3の2 戦場への使者
町を出てしばらくすると田んぼ道で小山が左右にあるくらい。隊列は先頭から高畠殿、利政殿、右近殿、達也、後ろに侍一〇名が従った。
長旅なので打ち解けるべく、まずは達也が自己紹介した。
名前は石川達也で(満年齢)三十歳の独身。父母との三人暮らし。能登デザイン社長。デザインとは外国語で言うところの設計や絵描きであると説明した。
前田孫四郎利政殿は、当主前田利家と母松様の次男で十三歳。今年の二月に元服したので初陣だそうだ。
奥村右近孝行殿は、家老奥村永福と母安さんの三男で十三歳。同じく初陣となる。
高畠石見守定吉殿は要害である七尾城主。松様の親類で五十五歳の老将だ。ちなみに松様は四十四歳らしい。
和倉からは南東に進み、沿岸の七尾小丸山城からは南進、内陸部の上古府(昔の能登国府)で昼食を食べた。ここからは東の険しい宝達丘陵に分け入る。巨大な七尾城を眺めながら、熊淵川に沿って東へ下り、日本海を望む花園で宿を取った。
能登横断の強行軍であった。夜には、達也の懐中電灯やライターに高畠殿たちが驚く一場面もあったが、四百三十年の事実を知る若い利政殿と右近殿が平然としていたので、部隊に混乱はなかった。
二日目は南下して越中に入った。このまま富山湾に沿って越後を目指す予定だ。小矢部川河口の町に泊まる。二日目にして足が痛い。人生でこんなに歩いた事はないだろう。もう嫌だと心中で嘆いても、誰も代わりはいない。
三日目は東進し、神通川西岸まで歩いた。
四日目は魚津城まで進む。この辺の越中東部は、豊臣家の領地だ。
五日目は国境の町である護国寺まで来た。明日には上杉家の越後に入る。正直言って帰りたい。
六日目に最大の難所「親不知」を通った。海岸まで岩山が迫っていて干潮でないと通過出来ない。海は深くて波も荒い。波しぶきを受けながら岩壁にへばり付いて進んだ。そして直江津へ。それにしても、この時代の人は強すぎる。
七日目は春日山城を右手に見ながら城下町を南下した。そしてやっと信濃に入った。
八日目、野尻湖から北国街道を進んで名所の善光寺にお参りした。寺は小高い丘にあって、門前町の見晴らしは良かった。
九日目に真田昌幸の上田城ご城下に泊まる。真田は六文銭で有名だが、次男は後の世で「日本一の兵」と呼ばれる真田幸村(信繁)だ。
十日目に軽井沢へ。信州は山国なのに、軽井沢は広大な平坦地であった。たぶん古代の窪地に噴火や雨で土砂が溜まったのであろう。
十一日目は碓氷峠から下った。上野は北条氏の領国で、ここから戦場に入ったのだと認識する。松井田城は味方の北国軍が占領して、梅鉢の前田旗を掲げていた。
十二日目は神流川の北岸に泊まった。前田軍は武蔵国の要衝、鉢形城を攻めているそうだ。明日からは血を見るかも知れないと、達也は気を引き締めて寝た。
十三日目、鉢形城には、城を取り巻く数万の味方軍勢がいた。そんな中、前田利家公の陣中に案内され、夕刻に到着した。今日は五月十八日、古そうな寺である。
「孫四郎、どうしてここに居るのだ。国元で何かあったか」
陣幕を四方に張った本殿から鎧姿の大男が出て来て太い声を上げた。この人が「槍の又左」と恐れられる武人、前田又左衛門利家公だ。180センチ以上あるだろう。
「一大事でござる。とても凄い事が起きました。先ずは母上の文をお読み下され」
利政殿は懐から書状を出して渡した。
「一大事」の言葉とは裏腹に妙に落ち着いている利政殿を見て、不思議そうな利家公であったが、手紙を読んでへの字口になった。
「石川達也とはその方か。多くを喋るな。戦場には敵の間者も多く居る。後で詳しく聞かせてくれ」
達也は黙ってうなずいた。
「城攻めは嫡男の利長に任せる。村井又兵衛と奥村助右衛門にすぐ来いと使いを送れ」
「ははっ」
赤母衣を付けた使番が飛び出して行く。
「若い三人は寺に上がれ。高畠石見も道中案内大儀であった。下がって一杯やってくれ」
「ははっ、かたじけない」
口数少ない高畠殿が利家公に礼を述べた。
一行が草鞋や靴を脱いで、利家公の小姓から水と握り飯のもてなしを受けていると、呼び出しがあった。
「孫四郎様、右近殿、石川殿の三人を殿がお呼びです」
達也は、資料が入っているリュックを背負って、利政殿の後ろに従った。夕日はもう落ちて薄暗くなっていた。
奥の小部屋には大男の利家公が真ん中に、恐いオジさん二人が左右に座っていた。燭台の明かりで豪傑三人の顔が見える。
利政殿、右近殿、達也も座ると利家公が紹介した。
「石川達也よ、これに居るのが又兵衛と助右衛門だ。わしの両腕よ」
達也は実家の本で予習してきた。利家公が五十四歳で、側近の村井又兵衛長頼殿(四十八歳)と譜代筆頭の奥村助右衛門永福殿(五十歳)、二人とも重臣である。
「まず訊こう。四百三十年の後世から来たというのは本当か」
「はい。令和天皇の時代で、安倍晋三内閣総理大臣が日本を指揮しています。その日本の石川県能登地方に和倉温泉があります」
利家公の問いに達也は応え、リュックから資料一式を取り出した。
「まずは御覧下さい。和倉温泉の案内です」
パンフレットを前に差し出す。暗かったので、懐中電灯を出して照らした。
「おおっ、光じゃ」
利家公、又兵衛殿、助右衛門殿が明かりに驚き、次にパンフレットの写真に注目となる。
「能登和倉温泉は千二百年以上の歴史があります。この加賀屋さんは日本一の旅館で、天皇陛下や上皇さま、宮家などの皇族方もお泊りになられたことがあります。四百三十年後の未来から飛んで来たのは本当です。町民二〇二名とお医者さん夫婦二名、スコットランドからの留学生女子一名です。ここまでは良いでしょうか」
達也は利政殿たちに賛同を促した。
「父上、間違いありません」
利政殿と右近殿は頭を縦に振った。
「松様にはお米を支援して頂きました。お礼に加賀屋別邸『松乃碧』を居館として、ご利用頂いております」
「五階建ての大きな館であります」
右近殿も応えた。
「松様なら心配ないだろう。ところで天下は如何なる」
又兵衛殿が尋ねた。これは戦国武将の誰もが気になるところだろう。
「はい、ご用意しましたもう一枚が、秀吉公の略年表でございます。ご覧下さい」
達也が本から書き写したもので、天正十八年から慶長三年の秀吉没までをA4用紙一枚にまとめてある。
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天正十八年一月、妹旭没す。三月、小田原征伐に出陣。四月、小田原城を包囲。七月、小田原開城、北条氏政・氏照自刃。天下統一なる。
天正十九年一月、弟秀長没す。二月、千利休切腹。八月、長子鶴松没す。十月、肥前名護屋城の普請開始。十一月、甥秀次を養子とする。十二月、養子秀次に関白職と聚楽第を譲り、自身は太閤となる。
文禄元年一月、諸大名に朝鮮出兵を命令。三月、名護屋へ出陣。五月、名護屋城で茶会を開催。七月、母大政所没す。
文禄二年一月、名護屋城で能の稽古を開始。五月、名護屋城で明使と会見。八月、淀殿に男児(秀頼)誕生。帰坂。十月、禁中能を催す。
文禄三年一月、伏見城の普請開始。二月、吉野の花見。三月、高野山参詣。
文禄四年七月八日、謀反の罪で秀次を高野山に追放。七月十五日、秀次切腹。八月二日、秀次の妻妾・子女を処刑。聚楽第を破却。
慶長元年閏七月、畿内に大地震。九月、大坂城で明使と会見。十一月、キリシタン宣教師と信徒二十六名を長崎に処刑。
慶長二年七月、秀頼を連れ参内。
慶長三年三月、醍醐の花見。五月、病床につく。七月十五日、諸大名に秀頼への忠誠を誓わせ、形見分けを行う。七月二十五日、朝廷等へ遺金分配。八月十五日、五大老に秀頼を託す。八月十八日、伏見城に没す。(豊臣秀吉・学習研究社から引用)
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皆が見てうなっていたが、最初に助右衛門殿が口を開いた。
「秀吉の寿命はあと八年か。前田の殿様はどれくらいじゃ」
「秀吉公が病死した八ヶ月後に利家公も死去されます」
「そうか」
利家公は身じろぎもしなかった。
「二人が死んだ後の天下は如何なる」
再び又兵衛殿が質問し、今度は膝を前に乗り出した。
「その件は、こちらの関ケ原本で説明いたします。まず前田利長殿に徳川家康が言い掛かりをつけて、松様が人質として江戸に行きます。次に上杉景勝と徳川が喧嘩して、徳川軍七万と石田三成軍八万が天下分け目の関ケ原で戦います。勝利した徳川家は幕府を開き、二百六十五年の治世を築きます」
「母の松を人質に差し出すなど、我が嫡男は不甲斐ない。一方で、石田三成が八万もの大将か。もっと利長を鍛えねばなるまい」
本をパラパラと手に取り、利家公は又兵衛と助右衛門を見た。黙ってうなずく二人。
「あの、その時、我は」
天下の話で何も触れられなかった利政殿が、達也に自分の事を尋ねた。
「家康側に付いた兄上と対立し、人質救出に動いたそうです。戦後は京都で文化人として誰にも従わずに生きました」
「そうか」と利政殿は気を落とした。天下の戦で活躍出来なかったのは、さぞ残念であろう。達也は、寂し気な利政殿を励ました。
「歴史は変わります。僕たちがこの世にあるのが、その証拠です」
珍しく達也は熱くなる。
「まあよい。家康の無法に従わぬ矜持はあるようだ。文武に励めよ」
まだ若い利政殿に顔を向けて、利家公は笑顔になった。
「石川達也よ、明日、ワシと小田原に行って秀吉に話を通そう。特に心配はない。和倉温泉は前田家で預かる。お主は秀吉からの質問に答えよ。はるばると長旅ご苦労だったな。利政たちも一緒に小田原へ行くぞ」
達也は長旅の疲れと秘密会議の重圧で、脳内がくらくらしていた。そこを見て利家公が早めに会議を終わらせてくれた。
「有難うございます。長旅で疲れました。ちょっとだけ寝かせて下さい」
「四百三十年の旅か。よかろう、休め」
利家公たちは席を外してくれた。
達也は仰向けに天上の暗がりを見て眠りについた。ここは関東の内陸部で、蒸し暑い夏の一夜であった。




