前編
1
夜の深蒼。木々の濃陰。満月の下、静かな森を銀を帯びた光が一閃する。
ヒュンと風を切る音。遅れて、草木がざわめく声。光かと思われたそれは、月明かりに反射する銀の長い糸であった。
銀は幻のように流れ、一瞬で視界から消えてしまう。
駆けるそのスピードは、人の目に辛うじて残像を残す程度。
風のように流れるそれは、天使か。はたまた、魔族か。
「……」
木々を抜けたその身を、淡い月光が照らした。
それは人の姿をしていた。天使のように純白の翼を所持している訳でも、魔族のように人型を凌駕する身体能力を秘めた異形な肉体を持っている訳でもない。はためく深紅のマントに白いシャツ。濃紺のジーンズ。全身にたくさんの金具を付けた一風変わった身なりをした男は、長い青がかった銀の髪を夜風に靡かせ、すらっと伸びた長い手足を懸命に前へ前へと突き動かしている。闇を灯す強い青瞳。月明かりにやけに映えるその姿は、紛れもなく人間だった。
しかし、姿は一瞬で再び森然に入り、見えなくなってしまう。
「…………っ」
木々を掻き分け一直線に突き進む男――リチウムの表情には僅かに焦りの色が滲んでいた。
事は三日前。リチウムの相棒を務める小さな少女――リタル・ヤードの姿が消えた。
深夜、仕事の時間になってもホームに戻らず連絡一つ寄こさない。ストーンハンター・フォルツェンドとして彼女とコンビを組んで五年間、初めての事だった。
ありとあらゆる場所に様々な魔石が転がっているこの世界にストーンハンターを生業としている者は決して少なくない。正規のストーンハンターはストーンハンターギルド――SHGに登録した後、他の登録者を募ってパーティを組みハントに赴きながら経験と知識を蓄えていく。一方リチウムとリタルはギルドには登録していない野良ハンターと呼ばれる存在だ。理由は簡単で、そもそもリチウムの師が野良ハンターであった事、それに何よりリチウムはギルドに入る程収入に困っていなかったからだ。
SHGは世界各国に設営されている。ハンターはそこで現地の魔石情報を仕入れたり、講師や他ハンターから技能を学んだりする。SHG内には様々な企業から出された依頼書等も掲示されており、ハンターはその中から自身の技量、賞金等、条件に合うものを選び競い合ってハント、報酬を得ている。
一方、野良ハンターの収入源といえば、大企業に雇われた専属ハンターやら、リチウムのように天使やコレクターに密売している者まで様々だ。
リチウム達フォルツェンド一味の活動は深夜で、魔石探知機で目星を付けた禁術封石を得るべく夜な夜な街を飛び回っていた。既に世に存在を知られている禁術封石の大半をストーンコレクターが手中に収めており、ハンター間でも貴重な魔石を手に入れたければコレクターの屋敷を漁った方が手っ取り早いと言われている。実際魔石探知機の反応も街中ばかりで、リチウム達はコレクターの豪勢な家に侵入しては貴重な魔石を片っ端から強奪している。その為リチウムはハンターでありながら盗賊と呼ばれ、やはり毎晩、警察に追い掛け回されている。
スタートは決まって深夜零時。その十分前には二人とも準備を済ませてリビングに集合する。これはコンビを組む上で最も重要な決め事であり、五年間一度も欠かした事のない――最早日課とも呼べる鉄則だった。普段怠惰なリチウムですら破った事はない程だ。
故に、深夜にリタルの行方がしれないこの状況は非常事態とも呼べた。ブツブツぼやきながらではあるが、リチウムはその夜予定していた仕事を取りやめ彼女の捜索に専念する。常日頃から製作者であるリタル自身が如何に精確かを説いている魔石探知機、これを用いて禁術封石『転位』『魔眼』の反応を追い、二石の所持者である彼女を見つけ出す――それで事は済むはずだった。が、何度試してもどれ程範囲を広げても探知機にその反応は現れない。これはいよいよおかしかった。やはり何か重大な事件に巻き込まれてしまったのか。たとえどんな事件に巻き込まれようと『転位』の石を持つ彼女が逃げられない訳がないのだが。
二日前。訳あって自分の元に居候している黒髪の童顔刑事、トラン・クイロの姿もまた消えた。捜査中忽然と消えてしまったという連絡が、彼の緊急連絡先に指定されているリチウムのホームに入った。彼の所持する『炎帝』の石の反応も、またない。
状況からして結論は一つだった。二人は同じ場所に居る。同じ何かに巻き込まれている。
そうして、今夜。これまた訳あって居候している、肩までの青い髪を持つ清楚可憐な破壊魔、グレープ・コンセプトの姿も見当たらない。事態に気づいたリチウムは、たった一人、夜の森を疾走していた。
街明かりは既に彼方に消えていた。日中と比べると随分低い気温も火照った体には丁度よく、森の奥から吹きつける刺すように冷たい風が絶妙に心地よい。人並み外れた身軽さを誇る彼だが、それでももう数時間は走りづめの状態だった。汗と疲労が体を伝う。人気のない深い森の中で己の息遣いは煩く響く。草木の擦れる大音量に、静寂を好んで纏う夜の森はさぞ迷惑していることだろう。
走りながら時折、リチウムの視点は手にしている掌サイズのレーダーに移った。魔石探知機とは異なる形状をしている。小さなモニターには、規則的に響く機械音と同じリズムで点滅する光点が一つあった。リチウムが移動すると、光点の位置も動く。そうやって光点は徐々に十字の交わる中心に近づきつつあった。
2
闇の支配する洞穴で、無数に張り巡らされた糸の僅かな発光だけが照明として存在している。
「……ぶっ殺す」
金の長い髪の女、クレープは吐き捨てるように呟いた。
グレープと酷似した顔立ちに、彼女が普段から着用している学園指定の菫色の薄手のコートを纏っている。淡黄色のチューブトップ、短めのキュロットとカジュアルにまとめているが、その上から細い糸が幾重にも巻きついて華奢な身体を締めつけていた。
何故、クレープがグレープの格好をしているのか。否、格好を真似ている訳ではない。その肉体は間違いなくグレープのものだ。クレープは本来幽体で存在し、肉体を持たない。故に彼女の姿が視えるのは、リタルが持つ『魔眼』と呼ばれる禁術封石の魔力の有効範囲に居る時だけである。例外として存在するのがグレープだ。
グレープは『魔眼』が無くてもクレープの姿を見ることが出来、肉体を持たないクレープにその身を貸し与える事が出来る唯一の人だった。グレープの中にクレープが入ると、その体はクレープの姿に変化してしまう。それが今の状態である。
不可思議な彼女達の関係を疑問に思う一同だったが、当の本人たるグレープまで何故だろうと首をかしげ、クレープはというとグレープと会うまでの記憶が消えているなどと言い張る始末で、謎は未だ解明されぬまま。今ではリタル以外、そういうものなのかと納得してしまっている。
外見は双子のような彼女たちだが、その性格は見事なまでに相反しており、グレープがおっとりで少々(?)天然が入っているのに対し、クレープは勝気で姉御肌。言葉遣いも少々乱暴ではある――そんなクレープの赤い瞳に今、強い怒りの色が灯った。
筒闇の洞穴の最奥はドーム状――半球型になっていた。高さのある丸い天井。学園の小グラウンド並の広さ……とはいかないまでも、狭い街中の至る所に設けられた中規模の駐車場の広さはありそうか。奥の壁一面に形成された大きな蜘蛛の巣の中央に磔にされたクレープと、リタルの姿がある。クレープが発した怒りの直後、彼女達の目前で今、初めて影が揺らいだ。暗闇の向こうから、背の低い物体が妙な動きで接近してくる。
「こんな状況でまた、随分と威勢のいい人間が居たものだ」
しわがれ声が響くと、やがて地べたに這いつくばったその姿が糸の淡光に照らされた。
「……『魔眼』で識ってはいたけれど。あんまり実物にお目にかかりたくなかったわ」
白いミニスカートに黒のレギンス。大きなエメラルドの瞳は不快の色を露にし、幼顔を露骨に顰めた少女――リタルが、堪らず呻いた。
八本足を所持し、ぷっくりと膨れた腹。地にへばり付くような体勢で彼女達の前に現れたそれは、まさしく蜘蛛だった。ただし、全長二メートルはあろうか。頭部には通常見る蜘蛛のソレではなく、人の頭がついている。その表情は能面のような無。むき出しになっている眼球の白眼は血のように真っ赤に染まっていた。
「……つい今しがた、ようやくそこのオスの記憶から目標を確認する事が出来た」
発声しても、表情筋は微動だにしない。顔面ではからくり人形のような口と、血の双眼だけが活動していた。他の部位に代わり、パクパクギョロギョロと忙しなく動く。
「最早おまえたちには用がないのだが、さて……」
大蜘蛛は、品定めをするようにクレープ達を見回した。
「誰から食らってやろうか」
「ナニたわけたコトぬかしてんのよ」
人外の姿に怯む様子もなく、変わらぬ調子でクレープがジト目を向けた。
「アンタみたいな人面蜘蛛に食わせてやる体なんぞ無い。アンタよ。死ぬのは」
「……クレープ」
赤い瞳を細めて見下すように言い放ったクレープに、今度はリタルがジト目をくれてやる番だった。また不必要に敵を挑発して……とでも言いたげな様子だ。これまでにも、クレープの直情的な物言いが原因で起きたトラブルは数知れず、その度にリタルとグレープ、トランは事後処理に追われるハメになった。まぁ、トラブルメーカーは彼女の他にもいるのだが……今頃、どこで何をしていることやら。銀髪の男を思い浮かべようとした頭は、しかし次の瞬間、響いた音にフリーズした。
「……くく……ははははははははは!」
瞼が動かないのかそもそも機能していないのか、瞬き一つすることもない。飛び出た目の玉の動きと、上下に開閉する口からは感情が読み取りにくい。したがって蜘蛛の感情は総て声色に乗って届く。
「人間風情が我に向かってよく吼えた」
リタルの予想を越えて、蜘蛛のそれは愉悦に満ちていた。
「無力なおまえ達が使う、我等の仲間の結晶。その力すら我の糸に吸われて、もはや成す術もなく絶望している頃合だと思っていたのだが……。非力な人間が如何なる手段で我に歯向かおうと言うのか……」
だが、その愉楽の色を静かな言葉が無遠慮に遮った。
「アイニク。アタシはンな石コロなんて持ち合わせてナイんだけど」
「……なに?」
大蜘蛛は、自身の聴力を疑った。力こそ総て。強さこそ何物にも替え難い――言うなれば魔族の資産である。魔族の位は、持っている能力と、強弱によって決まるのだ。その力を欠片も持たない憐れな最弱の種族が、勝ち目の無い相手に向かって意見を述べているというのか。
「聞けば、アンタ達化け物や空飛んでる白っぽいのって、人間と違って結晶とやらを使えないんデショ? 己の持ってる能力しか使えないのよね?」
「……なにが言いたい?」
「『非力な人間』だなんて、どのクチがホザいたのかしら。有限の力のアンタが、無限の力を扱う人間サマ、ナメてンじゃないわよ」
ギンと大蜘蛛を睨みつけるクレープ。
「……く……っ」
射貫くような赤に、大蜘蛛は僅かに身じろぐ。
(なんだ……恐れを抱いたというのか……? 我が、人間如きに?)
恐れを抱くのは、憐れな存在である人間の方だ。自分という絶望の象徴を前に、押しつぶされて泣き叫ぶ。命を請う。それは想像などではない。大蜘蛛の中では絶対な現実だった。だというのに。
赤の瞳に射られて、一瞬でも凍り付いてしまった。これは……とんだ失態だ。なんであろう己の反応にこそ嘆いた大蜘蛛は悔しそうな声色を漏らす。
「……おまえは最後まで生かし、仲間の死に様を見せつけ存分に絶望に浸からせてから食らおうと思っていたのだが」
八本の屈折した足が、かさこそとクレープに向かって動き出した。
「見かけ通り悪趣味な脳ミソしてるのね」
「って、ちょっとクレープ!」
小声にそちらを振り返れば、切羽詰った顔のリタルが自分を見ていた。
「さっきからヤケに大口叩いてるけど勝算でもあるの? ンなもんあるならさっさと……」
「ないわよ。ンなもん」
「ったくどうしてあんたはもぉぉぉおお!!」
地団駄を踏みたそうにリタルの体がもがくが、強靭な糸はそれを許さず、
「……って、アンタ。ますます絡まっちゃってどうすんのよ?」
平然と、それを眺めるクレープ。その視線と言葉にはたっぷりと皮肉が込められている。
「ううぅ……っ だってあんたが」
「誰カサンの台詞だったわね。ヒトのせいにしないって」
ピシャリと放たれたクレープの正論に口ごもるリタル。大人しくなるのを横目で見届けてから、
「ただアタシは……本気でムカついただけよ」
静かに言い放つと、クレープは目前に迫った大蜘蛛に視線を落とした。
「蜘蛛がどうやって獲物を食べるか、知っているか」
二つの血眼がクレープの顔を覗き込む。大蜘蛛の声からはもはや、先程の余裕は欠片も感じられない。
「さぁ? 悪いけど、姿形がそんだけキモチワルイ生物になんてアタシは特に興味もなし。知りたくもないわ」
ジト目で受け流し、変わらず平然と答えるクレープ。
「……そうか。無知故の愚言か」
隣へ放たれる殺気に、リタルが顔を顰める。
「その身を持って後悔しろ」
大蜘蛛が高く跳躍した。
「……クレープ!」
リタルの目の前で、クレープの細い体はあっという間に黒に覆われた。
「…………!」
大蜘蛛の舌がクレープの首筋をナメクジのように這う。耳の裏から肩口へ。嫌悪感からクレープは僅かにくぐもった声を漏らした。瞬間、大蜘蛛は大きく開口すると、剥き出しの凶悪な牙を白い肩に突き立てた。
「…………ぁ……!」
細い肢体が、蜘蛛の足と糸の隙間で二、三度大きく痙攣する。
「…………!」
いつだって憎たらしい程強気な彼女が漏らした……今まで耳にした事もない苦悶の声。その衝撃、哀しさ、痛み。そして――失くしてしまうかもしれないという恐怖。一瞬の内に様々な感情に襲われ言葉を失くしたリタルは瞬きもせず、青ざめた顔でその光景を見ていた。
やがて、大蜘蛛の能面が僅かに離れた。口の端から、真っ赤な血が滴り落ちる。誰の血かは一目瞭然だ。
「あんた……! 蜘蛛の分際で何かましてくれてんのよ!」
堪らず、リタルが険しい表情でがなり立てるが、
「……だい、じょぶ」
普段の様子からは想像もつかない程の弱々しい声に制され――我に返る。
細かい毛の生えた蜘蛛の足。その隙間から見える、無理に作られたクレープの表情はしかし、言葉程の説得力を持ち合わせてはいない。
「クレープ……!」
……冷静にならなくちゃ。リタルは必死に自分に言い聞かせた。事態は最悪だ。反撃も逃走の手立てもない。だからといって取り乱していては、どこに転がっているともしれない打開のチャンスを見逃してしまう。たとえそれがどれ程小さかろうが、僅かだろうが、一ミリだって見落とすことは許されない。
……許さない。
「――あんた……っ クレープに何したの」
リタルは目前にある巨大な黒い物体をにらみつけた。
屈折した足が順を追って動き、何の感情も持ち合わせていない血眼が、少女の姿を移す。
「我の糸には、数種類ある」
血に濡れたからくり人形の口を開閉させた。
「今、おまえたちの体を縛っているのは捕獲用の糸だ。噴出時に、我の体内で生成された毒をかけてある」
「毒……?」
吐き捨てるように呟けば、目を細くするリタル。
「……あたし、かれこれ二、三日位ずっとこの状態なんだけど。感覚がある程度鈍りはしても、致死率は低いみたいね。その毒とやらは」
「身体機能が衰える程度の毒だ。尤も直接与えてやれば、この女のように麻痺位はするのだろうが」
「……っ」
リタルの反応を受けて、再び蜘蛛の言葉に愉楽が戻る。
「我等はこうやって獲物の動きを封じ、さらに獲物の体内に消化液を流し込んで、中身を溶かしてからそれを吸う」
「…………」
「どろどろに溶かしてな。それが我等流の食事よ」
「……悪趣味ね」
両手拳を握り締め、少女は真っ向からその存在を否定した。
「なんとでも言うがいい。この女を食した後はおまえの番だ。存分に戦くがい……」
「……言ったデショ」
腹の下にいる、小さな人間の声が僅かに聞こえて、大蜘蛛は再びソレを視界に入れた。こんな状況でも少女の赤は、先程と少しも変わらぬ眼光を秘めていた。自分を睨んでいる。
「………………」
――だが、それだけだ。
女はさっき、自分は石――力を持っていない、と言った。何の脅威もない。たとえ力を所持していた所で、魔力を吸い取る糸でぐるぐるとその体を覆っているのだ。自分の位置は揺るがない。……しかし。
「……おのの……く、のは、アンタよ」
先程から。なんなのだろう。この威圧感は。
「はったりを……!」
振り払うように声を上げ、大蜘蛛は、再びクレープへと迫る。
「…………」
迫る死の匂い。先程よりも濃厚な、回避する術のないそれを、しかしクレープは一瞬たりとも目を背けることなく睨み続けていた。
鋭利な牙が再び、細い首に突き刺さる――その瞬間。
「クレープ!」
よく通る、青年の声が響いた。
3
「クレープ!」
声が、脳裏に届く、その時。クレープの赤い瞳が、見開かれる。
刹那。地響き――否、轟音が一帯を揺るがした。
「な、なに……!?」
声を上げた大蜘蛛が変化を見定めようと辺りを見渡す……までもなく。ソレは、すぐに捉えられた。
膨大な魔力。瞬間的に爆ぜ、生まれ出た炎柱。
「……ばかな」
リタルの横――一番左に磔にしておいた男が、既に起きている事は知っていた。だがそれだけだ。起きていても、男には何も出来ない。男の持つ石は確か『炎帝』と言った。『炎帝』の名は火を司る神を指している。それがどの魔族を示しているのか、どのような存在なのか、大蜘蛛は知らない。だが、石に宿る魔力の化け物っぷりは手に取らずとも感じられた。自分――大蜘蛛を、百並べた位じゃ到底足りない。千でも足りるかどうか。考えるだけで感覚が麻痺してしまいそうな、想像を超えた強大な力を赤い石は秘めていた。
しかし、妙な話ではある。これほどの炎の魔力を持つ存在がいたのなら、高位魔族の名に挙がっていてもおかしくはないはずだ。強さで位が決まる魔界において、魔族の名は上位にある程轟く。高位魔族と言えば、識らぬ者などいない程に存在が知れ渡るはずなのだが……。
ひょっとすると、男の持つ赤い石は魔石ではないのかもしれない。天石ではないだろうか。しかし天石は全て、天使の領域――天界に保管されたと聞く。何故人間風情が、そのような貴重な石を持っているのか。その辺りの詳細を含んだ男の記憶を覗いていない為、大蜘蛛には謎のままであったが。
だからこそ、特に男には多量の糸を用いた。石が如何なる大魔力を秘めていようと、その力を操るのは天使よりも魔族である自分よりも、あらゆる面ではるかに劣る、人間である。天使にすら劣る脆弱な人間が媒介である限り、この糸が破られる事は決してない。人間の持つ潜在能力など、たかが知れている。それで、問題はなかった。……ないはずだった。
だが、全く予期していなかった事態が今、目の前で起こっている。
そこに、大きな炎塊があった。
燃え盛る炎は、その身に纏わりついていた総ての柵を焼き尽くす。その激しさに、どんな存在でも思わず後退りしてしまう……それ程の絶大な怒りを感じた。
古びたロングコートを靡かせ、濃厚な赤を纏う青年が今、地に降り立った。男の足を軸にして、一帯に渦巻く火炎。燃え盛る炎を映した黒瞳が、今、大蜘蛛を捉える。
「……人間の操る魔力が、我の魔力を上回っただと……?」
尋常じゃない姿を正面にして、ふと浮かんだ嫌な考えを、大蜘蛛は言い知れぬ恐怖に押され、そのまま口にした。
「……まさか。魔人化したか……!?」
世界には、三種類の種族が存在している。天使。人間。魔族。しかし、どの種族にも属さない存在がいる。かつて人間であったものが、人でなくなる時。世界はその存在を魔人と認めた。
人は石を己の身に入れ、その精神力で制御している。結晶化した魔力を行使するには、魔族や天使がそうあるように、体内を魔力で満たす必要がある。体に魔力を注ぎ血液のように循環させる事で初めて、魔力を持たない人間は力を得、扱う事を許される。しかし人間の身にとって魔力は、異物以外の何物でもない。使えば使うほど魔力は肉体を侵食する。魔人化とは、その身総てを石に侵食された人間――魔力に肉体を乗っ取られた状態を言う。
人格は崩壊。身体は魔力を生成する為に、結晶化する前の存在と同等の肉体に作り変えられる。魔力を発動させるだけの器は、出でた時点で生まれたて同然の状態にある為、本能のままに破壊に尽くす。
人間だった頃の制限や、足かせも無い。それは最早、人間とは呼べない。
故に、魔人こそ、世界の災厄。
天使は、それを未然に防ぐ為、禁術封石の一種である天石を完全に手中に収めたという訳なのだが……、
「……仲間に、手を出すな」
ソレが初めに発したのは、底冷えのする程、怒りの篭った低音だった。
……目の前の男は、未だ人間だ。
だが、大蜘蛛の糸を超える魔力を駆使した事は事実であり、現在も、人間の身体の許容応力――扱い得る力の範囲をはるかに超えた魔力、膨大な量の炎が彼の身を覆っている。
黒い髪は炎に照らされて赤く染まり、黒い瞳は炎のような強い意志を灯し、炎は、その姿を讃えるように男の周りで踊る。
人の身で、あれだけの魔力を操っているのに、一体何故、侵食されないのか。何故、意思を保ち続けられるのか。普通に考えて、男は有り得ない存在だった。
炎の象徴。その姿。その井出達はまるで、『炎帝』そのものではないか。
「……何故」
「……何故も、ヘッタクレもない」
聞こえてきた小さな声に目を向けて、今度こそ大蜘蛛は目を見張った。
クレープの体が、淡い金色の光を放っている。
「……散々人が忠告してやったのに。それでも油断したアンタが悪いのよ」
「な……っ」
在り得ない。
困惑を隠せずに、大蜘蛛はたじろぎ、金色の体を手放し……そうになるのを、辛うじて堪えた。
大蜘蛛の魔力――能力である『糸』は、他の魔力を吸い取る事でさらに強靭なものへと進化する性質を持つ。
故に、糸に捕らわれた者がなんらかの魔力を発動させても、大蜘蛛の魔力量を超えない限り、魔力は糸に吸われ発動不可能となってしまう。
しかし、彼女はどうだ。
彼女自身に発光以外の変化はない。彼女の発光が、魔力によるものなのかも判らない。だが今、炎帝を所持している男の魔力は以前に比べ、明らかに増大している。操る炎は、彼女の金色の光に呼応しているようにも見える。
男の操る力が桁違いなのは……女の仕業か?
先程から感じていた――彼女の持つ正体不明の威圧感はコレだったのか?
しかし、他者の魔力を増幅させる――そんな能力は、聞いたことがない。
「貴様の仕業か……っ 一体何者」
「ンなもん関係あるか……っ」
麻痺が効いているのか、クレープは大粒の汗をかき、辛そうに顔を顰めている。それでも赤い眼光は真っ直ぐに大蜘蛛を射抜き続ける。
「"記憶"ってのはヒトの財産なのよ。如何なる存在であろうと、それを踏み荒らすような……真似をしてはいけない。許されない。……思い出と呼ばれるそれは、ヒトにとっては大事な、大切な、かけがえのないモノなのだから」
「……クレープ?」
クレープの口調が一瞬変わって聞こえた。僅かに生じた違和感に、リタルが首を傾げる。だが、それは一瞬の事だった。
「――そんな当たり前のコトも解らない程無知だから、ここまで散々好き勝手やらかしてくれたンでしょうケド。……ちょっとオイタが過ぎたようね。リタルはともかく、トランちゃんに手を出した。万死に値する行為だわ」
「おい」
すぐ隣から入る真顔のツッコミに、しかしクレープは完全にシカトを決め込む。
「いい加減……アタシの事よか、自分の身を心配した方がいいわよ」
その言葉に、大蜘蛛はようやく迫る灼熱を感知した。
炎を身に纏った青年――トランが、真っ直ぐこちらにやってくる。
その炎は業火。総てを焼き尽くさんと、なおも広がる。
絶対的な存在が無邪気に踊るその様は、生ある者が持つ生への執着心を刹那に喪失させる。狭い洞穴を占める赤は、地獄にあるソレと等しい。
「く、来るな! こいつらがどうなっても……」
大蜘蛛のしゃがれ声が洞穴に響くと、爆熱を背負ったトランが足を止めた。ゆっくりと真っ直ぐに左腕を振り上げる。瞬間、トランは死刑執行人のように無慈悲に業火を揮った。
「くそ……っ」
迫る炎に駆り立てられるように高く、屈辱に舌打ちした黒い躰が跳躍した。
巨大な躰に見合わぬ身軽さに、思わず一同は息を呑む。
張り付いた壁に再びトランが炎を向けようとした時、大蜘蛛は能面の口をガクっと開けた。瞬間。一面に張り巡らされていた白い幾何学模様が、物凄い勢いで吸引されていく。
支えを失ったリタルの小さな体が落下した。
「リタル!」
瞬時に炎を消したトランが辛うじてその体を受け止める。
そのすぐ横で、同じく落下していたクレープの体を、大蜘蛛のいやに屈折した二本の足がからめ取った。
伸ばしたトランの手は、後一歩の所で宙を掴む。
「く……っ」
「……クレープ!」
その間数秒。クレープを抱えた大蜘蛛は総てを吸い取ると、息つく間も無く今度は自身の正面に向けて、腹から糸を噴出した。
放射状の縦線。次いで、横線。それは流れるような作業。瞬きする間に、細かい細かい網が、大蜘蛛とトラン達との境に薄い壁を作った。
「人間が……あまり調子に乗るなよ……っ」
4
「こんなもの……!」
糸で出来た壁に向かって、トランが左手を真っ直ぐに突き出した。
首から下げている指輪――もとい、禁術封石が赤く光り、掌に炎が生まれ出でる。
トランが念じると、掌の炎火が白網を焼き尽くすべく発射された。
だが。
「なに……!?」
「消失した!?」
トランとリタルの驚愕の声が重なる。
確かに白網に燃え広がったはずの炎は、次の瞬間総ての勢いを失い、視界から完全に消え去ってしまった。
先程となんら変わらぬ形状の白網が、何事も無かったかのように残っている。
「驚く事はないだろう」
白網の向こうから、しゃがれた声が響いた。
「おまえたちの所持する魔石の魔力を吸い取る事で存分に強化された糸だ。炎を防いでみせた所で、そうまで見事な芸当ではない」
「けど、さっきは破れたのに……っ」
「我の糸には数種類ある。先程までおまえたちを捉えていたのは捕獲糸。それをさらに強化したものがこの防御糸だ。まぁ、糸の噴出量が制限されるのは難点だがな」
糸で出来た――さながら、白いバリアを破ろうと、トランが必死に炎を繰り出す。操る炎は……もはや、炎と呼ぶべきか、否か。トランの意思を汲み、その精神で練り上げられた炎は今や、爆発と言ってもよい程の衝撃を瞬時に生んでいた。広げた掌から赤黄色の球体が現れたかと思えば、瞬間巨大化したそれは爆ぜ、莫大な炎塊となって白のバリアを襲う。
だが、それをもってしても、バリアを破壊する事は不可能だった。
結果は、最初と変わらない。爆炎は煙一つの存在も許されずに消え失せ、炎に襲われる前の状態のバリアが視界に現れるのである。
嘘のような光景だった。
だが、実際に目の前に起こっている。
「……くそ……っ」
乱打が幾度続いたか。奥底から吐き出したような悔しげな声がして、ついに辺りが沈黙した。
体勢を僅かに崩したトランが、白い鉄壁を睨みつけたまま、肩で息をしている。
禁術と呼ばれる魔力の結晶である石は、所持するだけで消耗する。力ある石は意思を持っているのか、魔力を行使しない時ですら所持者の体を巡り、精神力を削り続ける。
禁術を発動させる際には、所持者は所持しているだけの状態とは比べ物にならない程莫大な精神力を削ぎ落とされてしまう為、並大抵の人間は一度使うだけで卒倒する。
尤もトランの持つ『炎帝』と同じクラスの石を使おうとすれば、卒倒だけで済む者など一握りもいないだろう。
精神力の弱い人間は、言わば抵抗力の弱い人間。石に――正確には、石の魔力に体を乗っ取られ、魔人化してしまう。
魔人化してしまえば、人は決して人に戻る事は出来ない。それはトランだけでなく、『転位』『魔眼』の石を駆使しているリタルとて同じ事。これらの事実は常識として、世界――人間に浸透している。
「トラン!」
禁術を連発したトランは、誰の目にも明らかに消耗していた。
精神力だけの問題ではない。先程まで蜘蛛の糸に全身を巻かれ、毒漬けにされていた身体だ。あれだけの炎を繰り出し、爆熱を発動させ……その衝撃に耐え続けた生身はもはや限界に近い。体中を大粒の汗が滴り、着崩していたワイシャツがべったりと纏わり付いている。
爆風で動けずにいたリタルが駆け寄ると、今にも倒れそうな両足に力を入れ踏みとどまっていたトランは、それでも「大丈夫だから」と黒眼で制した。
「ようやく思い知ったようだな」
さも愉快そうなしゃがれ声が白い鉄壁の向こうから洞穴全体に響いた。