Le prologue
永らくご無沙汰しておりました。覚えておいででしょうか、雪灯りと呼んでいただいた女にございます。突然の連絡、心より深くお詫び申し上げます。さぞ御戸惑いの事と思います。勿論あなた様と同じにこちらも二度と連絡するつもりはなく、一時の想い出より期待多く考えることなど決してございませんでした。その筈が学浅いばかりに、あなた様に頼る以外の道に思い当たりませんでした。この手紙を持たせたのは、私とあなたの娘です。まさかとは思いましたが、それ以外には考えられないのです。不躾ですが、しばしの間、娘を奉公させていただきたく、娘をやりました。名はメイ、と申します。詳しく記す暇なく、口足らずで申し訳なくも、どうか、短い間預かって下さればと思います。心静かなあなたに押し付ける様な形となり、口惜しい程申し訳なく思います。もしご承知いただけない時は、お手数をお掛けしますが月のない夜に澄んだ水気を散らし、人気のない木々の下に行かせていただければと思います。どちらにせよご面倒おかけしますがどうぞよろしくお願い致します。
部屋のドアを開け、荷物と食べ物の入ったビニール袋とレンタルビデオの袋を下ろした。そして明かりを点けようと伸ばした手元に、白くゆらりとこの手紙が落ちてきたのだった。
しばらく暗闇の中を靴も脱がずに立ち竦んでいた。その言葉は私を深い回想へと押し込んだ。寒い夜。鼻の触れる距離。白い女性の顔。薄く暗く靄のかかった脳裏で反芻した。雪あかりの女。耳が熱を持った。そう呼んだだろう過去の自分に、私は照れるような気持ちになった。そして、意識が頭の底から上がり戻ると、口が動いた。 「娘…。私の?」自分の声を耳にした瞬間、私は冷ややかな感覚を捉え、目線を奥へとやった。暗闇の溜まる部屋隅で何かが動いた。
消墨色の世界を舞う黄色い目のウサギ、が大きく描かれた浴衣か着物かが見え、その肩に横がかかる髪型の顔がぼんやりと見えた。小さな女の子が立っていた。
「君は」
娘をやりました。
「メイ、さん…?」少女が小さく頷いた。
「君が…お母さんから私のところに預けられに来た……私の、むすめ…なのか?」
少女の顎がもう一度うなずかれた。「よろしくお願いします」
何も分かってないのに私の顎が一度、上下した。蒸す様な熱気が体を覆い、私の頭の中で渦をまいた。
忘れていた足の感触を確かめるように数歩進んだ。そして右手を左右に振り伸ばし、電灯の紐を探した。この状況をもう少し現実に繋げるために。
白い光が点灯し、部屋に広がった。飲み込むような小さな悲鳴が聞こえた。薄めた目を開くと、確かに目の先には少女がいた。少女は眼を覆っていてその黒い髪が小さく揺れた。そのまま少女はうずくまり、顔を下にして崩れ落ちた。
私はしばらくそのまま立って眺めていた。そして、訳の分からぬまま素早く電気紐を引っ張った。
視界が闇に包まれた。
ようやく周囲の輪郭が見え始めても少女は動かなかった。
私はとりあえず寝室へと向かい、敷いたままだった布団を整えた。そして少女をそっと持ち上げ、寝室へと運び入れた。少女の軽い体と麻生地の乾いた手触りだけが現実的だった。布団に寝かせ、薄いタオルケットを一枚被せた。額に手をやると、小さな水たまりと感じれるほど汗が出ていた。着替えさせたほうがいいだろう。私は半ぼけのままコンビニに行き、男性用の肌着を三枚セットで買ってきた。
肌着はすぐに沢山の汗を含み、私がコーヒーを飲み一風呂浴びた頃には二枚目の肌着に着替えさせた。脱がせた肌着を洗濯機に放りこみ、コーヒーを入れた。
煙草を一本吸い終わり、コーヒーを持って寝室へと入った。落ち着いたか、と近寄ってみると少女の荒い息が聞こえる。汗のひかない体に触れるとさっきよりも骨の感触が強くなっていた。痩せていっていた。私は困った汗をかき、とりあえずはだけていたタオルケットを被せ直した。すると聞こえる呼吸は次第に肩でするようになり、仕舞いには不規則にかすれたものになってきた。「あつい…」そう呟いたので、私は慌ててタオルケットを取り上げた。少女は目を瞑ったまま、海面に上がったように大きく息を吐いた。それでも汗は止まらないし苦しそうだったのでクーラーをつけてみた。すると、どうしようか思案しているうちに少女の寝息は落ち着きをもっていった。
そして今。リモコンの表示は二十度だった。季節はとても暑い終夏、私は押し入れから引っ張り出してきたカーディガンを羽織っている。そして贅沢の甲斐あってか、少女の寝息は細いが規則的なものとなった。
少し、いいだろうか。私は和紙を被せた小さな間接照明の電源を入れた。灯った明かりに一瞬だけ少女のまぶたが動いたが、光を柔らかくしたためか、さほど辛そうでもなかった。
5歳、くらいだろうか。幼い。顔全体の印象は薄く、長くない睫毛が髪と同じく淡く青みを含んだ黒で濃く目に留まる。表情に薄く灰色が差しているが、逆にそれは小さな輪郭の中で整頓された顔に独特の、宵に浮かぶ舟の様な雰囲気を作り出していた。
…似てる。彼女の面影が間違いなくこの子にあった。少女の口が小さく呻いた。その平和な仕草に私の目元が僅かに力をぬいた。そして小さな額に手を当ててみた。手の甲にそよぐ髪の感触があり、そして、懐かし過ぎる心地が手の平に触れた。
この涼しさを感じたのは、あの夜は、五年以上前のことだったということだろうか。あまり、覚えてない。やはり…私の子なのだろうか。どうやって確かめればいいのだろう。認知した覚えもないが、どうすればいいのだろう。
…奉公させてと言われてもな。
寝不足の頭がぐるぐると回り、こめかみに力が入る。煙草に火をつけ、乾いた唇から煙をはいた。ん、と呻く声が聞こえた。寝苦しいのかと彼女の顔を注意深く覗き見ると、微かに言葉が聞き取れた。
おっかあ、おっとう。
そう呟いていた。
頭の回転が穏やかになった。そして胸中の一点が熱を帯び、唇が僅かに締められた。
まぁ…明日、考えればいいか。煙草を消し、布団の隣に毛布を敷いた。その上に横になり、私は目を閉じた。
外に置いとけ、って言われてもな。
「申し訳ございません…はい。いえ、大丈夫です。月曜は出ます。ご迷惑をお掛けします。はい、ありがとうございます。では失礼します」
電話を置き、私はテーブルに座り直した。
「じゃあ、メイ…さん。まず苗字を教えてもらえるかな」
一間、静寂を置いて少女の首が左右に二回ふられた。「わかりません」
私は鼻で大きく息を吸い、お茶を一口飲んだ。「あ、じゃあ、お母さんの名前は?」
少女は手を後ろへとまわした。そしてピッという電子音と共に、冷たい風が私達を扇いだ。
少女は両手を膝に、仰々しくお辞儀をした。「ごめんなさい」
「うん」私は頬を掻いた。「別にこっそりクーラーを使わなくていいんだ」
少女は背後からエアコンのリモコンを取り出し、丁重に両手で差し出した。
私は受け取ったリモコンを少女に返した。「遠慮しないで、使えばいい。それよりお母さんの名前、教えられないのか?」少女が一回、頷いた。
娘を預ける夫に妻が名前を教えないなんて、自他共に結婚はしてないが、とにかく都合の良いおかしな話だ。まぁ、あの日も手紙でも教えてくれなかったし、何故かそこまで興味も湧かない。私の気持ちでは諦めのような納得ができていた。
だが、それ以前にこの子が私の娘と決まった訳ではない。預かる預からないは別として、これから動く上で現状を理解する必要があると思うのだ。私は、この子が昔一夜関係を持った女から送られてきたこと。そしてこの子の名前?がメイであるということしか分かっていないのだ。
「じゃあ、住所は?」
「住所って何」
うん、と私は眉をしかめた。そして「お母さんと、どこに住んでるの?ってこと」と聞き直した。すると少女の顔に初めての明かりが灯った。私の顔にも明かりが灯った。「分かるか」
「山奥!」少女は元気よく答えた。
私はテーブルに両肘を乗せ、向かいのイスの上に正座する少女に言った。「麦茶飲むか?」
「うん!」良かった。麦茶は気に入ってくれた様子だ。やっぱり子供は元気が一番だ。
朝起きたらまだ洗濯してない着物か浴衣を着ていて、昨日一回着させて脱がせた肌着で床そうじをしていて、エアコンの温度は十八度だった。私の体温は三十八度を超えているかもしれない。
はは、若いな。
幼さを少し恋しく想い、私は麦茶を入れたコップに氷を四つ入れた。
「ちょっと失礼」そう私はトイレに行った。
戻ってくるとメイが床にうずくまっていた。
「おい、大丈夫か」床で呻くメイに聞いた。「冷たくて硬い」テーブルの上の麦茶には氷がなくなっていた。どうやら飲み込んでしまったようだ。
そりゃそうだと私は困ってしまった。とりあえず喋れるということは呼吸ができないというわけではないだろう。私はメイの背に手をやり、大丈夫か大丈夫か、と阿呆のようにさすり続けた。
「もう、大丈夫、です」そう言って、また肌着で床を拭き始めた。
私はメイを背後から両手で持ち上げた。きゃっ、と両手両足をばたつかせるメイに「そんな気を使うことはないんだ、座っていなさい」と言って脇に下ろした。すごく軽い。
解放されたメイは早々と部屋の隅まで這い、正座した。初めて会った時もそうだったが、この子にとって部屋の隅は安心な場所のようだ。気持ちは分からないでもないが、明るくない部屋の中(電気は夜オレンジ灯しか点けない、蛍光灯はメイが眩しそうにするから)こっちを向いて体育座りをされる方はあまり落ち着けない。
子供っていうのはこんなにも手間が掛かるものなのか。私は全国の母親に光明を感ずる想いだった。
「ほら、その着物も脱ぎなさい。この前買ってきて、まだ雑巾にされてない肌着が一枚残っている。これを羽織りなさい。それはきれいにしような」
男性用肌着をもって近づくと、メイは両手で自身を抱きしめ、首を振った。私は変態か、と少し哀しい心持ちになった。
私は台所の換気扇に向かい、煙草に火を点けた。
これではいかん。現状維持に精一杯で状況把握もままにならない。
まぁ、幸い金のかかる趣味もないため、生活費くらいはなんとかなるだろうが、とにかく、日常環境を整えなければ…。心に余裕の持てる日常があってこそ、が私の持論だ。
よし。煙草を消し、風邪薬を栄養ドリンクで飲み込んだ。
私はメイの前にしゃがみ「買い物に行こうか」と言った。メイの口元が引き締められた。
「君が着るもの。君が着たい服を買いにいこうか」メイはまだ少し訝しげだったが、少し開けた口と見開かれた両目が買い物に連れて行く意義を感じさせた。「麦茶飲むか」
「うん」
「よし。入れよう」私は台所へと向かった。
明日は休日だ。とりあえず今日はこれで大丈夫。考え過ぎるのは毒だ。しゃがみ込み麦茶のパックを取り出した。重い頭をうつむかせることを止め、私は勢いをつけて立ちあがり、天井に顔を向けた。突然視界が揺れ、足の力が抜けた。ん。白くぶれた視界が焦点を取り戻すと、メイが近くで私を心配するように眺めていた。「大丈夫?ですか」
「ん」私は立ちあがり目の前、から一歩離れて見上げるメイに「うん、大丈夫だ」と言った。
「ちょっと横にならせてもらうよ」そう言って私は寝室に向かった。
毛布の上に横になり、布団も、とりあえずもう一組買ったほうがいいか、などとぐったり考えた。
「麦茶飲む?」いつの間にか傍にいたメイがそう言った。
「…うん。ありがとう」いい子じゃないか。台所へ向かう少女の足音を聞いているうちに私の意識は床に吸いこまれていった。
さぁ、デパートに行くぞ。
と、風邪の余韻により喉の痛む声で、外へのドアを開けた。まだ十時にも関わらず、外は日光が眩しく、やっぱりもう少し遅くにすれば良かったか、と思わせる暑さがあった。メイは暗い室内に差し込む柔らかな明かりを浴びると、半目の両眼を瞑り、外からの爽やかな空気をたぐるように右手のタオルケットを引きずりながら、のそのそとドアまで歩んできた。そしてそのままドアを出た所で崩れ落ちた。
「うお」慌てて固い床に倒れるのを阻止し、部屋のベッドに戻した。
一時間後。
五杯目の麦茶を飲み終わると、メイは立ち上がりドアの方を向いて、顔を強張らせた。ドアを睨む視線と、低く落とした腰と、少しずつ前へと進むスリ足が、私はデパートに行く、という強硬姿勢なのだと解釈できた。そういえば、メイは眩しいのが苦手だった。部屋をほろ暗くしているのに慣れてしまって、つい忘れていた。ならば夏の日光の眩しさなど大きな脅威だろう。あと、暑いのも苦手か。
私は押入れに向かい中を漁った。何か彼女を助けてくれる道具はないものか。明日から私は仕事に行く。決心が焦りと緊張を生んだ。
・・・ハンチングが出てきた。が、浴衣に洋風鳥射ち帽子など私には抵抗があった。今ふと、メイのその消炭色の浴衣と青みを含む黒髪を基とする一つの抽象。その調和の中心をずらしたくない思いが少なからず私にはあるのかも知れない、と感じた。サングラスも出てきたが、どちらにせよ暑さは塞げない。うん、と考え始めたところで好い物を玄関に見付けた。
「よし、デパートに行くぞ」ノブを握り、私はメイと自分に意志確認をした。
「はい」私の一メートル後ろで、メイは厚みのある頷きを返した。覚悟のような決心が確かにあるようだ。
「開けるぞ」私はメイと自分にそう告げ、外へとドアを開いた。爽やかな空気と射すような日差しと押し込まれるような暑さが私を順番に襲った。「よし」
そういって私は右手を天に上げた。そしてその手に握られたものの一部を左手で勢いよく押し上げた。
黒く小さく、傘が円状に開かれた。すると私を中心とする空間には、部屋には劣るものの、涼しさとほろ暗さが生まれた。「悪くない。来てみなさい」
メイはゆっくりと黒いビニール傘の下へと入った。私はメイを見た。メイは私と傘を見上げそして「悪くない。です」と言った。
「よし、じゃあ今度こそ、出発だ」傘をメイに持たせ、私とメイは出発した。
階段を降りるとき、私のすぐ後ろで追う様に鳴る足音が、私とメイを木陰のような現実感で覆った。
私の気持ちが少し引き締まり、私達はデパートへ向かい歩を進めた。
十五分も経たないうちに、中間地点の駅に着く頃には、メイがばててしまった。肩が上下し息はか細く荒く、前に垂らした両手の袖が地面に着いてしまいそうだ。そうなるだろう、と出発後すぐに日傘を私が持ったのだが、考えが甘かったようだ。それとも、ビニール傘に遮光効果を求めるのが元々の間違いだったのだろうか。時刻は十一時三十分とちょっと。急ぐことはない。「喫茶店にでも入ろう」
「まだ大丈夫です」きっぱり、でもかすれ声でそう言ったメイに私は失笑し近くのちょっと裏にある喫茶を定め、中に入った。
「いらっしゃいませぇ」
べっこう色の長い髪の若い店員がしとやかに私達のテーブルについた。軽く会釈を返した私に向かって視線を返し「ご注文はお決まりですか」と言った。「エスプレッソと…メイ、さんは決まったか」メイは先程と変わらず呪うようにメニューを睨み込んでいた。私は店員に聞いた。「麦茶はありますか」 「えー。麦茶は、ないんです。ごめんなさい」とメイの様子を申し訳なさそうに見て「ウーロン茶ならあるんですけど。これがこの店で、一番麦茶に近いと思います」 「メイさん、ウーロン茶でいいか」 メイは小さくはいっ、と大きく相槌を打った。疲れた目を細めている。「じゃあウーロン茶をお願いします」メイの様子を嬉しそうに眺めている店員に言った。「かしこまりました、それではごゆっくりなさって下さぃ」そう言ってウエイトレスは下がっていった。カウンターでは店主らしき男がこちらに目を向けていた。昼時なのに他に客はおじいさんとおばあさんの一組だけだった。ウェイトレスもさっきの若い女の子しかいない。だからこの店に入ったわけだが。そして私達の間に会話がなかった。
「そういえば、メイ、さんの歳は幾つなんだ」
メイは指を四つまで折った。「六つ」 小学一年生か。ランドセルを背負うメイ、を思い浮かべたところでさっきの高校生ぐらいに見えるウエイトレスが飲み物を運んできた。「お待たせしましたー」
「ありがとう。ほらメイさんも飲もう、まだデパートまで半分程度だ」神妙な顔つきでうなづいたメイは両手でウーロン茶を受け取りストローに口をつけた。
「娘さんなんですか」
店員が目を大きく開いた笑顔で私の返答を待っていた。
「…みえませんかね」
店員の顔が強張った。「あ、いえ。…さん付けしてたのが面白くて、お気を悪くしたのならごめんなさい」そう言って店員は頭を下げた。
「いや、やっぱり変かな。どうも敬語が口に染みついてしまっていて…。よく堅苦しいとか言われます」頭を掻いて私は焦りを散らした。「いえっ、大変素敵だと思います」微妙な誉め言葉を述べて店員は「ウーロン茶おいしい?」とメイに聞いた。メイは眉毛の上がらない笑顔で「おいしい。です」と店員に答えた。 すると店員は最初の笑顔で「ほんと?良かったぁ」と言った。
「ちょっとトイレに行ってくる」エスプレッソが空になり、ウーロン茶が半分になり、私は席を立った。
手洗いの鏡に映る自分は、自宅以外でトイレを利用したとき見る自分の顔とさほど変わり無かった。さっきは少し動揺してしまった。親戚の子を、と答えそうになった。そして途端にメイの立場が頭に浮かび、強張った声が出てしまった。さん付けは周囲から見たら不審か。六歳児にいい大人が敬語だものな。警察を呼ばれないだけ良かったと喜ぶべきだろうか。
親戚の子を預かっているのです。
はい。私の娘です。
メイにとってどっちが嬉しい。…。だが、「親戚の子」なんて言うのはメイの孤立感を煽るだけのように思えた。洗った手を拭き、席へと戻った。メイが長いストローの挿してあるペットボトルを両手に持っていた。ラベルには「祖母の麦茶」と書いてある。「それどうしたんだ」席につき、聞いた。メイは「あの御姉さんがくれ、ます」とペットボトルを手にしたまま、体と両手の小指でさっきの若いウェイトレスを向き指した。いや、私はいらない…、とつい呟いたところでウエイトレスがこっちに気づき、手を振った。私は小さく会釈を返し、メイは両手のペットボトルをくるくると回転させていた。
「飲まないのか」
私がそう言うと「飲みます」とメイは眉と口の緊張を緩め、ストローに口をつけて音もなく吸った。ウーロン茶だけグラスごとテーブルからなくなっていた。苦いのかな。
「ありがとうございましたー」会計を終え私は「麦茶どうもありがとう」とペットボトル代を断ったウエイトレスに言った。「ああ、いえーそんなぁー。なんでもないです」と彼女は若々しく笑った。実はエスプレッソのカップの下に二百円を置いてある。私の方が一枚上手だ。
それはともかくと彼女を見ると、最初はパンチ強く見えたべっこう色の髪の毛が今は遠慮がちに背中に下ろしてあるように見え、なんとなく名札に書いてある「黒木えり」とあいまって彼女がうららかに見えた。
「ご馳走様でした」「ごちそうさまでした」お辞儀をするウエイトレスが閉まるドアーに隠され、私達の眼前には日差しの照る街中が現れた。
「よし、じゃあ頑張るぞメイ」
「はい!」黒い傘は少し頼もしく開き、メイと私はまたデパートを目指した。
浴衣を三着。あと下着と靴下。と黒に青の斜線が一本入った日傘。布団。つっかけ(木製サンダル)を買った。結構な出費に財布を撫でながら、私は各階案内のプレートを見た。「ほら、メイさん。上に行くぞ」周囲に好奇心一杯なメイを呼び、私たちは七階へと向かった。エスカレーターから頭を乗り出し下を覗くメイを制しながら、おもちゃ売り場へと辿りついた。「さてと」メイが私を見上げた。売り場には沢山の子供が売り物のロボットやらゲームやら人形やらを手に取り、大いにはしゃぎ尽くしていた。クーラーがよく効いている。
普段、というか明日からは私も日中は仕事に行くつもりだ。その間、メイが暇を潰すなにかを買う必要があると思うのだ。「ほら、何か欲しいものを探して来なさい」正直、どんなものが彼女の遊び心に火をつけるのかさっぱり見当もつかない。メイの様子を観察し決めることにする。子供がひしめき、七色の音飛び交う売り場の様子に戸惑っているのか、少し恐る恐るな表情と足取りでメイは奥へと進んだ。その右手前方にまず、TVゲームに興ずる男の子がいた。硬くコントローラーを握り込み、真剣な面持ちの少年にメイは足を止めた。そしてその位置から怪訝そうにTVを覗き込んだ。
TVゲームか、悪くないかもしれない。私はそう思った。これなら長い時間を掛けて楽しんでくれそうだ。逆に人形とかロボットだと二・三日振り回していれば足か腕か、はたまた首が折れて飽きてしまいそうだ。ちょっと違うか?
だが、私の関心も虚しく、メイは奥へと歩を進めた。どうやらピンと来なかったようだ。おもちゃ、というよりも売り場の様子を伺うようにメイはゆっくりと周囲に顔を動かしながら歩いていた。時間がかかりそうだった。喫茶店でコーヒーと煙草で一服したい気持ちを抑えつつ、私は近くの椅子に腰掛けた。
ぼう、としていた。
「お父さん。これ買って」父親におもちゃをねだる息子がいた。両手に大小様々な買い物袋を下げた父親は「我慢なさい」と億劫そうに言った。
そして気付いたらメイの姿が見えなくなっていた。立ち上がり、売り場の奥まで行ってみたが見当たらない。デパートのどこかの隅で蹲り体育座りをするメイの様子が想像された。
しまった。七階を一通り歩いてみてもメイの姿は見えなかった。息の荒いグルグル眼鏡の男がメイを飴玉で誘う様子が浮かび、私は足を速めた。そうだ、放送を使おう。早足でエスカレーターへと戻るとおもちゃ売り場前でしゃがむメイを発見した。入り口にいたのか。ほっ、と溜息をついてメイに近づくと、彼女の目線が強く前方のTVに向けられていることに気付いた。私はメイの隣にしゃがみ込み、TVに注目した。子供向けのアニメだ。メイは間近に顔を遣っていた私に気付き、両目を見開いた。なかなか熱中していたようだ。
「これ欲しいか?」そう言うとメイは眉端をハの字にし、唇を波線にうにうにと結んだ。
私は立ち上がり「これ下さい」と店員を呼んだ。
はぁーい。と店員が駆け寄ってきて「良かったね」とメイに言った。
「うん!」と笑みのにじむ顔で彼女はそう答えた。その笑顔にうんうん、と感無量な私に向けて「二万九千八百円になります」そう店員が告げた。
「もう駄目」そう言って太郎くんは倒れた。「諦めちゃ駄目!」そう言ってアンフィは太郎くんを揺さぶった。半死の人間を揺さぶるとは…。顔を歪める私の横でメイは駄目ぇ、と床につけた両手をぐいぐい押し込んだ。「実は僕、Anfiちゃんのこと…」がふっ、太郎くんは肺を抑えたくなる様な咳をして「もう駄目だ」ともう一度言った。「太郎くーん!」Anfiの叫びがこだました。
ああっ、とメイは床をばんばん叩いた。下にも住んでいる人がな…と言いたいが、メイはおとなし過ぎるので咎めるのも躊躇われる。
そして太郎くんの遺言も中途半端に「見付かりましたぞー」突如、白髪で細身の老紳士が宙を舞って現れた。「Sebastien!(セバスチヤン!)」Anfiはリアクションの取り辛い名前を叫ぶと老紳士の投げた、フライパンほどもある黄金色のエーデルワイスの花を受け取り、「これで作れるわ!ありがとうSebastien!(セバスチャン!)」と言った。展開に理解の追いつかない私の横でメイの興奮は鼻息荒く床への振動も最高潮へと達していた。止めてくれと念じる私の心境とは裏腹に、T?画面ではテンションの高いメロディが鳴り響き、その中心でAnfiはどこに携帯していたのか先が細長い花瓶のようになっている私の背丈程の黒い杖を手にし、先の空洞に銀色の粉とエーデルワイスの花の一片を入れた。そして自分ごと回転しながら「ナムアミアーメンバラモン」と言った。
今度は神仏混同か、と私が耳を疑うと「太郎くんが元気になりますように」Anfiは杖先の中に息を吹き込んだ。そしてそれを逆さにすると銀の粉がパラパラとAnfiの手の平に積もった。「さっ、早くそれを太郎殿に」Sebastienの声は相手にされず、Anfiは静かに粉を一摘み太郎くんの口に押し込んだ。
十秒後、太郎くんの目が開き、そして礼を言った。Anfiは友情を語り、Sebastienは何か述べて物語を締めた。
テンションの低いエンディングロールを見つめながら、太郎の中途半端な告白による今後の二人の関係への亀裂と、忘れられているだろう残ったフライパンほどもある一片欠けたエーデルワイスの花の運命とを皮肉に心配する私をよそに、メイは満足気に麦茶をゴックンと飲み干した。「楽しかったか」 「うん!」そうじゃなきゃ困る。笑顔でそう思った。シリーズ物だからセットで買ったとはいえ、三万近くもするとは・・・まぁ、これで当分の間は、日中は仕事をこなし、夜に今後の対応をじっくりと考えることができるだろう。明日はいよいよ仕事だ。まだ風邪による肉体と、あと心の疲れが少し残っているが、そんな愚痴は許されない。目線を落とすと、床に置かれたアニメビデオが目に入った。「Secret・Anfirmier」直訳すると、秘密の看護婦。なんともいかがわしい看護婦だ。題名が気になって辞書まで使ってしまった。子供にとって知らない言葉の意味なんて存在しないのだろうか。散らばったビデオテープとケースを戻したところで、視線に引っ掛かったビデオがあった。
「看護婦、犯す」
固まった私を心配そうにメイが見つめた。 「なんでもないよ」
アダルトビデオ延滞の恥、そしてメイが目撃・鑑賞していた場合の影響、その二つが灰黒い濁流となり私を深い気疲れへと飲み込んでいった。