前編
「……ネェ」
ふわふわと腰まで伸びた艶やかな金髪が頭の動きに合わせて揺れる。
「まだ、生きてる?」
整った細面の女の赤い目が、右隣に在る小さな影を見遣った。
「……生きてて悪かったわね」
掠れた声とともに、重く閉ざされていたエメラルドグリーンの瞳がうっすらと開かれる。
「あ、すごい。起きてたか」
「……あんたと違って、さすがに……もうヤバイけどね。しっかし」
そこまで言うと少女は僅かに顔を上げた。頭の上で二つに編まれた黄緑色の髪がさらりと動く。尤も、動かせるのは首から上のみだ。後の自由は……辺りの様子が把握できない程暗い洞穴の中、壁一面に張られた白い糸によって奪われている。
「一体、何時間『夢』を見せる訳?」
目前に広がる闇を、力なく少女――リタルは睨む。
「朦朧として掴めてないだけで、実際はそんなに時間経ってないのカモ」
「……そうかもね。だけどクレープ、あんたが幽体に戻れないなんて……」
「十中八九この糸のせいデショ。『拘束』っての、肉体に作用するだけじゃないみたい……残念ながら。しかも……気づいてる? この糸、アンタが持ってる禁術封石の魔力を吸い取って、未だに伸び続けてる」
身動きが取れないのは、金髪の女――クレープも同じだった。
二人は今、粘着力のある白糸に両手両足、体中を囚われ、壁に磔にされていた。幾重にも絡んだ細い生糸。しかし、ここまで見事に拘束されたのは、彼女達の抵抗の証でもあった。もがけばもがく程、強靭な糸は体に巻きついてくる。破壊系の禁術を使えば、糸はその魔力を包み込んで膨張、増殖する。悟った彼女たちが一切の動きを停止した時にはもう遅かった。体中に絡んだ粘糸は、それ自体に意思でもあるのか、二人を完全に捉えた後も徐々に伸び続けていき……今や辺り一帯に大きな幾何学模様を形成している。
「はぁ……ったく。どっかのオコチャマがとっ捕まったりするもんだからこのアタシまで標本にされちゃったじゃないの……。はぁ~……真っ暗でじめじめしてて。隣には口だけお達者なおドジのオコチャマ。……サイアク」
「……悪かったわね。おドジのオコチャマで。つーか。あんたが捕まったのはあんたのミスでしょう、あたしのせいにしないで。そんっなにこの状況が我慢ならないのなら今すぐあたしを助けてみなさいよ。転位ひとっ飛びで連れて帰ってあげるから。ほらほら」
「それが出来ればクソガキ小突いて遊んでないって……。はぁ~……散々探してやったってのに感謝の「か」の字も示さない……。迷子になったのならそれらしい態度をとってくれないとさ。温厚なアタシもさすがにやりきれなくって愚痴の十や百は零したくなるってなモンよ……」
「温厚て。感謝がほしいなら心配の一つもしてみなさい。どうせあんたの頭の中は好奇心以外の何物も詰まってないんだから」
「金塊ならぬ愛塊で出来てるこのアタシに対して失礼にも程があるデショ」
「原材料が愛の塊なら、こんなに憎たらしい性格してるはずない」
「心配ならちゃーんとしてたわよ? 勿論アンタのじゃないケド」
「……いつになく突っかかってくるわね。そんなにこの状況が不快なら、そもそも探しに出たりしなきゃよかったじゃない。ホームは完全防備なんだから、我関せずでぬくぬくごろごろしてれば良かったでしょう。いちいちグレープまで巻き込んで何でもかんでも首つっこんでくるあんたが悪い。っていうか、今回あんたが重い腰あげて動いたってのが、こっちは不可解極まりないんだけど」
「そりゃあ。アンタだけじゃなかったんだもの」
場には囚われの二人の少女の他にも、もう二つ、気配があった。
「……不快なのは糸だけじゃないしね」
二人の目前に広がる闇の奥で、言葉もなくただ自分達を見ている黒い影がある。濃い闇に紛れて、その姿を肉眼で捉える事は出来ない。
そしてもう一つは――
「……トラン、は、寝ちゃってるみたいよ」
小さな顎で、自身の右側を指すリタル。
「そーね。さっきからナニ話しかけても答えてくれないもの……」
クレープの白い額に幾筋もの血管が浮き出る。
「魔族如きが! アタシのトランちゃんにナニかましてくれてンのよ……っ」
「……だから。記憶を覗かれてるんでしょう」
横でリタルが溜息交じりに突っ込みを入れる。
「アンタがさっきから爆睡してたのって、ソレが原因なの?」
「爆睡て。……まぁ、恐らくはね」
「なんでそう言いきれンのよ」
「あたしずっと、夢みてたから」
「それはさっき……アンタが寝ちゃう寸前に聞いた」
「問題は夢の内容。ここ最近、実際に起きた出来事ばかり見てるのよ」
「けど『夢』って、普通にそういう……過去に起こった事を見ることもあるんデショ?」
然したる理由にならない――そう答えるクレープに、リタルは思案する。幾許かの沈黙の後。
「……『夢』の最後」
聊か疲れた声でリタルは口を開いた。
『夢』の異常さ。最も奇妙な点。何故、自分はアレがただの夢ではないと感じたのか。それは……。
「最後?」
「……夢が終わると、一面真っ暗になって。『end.』って白文字が出るの。それから現実に戻る」
奇妙さにぞっとして。背筋が凍りついた後、間もなく、この闇に還るのだ。
「そんな映画じみたふざけたの、ただの夢のはずがないじゃない」
今度こそ、クレープに反論はなかった。
「……どんな記憶、覗かれてンの」
「さぁ。あちこち無差別って感じ」
「さっき寝てたのは? どんな記憶?」
「……こないだの花地獄の時のよ」
うんざりしたように答える。
「…………ウゲ」
惨劇を思い出したのか、顔を顰めたクレープが小さく呻いた。
「最近の記憶……それも色の濃いものを順番に覗いてるんでしょうね。トランの意識がないのも、今覗かれてるからじゃないかしら」
リタルの言葉にクレープの眉根がぴくりと動く。トランの記憶。アレも覗かれているのだろうか。つい最近見た情景が、クレープの脳裏を過ぎる。
赤い世界。炎に照らされた、細身ながらも逞しい背中は――しかし、僅かに震えていた。
……アレも。
「クレープ?」
無言を不審に思ったのか、リタルが顔を上げる。
前方を睨むクレープの赤い瞳には今、強大な怒りが宿っていた。
「……ぶっ殺す」
1
その少年は、業火の中で生まれた。
総てのモノを焚き、愉し気に盛り狂う炎火。
無邪気に跳ねる。爆ぜる唄に合わせて舞う。踊る紅蓮の創った赤い赤い世界。
そんな地獄に、少年はただ立っていた。
炎威はもうこの身には届かない。
だから少年は今ここで、総てのモノを消し去る事も出来た。
総てのモノを、護る事も出来た。
もう一度捨てる事だって出来た。
しかし少年は、手にしたソレを堅く握り締めた。
その瞬間から――彼は、彼として、生を歩む。
過去は『総てのモノ』と共に焼き払ってしまって、当に無い。
その瞬間、彼は業火の中で生まれた。
……きっと。その身も、その意思も。その生すらいつか。この焦熱地獄に還るのであろうと。
契約の刹那、彼は悟った。
2
病院で簡単な処置を受けた後、青年は一人物思いに耽っていた。
黒の短髪で中肉中背。アイロンの行き届いたワイシャツにズボン、黒の革靴……と、一見新人サラリーマンのように見える青年の着衣は煤でひどく汚れていた。中でも腕に抱えているロングコートの汚れは格別だった。年代物なのか、ただでさえ皺や糸のほつれなどが目立つ草臥れた生地である。意地の悪い同居人から幾度も捨てろと罵声を浴びせられた挙句、実際に幾度もゴミ袋に入れられた経験を持つ不憫なコートはもはやボロボロと言っても良い程だったが、それでも青年は大事に抱えていた。
処置室に面した廊下は、外来時間が終了してしまったのか、無人だった。時折白衣姿のスタッフが慌しく駆けて行く。壁際に並べられた黒い長椅子の一つに腰掛けると、青年の意志の強そうな黒瞳は一点を見つめて静止した。
思い浮かべるのは、病院に向かう直前まで身を置いた赤い世界だ。
あの地獄は既に消え、自分は病院に居るというのに、まだあの世界から抜け出せていないかのようにリアルに感じる事が出来た。……いや、実際の所、青年は未だ赤い地獄に囚われたままだった。
思考だけではない。網膜を通して脳裏に焼きついた映像。耳を通じて鼓膜に焼きついた音。皮膚に焼きついた温度。思い起こそうと思えば容易に、この体の何もかもが忠実に再現してくれる。燃え盛る炎。燻ぶる火。焦げた空気。息苦しい空。一面の焼け野原。そして、一体の真っ黒な焼死体――
「……子供は軽い火傷で済んだそうだ」
「ニタさん」
低い声に我に還る。
奥からこちらへ向かってくる、がっしりした体型に背広を着込んだ五十歳前後の男――ニタバーニ・ゼネラックを視界に入れるなり、青年は慌てて起立しようとする。
それを片手で制止し、ニタバーニは廊下に靴音を響かせながらゆっくりと青年に歩み寄った。
「良くやったな」
日焼けした顔に、開いているかどうかも解らない程細い垂れ目。ニヒルな笑みを浮かべてあちこち処置された青年の顔を見た。
つい数時間前の事。グノーシス東部の住宅街で起こった大規模な火災現場に偶然居合わせた青年は、炎の中孤立していた子供を単身飛び込んで助けた。倒壊する家屋の中を間一髪、子供を抱えて戻ってきた青年は、奇跡的にもかすり傷程度で済み――現在に至る。
意識の無かった子供はこの階よりさらに上にある集中治療室にて治療を受けていた。
青年は立ち上がると生真面目に頭を下げた。
「どうした?」
「二階の窓から子供の姿が目に入って……すみません俺、居てもたってもいられなくて……また迷惑を」
肩に置かれる温かな重み。言葉を止め青年が顔を上げる。
ニタバーニは笑みを浮かべたままだ。
「駆けつけた消防隊の制止を振り切って飛び込んだって訳か。しかし、運が良かったからいいものの、あの状況下じゃ十中八九おまえの命は無かったぞ。今だから言えるが、俺は絶望視していた人間の内の一人だ」
腕を組み、陽気に笑う。しかし青年は浮かない表情で足元を見た。
「まぁ、無事だったから良かったがな。おまえの親父さん――総監もさぞ喜ばれる事だろう。感謝状……いや、もしかしたら本庁への移動を言い渡されるかもしれんぞ」
「それは」
「解っている。受けないと言うつもりだろう」
「は」
瞳を僅かに見開いた青年。視点を上げると苦い笑みを浮かべているニタバーニと目が合う。
「そうやって、おまえは幾度も……昇進の話をも断り続けてきた変わり者だからな」
言葉を失った青年の黒い瞳が僅かに泳いだのを、ニタバーニの糸目から覗くダークブラウンが捉えていた。
「だが、トラン。おまえもそろそろいい歳だ。警察中央学校出で然るべき位置に就く事は約束されているとはいえ、此処に踏み留まっているのも潮時じゃあないか?」
「…………」
「理由は俺の知り得るところではないが。断る事は簡単に出来る。……だが、一度よく考えてみろ。おまえにとって何が最良か」
「……はい」
「ゼネラック警視、クイロ警部」
手にボードを持ったスーツ姿の若い男が靴音と共にこちらへ駆けてくる。
「なんだ」
「先の事件ですが、焼死体の鑑識結果が出ました」
「……早いな」
「大至急報告するように、とのクイロ警部の命を伝達したまでで」
どこか引っ掛る物言いに、ニタバーニがチラっと青年――トランの顔を見遣る。それに気づいているのかいないのか、真剣な横顔を崩さぬままトランは先を促した。
「原因はやはり」
「はい。警部の睨んだ通りでした」
返ってきた答えに、しかし見据えていたはずのトランの表情は落胆の色を帯びる。
短い白髭でざらざらとした感触の顎を片手で撫でながら、難しい顔のままニタバーニは低い声で呟いた。
「……禁術封石、か」
3
――俺のはコレなんだ。
――おまもり?
――そうそう。これを持っていれば、どんな時も俺は強くなれるんだ。
――強く……、
――大事なものだ。おまえの母ちゃんが作ってくれた、そのお守り。それと一緒だ。
――これと?
――そうだ。だからおまえもそのお守り、大事に持ってろ。
――…………。
――負けるなよ、な……。
4
『お帰りトランちゃん。今日はやけに早かった……って、トランちゃんどうしちゃったの!?』
1号室の扉を開けるなり、クレープの声が飛んできた。
ただし、トランを迎えたのは声のみである。『魔眼』の禁術封石を所持するリタルが不在なのだろう。幽体であるその姿はトランの黒瞳に映らない。
「ただいま。ちょっとゴタゴタがあってさ。しかし大袈裟なんだよな……これ」
頬に貼り付けられた当て綿に手を添えながら苦笑いを浮かべつつ廊下を歩く。今年二十一歳になるトランは、童顔と細身の背格好からか普段は実年齢よりも若くみられがちだ。しかし、今日の草臥れ方は彼を歳相応の……いや、それ以上の年齢に仕立て上げていた。
『ゴタゴタって……トランちゃんのコート、煤だらけよ? その顔も……怪我してンの?』
「大したこと無いよ」
ソファの上に使い古した鞄を放るとその上に、汚れたコートを置く。冴えない顔でネクタイを緩めながらトランはリビングを見渡した。室内は無人だった。響く刻音に目を向けると、閉めきったブラインドの上に掛けられた白い円時計の針は十九時を僅かに回っていた。普段ならこの時間帯には全員が帰宅して、空き時間を思い思いに過ごしているはずなのだが……。
「クレープ一人? 他の連中は?」
『今は全員出払ってるけど……って、ンな事はどうだっていいわよ! 本当にダイジョブなの!?』
「見ての通りピンピンしてる」
『……火事にでも巻き込まれちゃったの?』
「まぁね。でもほら俺、火には縁があるっつうか強いっつうか。慣れてるんだ。なんでか現場に出くわす事が多いしさ。グレープちゃんと初めて会ったのも火災現場だったし。同僚にも消防隊に志願しろ、なんてよく言われるんだよ。何のために警中出たんだって話」
クレープの心配を元気に笑い飛ばそうとしたトラン。だがその甲斐なく、聞こえてきたクレープの小声は明らかに沈んでいるように感じた。
『トランちゃんの場合は、慣れてる訳じゃなくて……』
「え? なんか言った?」
『……なんでもない。てか、トランちゃん。誰かに用でもあった?』
返ってきたいつものトーンに少しだけホッとして、トランは声のする方を振り返った。
「あぁ。リチウムに話が……って」
ワイシャツのポケットに手をやり小さな巾着袋を取り出すと、トランはそこで動きを止めてしまった。
『どうしたの?』
中断してしまった会話に、そしてなによりトランの顔色の悪さに、クレープが訝しげに問う。
「……やっぱり」
独り言のようにトランが呟いた。
「オマモリが、無い……」
5
既に街には夕闇が降りていた。
時折北風が吹きつけ長い金糸を攫う。幽体であるクレープは気温を肌で感じる事は出来ない。それでも、季節は秋。日の暮れた野外の景色はそのルビーアイにどこか寂しく映る。
しかし、目の前にあるドス黒い塊の放つ物悲しさは格別だった。
グノーシス市東部にある高級住宅街の一角。住宅展覧会よろしく、目を見張るほど豪勢で威圧感を放つ家々が立ち並ぶ中、目前の広大な土地だけ、全てが黒く崩れて形を失くしていた。
『ココ? 現場って』
クレープの声に、彼女の足元でキョロキョロとあちこちを見回していたコート姿のトランが口を開く。
「ああ。数時間前に起きた火災現場だよ。あの時結構動いたし。病院にも問い合わせてみたけど届け出がないみたいだし。落としたのなら多分ここにあるはず……って、ちょっとここで待ってて。訊いてくる」
作業員の中にスーツ姿の男を見つけると、トランはそちらへ走って行ってしまった。
『……「オマモリ」ねぇ』
突風に緩やかなウェーブを描く髪が流れる。後ろで手を組み、遠ざかる背中を細めた瞳で見送りながらクレープは呟いた。
トランの言う「オマモリ」を、クレープは一度だけ目にしている。形状といい、性質といい、トランには全く似つかわしくない物だった。一体誰の物かと問い詰めた所、昔、ある人に「オマモリ」だと言われて持たされたのだと渋々白状した。小さな皮の巾着袋に入れたソレを肌身離さず持ち歩いているそうだ。
……一体。どこのドイツがあんな物騒なモノ、渡したんだろう。
射るような視線をトランの背中に向けていたクレープは、深い溜息をつくと表情を緩めた。
『……完全に気づいて無いってのがまたトランちゃんらしいケド』
いつだって、疑いもせずに物事を受け止める。人を受け入れる。彼は昔からそうだったのだ。それが考えなしの行動に映るのだろう、人は真っ直ぐな彼を鈍感とか馬鹿とか呼ぶけれど。アタシは、彼はそのままでいいと思う。
うんと頷いて――それからクレープは視線をトランの奥へ向けた。
全壊した建物。焦げ臭い空気。眉間に皺を寄せる。クレープは辺りに漂う異質を感じ取っていた。
『ただの火事、じゃないわね。これは』
ただ一つ自分が気になるのは、彼がそれに気づいていたという事だ。
ホームに帰ってきた直後――トランはリチウムに話がある、と言っていた。あの様子。恐らく、総ての禁術封石を手放すよう警告しようとしていたのだろう。これまでだって再三行われてきたやりとりだった。その度にトランが、リチウムやリタルにあしらわれているのをクレープは何度も目にしている。騒動の前のトランの様子は――今日の帰宅直後のように、疲労していた。
トランは警察機関――それも、人界に在る総ての警察機関を統べる中央警察署に勤務している。本来、禁術封石を所持する人間を取り締まり、処罰する立場の人間だ。だというのに、何故彼がストーンハンター――それも、コレクターの家に盗みに入る行為を主な活動としているリチウム達と同居なんてしているのか。……話せば長くなるのだが、トラン側の事情を掻い摘んで言うと……まぁ要するに、グレープやリタルを心配して居座り続けているのである。しかし、それが彼の首を絞めていた。
自分は犯罪者を見逃している。それどころか成り行き上、たまに加担する事もある。そんなことで昇進の話を断り続けている愚直な彼が、肌身離さず持っているソレは、実は――でした、なんて事実を知ったら……。
結末は見えていた。真実を知ってしまった時のトランの表情を、果たして自分は直視出来るだろうか。
紛失したというならば、いっそ。このまま出てこない方がよいのではないか――
「クレープ」
呼ばれて顔を上げる。いつの間に日の光は失せてしまったのか。驚く程暗い世界の真ん中で、外灯に照らされたトランの姿が自分を探して駆けてくる。
『見つかった?』
近づきながら、彼が見つけやすいように声をかけてみたのだが――質問の答えはわかっていた。自分の声を頼りに近づいてくるトランの表情が冴えないからだ。
「いや……今のトコ無いみたい」
『探してみる?』
「ああ。けど、クレープは帰っててくれよ。……どれだけ時間が掛かるかわからない」
トランの表情にどこか悲痛な色を感じ取ってクレープは声をかけようとした。しかし、それを制するように片手を挙げて、トランはいつもの人懐っこい笑顔を見せる。
「付き合ってくれてさんきゅな」
一言だけ残すと、トランは再び黒塊の方へ駆けていった。
6
それは、つい先日の話。トランは一人の少年と会った。
遅めの昼食をとる為に立ち寄った公園で、少年は一人、ブランコに乗っていた。
キィキィと空をきってブランコは飛ぶ。
視界に収めたトランは、さして気にする事もなく数十分前に買った菓子パンにパクついた。
その日の帰り。闇の降りた道を歩いていたトランは、通りかかった昼間の公園で鎖の軋む音を聞いて、なんとはなしにそちらを振り返った。
少年は一人、ブランコに乗っていた。
キィキィと空をきってブランコは飛ぶ。
視界に収めたトランは、少年に歩み寄った。
――もう帰る時間だぞ?
それが出会い。
さらさらした明るい茶色の髪と瞳。歳の頃は十歳位か。少年はいつもその公園のブランコに乗っていた。
会う度、少年は独りだった。幼い頃に母親と死に別れ、今は父親と二人暮しだという。
父親の帰りは遅く、独りの部屋は嫌だという少年はいつも公園に居た。トランはその日から、空いた時間をその少年と過ごすようになった。
他愛の無い話をし、一緒に菓子パンを食べ、一緒に遊ぶ。その繰り返し。
最初はおっかなびっくりだった少年が、見上げた先に在る人懐っこい表情に、つられて笑うようになったそんな頃。トランは、少年がいつも首から下げているお守り袋について尋ねてみた。
少年は僅かな沈黙の後で、亡くなった母親が自分に作ってくれたものだと教えてくれた。
トランは、お返しにとばかりに自分のオマモリを少年に見せた。
「俺のはコレなんだ」
「おまもり?」
「そうそう。これを持っていれば、どんな時も俺は強くなれるんだ」
「強く……」
「大事なものだ。おまえの母ちゃんが作ってくれた、そのお守り。それと一緒だ」
「これと?」
「そうだ。だからおまえもそのお守り、大事に持ってろ」
「…………」
「負けるなよ、な……」
そんな会話を交わした、幾日か後。自分と少年の分の昼食を用意して訪れた公園で、ブランコを漕いでいた少年の胸からお守り袋が消えていた。
失くしてしまったと言う。
落ち込んでいた少年を励まそうと、トランは少年の手を引いて公園を出た。
先ず、映画を見た。それから、トランの行き付けの古い定食屋でご飯を食べた。散歩をして、ゲームセンターで撃ち合った。少年は楽し気に笑っていた。
それが、元気な少年の姿を見た最後だった。
さんざん遊び倒し、公園の前で別れた。それ以降、トランは公園に少年の姿を見ることが出来なくなってしまった。
毎日、空き時間に訪れる公園で、風に吹かれ力なく揺れるブランコ。……それを幾度見たことか。
いつものように公園の入口に立ったトランは、公園の先にある住宅街から立ち昇る黒煙を視界に入れる。
急行したトランが見たものは――燃え盛る炎の中助けを求める、あのブランコの少年の姿だった。