺めた。「なんてすてき…」

 「ああ」私はそう答え、木を背に煙草に火を点けた。勿論携帯灰皿は持っている。心地よい宵に吹き揺れる煙、それを見ながら私は一日の区切りを思った。

 「星が見えないここに、こんな綺麗に水があるの」メイは濃い陰になった後ろ姿を動かさず、そう呟いた。

 「…そうだな。私もここの景色には落ち着くよ」

 「静かになれる?」

 「うん。静かになれる」

 メイの手が縦に振られるのがシルエットで見え、ぽちゃん、と湖面にしとやかな波紋が広がった。

 「なんで熱を出して周りの人にぶつける人がいるの」再び広がった静黙にメイの声が呟かれた。

 「…熱?それは誰のことだ」

 「・・・お姉さんやテンチョウさん。最初から、みんな、小さな熱の粉はそこらに飛んだり、浮いていたり、降ってきたりしたけど…あの青いお兄さんが来てから今までの小さな熱のカケラを集めて大きくして、投げあってた」

 「…。それは声を大きくしたり、眉毛が内側に傾いたり、目に力が入ったりしている時かな」

 メイの頭が横に傾いた。

 そしてこっちに暗がりでのっぺらぼうな顔を向けて言った。「そんな感じ」

 私は煙草を一口呑んだ。「ひょっとしたら、お姉さんも店長さんもメイのために、または私達のためにそうしたのかもしれない」まだ傾いたままのメイの頭に私は続けた。

 「いや、結局自分を好きになってもらうため」

 「・・・・・・。好きになってもらうためには、熱を出さなきゃいけないの?」

 「自分のいいところ悪いところ、それを分かってもらうために、たまに熱を投げなければいけない時がある、そう考える人は沢山いると思うよ」

 「・・・おっとう、もいつか投げるの?」

 「かもしれない。でも私はぶつけるのもぶつけられるのも苦手なんだ」体が僅かに振るえたのを抑え、私はそう答えた。

 「わたしも」メイは振り返り、私の方に歩いてきた。表情は見えないが、その声は今のやり取りの中で一番確かなものだった。

 「じゃあ、行こうか」目の前で立ち止まっているメイにそう言い、私は煙草を携帯灰皿に差し込んだ。

 「うん」私たちは小湖を後にした。

  小森公園を抜け出、私たちは眠ったような住宅街の坂道の端をゆっくりと下った。長い様に感じた一日も名残惜しい夜は気づけば後は寝に着くだけである。

 「好きになってもらったとき、その人はどうなるの」メイが私の背後からそう聞いた。

 大分メイとの距離が離れていると分かり私は歩を緩めた。

 「ぬくもりをもらう」

 「ぬくもり、って?」

 「例えば、手をつなぐ。その人と自分、二人で二人だけの暖かさをつくり、二人で温まるんだ。その心地良さがぬくもり、だと思うよ」

 「…。おっとうも、ぬくもりが欲しい?」

 「そうだね。欲しいよ」

 左の手の平に何かが触れて離れた。振り向くとメイが右手を素早く戻した。メイの指が触れたようだ。メイは立ち止まり右手を左手で胸に抑えた。

 私は立ち止まり、少し躊躇って左手を広げメイに向けて伸ばした。「ありがとう」

 街頭の下でメイが微笑んだ。

 私とメイは坂道を下った。家まではあと十分もかからないだろう。メイの歩幅は狭い。私も歩幅を合わせた。

 私は眼を細め、歩く道を見つめた。おっとうと呼んでくれてありがとう。

 繋いだ手が二人の陰を一緒にしていた。



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