後編
7
ニタバーニから連絡を受けたトランは再び病院に急行していた。
色濃くなった闇。面会時間を過ぎた病棟の暗い廊下を一人歩く。
『トランか。……俺だ。遺体の身元が解ったんだが……』
『…………』
『……トラン、おまえ』
――やっぱり、気づいていたのか……?
脳裏にニタバーニの声が蘇り、鼓動が再び大きく鳴った。
気づかない、……訳がない。
火事の中、家屋に飛び込んだあの時。炎の海に、いつかの自分を見た。赤い世界……それは、あの時と同一の業火。
オマモリを探す間、思い浮かぶのはあの少年の事ばかり。……そう、自分はずっと。否定したくて探していた。否定したくて必死に、気づかないフリをしていた。
『母親は父親の暴力に耐えかねて自殺。その後も父親は息子を虐待していたらしい。体の――衣服で隠れて見えない箇所に無数の傷があった』
辿り着いた個室の引き戸を、一瞬の躊躇の後、静かに開ける。消灯後の室内に降りていた闇は、廊下のそれよりさらに濃厚だった。
冷たい床に裸足をつけて一人窓際に立っていた少年は、夜を彩る遠い灯りを眺めていた。
「…………」
重い雲が流れる天に月の姿はない。闇に灯る無数の光は、家々の窓から漏れたものだった。当然、ここからでは家の中の様子はわからない。それでも少年はただずっと。焦がれるように遠い灯りを見つめていた。
トランの後ろで病室の引き戸が閉まる。さらさらの長い茶髪は夜風に吹かれるがままに、気配に気づいて振り返った少年の表情を隠した。
「……久しぶり。お兄ちゃん」
こうして、互いの姿を見るのは何日ぶりだろうか。
病室の入口と窓際。対面した互いの表情はわからない。
一瞬の沈黙の後。
「公園、で」
掠れた声がトランの口から出た。
「公園?」
「ああ……ずっと待ってたんだぞ?」
そう口にすれば、嬉しそうに……だが、申し訳なさそうに、
「ごめんね、お兄ちゃん。閉じ込められてて、会いにいけなかったんだ」
そう言って、小さな頭を垂れる。か細い影が、トランの胸をどうしようもなく締め付ける。たまらずトランは声を上げた。
「どうして……、……!」
「どうして?」
言葉を濁したトランに、小首を傾げる少年。
「予想はたくさん付くんだけどな。なんだろう……。そうだ、言いにくいんだったら、いつかみたいに当てっこしようか?」
トランの返事を待たずに少年は両腕を組んで唸った。
「どうして……お兄ちゃんのオマモリを盗んだ?」
「……違う」
「どうして……こんな事、した?」
「……違う……!」
「あれ? 違うの? じゃあ……」
押し黙るトラン。両手を握り締め、歯を食いしばる。――どうして、
「……わかんないや。……ごめんなさい」
どうして俺は、気づけなかったんだろう。
「……お守りをね」
いつになく口数の多い少年を、トランはもう一度顔を上げて、その黒眼で真っ直ぐに見る。闇の向こうのその表情は視えない。だが、トランには想像がつく。相変わらず寂しそうに笑いながら、それでも自分と話したがってるのだろう。
「母ちゃんが作ってくれたってやつか? 最後会った時、失くしたって言ってた」
「そう、母ちゃんのお守り。あれね……」
「…………」
「本当は、捨てられちゃってたんだ」
……どうして自分は、解ってやれなかったんだろう。
少年は決して無口なんかじゃない。今の自分のように、ただ押し黙っていただけだ。
言葉を、感情を、泣き声を……悲鳴を。心の奥に押し込んでいた叫びを語らずに、それでも精一杯瞳で訴えていた。訴え続けていた。それを、なんで俺は気づけなかったんだろう。
「……それで?」
込み上げてきたものを堪えて。トランは続きを促した。
気づけなかった……聞けなかった話を、聞こうと思った。今の自分には、そうする事しか出来ない。それ以外、自分はもう、この子に何もしてやれないのだろう。
溢れてくる熱いものを我慢して、平静を努めて。ようやく搾り出した声はしかし掠れてしまっていた。
急かされて、少年はおずおずと話を続ける。
「……探し回ってて」
「うん」
「ゴミ箱でようやく見つけて、父ちゃんを問い詰めたんだ」
「……うん」
「反抗したんだ。はじめて。そしたら」
「…………うん」
「……破られちゃった」
少年はいつも、手作りの赤いお守り袋に紐を通したものを首から下げていた。
中には、赤い折り紙一枚。裏には少年に向けて綴られた母の言葉。綺麗で、どこか優しげな印象を抱かせる字だった。
きっと何度も読み返したのだろう。折り紙は擦り切れていて大層汚れていた。所々、何かが滲んだのか、読めない箇所がある。折り目に沿い幾重も貼られた、黄色に変色したセロテープ。お守り袋について尋ねた時、それまで見たことも無いような誇らしげな笑顔を自分に見せて、それから照れ臭そうに、はにかんだ――
「本当は、ね? あの火事の時……。僕も、父ちゃんと一緒に居ようと思ったんだ。……でもね」
「…………」
「僕は、お兄ちゃんと違って、弱かった」
「……そんなことはない」
トランがやんわりと否定すると、
「……そうだね」
闇に慣れた視界で、少年の口角が歪に上がる。
「コレがあれば僕も……」
呟いて、ずっと握ったままだった右手を、少年はトランに向けて開く。
「…………」
開かれた小さな掌の上に。トランが探していたオマモリがあった。
――この結末が杞憂であればいいと思った。何度も願った。だが――
突き付けられた現実にトランは眩んだ。
「僕もお兄ちゃんみたいに、強くなれたよ」
雲が晴れ、室内に仄かな月光が差し込む。照らされた、その泣き笑顔は、歪。
「それは、強さじゃない」
トランは静かに首を振った。
「強さじゃないよ」
「……どうして?」
少年の声に混じった絶望の色に、ハッしてトランは瞳を見開く。
「お兄ちゃんも、僕を怒るの?」
「ちが……っ」
「お兄ちゃんも僕が弱いから怒るの? 僕を嫌いになるの?」
「聞いてくれ、そうじゃ……っ」
「僕はもう強くなったよ? 今は何も怖くない。だって」
「――っ」
「父ちゃんは黒コゲになっちゃったんだからさ」
くすくすと笑いながら少年は右手のオマモリ――薄い布を剥ぐ。中から出てきたのは紅い石のついた指輪だった。
細身の造りのソレを、小さな指で弄ぶ。
血のように紅い、ガラス球のような石。紅蓮の赤の色。
「それを……っ」
出来る限り感情を殺して、トランは少年に語りかけた。
「それを、返してくれ」
「……なんで?」
「危ないんだ。それは」
「知ってるよ。このオマモリ。お願いすると、火を出してくれるんだよね?」
愕然とする。その言葉は、いつかの自分が感じた――
「こんな世界、もう要らない。嫌なものはみんな、燃えてしまえばいい。恐いものはなんでも、これが消してくれるんだ」
「……おまえが嫌なものは」
「なに?」
「おまえが嫌なのは、世界か? 消したかったのは自分を取り巻く現実か? だから、それを手に取って……願ったのか?」
「そうだよ」
トランの低い問いに、少年は再び歪な笑みを見せる。
「お兄ちゃんみたいに強くなりたかった。だから、お兄ちゃんのオマモリが欲しかった。お兄ちゃんを強くしてくれるオマモリなら、僕の事解ってくれるって思ってた」
トランは理解した。この少年は、決して弱くなんかない。その逆で……どうしようもなく強かったんだ。
「だってお兄ちゃんは僕の事、ちゃんと見てくれるから。だから本当は、お兄ちゃんにはずっと打ち明けたかった」
だから押し黙っていた。強くありたいと願う強い意志は「助けて」なんて他人に請う事は許さずに、
「母ちゃんがいなくなってから僕、もうずっと要らなかったんだ、こんな寒くて暗い世界。僕に意地悪な、僕の事を好きになってくれない世界なんて……ずっと壊したかった」
自分でなんとかしようと思った。必死に切り開こうとしていた。その幼さ故に不器用な強さがきっと、あれを――力を引き寄せてしまった。暴走させてしまった。
トランは、瞳を閉じる。数日間を共にした少年の寂しげな笑顔が浮かんだ。
……強く在る必要なんかなかった。
少年の周りに、頼れる大人は誰一人いなかったのかもしれない。ちゃんとした叱り方で道を指し示してくれる人はいなかったのかもしれない。与えられて当然の温かさも、優しさも側にいてくれなかった。……でもだからこそ少年は、自分で自分を甘やかせばよかったんだ。
我慢せずに、子供らしくただ、泣いてよかったんだ。
「……違うよな?」
「…………え」
トランがゆっくりと開眼する。強い視線。意志の灯った黒瞳。正面から向けられた少年は受け止めきれずに――その表情に今、初めて焦燥が浮かんだ。
「おまえが嫌なのは、世界でもなくて、父ちゃんでもなくて。……おまえ自身だろ」
「違う……そんなの……」
少年は、ふるふると首を横に振る。
「違わないよ」
強く断言するトラン。繕う為の言葉を遮断された少年の瞳に怯えの色が混じる。それでもトランは突き刺すような視線を決して解かなかった。
「だから、本当は」
「やめて」
俯いて両耳を塞いだまま、少年が一歩、二歩と後退していく。小さな体は怯えたように震えていた。それでもトランは、真実を口にした。
「おまえは、自分を壊したかったんだ。……父ちゃんに好きになってもらえない、弱い自身を」
トランの冷徹な声に少年の瞳孔が開く。
――瞬間。世界は紅蓮に包まれた。
8
「……え」
一瞬にして形成された、赤い地獄。
灼熱の空間。炎の爆ぜる音の隙間で、少年の困惑した声がやけにクリアに響く。
「……どうして?」
石を使って、少年は再び総てを消し去ろうとした。自分を追い詰めるモノ総て――それは他人でもあり世界でもあり、自分自身でもある。紅蓮の石は少年の意思を汲み、呼応するように鳴いた。父親が黒炭になった時と同じ。右手の中、赤く光る石が「シュオオオオオオオオ……」と鳴くのを見て、少年は瞳を閉じた。
瞳を開けた時、そこに総ては無く、全てが黒炭になっている。今度こそ、石が己の願いを形にしてくれる事を確信して。
……だが。
「…………どうして、……燃えないんだ」
広がる紅蓮の世界。煙炎の漲る空間で、しかし先程と同じように、黒髪の青年が一人立っている。
生じた熱風に靡くコート。自分を見つめる強い瞳。その身は一面に広がった炎の海に照らされ、赤く染まっていた。しかし、不規則に我が侭に踊る炎は青年を避けるように流れる。決して襲い掛かろうとはしなかった。
青年だけではない。病室内の家具、揺れるカーテン……全てが、燃え盛る炎の中で、そのまま在った。
全てを消し去る終わりの赤に支配された世界でしかし、全てのものが消えてくれない。
「なんで……? あの時と、同じようにしているのに……」
呆然と立ちすくむ少年。
――果たして。石は誰の意思を汲み上げたのか。
「もう、やめるんだ」
トランの声が、少年の真白になった頭に降って来た。ビクッと小さな肩を震わす。
「それ以上やると、今度こそ『おまえ』が消えてしまう」
気づけば。トランは少年の目前に立っていた。
大きな、大きな体。
「…………あ」
その表情に険はない。ただ無表情で己を見下ろしているだけだ。だが、公園で会っていた時とは比べ物にならない程の威圧感を、少年は全身に感じた。
敵わない。
頭ではなく、体で漠然とそう感じた。
「おまえが持っているそれはな。俺のオマモリは……禁術封石って言ってさ」
「……きん……じゅつ……ふうせき?」
「そうだ。魔石の中でも特に力が強くて、人にとって危険な石をそう言う」
「…………」
「禁術封石は……いや、石っていうのはな? 天使とか魔族とか、要するに人間じゃない奴。そういうのが死んで消えた後、その力が結晶化して出来たものなんだ。だから、本来人間の物じゃない。人間には扱いきれない……とても危ない物なんだ」
「……よく、解らないよ」
「……そうだな」
苦笑してその場にしゃがむと、トランは少年の頭に手を置いた。
それはあの公園での優しい風景を思い起こさせる。あの時も同じように、トランは自分の頭に手を置き、語りかけてきた。
自分を覗き込む、強い意志の灯った……だが、どこか人懐っこい黒い瞳。
徐々に威圧感が消えてゆく。
「天使や魔族なんかと同じように、人にも属性があって」
「……ぞくせい?」
「そうそう。それがどうやら、おまえと俺とは一緒らしい」
「一緒? 僕、お兄ちゃんと一緒なの?」
少年の声に、しっかりと頷いたトラン。たったそれだけのことが、少年はこの上なく誇らしかった。歓喜の表情でトランを見上げる。が、
「…………れ?」
自分を見る、その優しい微笑みが掠れてきた。
段々瞼が下りてきて。
眠る前の一時。
その心地よさ。
「……おにい、ちゃん」
「なんだ」
「おにいちゃんと一緒ならさ。僕……強く、なれるかな?」
「…………」
「こんなモノ、なんか、無くったって。お兄ちゃんみたいに、強く、なれるかな……」
「……ああ。おまえなら絶対になれるよ。強い男に」
「そっかぁ…………」
「そうだ。だからもう、……安心しろ」
トランの言葉に、へへっと無邪気な笑みを零して。少年は、ゆっくりと瞳を閉じた。
「……そっか……これでもう父ちゃんに、嫌われないね…………よかった……」
崩れ落ちた少年の体を、トランがしっかりと受け止める。
同時に炎の海は何事もなかったかのように消滅し、室内に夜の静寂と闇が戻った。
「…………」
静かに。少年の手から転がり落ちた紅蓮の石を拾い上げる。
「……トランちゃん」
声がして、トランはそちらを振り返った。
一体いつからそこに居たのだろう。戸口にクレープが立っていた。長くふわふわした金髪と、細身の美しいシルエットが僅かな月明かりに照らされ浮かんでいる。
彼女の服装と、何より姿が見える事から察するにグレープの体を借りたのだろう。クレープが入ると、グレープの体はクレープそのものに変化してしまう。
――自分の呼びかけに、振り返ったトラン。
泣いているのかと、クレープは思っていたのだが、予想に反してその顔は穏やかだった。
意表を突かれて、可憐な赤の瞳は少し見開かれたが、それもすぐに元に戻る。
それ以上に、彼に驚かされた事がある。
「知ってたんだ……ソレが。禁術封石だって事」
トランは、先ず自分に苦笑してみせた。
そのうち表情が消え。徐々に視線を落として、自身の手に戻ってきた石をじっと見つめる。
「……黙ってて、ごめん」
理解して、それでもその人生を歩んできた、トランの葛藤。聞き出したところでクレープには、理解しようとしても決して叶わないだろう。
「……ううん。謝らなくていいの」
少し哀しげな微笑を浮かべてクレープは瞼を伏せた。長い睫毛がルビーにかかる。闇の中でも褪せない、金色の細糸がさらりと揺れた。ややあって、顔を上げる。
「それよか、さ。連れてきたげたよ。多分要ると思ったから」
いつものように快活に笑いながらクレープがふわりと浮かんだ。宙をゆっくり進んで病室に入ると、その後を靴音を響かせて長身の男がついてきた。
青がかった銀の長い髪。切れ長の青い瞳。しなやかに筋肉の付いた――悔しい位に、非の打ち所の無い外見。シャツにジーンズとラフな服装だったが、その姿は夜の闇に映え――男でも見とれてしまう程端麗だ。
「リチウム」
「まぁたドンくせぇ事やってんのな」
手にしていたレーダーをジーンズのポケットにしまいながら、心底面倒臭気な様子でボヤいた。
「…………」
トランはチラッとクレープを見遣る。どうやらその赤い瞳に、全てを見抜かれていたみたいだ。
自分を見つめる穏やかな表情の彼女に苦笑してみせた後、トランは腕の中の小さな体をベットに寝かせた。
「さすがに消耗してるな。さっきまで立ってくっちゃべってたのが不思議な位だ。こんなナリして二日も続けて禁術封石発動させたってか」
「発動時間が短かったからだろう。侵食は……そんなに進んでないと思うんだが」
「例え短時間でも、持ってるだけでもっさり吸い取られンじゃねぇか。禁術封石ってのは。しかもおまえの石コロは『炎帝』だろうがよ。ンな大層な代物持ち歩いてて、自覚ねぇのか?」
「……悪かったな。今初めてコレの名前知った」
「阿呆が」
靴音を響かせて、リチウムはベットに歩み寄る。途中、トランの前を横切ろうとした所で、その足は、
「……んで? どこまで消せばいいんだ?」
ピタリと止まった。
横顔のまま、厳しい青がトランを見ている。
トランはほとんど無意識に少年の顔を見た。深く瞼を閉ざしたその顔は、しかし優しい表情をしていた。
「……ごめんな。勝手に触る」
瞳を閉じて独り言のように呟くと、意を決してトランはリチウムを振り返った。
リチウムの左手から、闇が漏れる。
それは微量ながら、今まで生きてきて触れたどの闇よりも深く。底なしに暗い。
闇を従えた左手が、今静かに。
少年の額に触れた。
9
ある晴れた日の午後。トランはニタバーニの車に半ば強制的に乗せられていた。
自分が運転するからと幾度行き先を訊いてもニタバーニは教えようとしなかった。浅黒くごつごつした長方形の顔にニヒルな笑みを浮かべたままハンドルを手に正面を見据えている。ニタバーニは、こうと決めてしまったら最後、考えを曲げない。彼が「教えない」と決めてしまったのなら絶対に答えてはくれないだろう。何度目かの質問の後、仕方なくトランは助手席のシートに凭れた。彼の意思はきっと鉄をも砕く。
『炎帝』の禁術封石を手にしたその日、ニタバーニに助けてもらってから。トランは可能な限り彼の後を付いて廻った。だから今の――刑事としての自分が在る。ニタバーニの事はよく知っているつもりだ。きっと、彼の亡くなった奥さんにだって、負けない。
トランが出世を拒むのは、禁術封石を所持しているからというのもあるが……本当のところ、ニタバーニの元を離れたくないから、という理由の方がウエイトを占めているかもしれない。
養父の元で働く事よりも。自分にとっては、如何なる事より誇らしい。
(……悪い。俺、そんなに強くないみたいだ)
自身を親離れの出来ない子供のように感じて、トランは心の中でいつかの少年に謝った。
「着いたぞ」
低い声を耳にして、トランは前方を見た。
「……街を出て、随分南に来たと思ったら……」
フロントガラス越しに飛び込んできた青と緑の世界に思わず溜息が漏れる。晴天の下、右手には生い茂る木々が、そして左手には太陽の光を受けて輝く穏やかな海が見える。寒気はまだ襲来していないのか、強い日差しが差し込む風景は随分温かそうに映った。
「海は久しぶりか」
「実際に見るのは。警中に入る為にプリムスに入国した時以来だから――六年ぶりですかね。最近は忙しくてそれどころじゃあ……って、ニタさん? こんな所に一体何の用が……」
「さてな。ほら。ぼさっとしてると置いていくぞートラン」
トランの質問には答えずにさっさと車から降りたニタバーニはさっさと森の奥へと入っていく。
……これはニタさん、遊んでいるな?
トランも車を出ようとして、自分がまだシートベルトを外していない事に気づき少しだけ慌てた。
ドアを開けると、木々の大音声がトランを迎えた。広がる世界に感嘆の声を漏らす。背伸びをして体を解した後、トランは冷たい空気を思い切り吸い込んだ。海から吹く肌寒い風、体に響く自然がどんなにか心地よい。
二、三度深呼吸を繰り返してから、遠ざかっていく足音を振り返る。色づき始めた緑の風景が広がっていた。どこか懐かしい感じのする小道をニタバーニは進んでいく。既に小さくなっていた背広姿を、慌ててトランは追いかけた。
落ち葉の道を早足でざくざくと踏む。容赦なく吹き付ける海風に着込んだコートの裾がばたばたとはためく。すぐに追いついたその背中はこちらを振り返らない。
「……ニタさん、ここは」
「訊くより見た方が早いだろ」
その声は、やはりどこか楽しげだ。
不審に思い首を傾げてから……数分後。どこからか、無邪気な子供の声が聞こえてきた。進むにつれ、徐々に大きくなる。やがて木々が開け。正面に、胸の高さまである金網の柵が現れた。
柵の前に立ったニタバーニが顎を動かしてトランを促す。見てみろ。僅かに見せた横顔がトランに告げていた。疑問符を浮かべたまま、トランはニタバーニの横に並ぶ。柵に囲まれたそこは、小さな運動場だった。
本当に小さい。奥に小さな教会のような建物が見えるが、自分の足ならば……この運動場を十歩で突っ切って辿り着く事が出来るだろう。まるであの公園のようだな。トランは密かにいつかの風景を思い出していた。
小さな運動場の隅にカラフルな遊具が設置してあった。大小の鉄棒。滑り台。ブランコ……。
……ブランコに、子供達が集まっている。
楽しげな笑い声に混じって、キィ、キィと。ブランコを勢い良く漕いでいるのは――
「……あ」
「記憶が無くなっているのが解った時は、どうなる事かと思ったが。それが幸いだったのかもしれんな。あの少年が受けた痛みや傷は、記憶を探る石を用いても見つからなかった。あの火事の原因が少年であったという証拠もどこにもない。医者は強いショックを受けたからだろうと言っていたが、母親の記憶だけが残っている……なんて、なんとも都合の良すぎる結末には聊か具合悪くもさせられるがなぁ」
「…………」
トランは顰めた顔で僅かにニタバーニを見上げた。この人は一体、どこまで自分を見抜いているんだろう。まぁ、訊いたって答えてはくれないだろう。沸いた疑問はそのまま風に吹かす事にする。
「……こんな所に居たんですね」
「『できれば街から遠く離れた孤児院に』。俺にそう頼んだのはおまえだろう」
「そうでした。でも。まさかまた会えるとは」
自分に会ったら、消えた記憶が蘇ってしまうかもしれない。リチウムはその心配は要らないと言い切ったが、事が事。用心を兼ねてトランはそれ以後少年に会わなかった。
少年は、あの頃とは全くの別人に見えた。印象がまるで違うからだろう。仲間に囲まれ、浮かべているその笑顔に影は少しも感じられない。
なによりも、もう独りじゃない。
「会っていくか?」
ニタバーニが初めてこちらを振り返ったが、静かに首を振った。
「戻りましょう、ニタさん。仕事が残ってます」
そう。自分はしっかり働いて、この借りをリチウムに返さねばならない。
と、いうか。早く返してしまわねば、いつまででもクドクドグチグチ言われ続ける事になる。ただでさえ、居候の身。これ以上肩身の狭い思いはごめんだ。
ニタバーニはゲンナリとした表情を見せた。
「刹那のバカンスだったなぁ……」
溜息混じりにそう呟くと、大袈裟に肩を竦め、来た道を戻ってゆく。その様子に笑い、自分も後に続く――前に、もう一度。ブランコを振り返った。
子供の群れの中、懐かしい笑い声が聞こえてくる。
「僕? そうだな僕はぁ……赤い色が好きかな? だって、赤は強いんだ! 誰にも負けないよ!」
end.