2の1 前田利政推参
天正十八年(1590年)正月、京都聚楽第で関白太政大臣の豊臣秀吉公は、全国の大名へ「小田原征伐」を号令した。
今や関白殿下の支配地は関東奥羽以外の全てであり、天下統一まであと一歩である。
臣下である父前田利家と兄利長は急いで加賀の金沢城(尾山城から改名)に戻り、二万の兵を纏めて関東へと出陣した。
次男で十三歳の前田孫四郎利政は、前田家の元拠点で伯父安勝が預かる能登七尾小丸山城に居候していた。「我も初陣を」と父にせがんだが、「まだ早い」と留守番にまわされた。不満ではあったが、戦場で皆の足手まといには成りたくなかった。
そして五月五日である。
利政は起床後に顔を洗い、朝飯を待つ間、近習の奥村右近孝行(家老奥村永福の三男で十三歳)と庭先で木刀を振っていた。
突然、兵が駆ける足音が聞こえて城内が騒がしくなった。
「何だ、何か起こったな」
ほどなく、伯父から使い番が飛んで来た。
「若様、一大事にござる。城へ知らせて来た漁師が申すには、温泉地『湧く浦』に十階建て以上の櫓が立ちあがった模様にござる」
「そうか、急に櫓が建ったのか。謎だな」
つぶやいて利政は右近に笑みを向けると、近習の右近はゆっくりと首を横に振った。我は大名前田家の次男。危険な振る舞いが許されない立場は分かっている。
しかし、今が大事であると、利政は判断した。
「我は物見に出る。右近、馬を引けい」
伯父上の使者を追い帰し、利政と右近の二騎は、北西に向かって馬を走らせた。
四半刻(30分)と少しで「湧く浦」へ着いた。
馬上から見える風景はまさに「別世界」であった。
この海辺の村には一枚岩のような平らかで広い道があり、綺麗な壁と瓦屋根の民家が立ち並んでいる。四角い箱状の店も多くあり、特に町の奥には海と山に一基ずつ、十階建て以上の立派な櫓があった。
住民たちは皆、顔を隠すように白布を帯びていて、袖も袴も細い衣服を身にまとい、髪は短くザンバラで、男も女も髷すら結っていなかった。利政たちに驚きを見せていたが、敵意は感じられない。
さっと馬から下りて小木に繋ぎ、利政は右近と真っ平な道路を闊歩した。
「我は前田孫四郎利政である。ここの城主は誰じゃ、呼んで来い」
利政が名乗りを上げた。
まもなく顔に白布をあてた白髪の爺様がやって来て挨拶をした。刀は差していない。
「これはどうも。私は和倉町会長の渡辺康夫です。まことに恐れ入りますが、あなた様のお名前と御用件をお聞かせ下さい」
これに対して右近が返答した。
「ひかえい。こちらにおわすのは前田家ご次男の孫四郎様ですぞ」
利政が言葉を続ける。
「前田孫四郎利政である。堅苦しい挨拶は抜きだ。渡辺長老、この町を案内してくれ」
要件が変であったのか、それとも十三歳の小僧と馬鹿にしているのか、微妙な二呼吸ほどの間があって、渡辺長老が応えた。
「やー、これはようこそ和倉温泉へお出で下さいました。前田様、お食事など如何でしょうか」
この誘いに、皆は利政の返答を待つ様子だ。
「食事の誘いか、では頂こう。その前にあの二つの城へ行きたい」
利政は奥に見える高層建築を指さした。
「山側に見えるホテルは廃屋です。海側は加賀屋さんですね。しばしお待ち下さい。もしもし、加賀屋の太田社長さんですか。突然ですみませんが、特に重要なお武家様が和倉に参られまして、これから加賀屋さんにお連れいたします。そこで特別にランチを二名様で予約できますか。急ですみません、はいはい、よろしくー」
渡辺長老は小さな機械に話をしていた。
「何だ、そのカラクリは。それで加賀屋に通じたのか」
利政は驚きの声を上げ、右近と顔を見合わせて秘かに狼狽した。
「大丈夫です。これから加賀屋さんにご案内いたします。さあ行きましょう」
何が「大丈夫」なのか分からないが、夫婦らしき住民がこちらを珍しそうに見ていたので、利政は前田家の若武者として背筋を伸ばして胸を張った。
案内役に話を振る。
「ところで渡辺長老は何歳だ」
「私は若いつもりですが、もう七十七歳になりました」
驚きだ。長老は髪こそ白いが自由な足取りで、見た目は五十歳である。
「そうか、足腰も達者であるな」
「ありがとうございます。着きました。どうぞ」
玄関に「加賀屋」と書かれた岩山のように高い建物に入ると、床には綺麗な異国の布が全面に敷いてあり、着物姿の御女中たち(仲居さん)と、美しい琴の音色に出迎えられた。
そのみやびな音階で少しは落ち着いた。
逆に言えば、この不思議な町に来てから心が浮足立っていたのだろう。
「いらっしゃいませ。お飲み物など如何でしょうか。よろしければお茶をおたていたしますが」
口布の御女中が尋ねるので応じた。
「いや、暑いので水を一杯もらおう」
五月で快晴、真夏の今に、熱い茶という気分ではない。
「お水ですね。どうぞ椅子に腰を掛けてお待ち下さい」
うむ、椅子か。利政と右近は帯から打刀を鞘ごと抜いて持ち替え、周囲を確認して腰掛けた。椅子は適度に沈んで柔らかい。
対面に座った案内役の渡辺長老が何気なく聞いて来た。
「あのーそれで、今年は何年でしょうか」
右近が応える。
「天正十八年の五月五日である」
「天正十八年ですか。へーはーこりゃ」
驚く様子の渡辺長老である。今のやり取りも何か変であった。
「失礼します。お水をお持ちしました」
さっきの御女中が盆に乗せた透明で細い容器に水を汲んで来てくれた。真夏の五月なのに贅沢な氷入りだ。卓から取ると手が冷たい。
「若様、お毒見を」
「心配無用、かまわぬ」
右近は心配していたが、利政は気にせず、ひと口水を飲んだ。よく冷えていて丸い味だった。朝飯抜きのすきっ腹には染み渡るようだ。今日は暑いし、利政も緊張感で喉が渇いていた。
右近も長老たちも水を飲んだ。
「いらっしゃいませ。加賀屋主人の太田政信です。和倉町の会計も兼務しております」
壮年の男は、大番頭(支配人)以下数名を連れてやって来て、小札(名刺)を差し出した。それは綺麗な厚紙製であった。
「小さくて綺麗な文字だな。左から読むのか。旅館加賀屋社長の太田政信で和倉町会計とな。我は前田家次男の孫四郎利政である」
湧く浦は和倉と書くようだ。
「では前田様、お食事にいたしましょう。ただ今、水道が断水中のため、簡素なお料理となってしまいますがお許し下さい。ご休息には特別に最上階のお部屋をご用意させて頂きました。どうぞこちらに」
宿主の太田殿は四十代の働き盛りの様子。後に付いて廊下を歩く。
美しい絵柄の土産物が多く並んだこの建物は、かなり広くて内部に吹き抜けもあり、これは凄いぞと身震いした。
「こちらはエレベーターです。どうぞ」
言葉は判らぬが促されて利政と右近は狭い部屋に入る。広さは二畳ほどで、太田殿と渡辺長老も一緒だった。
「では上昇します。しばしお待ち下さい」
「なんと」
箱は急上昇した。片面は透明な障子(窓ガラス)が広くて風景を一望できる。木々が小さくなり、かなりの高所で箱は止まって、扉は開いた。脇では、右近が小声でうめいていた。
「おいおい、おいおい、嘘だろ」
その様子に利政は苦笑いした。右近と同じく、こんなに高い建物は生まれて初めてで圧倒される。身体中の血液が下がって行く気分には、ぞっとして苦笑いだ。
「どうぞこちらへ」
高層階には廊下と部屋が多数あった。草鞋を脱いで上がった座敷には、真新しい緑の畳に大きな黒漆塗りの卓がある。利政と右近は床の間側の上座に案内された。座布団と不思議な木の座椅子があり、卓を挟んで下座に渡辺長老と太田殿が座った。
「もう一人お呼びします。副会長の石川秀彦さんです。もしもし、石川さん。すみませんが、すぐに加賀屋さんの最上階に来て下さい。こちらに加賀百万石の前田様が来ています。ええっ、そっちに母上の松様が居られるのですか。ならば是非とも、加賀屋さんにご案内下さい」
渡辺長老は例の謎の小物で、石川なる人物と会話し、その中で母の松の名前も出て来た。
「驚きました。お母上さまが和倉に来ております」
利政も驚いた。関白殿下が昨年「大名の正妻と嫡子は京に住むように」と命じてから、母は京都前田屋敷にいるはずだ。移動するにしても数日は掛かるだろう。
「何故ここに母上が。まあよい一緒に話を聞こうではないか。ここに呼んでくれ」
「はい承知しました。太田社長、お客様が何名か増えますが、おもてなし料理の追加をお願い出来ますか」
渡辺長老に太田殿はうなずいて応える。
「水が心配ではありますが、お任せ下さい」
どうもこの城は水不足らしい。
太田殿は目配りで控えていた女将を入室させた。
「失礼いたします。本日はようこそ加賀屋へお越し下さいました。若女将の太田紅葉と申します。お食事の件、承りました。ありがとうございます。ひとつお聞きいたしますが、苦手な食品などありますでしょうか」
着物姿の若女将は太田殿の妻女であろう。笑顔と立ち振る舞いが優しく、母の松より少し若いようだ。三十代と見積もった。
「特に苦手はない。ところでここは何階だ」
「地上二十階の浜離宮でございます。私どもの加賀屋には天皇皇后両陛下や宮家の方々が御宿泊になるお部屋もございます」
利政は心の中で激しく動揺した。地上二十階にある離宮よりも、若女将が世間話に天皇陛下と言ったことに。天皇陛下の御宿泊とは凄いな。
美しく立派な建物や遠くの者と話せる奇妙な小物があるこの町は、おそらく「別世界」から来たのであろう。それが何処なのかは判らない。まるで竜宮城だ。
口布の御女中から、丸めた手拭いを受け取った。これは温かく湿っていて、長老たちの真似をして手を拭いた。隣の右近にも話しかける。
「右近よ、今日は物見に来て良かったな。天空の御殿で珍しい話も聞けたし」
「左様でありますな、若様」
町会長や会計は、地元自治会のことです。




