1
サファイア色の髪。ルビーのような紅い瞳。清楚な巫女服に身を包み。鈴の音にも似た声が鳴る。
グレープ・コンセプト。
彼女と接した人は皆こう言う。黙って突っ立っていれば文句なしの可憐な美少女。
だがその実態は――歩く破壊魔。
1
「もぉぉお! どうやったらンなトコ入れるのあんたが!」
休日の穏やかな昼下がり。突如として響いたリタルの喚き声が、1101号室で雑誌を読みふけっていた不幽霊、クレープの耳を劈いた。
何事かと玄関をすり抜け廊下に出ると、すぐにリタルの不機嫌全開仁王立ち姿が視界に入る。腕を組んでじたんじたんと片足を鳴らし、迸る怒りのオーラで頭の上で二つに編まれた黄緑色の髪をゆらゆらと揺らしている。
『何やってんのよ』
クレープの声に振り返ったリタルは一層不機嫌を露にした。
「何もへったくれもないわよ! こいつが!」
1103号室のドアをびしっと指差すリタル。クレープがそちらへ視線を向けるのと同時に、ドアを隔てて向こう側に居る何者かが状況を説明しようと鈴声を上げた。
『……ストップ。グレープ。結果は?』
声で中に居る人物を判別し、やたら長引きそうなドン臭い説明を省くべく話の結末だけを促すと、
「ロックを壊してしまいましたぁ……」
なんとも情けない一言が返ってきた。
2
十一階建ての古びたマンションが彼女達のホームである。
ここ十数年で急速に栄えた都市部よりやや西に位置するこの地区は、所々に緑を残す静かな下町だ。古い住居が犇めき合っている所にこのマンションだけがニョキっと空に背を伸ばしている。
築二十年以上は経過。相応に、あちこち剥げかけた外装や、天井や壁に走る皹等、建物の至る所にガタがきている事が視認できる。故に住人も少ないのだが、調べてみると意外にしっかりとした造りをしており、立地条件も良い事から、リタルが購入を決めたのがかれこれ二年前の話だ。マンションには各フロアに三部屋ずつ設置されていたため、最上階に当たる十一階の三部屋をリチウムが買い占めた。
かつてリチウムとリタルは、1101号室からリチウムの住居、リタルの住居、仕事部屋と割り当てて暮らしていた。しかし三ヶ月前から女性が増えた為に今では、1101号室を団欒部屋兼男住居、1102号室を女性専用住居、1103号室は仕事部屋としている。振り分けはリタルの独断である。グレープ達との同居が決定して間もない頃、彼女は一枚の計画書を片手に一同を巻き込んだ大模様替えを実施した。
そんな訳で、彼女等は一日の大半を1号室で過ごす。2号室に彼女達が入り浸るのは主に就寝時のみ。故に、3号室にグレープが出入りする事は日常滅多に無い事なのだが……。
「ったく……なんで3号室なんかに入るかなぁ……。ここに取り付けたロックが一番特殊なんだから……」
頭を抱えるリタル。もう何度目だろう、やたら甲高い「すみません……っ」の声が扉を越えて頭上に降ると、それはそれは強大な溜息を吐いた。
『……本当に特殊みたいね。このアタシが入れない……』
幽体であるクレープが扉に手をついたまま、唖然とした表情で呟くと、
「当り前。アンタみたいな妙な生物がこの世に現存してる事を知って、このあたしが何の対策も練らないと思う? より完璧を求めてロックの石を改造した事は言うまでも無く、幾度も改良を重ねたバリアーの石まで用いてこの部屋丸ごとコーティングしてんだから」
何を今更……とでも言いたそうな視線を、半透明の背に向けるリタル。
『うっそマジ? そこまでしてあンの』
「その部屋にはイロイロ在るしね……って。たった今、その身を持って証明してくれたでしょう? あんた」
扉を凝視しているクレープの背に、リタルが呆れ顔で自身の額をツンツンと指す。恨めしそうな表情でリタルを振り返るクレープの額には……なるほど、巨大なタンコブが一つ君臨していた。
「さて、どうしたもんか。あたしの石の力じゃ中には入れないし。ぶち壊そうにも相当頑丈に強化しちゃったし……この扉」
腕組みして、今や開かずの間と化してしまった部屋の扉を忌々しげに睨むリタル。
『ココって仕事部屋よね? アンタの造った機械がゴロゴロしてる』
「……そうだけど」
『なら、適当な機械使って中からドアぶち壊しちゃえばいいじゃない。グレープ!』
クレープの声に、中から嬉々とした鈴声が上がる。
「あぁ、そうですね! 流石ですクレープさん。それではまず……こちらの、銀に光る銃をば」
「駄目! 絶対にだめー!」
悲鳴のような絶叫を上げると光の速さでドアに詰め寄るリタル。
「あんた自覚無さ過ぎ! いい加減弁えなさいよね!? そうやって何度笑顔であたしの可愛い無抵抗な機械達の息の根を止めてきたと思ってるの!?」
「は、はいぃ! すみません!」
『つーかしてないから息。無機物だから機械』
「とにかく! あんたってば一体どういう造りしてんだか、触っただけで機械はおろか本体の石ころだって一瞬で再起不能に至るまでにぶっ壊しちゃうんだから! 歩くストーンクラッシャーなんだから! もうこれでもかっつー位、破滅的に石という石総ての属性と相性悪いんだから! だからもぉ大人しくしてなさいいいわね!?」
「は、はぃぃ……」
敗北一色に染まった声が扉の向こうから返ってくる。「ったくもぉお……」と肩で息をしながら、リタルはドアから一歩だけ後退した。
『……どーすんのよ』
「…………」
『機械が壊れるのがそんなに嫌なら、石だけをグレープに触らせて壊しちゃうってのは? アンタが仕掛けたんだから石の位置位記憶してんデショ』
「駄目。絶対に駄目。アレは最高傑作品なんだから」
頑なに拒むリタルの横顔をジト目で見るクレープ。
『ンじゃこの製作者に似た頑固なロック。どうやって開けようっての?』
「誰が頑固だ不良幽霊。……本来なら掛ける時と同様に、あたしかリチウムかが念じるだけでロックの解除もできるはずなんだけど……見たところ、これまた一体どうやったらそうなっちゃうのって、こっちがプライド捨てて訊きたくなる位にすんごく奇怪な壊れ方してるし……」
先程から一点を恨めしげに見ているリタル。視線を辿ると、灰色のドアノブが見落としてしまう程の鈍い光を放っている事にクレープは気づいた。どうやらそれがロックの石、なるものらしいが。
『奇怪って?』
「あのコがこの部屋に入れた事からして既に奇怪だし。それに幾らこっちが働きかけても発動はおろか反応すらしないのよ。全く。ちっとも。石のクセに。ひょっとしたら石の性質とか……属性そのものが変わっちゃってるのかも」
『そんなことってありえるわけ?』
「さぁ。でも実際動かない訳だし、そうとしか思えない。そんな訳で、ロックを直すのは不可能に近いわ。……かと言って。扉の頑丈さはさっき言った通り。壊す事は愚か、どんなふざけた造りした我侭幽霊も通さない」
『喧嘩売ってンなら買うわよ?』
「かなり惜しいけど、こうなったらあんたの言う通り、石そのものを……ロックを破壊した方が……早いかも」
クレープの放つ殺気を完全に無視して、眉間に皺を寄せたリタルが組んでいた片手を口元に持ってきて唸った。
『それならやっぱりグレープに触らせるのが一番手っ取り早いと思うケド』
「破壊した所で素直に機能を停止してくれるか解らないし……っていうか、こんな無残な状態になってしまったこのコにそんな最期を課すなんて嫌」
『なら、一体どんな素ン晴らしい最期をお望み? 親御サンは』
「出来れば苦しまずに……一瞬で楽にしてあげたい」
『要するに禁術封石で木っ端微塵にしろと』
「そんな残酷言ってない。……まぁ、あんたの言うとおり、禁術封石を使うしかないでしょうけど」
『っつったって、トランちゃんはお仕事だし』
「このクソ肝心な時にリチウムは出ちゃってるし。あたしの機械達は全部この中。……大人しく男どもの帰りを待つしかないわね」
「お手上げ状態」と小さな肩を竦めてみせるリタル。
『……だ、そうよ。アンタしばらく閉じ込められてなさい』
クレープが声を上げると、ドアの向こうから「はぃ……」と、くぐもった返事が返ってきた。グレープと最も付き合いの長いクレープはその様子をリアルに思い浮かべる事が出来た。どうやら体育座り(ひとりはんせいかい)を執り行っているようだ。
3
「つーかあんた。なんだって3号室なんかに入ったのよ?」
扉に凭れて廊下に座りこんだリタルがドアを振り返って尋ねると「それが……」と弱々しい鈴の音が返ってくる。
「今朝、リタルさんに造ってもらったモノが嬉しくて……つい。入る時に、扉がすんなり開いたので、てっきりリタルさんやリチウムさんが中にみえるのかと思って、声をかけながら入ったのですが……結局どなたもみえなくって。部屋から出ようとしたら扉が開かなくなってしまって……」
グレープの言葉に思い当たる節でもあるのか、露骨に表情を歪めたリタルがまたしても大きな溜息を吐いた。
『ナニソレ。アンタあのコに何造ったの?』
宙に寝そべっていたクレープの問いにしかし、下げた顔を上げる事なく口を開くリタル。
「……掃除機」
『は?』
「だから。掃除機よ。このコ、そこらで売ってる機械は触るだけでぶち壊しちゃうもんだから、いつもホウキとチリトリ持って長時間バタバタ駆け回って掃除してたの」
グレープ達が住み着くようになる前まで、三部屋の掃除は勿論、一切の家事をリタル一人が担っていた。完璧主義な彼女。やるからにはと教会から帰ってきた後の空き時間を費やし、それこそその筋のプロにでもやらせたかのような仕事っぷりを発揮、こなしてきた。大好きな研究の時間を深夜に廻したその結果、常時寝不足。生気さえ感じられなくなってしまったその顔色の悪さが、いわゆる「病弱」に拍車をかけていたのだが。その様子を見たグレープが、居候の自分が家仕事をやると申し出たのだ。
これで大好きな研究に専念できる! リタルは勿論、嬉々として掃除機を手渡した。……直後。初めて一同は、恐ろしく無邪気な破壊魔の絶大なる力の片鱗を目のあたりにする事になるのだが。
「だから、普通の掃除機に手を加えてグレープにでも扱えるような代物に改造してあげたのよ。……確かに掃除機は壊れなかったみたいだけど」
「すみません~」
『アンタのたまの親切心も裏目に出たって訳ね。いままでの惨劇から考えてこのコ、表に出る位感情高ぶってる時が一番破壊力増すみたいだから』
「……すみません~」
「てか、グレープ。今更だけど相性悪いにも程がある。転校したての頃、クラスメートからあんたの話を聞いた時は一体どんな冗談だと笑い飛ばしてたわよ。普通、どんなに相性の悪い属性があろうが発動出来ないだけで済むし、決して破壊には至らない。それに人間一つ位は相性の良い属性がある筈だし……。実物は、噂を軽く超えたトンデモ人間だった訳だけど」
「すみません~……。わたしも学園ではそう教わってきたのですが……使えたためしがないのです」
「……かと言って、こっちの幽霊の存在もそれ以上に不可解だけど」
顔を上げると、今度は宙に浮かぶクレープにジト目を向けるリタル。
「こんだけ好き勝手出来るユーレイなんて聞いたこともないし。……んっとに二人ともどういう造りしてだか。一度バラして見てみたいわよ」
『ヤメてよ。アンタが言うと冗談に聞こえないんだから』
「四分の三本気よあたしは」
『リアル過ぎだから。その言い方』
「しっかしトランは仕事だからしょうがないとしても。リチウムは一体どこほっつき歩いてんのよ。……いつもだったらこの時間は部屋で爆睡してんのに」
『さァ。アタシはてっきり相棒のアンタが把握してるとばかり思ってたから』
「夜はともかく、昼間の行動まで干渉されたら嫌でしょう、お互い」
「あ。リチウムさんなら……」
『ナニ』
「確か、ファーレンさんの所にいらっしゃると思いますよ?」
グレープの声に揃ってゲンナリとした表情を浮かべる二人。
「……なんでよりにもよってンなトコに居る訳アイツは……」
『蘇るクレンザー臭……』
「やめてよ」
「なんでも、売り捌きに行く、とか」
「あぁ……こないだのハズレね」
言ってリタルはつい数日前の出来事を思い浮かべた。三者面談を放り投げてまで盗りに行った石は、とにかく使い道の無いふざけた禁術封石だった。
「それこそファーレンは好きなんじゃない? 『念じれば念じただけ花が出てくる石』なんて」
『花屋に売れば儲かりそうなモンじゃない』
「一般人は買わないわよ禁術封石なんて。幾ら商売の為っつったって、人間止めたくないでしょうし」
「わたし、結構欲しかったんですけど」
「冗談でもやめてよ。あんたが触ったら一瞬で花地獄よ花地獄」
グレープが触って、石が暴走して、石から生まれた大小様々な花が見境なく吹き乱れるという惨事。瞬く間に花に埋め尽くされてしまう自分を想像してみる。ちくちく痛いわ、痒いわ、臭いわ、息できないわ……、
『……うわサイアク』
整った顔を極限まで顰めるクレープ。
「……ま、いいわ。とにかく場所が分かったんだから。あたし行ってくる。最悪、リチウムの帰り、夜になるかもだし。いつまでもグレープ一人部屋の中に閉じ込めたままってのも寝覚めが悪いし」
気を取り直して立ち上がると、左手にポケットから取り出した指貫グローブを装着するリタル。
『奴のトコ? 禁術封石で行ったら間違いなく捕まるわよ?』
「大丈夫よ。近くまで跳ぶだけだし。……そもそも見つかるようなヘマなんて、あたしはしないわ」
装着した左手をグーパーさせながら「あたしは」をやけに強調させたリタルがニヤリと笑う。
『くぉのガキャ……っ』
「ンじゃ、ちょっくら行ってリチウム連れて帰るから。頼むからもう少し大人しくしててよグレープ」
リタルが左手に意識を集中させる……と。
「あ、あの」
グレープの声がそれを中断させた。うんざりした表情でリタルが扉を振り返る。
「なによ? まだ何か……」
「す、すみません。でも……」
返ってきたのは、心底申し訳無さ気な――
「ありがとうございます。リタルさん」
どこか嬉しそうな鈴音だった。
エメラルドの大きな瞳をさらに見開いた後、
「……べ、別に!」
リタルは一際大きく発声すると、どこか機械的な動作でぐるりと扉に背を向ける。
「何も、あんたのために行くって訳じゃないわよ!? どーせ暇してたし……っていうか、あんたの行動読めなかったこっちにも落ち度はある訳だし、それに……これ以上あんたに機械達を壊されちゃたまんないから行くだけなんだから……!」
怒ったように言葉を吐き散らしながら、左手を頭上に翳した。瞬間。グローブの甲に当たる部分に取り付けられた手の平サイズの石が、シュオオオオ……という「声」を発し、淡い緑の光をその身に灯す。光が膨張し、包み込んだリタルの体を場から掻き消してしまうまで、僅か数秒。垣間見たソレに驚いたクレープは僅かに紅い瞳を見開いた。
やがて、静けさを取り戻した廊下で一人、ニヤニヤと笑みを張り付かせたクレープが扉の向こうへ語りかける。
『……ネェ?』
「はい?」
『やっぱアンタと居ると退屈しないわ』
「……はい?」
『オモシロイもん見せてもらったわよ』
消える直前の、耳まで真っ赤にさせた横顔を思い浮かべてはクックック……と愉し気な笑みを零すクレープ。
歳相応の、幼い顔。
『案外カワイイとこあんじゃない。あのガキ』
「はい?」
自分と同じ顔を持つ少女の言葉の嬉しそうな響きに、扉を挟んだその向こうでグレープの表情は益々困惑色に満ちていた。
4
「みなさん、ご迷惑おかけして本当にすみませんでした……っ」
1号室。だらけた空気の支配するリビング。その入り口に立ったグレープが、生きる屍達に深々と頭を下げる。
あの後――大凡の場所を見当づけて跳んだリタルは、少しの狂いもなく、とある路地裏に転位していた。リチウムが連絡を取ったとすれば、ファーレンが指定する場所は(よりにもよって)グノーシスに在る警察機関、中央警察署の近くにある寂れた喫茶店だろう。リタルも何度か同席した事がある。照明は暗く、コーヒーは不味く、慇懃無礼な店員が一人で接客している、到底流行りそうにない店。そこまでは楽に予想がついた。
『転位』の禁術封石付きグローブをミニスカートのポケットに捻じ込んだリタルは、窓から店内の様子を覗き見ようと背伸びをした。
「……んん?」
……のだが。窓を覗くなり、リタルは眉を顰めて低く唸った。ナニカがびっしりと窓ガラスに張り付いていて、中の様子がまるで見れない。さらにぽんぽん増え続けていくそれを、リタルは冷静に観察する。赤白黄色、大中小。どれもこれもひしゃげてはいるが、いろんな形をした――これらは……、花だ。
窓に張り付いていたのは、様々な形状、様々な色合いの花、花、花……。
「……なに、これ」
室内から漏れる悲鳴が徐々にくぐもってゆく。
「……まさか」
リタルの脳裏を過ぎったのは、数十分前に発した自身の声だった。
『花地獄よ、花地獄』
様々な花に、隙間無く埋め尽くされていく。侵略は決して店内だけにとどまらない。服の中にも、口腔にも。耳にも、鼻腔すら。穴という穴を求めて花は増え続ける。小さく可憐な花達が、人体を侵していく――
店は今、未曾有の花災害に見舞われていた。開店以来最大の騒動がこの時巻き起こっていたのだ。
「う、うそでしょ……? 一体何やってんのよあいつは……」
青ざめた顔で二、三歩後ずさりするリタル。そんな彼女の視界に無情にも飛び込んできたのは、窓を蹴破って登場した必死の形相の青年――リチウムと、その後を追って一気に雪崩れこんでくる花津波。……ついでに、花と一緒に流れてくる老いぼれ客達と無愛想な店員――
「って、なんで居るんだこの馬鹿ー!」
「――い、ぃやぁああああああああああ!!」
かくして、静かな裏路地に見事な花地獄が展開された。
予定していた時間より大幅に遅れて帰宅した二人は、見事な花の香りに包まれていた。
「うへぇ……」
仲良く花に酔った二人。土気色の顔のまま事務的に事を成しグレープを助け出すと、礼を言うグレープそっちのけでよろよろとリビングのソファに突っ伏してしまい、日もとっぷり暮れてしまった今に至るまで死体のように動かない。
「ひでぇメに合った……」
グレープの何度目かの謝罪に、死体一歩手前のリチウムがようやく反応を示した。
『上級天使をマジギレさせるアンタがいけないんデショ』
「俺様はからかっただけだ……本気にとる野郎が悪い」
「天使相手に喧嘩売る人間なんて、世界広しといえど、あんただけでしょうね……」
『つか、一体なんて言って怒らせたのよ?』
ふいよふいよと寄ってきたクレープを抑揚のない瞳で視界に入れると、リチウムは一言。
「『おまえの母ちゃんデーベソ』」
「……禁術封石密売に行って……一体なんだってそんな低レベルな会話に……」
『泣くなリタル。……しっかし、そんなんで怒髪天する上級天使って一体……』
「……マジだったらしい」
『は?』
「……いやだから、マジでアイツの母ちゃん……」
「……」
『……』
「お二人のお花の香りがお部屋に移ってきましたね」
土色の三人が絶句している中、一人上機嫌なのはグレープだ。
「……喜んでるトコ悪いけど、窓開けてくれない? グレープ。吐きそう」
「あ、はいはい、ただいま……」
「ドアも頼む」
「はい~」
せかせかと小走りで動くグレープ。ドアを開けようと玄関まで移動すると、
「あーったく……! 酷い目にあった……っ」
バタンと乱暴にドアを開けて、着崩したスーツの上に薄手のロングコートを羽織った黒髪の青年が入ってきた。歳はグレープと同等に見えるがこれでも今年二十一歳。何故か年中羽織っている古びたコートがトレードマークだ。
「トランさんお帰りなさい。お勤めご苦労さまです」
グレープの笑顔を視界に入れるや否や、途端に顔を赤くさせる青年。
「た、ただいま。グレープちゃ……!」
『おっかえりなさぁあい! トランちゃぁぁあぁああん!』
突如場を裂いたのは、リビングの方から発射されたハート乱舞の大声だった。不思議そうにそちらを振り返ろうとしたグレープの脇をすり抜け、トランと呼ばれた青年の首にクレープがしがみつく。
「って、抱きつくなクレープ!」
慌てて引っぺがしにかかるトランだが幽体の彼女には意味が無い。必死の抵抗もスカスカと通り抜けてしまう。
「お二人とも本当に仲がよろしいのですね」
グレープの穏やかな一言がトランの全身を落雷のように打ち砕いた。
「だ、だから違……、違うってグレープちゃん、これは…………!」
お幸せに、と言わんばかりの満面の笑みを浮かべてトランの脇を擦り抜け玄関へと移動するグレープの背中に、蒼白の顔でじたばたと抗議するトラン。その頭に、半透明の腕が絡みついた。
『あらグレープ、当たり前の事言わないでよ……って』
トランの頭に顔を寄せたクレープが眉を顰めた。
『ねぇ、トランちゃん? この香り……』
両膝に手をつき、ため息を吐いてから、トランがげんなりとした表情で身を起こした。
「香り? ……あぁ。今日中央署の裏で妙な事件が起きてさ。禁術封石絡みだったんだが……それの後始末に回されちまって」
仕方なくクレープを首にぶら下げたまま、ぎしぎしと鳴る廊下を歩くトラン。グレープは玄関を開放してドアストッパーを置いた後、ててて、と小走りでトラン達の後に続く。
「そういや現場に向かう途中でファーレンを見たんだけど……奴、なにか知らんが妙に機嫌悪くてさ。まぁ、せいぜい普段買ってる馬鹿高い洗剤『ゴージャス』が品切れだったとか、愛用の高級ゴム手袋『セレブ』に穴開いちまった、とか、そんなとこ……」
と、そこまで言い終えてからようやく、リビングから漂う――否、既に廊下にまで充満している嗅ぎ覚えのある匂いに気づくトラン。匂いの発生源は言うまでもなく――
「……よ。お勤めご苦労。トランチャン」
リビングの入口で硬直したトランの視界で、未だソファに寝そべっている半目のリチウムがふてぶてしく片手をひらひらさせている。
「……てか。元凶はまたおまえだったのかよリチウム!」
瞬間、トランは鬼の形相でリチウムに詰め寄る。
「はっはっは。トランちゃん、怒っちゃイ・ヤ」
「気味の悪い声を出すなー! あの花、始末すんのに俺らがどんだけ苦労したかおまえ解ってンのか!?」
「ンなもん知るか。解りたくもねぇ」
「おまえなぁぁぁぁぁああ!」
突如リビングで巻き起こったデッドヒートから、迷惑極まりないといった表情で這ってキッチンへ避難するリタル。
「ったくもぉお……、毎日毎日よくも飽きもせずに……」
『ちょっとリチウム! トランちゃんに怪我でもさせたら承知しないからね!?』
「あ、あの、お二人とも、喧嘩は……っ」
止めようとグレープが駆け寄ると、その足元へ、コロン、と何かが転がり落ちてきた。
見ると、半透明のビニールの袋だ。中に何か、小石サイズのものが入っている。
「……? あの、何か落しましたよ?」
グレープの声に、トランがギョッとなってそちらを振り返った。
「って、グレープちゃん! 駄目だ、それは……っ!」
トランの大声にその場に居た者全員が注目した。が、彼らの視界はそこで、色とりどりのナニカによって塞がれてしまう。刹那解ったのは、部屋中に充満していた香りが一気に膨張した、という事。
時刻は深夜十一時。闇のベールに包まれ、昼間の喧騒も今はすっかり鳴りを潜めている。
ようやく眠りに付こうとしていた街に、静寂を切り裂く断末魔の絶叫が轟いた。
end.