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婚約破棄の短編4作同時公開。

悪役令嬢、その日は非番でした

掲載日:2026/08/19


 シャンデリアの輝きが降り注ぐ王立大劇場の夜会場は、奇妙な熱気と、それ以上に異様な緊張感に包まれていた。


 今宵は王立学園の卒業記念夜会。

 国の未来を担う若き貴族たちが集い、華やかに歓談するはずの場である。


 壇上には、金糸の刺繍が施された豪奢な礼装を身に纏い、肩を怒らせた第一王子ジークハルトの姿があった。

 その隣には、儚げな桜色のドレスを着た男爵令嬢アンネリーゼが、今にも消え入りそうな様子で王太子の腕にすがりついている。


 ジークハルトは胸ポケットに忍ばせた羊皮紙の束を、指先で確かめるように撫でた。


 そこには、彼の婚約者である公爵令嬢リーゼロッテ・フォン・アルステットの数々の悪逆非道が、これでもかと書き連ねられていた。

 アンネリーゼの教科書を破棄させた疑惑。

 彼女のドレスに泥水を跳ねさせた嫌疑。

 果ては王太子である自分への不敬な態度、冷淡な眼差し、挨拶の欠如――。


(今日だ。今宵こそ、あの傲慢で冷血な女の仮面を剥ぎ取ってやる)


 ジークハルトは内心でほくそ笑んでいた。

 幼少の頃から結ばれていた婚約。しかしリーゼロッテは、彼に対して一度たりとも甘えた態度を見せたことがなかった。

 いつ会っても無表情、何を話しかけても「はい」「左様でございますか」と事務的な返答ばかり。

 情熱的な愛を求めるジークハルトにとって、彼女のその態度は「自分を見下している傲慢さ」の象徴に他ならなかった。


 大勢の貴族の前で、あの冷酷な女に平手打ちのような真実の断罪を突きつける。

 そして真実の愛で結ばれたアンネリーゼを新たな婚約者として宣言し、リーゼロッテを国外追放へと追い込む――完璧なシナリオだった。


 ジークハルトは懐中時計を取り出し、文字盤に目を落とした。


 ――夜会の開始予定時刻から、すでに四十分が経過していた。



「……おい。リーゼロッテはどうした」



 ジークハルトが小声で近衛兵に尋ねる。

 近衛兵は困惑したように脂汗を浮かべ、首を横に振った。



「は、アルステット公爵家の馬車は、まだ王城の正門に到着しておりません……」


「何だと……? 馬車が故障でもしたのか?」


「いえ、公爵邸に確認の伝令を走らせましたが、『お嬢様は今朝早くに出かけられたきり、まだお戻りでない』と……」


「出かけただと!? 今夜が何の夜会か分かっているのかあの女は!」



 ジークハルトの苛立ちは頂点に達しつつあった。

 壇の下では、集まった数百人の貴族たちが、グラスを片手にそわそわと周囲を見渡し始めている。



『……開演が随分と遅れているな』

『ジークハルト殿下はずっと壇上で険しい顔をされているが……』

『そういえば、婚約者のリーゼロッテ様のお姿が見えないようだが?』

『まさか、殿下が隣に男爵令嬢を侍らせているのに怒って、ボイコットされたのでは……?』



 ひそひそとした囁き声が、さざ波のように広がる。

 隣でしがみついていたアンネリーゼも、あまりの気まずさに顔を引きつらせ始めた。



「あ、あの……ジーク様ぁ? リーゼロッテ様、まだいらっしゃらないのでしょうか……? 私、皆様の視線が痛くて……」


「だ、大丈夫だアンネ! あの女のことだ、大貴族の傲慢さでわざと遅れて登場し、注目を集めようとしているに違いない! あと十分もすれば、のこのこと現れるはずだ!」



 ジークハルトは自らに言い聞かせるように叫んだ。


 しかし。

 一時間が過ぎ、一時間半が過ぎ――。

 夜会の予定時間の半分が過ぎ去っても。


 主役であるはずの公爵令嬢リーゼロッテは、会場の扉をくぐる気配すら見せなかった。



 





 ズッシャァァァァァンッッ!!


 地響きとともに、体長二十メートルを超える巨大な黒鱗の巨獣――『奈落の暴食竜アビス・グラトニー』が、岩肌の地面に轟音を立てて崩れ落ちた。


 舞い散る黒煙と魔力の残滓の中。

 一振りの大剣を肩に担ぎ、ふぅと短く息を吐き出す人影があった。


 黒いミスリルの軽鎧に身を包み、泥と魔獣の返り血で深緑の長髪を汚した少女――リーゼロッテ・フォン・アルステット(十八歳)である。



「……討伐完了。異常個体という割には、コアの配置がテンプレ通りで助かったわね」



 リーゼロッテは手袋を外し、汗を拭った。


 彼女には二つの顔があった。

 一つは、国内三大公爵家の一つ、アルステット公爵家の長女という表の顔。

 そしてもう一つは――王立冒険者ギルド最高ランクに君臨するソロ討伐者、『黒鉄の百舌鳥モズ』という裏の顔である。


 物心ついた頃から魔力操作と剣術に異常な才能を示していた彼女は、堅苦しい貴族社会の社交よりも、迷宮深層の未踏領域を探索し、誰も見たことのない未知の薬草を採取して研究することに魂を売っていた。



「おいおい、リーゼ。相変わらず化け物じみた手際の良さだな」



 背後の岩陰から、呆れたような声をかけながら歩み出てきたのは、ギルドマスター直属の監察官であり、深層探索の補佐役を務める凄腕の青年冒険者カインだった。



「一人で深層ボスクラスを五分で解体する公爵令嬢なんて、大陸中を探してもお前くらいなもんだぞ」


「失礼ね。ちゃんと弱点属性の魔力付与を計算して、最短ルートで急所を突いただけよ。それよりカイン、目的の『月光竜草』の群生地は無事だった?」


「ああ、ばっちりだ。暴食竜が踏み荒らす前に、お前が引きつけてくれたおかげで極上品が二十株も採取できたぜ」


「素晴らしいわ! これで『精神安定の超濃縮ポーション』の試作が進むわね。あのお父様の胃痛薬にも使えるかしら」



 リーゼロッテは目を輝かせ、採取袋に丁寧に収められた青白く光る薬草を愛おしそうに眺めた。

 彼女にとって、これ以上の至福の瞬間はない。


 大剣を異空間収納の魔導カバンへと放り込み、水魔法を出してパパッと手顔の汚れを大雑把に洗い流す。

 泥まみれのブーツをトントンと打ち鳴らしながら、リーゼロッテはふと思い出したように口を開いた。



「そういえばカイン。今日って何日だっけ?」


「ん? 星暦四百二十四年、水無月の十五日だが」


「……十五日。十五日ねぇ……」



 リーゼロッテは首を傾げ、記憶の引き出しをパラパラとめくった。

 そういえば数日前、公爵邸の執事から「十五日の夜は学園の卒業記念夜会がございますので、夕方までにはお戻りを」とか何とか書かれた手紙を渡されていた気がする。



「あ」


「どうした?」


「今日、王立学園の夜会だったかもしれないわ」


「はぁ!? おいおいおい、大丈夫なのかよそれ! お前、一応あの王太子の婚約者だろ!? 今から戻っても王都に着くの明日になるぞ!」



 カインが目を丸くして叫ぶ。

 しかし、リーゼロッテは「うーん」と数秒ほど考えた後、至って平然とした顔で頷いた。



「まあ、いいんじゃないかしら」


「いいわけあるか! 大問題だろ!」


「だって、ギルドから『迷宮深層で異常個体発生、放置すれば王都近郊のスタンピードに発展する恐れあり』って緊急SS級依頼が出たのが今朝よ? 国の防衛に関わる重要案件を優先するのは、領民を守る公爵家の責務だわ」


「そりゃ正論だけどよ……」


「それに、あの夜会って要するに学生同士の飲み会みたいなものでしょう? 王太子殿下も、私がいなければアンネリーゼさんとやらと楽しそうにお喋りできるでしょうし。公務の書類仕事でもないんだから、私の認識としては『今日は非番』ね」


「非番って……お前、王族の夜会をバイトのシフト感覚で捉えてんじゃねえよ……」



 カインが頭を抱えて深いため息をつく。



「急いで地上に戻っても夜会はとっくに終わってるわ。夜通しダンジョンを歩いて疲れたし、今日はこのセーフティエリアでキャンプを張って、採れたてのキノコでスープでも作りましょう」


「……お前のその鋼のメンタル、たまに本気で恐ろしくなるぜ」



 こうしてリーゼロッテは、王国の社交界を揺るがす大事件が起きていることなど露知らず、持参した小型鍋でグツグツと美味しいポトフを作り始めたのだった。



 





 一方その頃、王立大劇場の夜会場。


 ――開始予定時刻から、二時間半が経過していた。


 もはや会場内には、優雅な夜会の雰囲気など欠片も残っていなかった。

 漂っているのは、言いようのない気まずさと、冷や汗が止まらない重苦しい沈黙だけである。


 楽団はすでに同じワルツの曲をループで八回演奏し終え、指の疲労から微妙に音程を外し始めていた。

 招待された貴族たちも、出された料理を食べ尽くし、手持ち無沙汰にグラスを揺らしている。


 壇上のジークハルトは、青筋を浮かべ、ワナワナと全身を震わせていた。



「な、なぜ来ない……! なぜだ……!? あの女、まさか我が断罪の計略を察知して、恐れをなして国外へ逃亡したのか!?」


「あ、あの、殿下……」



 取り巻きの筆頭である騎士団長の息子が、恐る恐る声をかける。



「これ以上開始を遅らせるのは、貴族の皆様への示しがつきません。……いっそのこと、リーゼロッテ嬢が不在のまま、式典を始めてはいかがでしょうか」


「ぐっ……! し、仕方あるまい!」



 ジークハルトは苛立ち紛れに壇上の中央へと大股で進み出た。

 マイク代わりの拡声魔導具を掴み、無理やり堂々とした態度を取り繕って声を張り上げる。



「皆の者! 長らく待たせた! 今宵、この卒業の佳き日に、私は重大な発表を行わねばならない!」



 ようやく何かが始まると察した貴族たちが、一斉に壇上を見上げる。


 ジークハルトは懐から、用意していた糾弾の羊皮紙をバッと広げた。

 本来ならば、壇の下で青ざめて震えるリーゼロッテを見下ろしながら読み上げるはずだった、渾身の告発文である。



「我が婚約者、リーゼロッテ・フォン・アルステットは! その高慢なる心根から、この可憐なるアンネリーゼ・フォン・ベック男爵令嬢に対し、数々の卑劣極まりない嫌がらせを行ってきた! 教科書を破り! 花壇を荒らし! あまつさえ、今宵の重要な夜会を無断で欠席するという、王家への重大なる不敬を働いたのであるッ!」



 ジークハルトはドラマチックに腕を振り上げ、会場を睨み回した。

 アンネリーゼも「ええ、私はあの方に怯えて暮らしておりましたの……」と涙を拭う仕草をする。


 ――ここで、会場中からリーゼロッテへの非難と、自分たちへの同情の拍手が巻き起こるはずだった。


 しかし。


 返ってきたのは、拍手ではなく――冷え切った、異様な『困惑』であった。



『……え? 何言ってんのあの人?』

『本人がいないところで、一方的に婚約者の悪口を叫んでる……?』

『っていうか、教科書破いたって……証拠は?』

『それより、リーゼロッテ様が欠席されたのって、殿下が公然と男爵令嬢とイチャついてるのに愛想を尽かされたからじゃないのか?』

『公爵令嬢に完全に無視されて、悔し紛れに壇上で喚いてるようにしか見えないんだが……』



 貴族たちの冷ややかなヒソヒソ声が、魔導具の拡声機能を通してジークハルトの耳にビンビンと飛び込んできた。


 当然である。

 断罪劇とは、「告発する側」と「糾弾される側」が同じ空間にいて初めて成立するエンターテインメント(?)なのだ。


 相手が存在しない場で、男が浮気相手を侍らせながら、不在の婚約者の悪口を一人で絶叫している。

 客観的に見れば、ただの『情緒不安定な浮気男の醜態』でしかなかった。



「な、何をざわついている貴様たち! 私は正義の裁きを――」


「殿下、もうおやめなさい」



 冷徹な声が会場に響いた。

 VIP席から立ち上がったのは、ジークハルトの父である国王陛下その人であった。

 その顔は、恥と怒りで今にも血管が破裂しそうなほど赤黒くなっている。



「ち、父上……!?」


「公衆の面前で、不在の公爵令嬢を根拠も曖昧なまま罵り、我が王家の品位をどこまで落とせば気が済むのだ! 夜会はこれにてお開きとする! ジークハルト、貴様は別室へ来いッ!!」


「そ、そんな……! 私は正しいことを……! アンネ、お前からも父上に――」


「ひっ、私は何も知りませんっ!」



 アンネリーゼは国王の怒気と周囲の軽蔑の視線に耐えきれず、ジークハルトの手を振り払って会場の裏口へと逃げ出した。


 静まり返る夜会場の中央で、ジークハルトは羊皮紙を握りしめたまま、間抜けに立ち尽くすしかなかった。



 





 夜会から三日後。


 王都の大通りを、二人の冒険者がのんびりと歩いていた。

 一人は軽鎧姿の青年カイン。

 もう一人は、背中に巨大な素材袋を背負い、泥と魔獣の体液で薄汚れたローブを羽織った少女、リーゼロッテである。



「ふぅ……ギルドでの素材換金、大金貨八十枚になったわね。薬草の乾燥処理もギルドの工房で終わらせたし、大満足の遠征だったわ」


「お前のその頑丈さ、本当に人間か疑うぜ。三日間ダンジョンに潜りっぱなしで、上がってきた足でそのまま研究工房に籠もるやつがあるかよ」


「研究は鮮度が命なのよ。さて、着替えもしたいし、そろそろ公爵邸に戻ろうかしら」



 リーゼロッテが懐かしい我が家の門をくぐると、屋敷の玄関前で待機していた執事のセバスチャンが、顔面蒼白で駆け寄ってきた。



「お、お嬢様ぁぁぁーーッ!! ご無事で……ご無事でしたかぁぁっ!」


「ただいまセバスチャン。何をそんなに取り乱しているの? 魔獣の返り血なら、ちゃんと防汚魔法をかけてあるから絨毯は汚さないわよ」


「返り血どころの騒ぎではございません! お嬢様、三日前の夜会の件をご存知ないのですか!?」


「夜会? ああ、そういえばすっかり忘れてダンジョンに潜っていたわね。ジークハルト殿下には『急用で欠席した』って手紙でも出しておいてくれた?」


「手紙どころではございません! あの日、ジークハルト殿下はお嬢様を壇上に呼び出し、公衆の面前で婚約破棄を宣言する手はずを整えていらっしゃったのです!」



 セバスチャンが身振り手振りを交えて必死に説明する。

 男爵令嬢との浮気。

 用意されていた冤罪のシナリオ。

 そして――主役であるリーゼロッテが現れなかったことで、殿下が一人で自爆し、社交界で「令嬢に完全にスルーされた哀れなピエロ」として大恥をかいたこと。



「……へぇ」



 リーゼロッテは、まるで他国の天気のニュースでも聞いたかのように、薄い反応を返した。



「お、お嬢様? 怒られないのですか? 殿下はお嬢様を陥れようとしていたのですよ!?」


「うーん……まあ、陰湿なことを考えるものねぇとは思うけれど。でも、私を婚約破棄したかったのなら、わざわざ夜会で劇じみたことをしなくても、普通に書類一枚持ってきてくれればサインしたのに」


「話のスケールが違いすぎます……!」



 セバスチャンが頭を抱えたその時。


 ドガァンッ! と公爵邸の門が乱暴に開かれた。

 現れたのは、近衛兵を数名引き連れ、目の下に酷い隈を作ったジークハルト殿下その人であった。



「リーゼロッテェェェッ!! 貴様、どの面を下げて戻ってきたぁぁっ!!」



 ジークハルトは血走った目でリーゼロッテを睨みつけ、大股で中庭へと踏み込んできた。

 その姿は、三日前の着飾った王子とは程遠く、連日の国王からの叱責と社交界の嘲笑によって完全にやつれ果てていた。



「ごきげんよう、ジークハルト殿下。本日はどのようなご用件でしょうか」



 リーゼロッテは泥まみれのローブのまま、完璧な角度で会釈をした。

 そのあまりの自然体さに、ジークハルトは一瞬気圧されそうになるが、すぐに怒声を張り上げる。



「どのような用件だと!? 貴様、三日前の夜会をすっぽかしたな! 私がどれほど恥をかいたか分かっているのか!」


「ええ、先ほどセバスチャンから伺いました。どうやら私の断罪劇を企画されていたとか」


「なっ……! 知っていて、わざと来なかったのか!? 私をコケにするために!」


「いいえ? 先ほど知ったばかりです。あの日来られなかったのは、単純にギルドの緊急討伐任務が入ったからですよ。深層の暴食竜を討伐しに行っておりました」


「ぼ、暴食竜だと……!? 嘘をつくな! そんな化け物、一国の騎士団が総出で挑む相手だぞ!」


「証拠ならございますが。……はい、討伐証明部位の角です」



 リーゼロッテが魔導カバンから、漆黒に輝く巨大なドラゴンの角をゴトリと中庭の芝生の上に転がした。

 そこから放たれる圧倒的な魔力の残滓に、ジークハルトの背後の近衛兵たちが「ヒッ……本物だ……!」と悲鳴を上げて後退る。



「ひ、一人でこんなものを……? ば、化け物め……!」


「化け物とは失礼ですね。私はただ、自分の職務と研究を全うしたまでです。……ところで殿下、私に何か用事があったのではありませんか?」


「う、ぐっ……!」



 ジークハルトは息を詰まらせた。

 本来ならば、「悪事を暴いて優位に立ち、泣きつく女を冷酷に切り捨てる」はずだった。

 しかし目の前にいるのは、泣きつくどころか、竜の返り血を浴びてピンピンしている戦闘狂の令嬢である。



「……こ、婚約破棄だ! お前のような冷血で可愛げのない女、こちらから願い下げだ! 王妃の座から引きずり下ろしてやる!」



 ジークハルトが最後のプライドを振り絞って叫んだ。


 リーゼロッテは、至って穏やかに微笑んだ。



「はい、かしこまりました」


「……は?」


「お互いに愛情も信頼もありませんでしたし、殿下には他に心に決めた方がいらっしゃるのでしょう? ならば、引き延ばす理由もございません。婚約破棄、謹んでお受けいたしますわ」


「えっ……あ、いや……その……」



 あまりにもあっさりとした承諾に、ジークハルトは拍子抜けして口をパクパクとさせた。

 引き止められることも、激昂されることも、涙を流されることもない。

 ただ、役所の窓口で不要な書類を破棄されたような、圧倒的な『事務処理感』。



「つきましては、王家からの結納金の返還リストと、公爵家から王家へ融通していた魔導具開発予算の引き上げに関する書類を、明日中に王城へお届けさせますね。それでは殿下、私、これからお風呂に入って泥を落としたいので、これで失礼いたします」



 リーゼロッテは優雅にカーテシーをキメると、巨大なドラゴンの角を担ぎ直し、さっさと屋敷の中へと入っていってしまった。


 残された中庭には。

 呆然と立ち尽くす元王太子と、静まり返った風の音だけが残されていた。



 





 それから一ヶ月後。


 王国の社交界は、大きな地殻変動を迎えていた。


 公爵令嬢リーゼロッテを根拠なく断罪しようとし、あまつさえ相手に完全に無視されて一人相撲を演じた第一王子ジークハルトは、国王の怒りを買って王位継承権を剥奪された。

 彼は現在、王都から遠く離れた北方の極寒の修道院へ送られ、日夜反省の祈りを捧げさせられているという。


 彼に縋り付いていた男爵令嬢アンネリーゼも、「王太子を唆して宮廷を混乱させた悪女」として社交界から完全に排斥され、実家の男爵家ごと領地へ引き籠もることを余儀なくされた。


 一方――。


 王都の外れ、緑豊かな森林地帯に佇む広大なアトリエ付きの別邸。

 そこが、公爵家から『完全な自由と研究の場』としてリーゼロッテに与えられた新たな拠点であった。



「ふぅ……。やっぱり、朝摘みの『銀霧草』で淹れたハーブティーは最高ね」



 木漏れ日が差し込むテラス席で、リーゼロッテは優雅にティーカップを傾けていた。

 着ているのは、締め付けの厳しいコルセットのドレスではなく、動きやすい麻のブラウスと革のパンツ。


 王妃教育という名の無駄なマナー講習から解放され、彼女の毎日は劇的に快適になっていた。

 午前中は庭の薬草園の手入れと調合実験。

 午後は気が向いたらダンジョンへ潜って新種の素材集め。

 夕方はギルドの仲間たちと酒場で美味いエールを飲む――まさに理想のスローライフである。



「おい、リーゼ。頼まれてた隣国の未踏迷宮の地図、ギルド経由で手に入ったぞ」



 庭の生垣をひょいと飛び越えてやってきたのは、相棒のカインだった。

 手には分厚い羊皮紙の巻物が握られている。



「本当!? ありがとうカイン! あそこの地下百層には、どんな病も治すっていう『万能霊樹の雫』があるらしいのよ。ずっと行ってみたかったの!」


「まったく、普通の令嬢なら婚約破棄されたら寝込むところを、お前はますます元気になりやがって……」


「あら、寝込む理由なんてどこにもないわ。面倒な政治の道具から解放されて、好きな研究に没頭できるんですもの。むしろジークハルト殿下には感謝したいくらいよ」


「……あいつ、修道院でお前のその言葉聞いたらショックで泡吹いて倒れるんじゃねえかな」



 カインが苦笑いしながら、テラスの空いている椅子にどっかりと腰を下ろす。

 リーゼロッテは彼の手元にもハーブティーのカップをコトッと置いた。



「はい、どうぞ。集中力を高める特製ブレンドよ」


「サンキュー。……で、隣国の迷宮アタック、いつ出発する?」


「そうねぇ……」



 リーゼロッテは抜けるような青空を見上げ、爽やかに微笑んだ。



「明日から行きましょうか。――なんと言っても、私、これからは毎日が『非番』ですもの」



 悪役令嬢として断罪されるはずだった少女は、誰よりも自由に、誰よりもマイペースに。

 今日も愛用の大剣を手に、未知なる冒険の世界へと歩き出していくのだった。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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評判良ければ連載化します!

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